「櫛田神社」は、「平清盛」が日宗貿易の拠点とした博多の街に、佐賀の神埼にある「櫛田宮」の分社として誘致したのが始まりで、「豊臣秀吉」が1587年九州征伐後、豊後大友氏と薩摩島津氏との戦いで荒廃した博多の街を「黒田官兵衛」に命じて復興(太閤町割)した時に、現在の場所に社殿が建てられたそうです。そしてこの時の「町割」の単位が現在の「流れ」という単位になりました(当時の太閤町割図(流れ)と現在の山笠コースとを合わせてみた図⑩を作ってみましたので参考として下さい)。
鎌倉時代の1241年3代執権「北条泰時」(現在の大河ドラマ「北条義時」の子(金剛))の時に、宋の商人「謝国明」が九州探題「少弐資頼」の許しを得て、櫛田神社の近くに「承天寺」(写真⑥⑦)を建立し日宋貿易の橋渡しを行っていました。(そういえば確か昔の2001年の大河ドラマ8代執権「北条時宗」の中で、元寇の直前ですが、この承天寺の前が外国の商人たちで賑わっていたシーンがあったのをふと思い出しました)。 「博多祇園山笠」は、その承天寺の住職「聖一国師」が博多に疫病が流行した時、台に乗り町民に棒で担がせ水をまきながら、町中に疫病退散を祈祷して回ったのが発祥とされています。
それから江戸時代に入り、今度は京都の祇園祭りのように、台に飾りをつけ飾山の優美さを競うようにして回るように変わっていったそうですが、1687年に「土居流れ」が東長寺(写真⑧⑨)で休憩中に「恵比寿流れ」に追い越されるという事件が起こり、この時のカッとなった両者の抜きつ抜かれつのマッチレースが民衆に大受けしたことから、現在のように各流れがスピードとタイムを競う「追い山」に変わったそうです。
今年はコロナで中止になっていた博多祇園山笠が3年ぶりに復活されました。櫛田神社をスタートし、承天寺の千年門を折り返して、東長寺の前を通り、奈良屋町をゴールとする全長5kmのコースで行われています。12日に「追い山ならし」があり、私は13日の「集団山見せ」を見に行ってきました(写真①②③)。「オイサ!」「オイサ!」の掛け声とともに、ふんどし姿の男たちが担ぐ勇壮な山が博多の街を駆け抜け、見物人もとても多かったです。いよいよ15日早朝の本番「追い山」に向け、博多の街はいま1年で最も熱く盛り上がっています😊!
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