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赤い城

諏訪湖の眺望が良い、晴れてたら。 (2021/09/26 訪問)

県道16号線から少し入り、案内板から坂道を登ると城址公園への極狭な道があります。
進むと駐車場、階段を登るとすぐに主郭となります。
主郭からは諏訪湖がよく見え凄く綺麗!なはずですがこの日は雨。
それでも堀切や土塁が残っていてそれなりに見どころはあります。
主郭と二郭の間に堀切があり、竪堀に繋がっています。
諏訪神社上社に属した花岡氏の城で諏訪西形衆と武田氏によって滅ぼされました。
この日はここを初めとして諏訪市周辺の城を廻りました。

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小城小次郎

車丹波の名を知る人は (2021/07/18 訪問)

車丹波の名を知っている人はなかなかの歴史通だろう。佐竹家中で重きをなしつつ出奔・帰参を繰り返し佐竹氏の秋田移転に異を唱えて水戸城奪還を企て横死するという浮沈に富んだ人生は、これもひとつの戦国のあだ花と言えるだろうか。

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イオ

眺望抜群! (2021/09/20 訪問)

築城者や時期等は不明ながら、天正元年(1573)に小谷城の救援に来た朝倉軍が賤ヶ岳に布陣した記録があります。その後、賤ヶ岳の戦いに際して羽柴方が改修し、桑山重晴らが守将となりました。合戦では、羽柴方の大岩山砦、岩崎山砦を急襲した柴田方の佐久間盛政が賤ヶ岳砦に迫りましたが、羽柴秀吉の美濃大返しで激戦となり、前田利家の戦線離脱により撤退するところを追撃されて壊滅。合戦の趨勢が決しました。戦後、賤ヶ岳砦も他の陣城群とともに廃されたようです。

賤ヶ岳リフトの駐車場に車を駐めて登城開始。標高421m(比高310m)と結構な高さがありますが、リフトなら5分あまりで楽々です。リフトを降りてから山頂まで10分ほど歩くものの、西側には琵琶湖の眺望が開け、道中には賤ヶ岳合戦戦没者霊地があり、あちこちに七本槍の顔出し看板が建てられていて退屈する間もありません。山頂の少し手前には堀切が設けられていますが、浅くなっている上に藪に沈んでいて、うっすらと感じられる程度です。
山頂には東西に3つの曲輪がならんでいて、最高所の中央の曲輪が主郭と考えられます。主郭からの眺望は素晴らしく、北に余呉湖、東から南は湖北の平野部、西に琵琶湖を一望できます。古戦場としての石碑や標柱、銅像などが建てられ、遺構は改変を受けていると思われますが、西側の曲輪と区画する分厚い土塁が遺っています。
西の曲輪は展望台が設けられたりはしているものの、周囲を土塁が一周し、東部には虎口が開口しています。西の曲輪から北西方向にのびる尾根には堀切(と土橋)が明瞭に遺っています。
主郭と東の曲輪の間は堀切で区切られ、東の曲輪の東端は土塁による外枡形状の虎口になっています。虎口の脇には竪堀が見られ、虎口から下って行った先には、北東尾根から侵攻する敵を迎撃するためと思しき塹壕状の堀がありました。

リフトで気軽に訪れられる絶景スポットとして、この日も観光客で賑わっていましたが、懸念していたよりは砦としての遺構も遺っていて、思いのほか見応えがありました。ただ、お昼過ぎだったため、レジャーシートを広げて昼食中のグループも多く、できるだけ写真に人を入れないようにすると、なかなか思うように撮ることができず難儀しました…。
 

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にのまる

府中城の外城 (2021/09/05 訪問)

府中城から20分くらいだったような……。
突然現れた堀跡にときめきました♡神社があるおかげで残ったのでしょうか。
寄り道はしなかったけれど興味をそそられる案内板があちこちにありました。


【お城川柳131】
城シーズン前に記憶を呼び戻せ!

久しぶりすぎてお得な切符の種類とか予約の仕方とか全部忘れてる(;'∀')

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赤い城

西武の線路沿いに土塁が (2021/09/20 訪問)

西武の謎解き1日乗車券で再訪。
下山口駅から徒歩で10分くらい、サンキという商業施設の隣に石碑と説明板があり、土塁が残っています。
この土塁に囲まれた部分はあまり広さがないので主郭はセブンイレブンがある辺りかもしれません。
当時はこの辺りは湿地と河川に囲まれていたそうですが今は住宅地、遺構はこの土塁が残っているのみのようです。
武蔵七党村山党の山口氏の居城。
戦国期には山口氏は根古屋城に移りました。
城域は結構広かったようです。

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カズサン

模擬城門物見櫓が復元された中世城郭 (2012/10/24 訪問)

 平成24年10月安城市本證寺を終えて南方約8km程の東条城を初登城、前々から城郭関連の本で紹介されて居り何時かはと思ってた城跡です。
 近くまで行き車を駐める所を探すが良く分からず北側の県道318号線の北側に路駐エリアが有り一時駐める、ここから八幡社に登り八幡社を過ぎると物見櫓城門柵列が目に入って来る、本丸虎口城門から入城、本丸は広い、物見櫓は登れない、周囲の脇曲輪、八幡社が二の丸と城内の縄張図には出てる、本丸は綺麗に草刈りされ歩き易い、北西下は三の丸、登城口は三の丸北西に在るここが登城ルートで県道318号線に村道を通って繋がる。
 西に陽の傾く頃の登城でしたので城の探訪には風情だ出て居り中世の城館城郭はこのようなものかと少し雰囲気にしたりました、中々の出来です、保全整備が掛り大変です、老朽化への修復など金も掛かります西尾市には頑張って頂きたい、基金を募るとか?
 帰路時に分かりましたが東条城の専用駐車場は東条城の東下県道318号線南側に分かりにくいですが数台分は有ります。

 キンヤさんの書き込みで建築物が老朽化危険状態で撤去の情報とあり現在の状態は分かりませんのでネット等で調べてお出かけください。

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小城小次郎

離れ難い地だったに違いない (2021/07/18 訪問)

田村家から小野家に養子に入った小野顕盛・右馬頭親子は奥州仕置で所領を失った際に揃って腹を切ったという。現在の小野町も実にのどかでよい町だが、小野親子にとっても小野の地は離れ難い素敵な場所だったに違いなかろう。

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カズサン

三河城郭寺院本證寺 (2012/10/24 訪問)

 平成24年10月浜松市博物館で開催の「特別展 浜松城主 堀尾吉晴」(平成24年10月20日~11月25日)を午前中見学して三河の吉田城、本證寺、東条城の城廻りに出掛けました。

 吉田城を見学撮影して国道23号線ルートから安城市の本證寺を初登城、本證寺は浄土真宗の寺院で永禄6年(1563年)三河一向一揆が起き蓮如の孫空誓が門徒宗に檄を飛ばし一揆の中心拠点と成った、翌年寺内不入を条件に和議、しかし家康は一向宗を禁止、寺を焼き払う空誓は逃亡、家康も桶狭間の戦い後三河一本立ち三河平定中、家臣も一揆勢に与し大変苦難の時でしたから和議も反故にしたのでしょう。
 天正13年(1585年)空誓は許されて本證寺寺地に戻る、寺院は周囲を濠で囲み隅には浄土真宗特徴の二階櫓風の太鼓櫓が建って防御を固めてる。
 車はナビで山門前に到着、駐車場が良く分からず山門前の広い橋上の隅に一時駐める。濠と太鼓櫓が写真写りが良い、本堂の南側の濠は池と成って居り蓮池です。訪問時西陽が掛り逆光で写真的には良く無い。

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ダイエティシャン

因幡三名城跡(鳥取城 若桜鬼が城 鹿野城)巡りスタンプラリー (2021/10/06 訪問)

【鹿野城オリジナル御城板】

因幡三名城跡(鳥取城 若桜鬼が城 鹿野城)巡りスタンプラリー賞を頂きました。

梅雨の晴れ間に、このスタンプラリーの為に、当初予定に無かった 【若桜鬼が城】迄攻城しました。破城の跡が風情がありました。

【鹿野城】下の鳥取市鹿野町には、温泉もあり、寛げます。

【鳥取城】の丸い石垣には感動しました。

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\首里城から中城グスクを繋ぐ「中城ハンタ道」/ (2021/10/06 訪問)

\NHKで放送!中城ハンタ道/
NHK 沖縄HOTeyeで地域を巡って魅力を伝える「みーぐるめーぐる」のコーナーで、中城ハンタ道を取り上げていただきました!!
内原早紀子キャスターが、全線全力で歩いて取材してくれています。ありがとうございます!!
皆さま是非ご覧ください\(^o^)/

NHK沖縄放送局|みーぐるめーぐる
☞https://movie-a.nhk.or.jp/sns/xkK/w4l5d253.html?fbclid=IwAR2eKiKn4AsKPU6I5jQozic6XTYrXKCkxmogIY-T8AdfpucB6fZZ9sWu6h0

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中城ハンタ道は・・
・2019年文化庁より歴史の道百選に選定されました
・道の途中には新垣グスクや、ペリー一行も立ち寄った旗立て岩など、文化財が多数点在しています
・琉球王国時代、王府とグスク間の情報伝達のために整備された当時の幹線道路で、首里城から勝連グスクまで繋がっていました
・中城村内を通る約6.5Kmの道を「中城ハンタ道」と呼びゴールは中城城跡です
・景色もとっても綺麗です
――――――――――――――
中城ハンタ道のマップは、中城村観光協会のHPよりダウンロードもできます
↓↓↓
https://www.nakagusukukk.com/%E3%83%91%E3%83%B3%E3%83%95.../

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AJ

山城の教科書 (2018/10/05 訪問)

遠くの国宝より近くの山城ーー。その技巧的縄張りで山城ブームに火をつけたと言われる杉山城(埼玉県嵐山町)。今なお築城者すら分かっていない「謎の城」だそうです。

当初は小田原の支城とされていたようですが、どうも後北条のスタイルと合致しなかったとのこと。その後、15世紀末以降とみられる遺物が発掘されたことがダメ押しとなり、近年では鉢形の山内上杉が川越の扇谷上杉に対抗するため、双方の中間点に築いた中世平山城という説が有力視されています。

「山城の教科書」「土造りの城の最高峰」など賞賛の声はさまざま。塁線をこれでもかというほど折り曲げ、各曲輪への直線的な侵入を妨げている。攻め手は虎口手前で必ずと言っていいほど、自分より高い位置にいる射手に横腹を晒す格好になります。ざっと数えただけでも大手から主郭にたどり着くまでに5-6回は横矢を浴びました。

アクセスは、徒歩なら東武東上線・武蔵嵐山駅から3キロほど。バスであれば、小川町駅発で約20分だそうです。

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イオ

竹生島 (2021/09/20 訪問)

# 竹生島宝厳寺の唐門は、豊臣期大坂城唯一の現存建物とされますので、大坂城で投稿します。

大坂城から北東に約100km、琵琶湖北部の竹生島にある宝厳寺の唐門(国宝)は、豊臣秀吉の死後、大坂城の極楽橋が京都の豊国廟に移築され、さらに片桐且元を普請奉行としてこの地に再移築されたと伝わります。極楽橋は豊臣期大坂城の山里曲輪と二の丸を結ぶ望楼付き廊下橋で、唐門はその入口の唐破風部分にあたるようです。7年に渡る全体修理によって令和2年3月に黒漆塗の建物と飾金具、極彩色の彫刻がよみがえり、豪華絢爛たる豊臣期大坂城の姿の一端を見ることができます。

唐門に隣接する観音堂(重文)も豊国廟からの移築で、極楽橋の一部とも考えられます。斜面に建つため懸造となっており、内陣は見学できませんが、廻廊に至るまで黒漆塗りに極彩色の装飾が施されています。千手千眼観世音菩薩像(秘仏)を本尊とする西国三十三所観音霊場の札所です。

観音堂から都久夫須麻神社に続く渡廊(重文)も豊国廟からの移築で、朝鮮出兵の際の秀吉の御座船「日本丸」の船櫓の部材により建てられたことから「舟廊下」とも呼ばれます。懸造で建てられており、唐門や観音堂と同時期の移築ながら、渡廊には華美な装飾は見られません。

舟廊下の先の都久夫須麻神社の本殿(国宝)は、伏見城の日暮御殿の移築と伝わります。本殿は明治の神仏分離令により宝厳寺と都久夫須麻神社が分かたれるまでは宝厳寺の本堂であり、唐門などと同時期に豊臣秀頼の寄進によって移築されたようです。また、都久夫須麻神社南端の竜神拝所からは琵琶湖が一望でき、願い事を書いたかわらけを投げて、眼下の鳥居をくぐれば願いが叶うと言われています。

その他、竹生島には日本三弁才天(他は江の島と宮島)最古の大弁才天を本尊とする宝厳寺本堂(弁才天堂)、鎌倉期の石造五重塔(重文)、江戸初期の焼失から350年ぶりに再建された三重塔、唐門移築の普請奉行を務めた片桐且元手植えのモチノキなどがあり、さらに宝物殿には様々な寺宝が収蔵されている…ようですが、コロナ禍によるものかこの日は休館でした。

小谷城を訪れて以来、浅井氏が信仰し、豊臣期大坂城の建物も移築されている竹生島にいつか行ってみたいと思っていたところ、宝厳寺が「ニッポン城めぐり」のイベントのスポットとなり、イベント期間中はアプリのTOP画面提示で乗船料が2割引になるということで、まさに渡りに船と今津港からクルーズ船で竹生島に渡りましたが、湖面は穏やかで天気も良好、船上で風に吹かれながらの25分間の船旅は快適そのもの。竹生島では宝物殿は休館中、かわらけ投げも諦めたにも関わらず、それでも滞在時間75分では足りないほどに見どころ満載でした。
 

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todo94

県内の城めぐり・その3 (2021/09/25 訪問)

故郷の高崎城の古名は和田城ですし、下伊那の秘境・遠山郷にも和田城がありますが、この和田城は旧和田村に所在するので和田城の代表格と言って良いでしょう。町村合併で長和町になってしまったのはかなり残念です。いつも国道142号を利用して帰省しているのに今までこの城に立ち寄ることはしませんでしたが、素晴らしい堀切や竪堀が何本もあってとても吃驚しました。登城路の右手は止山となっていて立ち入り禁止ですが、山頂の郭には問題なくたどり着くことが出来ます。なお、国道142号の新和田トンネルは2022年4月に無料化されます。

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赤い城

狭山湖の北岸だけど立入禁止 (2021/09/20 訪問)

西武球場駅から狭山湖に沿って歩きます。
徒歩で40分くらい。
ですが水道局の管理地でフェンスが張られています。
マップ上の所在地に向かってフェンス越しに下っていく道が恨めしい。
狭山湖は正式には山口貯水池で東京都の上水道に繋がっているので仕方ないですね。
武蔵七党村山党の山口氏の居城。
遺構も良く残っているようですが。。。

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小城小次郎

野馬懸は野馬追の中でも特にマニアックで勇壮だと思う (2021/07/18 訪問)

一連の相馬野馬追の中でも裸馬を男どもが素手で捕えて神馬とする「野馬懸」は特にマニアックで勇壮な神事だと思う。その野馬懸の舞台となっている相馬小高神社は相馬氏が300年に亘って本拠を構えた小高城の故地にある。

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ながす

大垣城 (2021/08/08 訪問)

水の都大垣!!
戸田氏鉄公の銅像カッコよかったなー!!
関ヶ原の戦いにも深く関係してて、感慨深いなぁ、、、

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ぴーかる

槇島城 (2021/07/25 訪問)

【槇島城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>JR宇治駅から徒歩

<感想>JR・京阪・阪急 3電鉄利用の旅4城目。槇島城は現地説明板の当時の地図によると巨椋池の東に位置し、河川の中州にあったようです。著名なのが槇島城の戦いでその後1594年頃伏見城の築城とともに廃城となったようです。遺構は残っておらず住宅地の一角の小さな公園に説明板と石柱があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

精緻な切込接ぎ櫓台が圧巻 (2012/10/15 訪問)

 平成24年10月白山市の鳥越城を終えて小松市の小松城櫓台跡を目指す、小松高校のグラウンドの南、土塁横の細い道を行ったり来たりして路駐可能な所を探し急ぎ足の初登城と成った、グラウンドの南土塁が本丸土塁標柱有り、直ぐ目に付く天守台と思われる櫓台精緻な切込接ぎでうっとりするも圧巻である、当時は登れましたので急な石階段を登り櫓台上部へ、天端の石垣には加工がされて居り塀の支えか?、櫓基礎の支えか?跡がはっきり残って居ました、櫓台には瀟洒な数奇屋風三階櫓が建っていたと言う。
 上空には小松基地のジェット機が轟音を響かせて飛んでいます流石実戦基地。
 
 三の丸が公園と成っており車で移動、公園西側道路に西一列駐車エリアが有り駐める。公園内一巡遺構は庭園そのもの、周囲に綺麗に加工した石垣列が有り遺構なのかどうかは分からないが匂わせる?公園の名前は「芦城公園」と言う。

 歴史的には一国一城令で廃城に成った後、寛永16年(1639年)加賀藩三代藩主前田利常の隠居城として修復整備して沼地を利用し濠を何重にもして沼城の様な浮城と成った。利常死去後は城番を置き明治まで続く。

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カズサン

加賀は一向門徒の国、一揆最後の拠点 (2012/10/15 訪問)

 平成24年10月俱利伽羅峠古戦場、松根城を終えて鳥越城へ、道の駅一向一揆の里に在る鳥越一向一揆歴史館を目指すが月曜日で休館、そこから北山稜に在る鳥越城に登る、登城口に案内板、標柱、道路標識が有り細い登城路を車で登ると後二の丸北下に広い駐車場が在る、そこを利用する。

 駐車場から後二の丸と後三の丸の間の登城路枡形空間の様、井戸代わりのアヤメ池、門徒宗殉難の碑、西に回り込むと石垣と復元門、櫓が目に入って来る、復元城門を入り枡形、本丸の櫓門を入って本丸、発掘調査の成果、建物跡地表展示、井戸跡、柵列復元、土塁、麓の眺めは素晴らしい、中の丸、二の丸、復元中の丸門、発掘成果の建物跡地表表示円柱、板葺きの建屋が一軒復元、戻って後二の丸、本丸間の堀、土橋、後三の丸二段構造を探訪、南方向の三の丸には降りて居ません。
 探訪時は草も刈られ整備は行き届き見学しやすく復元建物もだいぶん経年変化してるがしっかり残って居り写真写りもばっちり、これだけの構造物を造り残ったものだと感心、発掘調査復元整備が成果なのでしょう、地元の方々、白山市の教育委員会に感謝いたします。

 歴史的には加賀は守護大名、戦国大名を倒して一向宗門徒の国として戦国期栄える、朝倉氏浅井氏を倒し北陸に進行した織田軍と一向門徒宗は攻防を繰り返す中、鳥越城は加賀一向一揆白山麓山内衆鈴木出羽守を大将に築城し抵抗の拠点と成り織田軍の柴田氏佐久間氏の攻防で取ったり取られたりを繰り返し本能寺の変1年前に佐久間盛政によって鎮圧、その過程でなで斬り、磔に処され一向宗門徒の殉難の歴史が刻まれた。

 三年後平成27年に一向一揆歴史館に寄り資料館見学と資料の収集を果たしました。

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カズサン

境目の城、佐々成政国境防御支城群の一つ (2012/10/15 訪問)

 平成24年10月山城サミット魚津大会の後旧友案内で俱利伽羅峠古戦場を終えてゴルフ好きの旧友のホームコースでもある金沢東GG傍の松根城を案内していただく。
 松根城は学研の歴史群像特別編「戦国の城」に掲載されて居り、初めて認識し訪ねたいと思っていた城跡です、車は土、芝のままでしたが城内に駐める事が出来ます。
 木片チップを敷き詰められた遊歩道で歩き易いのですが熊笹など藪に覆われてる所が多かったのかポイントの所を見逃し撮って無く知識の無さを悔いてます、松根城の想像俯瞰図を良く眺めて居たのですが現地に行くとうろ覚えの状態で役に立たず、チャンスが有れば再挑戦したい城です。

 歴史的には本能寺の変後越中を治めていた佐々成政ですが、秀吉の世に成って小牧長久手の戦では織田信雄、家康連合軍に味方し秀吉側の前田利家との敵対関係、加賀と越中の間に国境防御の城が夫々築かれ松根城は佐々成政側の城、尾張伊勢の小牧長久手戦が決着した秀吉の戦力が加賀越中の攻防を収束、成政が秀吉に屈服する、以後成政は肥後を任され国一揆で責任を取り腹を切らされる。

 学研の歴史群像特別編「戦国の城」掲載の城で比高の高い城を除いて登城し大変参考に成った城本の一つです。

 この後は近くの道の駅で昼食、級友とは別れ鳥越城、小松城へ向かいました。
 

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