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ぴーかる

槇島城 (2021/07/25 訪問)

【槇島城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>JR宇治駅から徒歩

<感想>JR・京阪・阪急 3電鉄利用の旅4城目。槇島城は現地説明板の当時の地図によると巨椋池の東に位置し、河川の中州にあったようです。著名なのが槇島城の戦いでその後1594年頃伏見城の築城とともに廃城となったようです。遺構は残っておらず住宅地の一角の小さな公園に説明板と石柱があるのみです。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

精緻な切込接ぎ櫓台が圧巻 (2012/10/15 訪問)

 平成24年10月白山市の鳥越城を終えて小松市の小松城櫓台跡を目指す、小松高校のグラウンドの南、土塁横の細い道を行ったり来たりして路駐可能な所を探し急ぎ足の初登城と成った、グラウンドの南土塁が本丸土塁標柱有り、直ぐ目に付く天守台と思われる櫓台精緻な切込接ぎでうっとりするも圧巻である、当時は登れましたので急な石階段を登り櫓台上部へ、天端の石垣には加工がされて居り塀の支えか?、櫓基礎の支えか?跡がはっきり残って居ました、櫓台には瀟洒な数奇屋風三階櫓が建っていたと言う。
 上空には小松基地のジェット機が轟音を響かせて飛んでいます流石実戦基地。
 
 三の丸が公園と成っており車で移動、公園西側道路に西一列駐車エリアが有り駐める。公園内一巡遺構は庭園そのもの、周囲に綺麗に加工した石垣列が有り遺構なのかどうかは分からないが匂わせる?公園の名前は「芦城公園」と言う。

 歴史的には一国一城令で廃城に成った後、寛永16年(1639年)加賀藩三代藩主前田利常の隠居城として修復整備して沼地を利用し濠を何重にもして沼城の様な浮城と成った。利常死去後は城番を置き明治まで続く。

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カズサン

加賀は一向門徒の国、一揆最後の拠点 (2012/10/15 訪問)

 平成24年10月俱利伽羅峠古戦場、松根城を終えて鳥越城へ、道の駅一向一揆の里に在る鳥越一向一揆歴史館を目指すが月曜日で休館、そこから北山稜に在る鳥越城に登る、登城口に案内板、標柱、道路標識が有り細い登城路を車で登ると後二の丸北下に広い駐車場が在る、そこを利用する。

 駐車場から後二の丸と後三の丸の間の登城路枡形空間の様、井戸代わりのアヤメ池、門徒宗殉難の碑、西に回り込むと石垣と復元門、櫓が目に入って来る、復元城門を入り枡形、本丸の櫓門を入って本丸、発掘調査の成果、建物跡地表展示、井戸跡、柵列復元、土塁、麓の眺めは素晴らしい、中の丸、二の丸、復元中の丸門、発掘成果の建物跡地表表示円柱、板葺きの建屋が一軒復元、戻って後二の丸、本丸間の堀、土橋、後三の丸二段構造を探訪、南方向の三の丸には降りて居ません。
 探訪時は草も刈られ整備は行き届き見学しやすく復元建物もだいぶん経年変化してるがしっかり残って居り写真写りもばっちり、これだけの構造物を造り残ったものだと感心、発掘調査復元整備が成果なのでしょう、地元の方々、白山市の教育委員会に感謝いたします。

 歴史的には加賀は守護大名、戦国大名を倒して一向宗門徒の国として戦国期栄える、朝倉氏浅井氏を倒し北陸に進行した織田軍と一向門徒宗は攻防を繰り返す中、鳥越城は加賀一向一揆白山麓山内衆鈴木出羽守を大将に築城し抵抗の拠点と成り織田軍の柴田氏佐久間氏の攻防で取ったり取られたりを繰り返し本能寺の変1年前に佐久間盛政によって鎮圧、その過程でなで斬り、磔に処され一向宗門徒の殉難の歴史が刻まれた。

 三年後平成27年に一向一揆歴史館に寄り資料館見学と資料の収集を果たしました。

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カズサン

境目の城、佐々成政国境防御支城群の一つ (2012/10/15 訪問)

 平成24年10月山城サミット魚津大会の後旧友案内で俱利伽羅峠古戦場を終えてゴルフ好きの旧友のホームコースでもある金沢東GG傍の松根城を案内していただく。
 松根城は学研の歴史群像特別編「戦国の城」に掲載されて居り、初めて認識し訪ねたいと思っていた城跡です、車は土、芝のままでしたが城内に駐める事が出来ます。
 木片チップを敷き詰められた遊歩道で歩き易いのですが熊笹など藪に覆われてる所が多かったのかポイントの所を見逃し撮って無く知識の無さを悔いてます、松根城の想像俯瞰図を良く眺めて居たのですが現地に行くとうろ覚えの状態で役に立たず、チャンスが有れば再挑戦したい城です。

 歴史的には本能寺の変後越中を治めていた佐々成政ですが、秀吉の世に成って小牧長久手の戦では織田信雄、家康連合軍に味方し秀吉側の前田利家との敵対関係、加賀と越中の間に国境防御の城が夫々築かれ松根城は佐々成政側の城、尾張伊勢の小牧長久手戦が決着した秀吉の戦力が加賀越中の攻防を収束、成政が秀吉に屈服する、以後成政は肥後を任され国一揆で責任を取り腹を切らされる。

 学研の歴史群像特別編「戦国の城」掲載の城で比高の高い城を除いて登城し大変参考に成った城本の一つです。

 この後は近くの道の駅で昼食、級友とは別れ鳥越城、小松城へ向かいました。
 

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イオ

金沢藩今津代官所(滋賀県高島市今津町今津) (2021/09/20 訪問)

金沢藩今津代官所(城びと未登録)は、江戸初期に加賀藩(明治の版籍奉還により金沢藩)が河原林甚右衛門を代官として設けた代官所で、以降は今津氏(2代目から改姓)が代官を務め、本国と上方を結ぶ湖上交通の拠点としての役割を担いました。代官所の建物は大正に焼失、跡地は住宅地となり、通り沿いに説明板があるだけですが、代官所裏手の琵琶湖岸には加賀藩が築いた石垣が長く続いています。

また、代官所跡から北に徒歩1分の住吉神社は、賤ヶ岳の戦いの際に羽柴秀吉が、加賀藩領になってからは前田氏が上洛の際に湖上交通の安全を祈願したと伝わります。

…実のところ、今津を訪れたのは住吉神社が「ニッポン城めぐり」のイベントのスポットになっていたからで、現地に来るまで代官所の存在すら知らなかったんですが、お目当ての住吉神社は5分ほどでひとめぐりしてしまい、この後に今津港から竹生島に渡る船の時間まで1時間弱あったため、何か暇つぶしできるところはないかと現地の案内板で見つけたのが代官所跡だった次第です。でも、ほんの暇つぶし程度のつもりが、湖岸の石垣はしっかり遺っていて、思いがけず嬉しい偶然でした。

代官所跡(湖岸の石垣)を見て回ってもまだ時間があったので、今津ヴォーリズ資料館にも行ってみましたが、コロナ禍のため休館中…。そんなこんなで時間をつぶしつつ今津港に向かい、クルーズ船で竹生島に向かいます。
 

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にのまる

まちなか探検♪ (2021/09/05 訪問)

 常磐線石岡駅から徒歩10分程。約1300年前の常陸国の国衙→戦国時代の府中城→江戸時代の府中陣屋という歴史をたどってきた地だそうです。
 石岡小学校には府中城の土塁や堀、古墳時代の石棺や「ふるさと歴史館」などがあり、土橋通り正面には府中陣屋の門、照光寺には常陸府中藩主松平家墓所がありました。陣屋門は小学校内に移築されていたものが市民の要望で再移築されたのだそうです。
 ほかにも歴史を語り継ぐ遺産が静かな町並みの中に点在。要所要所に説明板もあり、心地よい歴史散歩の時間でした。

【お城川柳130】
堀・土塁学校内なら安泰だ!

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イシテル

玉城:関ケ原合戦での隠れた本陣(岐阜県不破郡関ケ原町玉) (2021/10/02 訪問)

ここ玉城は関ケ原合戦の本陣として整備された陣城。
関ケ原駅前観光交流館でレンタサイクルを借り(もちろん電動アシスト)、関ケ原駅前から30分程で登城口に到着(ちょっと迷いました)。
登城口に自転車を置き、整備された遊歩道を登り20分程度で山頂に到着。途中の山道は距離600m強で長くは無いですが、登りは結構ハードで久しぶりに息切れしてしまいました。
山頂には東屋があり、休憩できます。他の方がネットでアップした写真では東屋の周りは広場になっていますが、今は草ボウボウで広場が消えていました。でもそこから伊吹山は近くに見え、壮大で見応えがあります。
その先を進むと主郭に入り、主郭の一段下には帯曲輪や土塁、竪堀、主郭から先に進むと堀切が見られました。
玉城は、南北朝時代に造られた山城を西軍が秀頼を迎える陣城として整備したとの説があり、感慨深い。でも関ケ原合戦の頃、秀頼は7歳。ここまで来るかな..... ちょっと疑問。
玉城はあまり知られていませんが、ちょっと面白い山城です。関ケ原の合戦場巡りに足を伸ばし、セットで訪れるのも良いですよ。

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小城小次郎

岩城と相馬のちょうど中間に位置する城ではあるのだが (2021/07/18 訪問)

少し前までは石碑が立っていたのだが失われたらしい。発掘されていてお城があったことは確かだが記録も伝承もなく何のためのお城かはわからない。岩城の飯野平城と相馬の小高城とのちょうど中間あたりに位置する城ではあるが。

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カズサン

【加賀・俱利伽羅城】源平俱利伽羅峠古戦場 (2012/10/15 訪問)

 平成24年10月山城サミット魚津大会の後、旧友との再会居酒屋、カラオケで高岡の夜を楽しみ翌日旧友の案内で富山、石川の県境にある俱利伽羅峠源平古戦場跡を訪ねました。城郭放浪記さんのサイトに加賀・俱利伽羅城が出てましたのでその名前を使用させて頂きました。

 俱利伽羅峠散策マップの埴生口スタート地点に小矢部市埴生、木曽義仲が戦勝祈願した護国八幡宮が有り神社参拝し麓に木曽義仲の騎馬像を見学、旧友の車の後を追い俱利伽羅峠へ、義仲が使ったと言う牛の角に松明を付け放った、火牛の計の像が並び、源平の古戦場、義仲が平家に大勝して京に上る契機と成り上洛して一躍旭将軍と名を轟かせる。
 俱利伽羅城跡は良く分からず源平古戦場見学に変えます、源平俱利伽羅合戦平家本陣石碑、芭蕉の句碑「義仲の 寝覚の山か 月悲し」も有りました、多くの方が往時の北陸道を通った事でしょう。

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✨沖縄県中城村のグスク展✨ (2021/10/04 訪問)

   /
(^o^) 中城城跡 国指定史跡 50周年記念特集展
   \

知っていましたか?
中城村には世界遺産「中城城跡」の他に、多くの謎を秘めた「新垣グスク」というもう一つのグスクがあります。

令和2年度に中城村内で行われた「中城城跡展」と、今年の5月に行われた「もう一つのグスク 新垣グスク」が
沖縄県立博物館・美術館にてリバイバル展示されます!!

両グスクの最新発掘調査から新たに分かった事実を紹介すると共に、中城グスクの関連資料も合わせて公開!!

見逃した方は是非オススメです\(^o^)/

令和3年12月26日(日)には展示解説会があるそうですので、あわせて聞くと大変お得ですね。定員15名だそうです!

詳しくはチラシをご確認くださいませ。

************************
展示会場:沖縄県立博物館・美術館エントランスならびに当博物館常設展示室歴史部門展示室
会期:令和3年11月30日(火)~令和4年1月10日(月)
展示解説会:令和3年12月26日(日)
休館日:月曜日(月曜祝日の場合は翌平日が休館)
入場料:常設展示室は、大人530円 高大生240円 沖縄県内小中学生 無料

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カズサン

城郭寺院瑞泉寺 (2012/10/13 訪問)

 平成24年10月第19回全国山城サミット魚津大会当日オープニング前に東海北陸道夜駆けSA仮眠して富山の一向一揆門徒宗三拠点の一つ井波の瑞泉寺を訪ねました、元瑞泉寺は現瑞泉寺の東に在る井波八幡宮(元本丸跡)、招魂社(元二の丸跡)、瑞泉寺は井波城の西に接して居ます、北側は石垣に囲まれて城郭石垣の様を彷彿させます。
 
 見学探訪は瑞泉寺境内、元井波城は西側の土塁、南側の池、堀跡か?を散策しただけ、瑞泉寺は本堂大修理中、太子堂、山門、太鼓櫓の司晨楼、勅使門に当たる式台門、各伽藍には素晴らしい彫刻が施され見ほれ時間が足りないくらいです。
 門前は井波の欄間彫刻のお店が立ち並び昔の良き風情が街並み家並みに感じられます、車は井波町屋の門前に観光駐車場が在り利用しました。

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前ちゃん

肥前のくま誕生の地 (2021/10/04 訪問)

同上。公園です。

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イオ

瀬田の唐橋 (2021/09/20 訪問)

室町期に山岡氏が築いた城で、元は六角氏に仕えていましたが、山岡景隆が城主の頃、織田信長が上洛し六角氏が近江を追われた後は信長に従い、本能寺の変の後には明智光秀の誘いを拒み、瀬田の唐橋を焼き落として明智軍の安土城侵攻を遅らせました。その後、賤ヶ岳の戦いで柴田方に与したとして羽柴秀吉により改易され、廃城となったようです。

城跡は現在ではマンションとなり、遺構は消滅していますが、マンション西側の県道沿いに石碑が建てられ、その南には城跡にちなんででしょうか、城郭風の石垣と土塀が設けられています。

瀬田城から北に徒歩3分、日本三大名橋に数えられる瀬田の唐橋は東海道・東山道から京都に至る交通の要衝で、「瀬田橋を制するものは天下を制する」と言われるとおり、本能寺の変のみならず、壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、承久の乱、建武の戦い、観応の擾乱と、各時代の戦乱の舞台になっています。また、千利休と古田織部の逸話で知られる唐橋の擬宝珠は信長の架橋により設けられたもので、現在も江戸期の擬宝珠が現存しています。

瀬田の唐橋は俵藤太秀郷の百足退治の伝承地でもあり、瀬田城と唐橋の間にある勢多橋龍宮秀郷社は、伝承に語られる瀬田川の龍神と秀郷を祭神とし、その東隣の雲住寺は秀郷の供養のために子孫の蒲生氏により建立され、百足供養塔と虫塚があります。瀬田川中洲の南側には陶製の秀郷像も建てられていました。

# ぴーかるさんの投稿にある浮気住吉神社のことは知らなかったので、いつか浮気城を訪れた時にチェックしてみたいものです。

瀬田の唐橋は「急がば回れ」の語源とも言われますが、満々と水をたたえて流れる瀬田川を見ていると、唐橋の重要性を実感できます。
これは橋なくして軍勢を動かすのは困難ですね…。
 

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ダイエティシャン

吉田郡山城Ⅳ 三の丸石垣 三の丸 毛利隆元墓所 (2021/10/01 訪問)

三の丸石垣跡が、風情あります。②③
三の丸跡④⑤

まだまだ曲輪も旧本城跡も気になりますが、また次回に。来たた道を帰ります。⑥⑦⑧
今年から、毛利元就没後450年 毛利元就入城500年イベントの様子。⑨コロナ禍で無ければ、参加出来たのに。

最後は、遠征中に非業の死を遂げた 毛利隆元の墓所。

長々とご覧頂きありがとうございました。

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ダイエティシャン

吉田郡山城跡Ⅲ 土塁跡 二の丸 本丸 (2021/10/01 訪問)

本丸目指して進軍
土塁跡、二の丸跡⑤ 本丸櫓台東⑥ 本丸櫓台西⑦ 本丸櫓台南⑧ 本丸櫓台北⑨

本丸跡⑩

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ダイエティシャン

吉田郡山城跡Ⅱ 登城道 御蔵屋敷跡 (2021/10/01 訪問)

だんだん山城の登城道らしくなってきました。②~⑥

登城口=駐車場から20分程で、御蔵屋敷跡に到着。⑦
釣いの段の井戸跡 ⑧
進軍するが、 段は通行止め⑨ ⑩

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ダイエティシャン

吉田郡山城跡Ⅰ 登城口 登城道 墓所 百万一心 (2021/10/01 訪問)

うん十年前に攻城した時とは様変わりし、綺麗に整備されています。①~④

しばらくは、広い道を進み、数分で、毛利一族の墓所に着きます。百万一心の石碑もあります。5~⑦

随所に案内板もあります。⑧~10



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カズサン

城郭寺院勝興寺 (2012/10/14 訪問)

 平成24年10月第19回全国山城サミット魚津大会に合わせ2泊3日で富山県石川県の城廻りに出掛けました。
 13日の中井均先生の記念講演、14日の基調講演を午前中まで、その間出店してる山城サミット参加市町村の山城紹介コーナーで情報収集、資料収集を済ませ14日の午後は城廻り以前から狙ってた高岡市伏木港の元国府跡、古国府城跡、現在は勝興寺を魚津から地道を通って北アルプスの山容を途中途中眺めながらの進行。

 城跡は伏木港の西の守山城跡山陵が東に張り出した丘陵に在ります。
 車は勝興寺の門の無い総門跡を入り鼓堂前の駐車場へ入れる、近くに受付が有り参拝料を払い資料等を頂き、丁度平成の大修理中期間20年で進行中で参拝記念に金の栞を頂く、本堂は修復を終えて参拝出来ました。

 勝興寺の伽藍は古国府城跡内にすべて配置され周囲は土塁と堀で囲まれて且つ樹林でも囲まれ鬱蒼とした中に納まってる、浄土真宗のお寺らしく二階建ての太鼓櫓が総門の後に在る鼓堂と呼ぶ、本堂は西本願寺の阿弥陀堂を模したと言う立派な造り、富山の欄間彫刻で有名な所井波の彫しの仕事か本堂の軒下周囲は彫刻で埋まって居り見飽きないほど時間が過ぎてしまいます、本堂と唐門はじめ建物12棟は重要文化財。
 勝興寺は本願寺蓮如上人の子孫が継がれ本願寺、京都公家、戦国大名との関係を深め、藩政時代は前田家との繋がりも深く歴史資料宝物が多数保存されて居ます。

 寺院伽藍参拝の後、堀と土塁は東側と南側のみ見学。

 歴史的には神保氏の築城で古代越中の国国府が置かれた地、越後勢との抗争の中、背後の山に在る守山城の出城として使用、佐々成政の越中攻略に助力し成政が秀吉と対抗した時、越中一向宗徒を味方につけるため神保氏を介して成政が此の地を寄進して戦火で焼失していた勝興寺が天正12年(1584年)移った。(パンフレット、案内板抜粋)

 周辺観光で新港に係留されてる帆船海王丸に乗船、高岡大仏(三大大仏)参拝と洞内廻り、今回は見てませんが超有名な高岡城、瑞龍寺が見所です。
 当夜は高岡の旧友と久しぶりの再会、居酒屋で痛飲とスナックカラオケ、次の日と富山と石川県境の城跡を案内頂く。

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小城小次郎

本丸公開が待ち遠しい (2021/07/18 訪問)

長くこの地を治めていた岩城氏にとって代わった鳥居忠政は人心一新を図り岩城氏の本拠であった大館(飯野平城)のすぐ東に全く新しい城と城下町を築き上げた。整備中でなかなか公開されない本丸跡地の全面公開が待ち遠しい。

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ぎりょう

仙台藩二十一要害を訪ねて 岩出山要害 (2021/10/02 訪問)

地元大崎市で、伊達政宗公岩出山入部430年を記念して、有備館秋季企画展「絵図から読み解く岩出山の城と町」を11月28日(日)まで開催している。それに付随して10月2日に「岩出山城探検」のイベントがあり参加した。前日までの台風16号の影響が心配されたが当日は朝から快晴で晴れ男の面目躍如。と言うわけで仙台藩二十一要害訪問の四ヵ所目は岩出山要害となった。
岩出山城は14世紀中頃より奥州探題大崎氏の執事氏家氏の居城だった。天正18年(1590)、当主氏家弾正が病死し氏家氏は断絶、伊達家臣小成田総右衛門が城代となる。同年奥羽仕置により大崎氏が改易となり、この地を襲封した木村伊勢守の家臣が配されるが、葛西・大崎一揆が発生し城は一揆勢に占拠される。天正19年(1591)一揆鎮圧後、仕置軍として下向していた徳川家康・榊原康政によって改修され、政宗に与えられ、仙台開城までの12年間居城とした。慶長8年(1603)政宗四男宗泰が拝領し、以後、明治維新まで岩出山伊達家(御一門14,640石)の城・要害として続いた。
今回の企画展に展示されている「岩出山城絵図」(作成年代不詳 仙台市博物館蔵)や貞享5年(1688)の「岩出山要害惣絵図」(宮城県図書館蔵)を見ると、城(要害)は現在地元で城山と呼ばれる金丸、本丸、西に続く天王寺館、現在は公園化され原状を留めない西側の曲輪、西側から南側に空堀をともなう高い外郭部と、それに囲まれ、近世は二ノ丸や居所と呼ばれる低地部で構成されている。
中世は本丸を含めた山上の曲輪群が活用され、近世には中央の低地部に主要な建物群を移し要害としての機能を移したものと考えられる。
企画展には年代の異なる要害絵図や要害館下町絵図もわかり易く展示されている。特に鳥瞰図で描かれた要害絵図には、在りし日の要害の姿や仙台藩御一門岩出山伊達家の権威を彷彿とさせられた。
緊急事態宣言も解除されました。「旧有備館および庭園」の名称で国の史跡および名勝に指定されている有備館に期間中多くの方々が訪れ岩出山城(要害)について理解を深めていただき、さらに城址を散策していただきたいと思います。

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