丘陵の先端部にあります。不動尊から登り道があり看板もあります。
遺構は明確に残る土塁、平場、堀が微妙に残ってます。
近くの公園の駐車場に停めました。
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2021/12/22 19:16
2021/12/22 18:58
神尾山城 (2021/11/28 訪問)
【神尾山城】
<駐車場他>金輪寺駐車場
<交通手段>車
<見所>曲輪
<感想>神尾山城は本目城(もとめじょう)の別名があり、波多野清秀の子柳本賢治が1526年に築城した。光秀丹波進攻後は八上城攻めの中継基地として利用されたようです。城の南に位置する金輪寺の建立はずっと前の時代、延暦二年(783年)で神尾山城は寺坊の曲輪を改良したものだと思われます。
登城口は金輪寺本堂の右脇から山道に入ります。城跡は山頂の主郭を中心に南方向と東方向の斜面に階段状の曲輪を配したオーソドックスな縄張りです。主郭の南3段下段程に横堀のような平坦で長い堀切があり西に竪堀となっています。また登城路途中に石垣遺構があり虎口跡っぽい遺構です。主郭内部は数年未整備のようで灌木でかなり鬱蒼としています。土塁遺構があるようですがちょっと分かりませんでした。東方向の段曲輪には天狗岩や巨石があり巨石を使った防御設備であったようです。
<満足度>◆◆◇
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2021/12/22 16:47
天然の要塞 (2021/12/21 訪問)
三方を海に囲まれた天然の要塞です。何と言っても北側にある岩盤剥き出しの崖には圧巻です。また、堀切や竪堀など確認でき大満足でした。
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2021/12/22 16:26
遺構はほとんどない (2021/12/11 訪問)
石碑があるくらいで、遺構はほぼ消失しています。
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2021/12/22 16:23
石垣が現存 (2021/12/11 訪問)
主郭の石垣や土塁が良好に残っており、当時の面影を伺うことができます。
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2021/12/22 08:13
「和歌山の近世城郭と台場」を読んで(後編) (2020/03/25 訪問)
(続き)
裏坂を下りたところの二の丸には、藩主の生活空間として二の丸御殿があり、内堀に架かる御橋廊下を渡った先の西の丸には、隠居所として御殿と庭園が設けられました。けやき大通りから御橋廊下越しに天守群を仰ぐアングルは定番の撮影スポットになっています。この日はわかやま歴史館には入らず、西之丸庭園も軽く流して鶴の渓へ。浅野期に整備された庭園で、鶴が飼われていたことから鶴の渓と呼ばれており、後背には豊臣期の野面積みの高石垣が聳えています。
砂の丸の西辺には高石垣が連なり、急勾配の合坂が設けられています。高石垣沿いに追廻門を確認して、砂の丸門から南に進むと、天守曲輪西麓(新裏坂周辺)の石垣に多数の刻印が見られます。刻印のある石垣は和泉砂岩に限られ、浅野期のものと考えられますが、目的等については不明のようです。駐車場を抜けて不明門を確認した後、南の丸門から南の丸へ。南の丸には童話園と水禽園からなる和歌山城公園動物園(入園無料。エサやり・ふれあい体験は有料)があり、親子連れの人気を集めています。うちの子も小さい頃、ウマやヒツジやヤギにニンジンをあげたり、こわごわとエミューに触ったりしていました。
動物園を抜けると、表坂の脇に精緻な切込接ぎによる松の丸櫓台が聳えています。紀州入りした徳川頼宣が松の丸櫓から東にある紀州富士(龍門山)を眺めて駿河を懐かしんだと伝わることから、松の丸櫓台は駿河台とも呼ばれています。そして、松の丸櫓台の麓の岡中門で城内をほぼ一周。岡口門から出て、振り返って天守を仰ぎつつ、和歌山城を後にしました。
和歌山城について、ひと通りのことはわかっているつもりでしたが、専門書を読むと初めて知ることも山ほどあって、まだまだこれからも「和歌山の近世城郭と台場」を参考に楽しませてもらえそうです。
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2021/12/22 06:39
姫路城に赴く直前に (2021/11/13 訪問)
姫路城に赴く直前に立ち寄りました。石碑と説明板があるだけでも満足です。此処も空堀と土塁がノーチェックとなってしまったので再訪しなくては。赤松氏の居城で置塩城に移ると廃城になりました。
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2021/12/22 00:10
北条早雲最初の城 (2021/04/30 訪問)
しっかり整備されていて見やすく、土類や野面積の石垣、本丸北側の大空堀(堀切か?)など見どころが目白押しだ。
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2021/12/21 23:22
パシフィコ横浜までの寄り道② (2021/12/17 訪問)
青木城から権現山城へ。所要時間の3分程度は信号待ちと横断歩道の通過時間。約10分で到着です。
横浜ポチっとな。
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2021/12/21 21:47
2021/12/21 21:34
撫川城の東隣、元は一つの城 (2011/07/15 訪問)
西隣の撫川城を終えて、道は狭く不案内なので車を撫川城城門前に駐車のまま約200m程を徒歩で東進、庭瀬城を訪ねる。
濠に囲まれて清山神社が島中に鎮座、城名石碑が在る、濠外から眺めて探訪を終わる。
歴史は撫川城での記述を参照ください。
この後は宿泊先の吉備路の国民宿舎へ移動。
グーグルマップで見ると現在神社濠外北側に駐車場が整備されてるように見受けられます。兎に角道は狭く安全運転でご探訪ください。
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2021/12/21 20:34
御本壇の西側に石垣が良く残って居ます (2011/07/15 訪問)
備中高松城を終えて南方向へ約6km程の湿田、沼に囲まれた撫川城を目指す、車は南側の城門手前の案内板の在る駐車エリアを利用、道が狭く不安でしたが現在グーグルマップで見ると城門前に駐車場が整備されてる様子。
探訪は本丸/御本壇内部を廻り、城門、神社、外に廻り南から西の濠、御本壇西側の石垣を濠外から眺める、北側も廻りたかったのですが人家で入り込めず、西北には横矢の入った石垣で櫓台だったのか? 低地の人家は水堀/水路で囲まれてる。
築城で沼地、湿田に石垣を築くのは大変な作業だった事でしょう、西側の石垣を濠越に眺めて往時にしたりました。いい景色です。沼城とも呼ばれてる。
歴史的には毛利方三村氏が砦を築いたのが始まり、三村氏が毛利氏に滅ぼされ、毛利の出城、毛利方境目の城へ、秀吉の高松城水攻めの時城主井上氏は交戦して敗れ、宇喜多氏の領有へ、天正14年(1586年)頃に宇喜多氏家臣岡利勝が近世的な築城方式を取り入れた野面積石垣を築き築城を始めたと伝えられてる。
関ヶ原後東軍で軍功のあった戸川達安が29200石で入封、東に在る庭瀬城跡が中心として移った、戸川氏4代安風早世、嗣子なく改易、弟達富が安風の名跡を継ぎ5000石で旗本として撫川城址を本丸、御本壇とし明治まで9代継承される。(撫川城址整備委員会、下東町内会のパンフレット抜粋)
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2021/12/21 20:30
36見附めぐり⑧~赤坂見附~
赤坂見附は地下鉄の赤坂見附駅が最寄り駅ですが、枡形跡の石垣や説明板は赤坂見附駅と改札内で繋がっている永田町駅の7または9a出口に近いR246沿い(弁慶濠沿い)にあります。
残存している枡形門の石垣を坂の下から見ると今にも抜け落ちそうに突き出た石が一枚。奥を覗くと裏込め石がぎっしり。構造上、抜け落ちても落ちなくても(?)問題はないということなのかなと思いましたが、その隣の石は鉄板を差し込んで支えてあって、ちょっとドキドキです。
反対側の面の右半分もとても個性的で“お花積み”と呼びたくなるような洒落たデザインです。「どこの石垣でしょう?」問題を出されたら絶対に正解する自信があります!
ここの高石垣は首都高千代田トンネルの入り口になっていて、まるで自動車が御門に吸い込まれていくかのような景色です。東京ガーデンテラス紀尾井町の「テラスの小径」のウッドデッキからは黒田家家紋の「裏銭紋」のある石を間近に見ることができます。現地に写真付きの解説板があるので発見難易度は★☆☆ですが、真夏はそこが石垣だと気づかないくらい草が繁茂しているのでちょっと厳しいです。
ガーデンテラス前には「紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡」の碑があります。前回投稿の喰違見附の「尾張名古屋藩屋敷跡」と「近江彦根藩井伊家屋敷跡」と合わせて紀尾井町の町名の由来である「紀」「尾」「井」三家跡の碑、これでコンプリートです。
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2021/12/21 20:20
様々な歴史が織りなす場所 (2021/09/11 訪問)
上田氏の拠点で上杉・伊勢争奪戦の対象となった権現山城と戦が沈静化して多米氏が築いた青木城とは別物と考えてよいだろう。城地に建つ本覚寺は幕末にアメリカ総領事館になって生麦事件の舞台のひとつにもなった歴史的場所だ。
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2021/12/21 18:47
2021/12/21 18:43
2021/12/21 18:38
2021/12/21 18:31
2021/12/21 11:11
秀吉水攻めと天下取り出立で有名 (2011/07/15 訪問)
備中足守陣屋を終えて南方向へ約3km程の備中高松城を目指す、車は公園専用駐車場利用。
10年前の平成23年7月中旬、一度訪ねたいと願っていた城跡です、秀吉を扱う小説、TVドラマでは超有名な備中高松城ですが、梅雨時期を狙った水攻めが有名、また陣中で信長の本能寺悲報を知り毛利氏との和睦後、備中高松城からの中国大返しなど有名で高松城が歴史の大舞台になった時です。
また城主清水宗治の辞世も公園の石碑に刻まれ「浮世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して」潔さ哀れさをしばし感じた次第。
城跡は3の丸駐車場から微高地を廻る、清水宗治の首塚、歌碑、周りは田園、堀は蓮池、資料館、資料館では立体模型、洪水の時の城跡周辺水に浮かんだ写真を見て、秀吉の水攻めを実感したように思ったりと歴史にどっぷり浸かった城廻りでした。
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2021/12/21 08:10
「和歌山の近世城郭と台場」を読んで(前編) (2020/03/25 訪問)
「和歌山の近世城郭と台場」(戎光祥出版)で和歌山城が80ページあまりに渡って解説されているのを読んで、初めて知った点やこれまで意識していなかった点を現地で確認してみよう、ということで、例によって仕事ついでに登城しました。
一の橋を渡って大手門から入城し、切込接ぎで築かれた一中門を抜けると、目の前に緑泥片岩(紀州青石)による野面積みの石垣が広がっています。天守が建つ虎伏山は緑泥片岩の岩盤でできた丘陵のため、表坂を上った松の丸門跡の石垣の下など、あちこちに岩盤の露頭が見られます。松の丸を経て、本丸表門、中門を抜けて本丸へ。かつての本丸御殿跡は上水道の貯水池になっていて立ち入りできませんが、天守を望む展望所が設けられています。この日は天守には入らず、天守曲輪の転用石を見ようと思っていましたが、乾櫓に続く帯曲輪は立入禁止になっていて確認できませんでした…。仕方なく天守の写真だけ撮って(絶好の晴天!)、寺院の礎石を転用したとされる本丸裏門の礎石を確認したり、裏坂の石垣を見上げたり、これまでは気にも留めていなかった銀明水(屋根蓋付きの井戸)を認識したりしながら虎伏山を下りました。
大手門から虎伏山周辺と岡口門にかけては浅野期までの縄張ですが、続いては徳川期に拡張された西の丸、砂の丸、南の丸をめぐります(続く)。
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