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小城小次郎

大内定綱のイメージとは異なる城だ (2021/07/17 訪問)

表裏比興の梟雄的な印象が強い大内定綱の本拠地は意外なくらい求心性に乏しい群郭式のお城だった。生死を賭けて外敵から地域を守り抜く地域連合の惣領というのが、定綱の真の姿なのだろう。織豊系の石垣はおまけということで。

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じゅんじん

雑木林 (2021/09/11 訪問)

十数年ぶりでした。公民館横に榊原康政公出生の地の石碑などあります。駐車も可能です。
周囲には砦跡もあるみたいです。周辺の鴛鴨城、堤本地城とセットで行きました。

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カズサン

小西行長の宇土城を初探訪 (2013/08/17 訪問)

 大分県の日出城を終えて高速道で宇土城を目指す、宇土高校と宇土古城辺りにナビを定めて走行するが宇土古城の手前まで行き引き返し城跡らしき森を目当てに近づき案内板に従い細い道を北から南に進むと案内板、トイレ、駐車場に辿り着くが更に南に曲がり込み広い駐車場に辿り着きそこを利用。
 本丸の西は二の丸で現在広い墓地霊園に成ってる、広い駐車場は霊園利用者の駐車場かもしれない。

 初登城の宇土城本丸の西側に登城階段が有り本丸に登る、本丸話結構広い公園として整備されて居り、東側に小西行長が太刀を前に立て持ってる立像が建立されてる、側に案内板、周囲は崖で落ち込んでるが往時は石垣で覆われてたのだろうか?降りて本丸の周囲を散策、西側は崖と下部は石垣近年の復元石垣の様です、二の丸跡現墓地の間に堀跡、南から東に廻り東隣は宇土高校、夏草に覆われていますが崖土塁下は石垣が積まれ近年の石垣復元の様子、二の丸、三の丸現高校を西から南、東を囲むように外堀が有ったらしいが確認せず、今回の投稿でグーグルマップ航空写真で確認すると新しく出来た外周道路との間に堀らしき痕跡と見えるものがある。
 
 宇土城は市指定史跡、宇土古城は国指定史跡保存の扱いに大きな違いがあるがひっそりと小西行長を偲ぶには丁度良いのかも、芭蕉の句「夏草や 兵どもが 夢の跡」がピッタリです。
 歴史的には秀吉の九州征伐後肥後は佐々成政に与えられるが国一揆で肥後が混乱応援を得て鎮めるも責任を取らされ佐々成政は切腹、後肥後は北半分を加藤清正、南半分を小西行長に与えられ夫々20万石ほどの太守です、立派な城が完成するのでしょうが、其の後小田原征伐、朝鮮出兵、関ヶ原は西軍で敗退、斬首された。
 この間10年ちょっと秀吉の配下として多忙を極め宇土城築城に手間を掛ける時間も少なく、廃城、一国一城令で織豊系の石垣大城郭として残らなかったのでしょう? このまま大事に保存整備をお願いして、初登城で大感謝です。

 この後、八代城に移動します。

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よしくん

やっぱり雄大な姫路城 (2021/09/10 訪問)

県内移動ということで姫路城を訪問。天守の中もガラガラで、各階の案内人の方にいろいろな話を聞けました。
お城全体の美しさ・雄大さに感激、天守を支える巨大な大柱を組み立てた昔の人に驚嘆です。。。
お城の北側を探索すると、大きな樹木に埋もれた少し変わった雰囲気の天守が見えました。

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ふゆづき

千曲川のほとりにて (2021/08/20 訪問)

ここは私が一番好きな城の一つですが、3年ぶりの訪問になりました。
いつものように、大手門の駐車場に車を停めて、大手門→三の門→二の丸→本丸→馬場→展望台と訪問。(動物園は閉鎖中)
季節外れのため、桜や紅葉はありませんが、苔むした石垣に心が和みます。
三の門は現在修復中ですが、他の遺構については大きな作業は行われていないように思いました。
皆さんご存じのとおり、この城は浅間山の麓から千曲川に落ちておく緩やかな傾斜地の千曲川に沈む最後の一角に築かれたため、城下町よりも低い位置にあることから、大砲のような遠距離攻城兵器が実戦で用いられることとなった近世では、城下を占領されれば、攻城兵器でやりたい放題にされるので、近代戦には向きませんね。
しかしながら、城下より低い位置に築かれると、城主の目線も下がるということを考えれば、統治の上では悪いことばかりでは無いように思います。
少し離れた大手門と三の門の内を見て、1時間強というところだと思います。

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todo94

麻績古城(虚空蔵山城) 県内の城めぐり・その1 (2021/09/20 訪問)

松本献血ルームでの献血の予約が11:45。その前に朝駆けしてきました。そのまま、麻績城へ行くつもりでしたが、険しくて断念。麻績城の搦手口に行ってみたものの、草がぐっしょり濡れていて靴や服がずぶ濡れになること必定だったので今回は麻績城攻略は諦めました。でも、麻績古城もなかなか見所のある城で満足です。

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海城パートII (2021/09/26 訪問)

来島村上氏の本拠地、来島城に行ってまいりました。
島全体が城です。早い潮流が堀、石垣です。
今治市波止浜港から渡船で5分。
行った時間帯がタイミングよく、干潮時で岩礁ピッドを沢山見る事が出来ました。島の周りを一周できる潮位だったので犬走りのようなものも発見しました。ちなみに一周850mだそうです。
島を一周した後、頂上の本丸を目指しました。
途中、一部分ではありますが、綺麗に石垣が残っていました。
三の丸、二の丸、本丸とはっきりと曲輪を確認できました。
山腹には城主の居館後(心月庵)もありました。
1時間ほどで満喫できました。
蚊が多く、虫除けスプレー等あったら良いと思います。
自販機もないので、水分は島に渡る前に用意しておいた方が良いでしょう。

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赤い城

バンブーパラダイス!ずっと行きたかった。 (2021/09/12 訪問)

良い!と聞いていた念願の中居城、城友さんにご案内頂き登城して来ました。
車は近くの学林寺さんに置かせてもらい民家脇の標柱のところから登城。
少し登るといきなりの遺構、すぐに主郭部となります。
周囲を土塁が囲んでいます。
主郭の櫓台部分から下を見下ろすとかなりの深さ。
堀底道から見上げるとここがキルゾーンであることが良くわかります。
自然の地形を利用した念仏堀も深さ広さがあり見どころとなります。
南方三十三館の一つでここの城主も佐竹氏に太田城に呼び出され仕置されました。
これだけの城を持ってたら警戒されるのもやむを得ないですかね。

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カズサン

解体移築復元した鬼門櫓を見たくて (2013/08/17 訪問)

 平成25年8月故郷鳥取で中学卒業50年同窓会、高校盆の同級会鳥取県城廻り、盆の墓参り寺参り、恩師挨拶等5泊6日を終えて前々から日出城の鬼門櫓が平成25年4月2日解体移築復元公開されて居たので鳥取から600km超、夜間高速を飛ばしサービスエリアで車中泊仮眠し翌日17日の朝に日出城登城し、じっくりと鬼門櫓を見学する外から内部から鬼門側をカットした側も堪能しました。
 
 日出城の鬼門櫓は明治の初め建物解体され民間に払い下げ、蔵として使用されてましたが長い期間の経過で劣化が進み朽ち果てる状態で日出城の現存建物の写真でも今にも壊れそうな写真で紹介され居り早く修復復元したらと思う方が多かった事でしょう、その折払い下げられた民間の方から日出町に元鬼門櫓を寄贈なされ、町の方で解体移築修復復元を本丸の堀を挟んで西の曲輪、日出町歴史資料館前の駐車場に建てられました、元の鬼門櫓跡とは少し西に離れた所です。

 車は日出城のガイダンス施設でもある二の丸館の駐車場を利用、本丸、日出小学校の北側です。

 鬼門櫓を見学の後は本丸周囲の石垣を観察し、周囲も散策見学、二の丸館の在る裏門と同櫓、ガイダンス施設にも寄り資料を頂く。

 日出城を終えて日出道、大分道、九州道を通り宇土城と八代城への探訪へ移動しました。

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三浦の晃ちゃん

大雨だった (2021/09/26 訪問)

雨が激しかったので、史料館の周辺だけで、スタンプを、ゲットしました。、

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三浦の晃ちゃん

偶然 (2021/09/26 訪問)

道の駅めぐりを、していたら、そこが、お城でした。

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三浦の晃ちゃん

スタンプだけ (2021/09/26 訪問)

スタンプだけゲットしました。

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ぴーかる

浮気城 (2021/07/25 訪問)

【浮気城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>JR

<感想>JR・京阪・阪急 3電鉄利用の旅1城目。JR守山駅から徒歩で来城しました。城跡としての遺構は住吉神社本殿の奥に土塁・空堀が残る。土塁はだいぶ凹凸感がなくなっています。立入禁止なのかどうかいまいちよくわからない柵棒があったので外側より撮影するのみとなった。
 お城とは逸脱しますがこの住吉神社は浮気の火祭り「松明祭」という神事があり、俵の藤太(藤原秀郷)が大百足退治の時、百足の頭がこの住吉神社まで飛んできたことに由来し百足に見立てた大松明を焼き払って奉火するというものです。守山駅のローターリーに説明書きがあります。お城の遺構は少なかったですが、この土地の有名な事柄や祭りがあることが勉強になりました。この俵の藤太と大百足この次行った瀬田の唐橋にもからんでくるとはつゆ知らず......。

<満足度>◆◇◇

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カズサン

天球丸下楯蔵櫓台、曲輪の修復復元が完成 (2013/08/14 訪問)

 平成25年8月鳥取に同窓会で帰省中、米子城を終えて鳥取城を訪ねました、鳥取城は昭和18年9月の鳥取大地震で甚大な被害が発生し鳥取城の石垣も大きく崩れ平成の世までコツコツと石垣の修復復元を行って居りました、訪ねたのが鳥取大地震から奇しくも70年目、最後まで残っていた天球丸下の曲輪と楯蔵跡整備、石垣の積直し修復復元が完成した様なので天球丸、楯蔵櫓台石垣、曲輪続き石垣主体に見学鑑賞しました。
 長年の継続修復に敬意を表します、ただただ感謝です、訪問した平成25年前後より鳥取城幕末期の姿に復元30年計画がスタートし一期10年で幕末の登城路復元を進行中、現在大手橋の擬宝珠橋の完成、中の御門表門完成を見て居ります、後は中ノ御門櫓門、三の丸太鼓御門が待たれるところです。
 二期は二の丸の走り櫓、菱櫓、三期は三階櫓の復元が長い年月を掛けて待たれますが孫子の時代でしょう。

 この後二の丸三階櫓台下にある仁風閣で「甦る鳥取城」展を開催してましたので見学、65歳以上は無料でした、同展では一期復元の幕末登城路の復元スケッチ画、二の丸太鼓御門復元スケッチ画3点の展示が有り写真も撮り頭に叩き込みました。復元完成が待たれます。

 先に最後の石垣修復と書きましたがまだ一部幕末拡張した二の丸、登り石垣下に右膳丸が有り、下に中仕切り門、その間の石垣がはらみ崩れそうな状態で防護網を一部被せてますので石垣修復が待たれます。

 また米子から鳥取に帰る途中の淀江町大山町にまたがる地域に近年発掘調査復元された、弥生遺跡「妻木晩田遺跡」出雲式の古墳「四隅突出型墳丘墓」多く発掘され有名、古墳時代の前方後円墳が多く発掘された向山古墳、飛鳥白鳳期の上淀廃寺跡、仏画壁画が発掘され大変珍しいとか、その近くにガイダンス施設「上淀白鳳の丘展示館」が出来、原寸大の金堂、如来坐像、菩薩像2体が復元されて居り重厚、厳粛な雰囲気が漂っています、それらの施設を2時間見学し食事施設も有りましたので昼食をここで頂く、城廻りと違っていい体験でした当時結構な人が出ていました。

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カズサン

大手桝形石垣門構え整備前視認 (2013/08/14 訪問)

 平成25年8月鳥取県日野郡江府町に在る江美城を初登城し当日は米子泊り仕事で知り合った郷里鳥取県米子出身の知人と退職後米子で飲もうかと知人とその友人4、5人で知人経営の料理屋で痛飲、カラオケも有りで大いに盛り上がった翌日ホテルからも良く見える湊山に在る米子城に寄る。
 
 大手枡形の石垣構えの修復整備との情報も有ってか寄って確認、撮影をする、車は枡形門前の空きスペースに1台路駐可能、急ぎ足で確認撮影して終了。大手枡形の石垣の構え造りは素晴らしく見応えが有ります。
 今回の投稿写真は大手枡形のみでご了承ください。
 
 米子城は吉川広家の天守閣(小天守閣)と中村一忠の天守閣(大天守)が並立した山陰唯一の城郭として有名で明治の初めに取り壊されたのが惜しまれる、古写真で天守閣がうっすらと確認出来るのが救いです。
 過去に2回フイルムカメラの時代に登城してるが未整理で天守閣本丸の写真投稿は出来ない次第、湊山頂上の本丸天守台からの眺めは素晴らしく秀峰大山、中ノ海、日本海、弓ヶ浜が手を取るように鑑賞出来ます。
 何時かデジタルカメラで登城撮影を出来たらを思って居ります。

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チェブ

胤の字は何処から、、、。 (2021/05/04 訪問)

千葉県柏市の「布施城」は、ウィングホール柏斎場の入口の左手に石碑があります。
駐車場の車の台数を見たら、お葬式の最中なのは一目瞭然です。
石碑と周辺の写真を写し退陣です。
「布施城」の築城した詳細は不明です。
相馬氏の一族が築いたようです。
相馬氏?福島県の?
調べてみると相馬氏の本家(?)は千葉氏でした。
確かに両家ともお名前の1字に『胤』の字が使われてます。
柏市の歴史を調べると、平将門さんの子孫が相馬を称したのが始まり、ともありました。

いつもの脱線話です、、、。

脱線ついでに、もう一つ。
昨年の【お家×お城】で安土城のプラモデルを制作しました。
初プラモデル作り+ぶきっちょで、天守が傾きひどい状態です。
このままでは信長さんに怒られる事、間違い無し!
会社からミニルーターを借り、石垣をちょっとリアルに掘ってます。
まだまだ、工程は続きますが色入れまで、気長に築城していくつもりです。

コロナ感染者数、少なくなってきましたが、油断大敵です。
近場のお城、行きつくしてしまった城びと武将の皆さん、お家時間の1つに、いかがでしょうか?

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橋吉

前田利家出生の城2 (2021/09/19 訪問)

前田利家の出生地については、荒子城で生まれ育ったという説と
前田城で生まれ7歳の時、荒子城に移ったという説があります。

荒子城跡から西に向かって、バイクで15分、庄内川を越えたところある前田城跡へやってきました。

現在は前田速念寺となっています。
所在地:愛知県名古屋市中川区前田西町1-904

参拝者用駐車場に駐めさせてもらいました。

残念ながら、前田城の遺構は残っていませんでしたが、

山門前には前田城跡の碑があります。
また、境内には大正8年に設立された旧前田村碑があり、この地が前田利家出生の地であることが書かれています。

さらに、前田城最後の城主である前田与十郎之墓もありました。
1584(天正12)年、小牧長久手の戦いの際、前田城は秀吉方についたため、家康方の攻撃を受け落城、城主前田与十郎は蟹江合戦で討死してしまいます。
その子長種は北陸にのがれて利家に仕え、一万石(のちに二万石)を得て、利家の長女幸(こう)を妻としました。
利家の叔父前田利則は、出家して意休と号し、浄土真宗速念寺初代となり、速念寺は前田氏の鎮魂の寺となりました。

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じゅんじん

絶賛発掘中 (2021/07/23 訪問)

あの穴は何かなあ?

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カズサン

金箔瓦が発掘発見された城跡 (2013/08/13 訪問)

 もう暫く自粛中で過去分の投稿ですが平成25年8月中学校卒業50年同窓会、高校夏の同級会がお盆時期に開かれ帰省した折に以前から気に成って居り金箔瓦が発掘調査中に発見されたと言う江美城を初登城しました。
 
 鳥取の実家から国道9号線、山陰道、日野川沿いの国道181号線を南下江府町辺りから国道482に入り江府町役場辺りU字型に曲がり二ヶ所急坂を東に登り切り最初の細い農道を南に入り次に最初の細い農道を西に入り約500、600m進むと本丸手前の大堀切に着く、本丸土橋か手前の農家の作業小屋の前に路駐。車は軽か小型車が良いでしょう。(ガイドと案内は城郭放浪記さん)
 後で分かりましたがU字型に曲がる坂道の辺りに江府町役場有ここの駐車場を利用して徒歩、山、丘陵に向かって東祥寺、江美神社を通り山手に坂道を登ると歴史民俗資料館(閉館)が有ります、草が茂ってるかも知りませんが登城路が有り本丸に登って行けます。

 城跡は大山からの日野川に流れ込んでる舌状台地の先端に在り、本丸の東を台地と切り離した大堀切土橋で繋がり、本丸の東側に石垣が散乱してますが櫓台が有った思われる土壇が割と広くあります、本丸の西側は現在畑に成って耕されてる。本丸の西に堀切が有り西の丸跡が在るその下西に八幡丸跡現歴史民俗資料館が建ってる。西の丸跡、枡形跡は草が茂り良く確認できませんでした。
 本丸周囲は崖か切岸か落ち込んで居ます、また曇って居ましたが大山北壁の厳しい姿が遠望出来ます、本丸土橋の北下は東祥寺の墓地、境内と成って居り往時は居館が有ったとの事。

 歴史的には尼子氏の勢力下、蜂塚氏が築城4代継承し毛利氏との抗争で滅亡、秀吉の時代、米子城主吉川広家が伯耆を治め江美城も支城として近世城郭に改修されたのではないか?吉川広家と秀吉の繋がりで金箔瓦の使用が許されたのではないかとおもったりして?

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城好きのメガネ

「江上館」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★★★
江上館跡は、標高約18メートルの微高地に占地し、三浦和田氏の惣領家である 中条氏の居館跡とされる。戦国時代には中条藤資が長尾為景に仕える。中条藤資は、本庄房長や色部昌長らと抗争。永正の乱でも長尾為景の勝利に貢献した。為景の没後は長尾晴景と対立するが、晴景の弟である上杉謙信が国主となると筆頭重臣として活躍した。1561年、川中島の戦いでは謙信より血染めの感状を貰うほどの智勇兼備の名将であった。中条藤資の没後は娘婿で吉江氏の景泰が中条氏を継いだ。中条景泰は、上杉謙信のはからいにより中条氏を継いだ。謙信の死後は上杉景勝に属し、魚津城を守備する。1581年、織田氏の柴田勝家と戦い、討ち死にした。子孫は引き続き上杉氏に仕え、陸奥会津や出羽米沢藩に転封されると従ったとされる。現在、曲輪、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR中条駅 徒歩20分

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