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ダイエティシャン

高越城跡(北条早雲生誕地)1️⃣ (2022/02/25 訪問)

今回の地震で、被害を受けられた方のご無事と、一刻も早く、日常の生活を取り戻す事ができます事を、お祈りしています。

同時に、無事に城攻めが出来る事に、地域、行政の皆様に感謝します。

高越城跡(北条早雲生誕地)攻め

コロナワクチン3回目も無事終了したため、列車で城攻め。勝手にJR西日本応援企画です❗

コロナ禍の為、出発駅変更。米子駅から早雲の里荏原駅経由、伯備線、赤穂線、井原鉄道、5時間乗車、2回乗り換え、

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BUCHI38

石垣編 (2022/03/19 訪問)

二条城の石垣はまっすぐ直線状に並んでいます。これは城では珍しいそうです。また、石垣は本丸を囲んでいるのですが、どうやら正方形に囲んでるようです。また、水の確保のために水堀で囲まれています。石垣は綺麗な算木積みでした。枡形虎口が立派でした。御殿よりこっちの方がすごいかも。

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釜次郎

徳川家康出生の城 (2022/03/19 訪問)

岡崎城に行ってきました。
堀と石垣はとても見応えがあります。

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POYO58

二の丸御殿は豪華。でも石垣の方がすごい! (2022/03/19 訪問)

世界遺産の二条城に行ってきました。二条城は二の丸御殿が国宝に指定されています。でも僕は石垣の方が大好きです。この前みた日本不滅の城で千田先生が二条城の天守や御殿の中の話をしていて全て将軍の権力を見せつけるためと言っていましたが、やはりそうだなーと思いました。二条城は徳川家康が築城し、その後代々徳川家が受け継いでいました。徳川家最後の将軍、徳川慶喜が大政奉還をした所でもあります。二条城は姫路城と同じくらいの大きさの天守がありました。ここからは天皇の御所が見えたそうです。これは徳川家は天皇に自分の権力を見せるために建てたとされています。今は天守台の石垣が残っています。また、枡形虎口も多かったです。

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カズサン

世界遺産熊野速玉大社、獅子巌 (2010/04/25 訪問)

 新宮城を探訪の前後に観光ポイントの熊野速玉大社、獅子巌を訪ね写真を撮りましたので投稿させて頂きます、残念ながら熊野鬼ヶ城、花窟神社、七里御浜は寄っただけで写真を当日撮って居ませんでした。

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カズサン

本丸・出丸からの熊野川眺望は素晴らしい (2010/04/25 訪問)

 新宮城は紀伊半島の先端方向、浜松から高速道を東名、湾岸、東名阪、伊勢道、紀勢道と当時は紀伊長島辺りまで後は国道42号線を約100km弱の山道を曲がりくねり、直線距離で200km程、走行距離では約400km程を走らなくてはなりません、結構遠い感じを受けます。
 紀伊半島は白浜、潮岬、熊野と観光地が有り社内旅行、家内との旅行など訪ねて居ましたが新宮城は遠くから眺める事が多く、フィルムカメラ時代に1回、デジタルカメラで今回初めての登城です。

 駐車場:新宮城丹鶴城公園本丸南下の駐車場を利用

 探訪ルート:丹鶴城公園本丸下駐車場、駐車場から北に登り本丸下へ、本丸、天守台、天守台は中央が壊れてる、搦手虎口、本丸北の別郭出丸を眺め、本丸北から別郭出丸越しに熊野川を眺めると素晴らしい景観です、本丸を降り、周囲の高石垣を眺め、北の別郭出丸に登る、相対する本丸櫓台には門跡か虎口跡を塞いだ痕跡が見える、当時は繋がって居て別郭出丸と本丸が行き来できたのか? 鐘ノ丸、松ノ丸、松ノ丸から水ノ手への道は災害の為か?通行不可、松ノ丸から下城、冠木門登城口へ、二の丸現保育園の立派な石垣を眺め、水の手の曲輪へ、整備中の様子、熊野川を利用した水運の港の役目を負っていた、水ノ手から本丸、鐘ノ丸を見上げる、石垣城塁が美しい。

 歴史:関ヶ原の軍功で紀伊和歌山城を浅野氏が拝領、支城として新宮城を築く、福島氏の改易で浅野氏が広島へ転封、和歌山に紀伊徳川家が入り、新宮城へは付家老水野重央が元和5年(1619年)浜松より35000石で入る、浅野氏の築城工事を引き継ぎ寛永10年(1633年)完成した、明治まで水野氏が治める。

 途中の名勝観光ポイントは、国道42号線沿いに、熊野鬼ヶ城、熊野獅子巌ライオンが吠える姿にそっくり、花窟神社大岩を祀る、七里御浜碁石の黒石が採れる、熊野速玉大社世界遺産と多く有り途中休憩しながら観光が楽しめます。

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カルビン

久しく投稿しなかった石垣ありのお城 (2014/07/22 訪問)

たまには石垣のあるお城を投稿しようと、未投稿のお城探したところ選んだのが小松城です。

石垣と言っても本丸跡地周辺にある天守台とその周辺にしか石垣・・・というか目に見える遺構自体があまり残っていないです。
(他には学校に併設された常盤門くらいでしょうか)

ただ跡地的な碑石や案内版は小松城跡地に建つ芦城公園を含む周辺にいろいろ存在しておりました。

お城巡りを始めた当初は遠出する際は1つのお城をじっくり見るのではなく数見たいと言う事もあってこの手のお城は天守台跡をみたらすぐに次!みたいな所があったのですが、何故か小松城はじっくり時間かけて散策したのを覚えております(ーー;)


続100名城のスタンプ確保の為にまた周辺に行きたいんですが・・・目眩持ちになっちゃった為に車で行くのが恐怖なんですよね・・・誰か運転出来る方が一緒に行ってくれればありがたいんですが・・・

いずれにしてもまだまだコロナの油断できないので行く事は無いデスガ(本当に蔓延防止止めて大丈夫か?(怖))

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ぴーかる

大嶋城 (2022/02/23 訪問)

【大嶋城】
<駐車場他>大島山山頂に駐車可能
<交通手段>車

<感想>大嶋城は現地説明板によると1104年にこの地の豪族海老名家季によって築城されたとされます。7代景知は赤松円心に属し白旗城に立て籠もりますが、留守中に新田義貞軍に組したものによって焼き落されたといわれています。かつてはここは島城だったそうです。
 現在城跡は善光寺というお寺になっていて山頂部分は改変されているようです。寺を建立するときにあった海老名氏の墓と思われる宝篋印塔・五輪塔を集めています。島には山頂部分を取り巻く腰曲輪が1周していますが後世の改変かどうかちょっと判別できなかった。

<満足度>◆◇◇
<グルメ>相生市は牡蠣の名産です。道の駅あいおい白龍城に牡蠣の直売りをしています。レストラン「和ダイニングまねき」にて牡蠣づくし御膳を食しました。牡蠣フライ・焼き牡蠣・牡蠣ご飯です。相生の牡蠣は身がでかい!

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イオ

海賊伝承の山城 (2022/02/26 訪問)

戦国前期に阿波三好氏の武将・美濃左兵衛が築いたと伝わりますが、江戸後期の軍記物「鞍賀多和長尾記」に基づく伝承であり、詳細は不明です。

御崎神社の西、煙樹ヶ浜西端から少し入った西山遊歩道の入口に説明板があり、近くの空きスペースに車を駐めて登城開始。説明板から遊歩道を5分ほど歩き、左手にため池があるあたりで右手の山中に入って行くと、古屋敷とも海賊屋敷とも呼ばれる屋敷地が広がり、石垣も見られます。本之脇城の山麓の居館跡でしょうか。

さらに20分ほど登ると、遊歩道が切通状に尾根を横切っており、木製のベンチが置かれています。この切通が北端の堀切で、ベンチの間を奥に入って行くと主郭を囲む帯曲輪西辺の石垣が見えてきます。主郭と帯曲輪だけの小さな城ながらなかなかの規模です。帯曲輪に上ると、堀切に面する北端に大きな土塁がありました。頂部の主郭は北辺と南辺に低い土塁があり、南辺の土塁の外側には石垣が見られます。海賊伝承のある城で、位置的にも海上の見張りの役割を担っていたと考えられますが、現状は雑木林になっているため主郭から海を見渡すことはできません。

本之脇城の前に登城した入山城で気力を使い果たした状態でこの日一番の比高(170m)の山城はキツいかな…とも思いましたが、登城道は舗装された遊歩道だったためさして苦にもならず、城域も雑木林ではあっても藪化はしていないので、気力を削られることなく探索することができました。精神的な疲労感においては「藪 > 比高」ですね。
 

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じゅんじん

学校 (2022/02/28 訪問)

校門前に城址碑がありました。

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小荷駄

岩倉城跡 (2022/03/17 訪問)

岩倉駅から徒歩10分程で本丸跡に着きました。駐車場は有りませんが通り向にトイレはあります。遺構はありませんでしたが五条川沿いから山内一豊誕生の碑などとあわせて散策しながら当時の様子を勝手に想像しながら1時間程でした。桜はまだまだ蕾も固そうでした。満開の時に行きたかったです。

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カズサン

武家屋敷と郷土資料館 (2010/04/17 訪問)

 村上城山頂の郭群を下城し、途中の七曲道にはカタクリなどの山野草が目に付きます、一文字門跡に駐車した車を郷土資料館駐車場に駐車し、郷土資料館に入り見学、村上城の立体模型が有り俯瞰した形で見る事が出来、探訪して来た現地と対比しながらの観察はより体験が深まりました、模型の山麓の藩主居館が現地の探訪不充分でしたが模型でよく理解できます、居館にも隅に三重櫓が在ったのですね! また村上城はCG復元の映像がユーチューブなどで見る事が出来理解もさらに深まります。
 展示資料を閲覧し城下町散策へ近くに武家屋敷若林家、歴史文化館、市役所、商家町並みをぶらぶらして17時を過ぎましたので、瀬波温泉の予約したホテルへ、日本海の磯の匂い、当日は曇りでしたので夕陽は拝めず、大浴場からの日本海の眺め、夕食は地元料理と地酒にビールを美味しく頂き、車の長距離走行と城歩きの疲れも有り心地よい眠りと成りました。

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カズサン

石垣造りの本丸が素晴らしい (2010/04/17 訪問)

 先に七曲登城路から三の丸編を投稿させて頂きましたが、続き二の丸から本丸を投稿させて頂きます。
 村上城は独立峰臥牛山の山頂に石垣造りの織豊系城郭城郭で本丸、二の丸、三の丸と連郭式。上杉氏時代は本庄氏が城主を務め、上杉氏会津に国替えの後は堀氏与力大名村上氏が入り中世山城を織豊系城郭に改修した、元和4年(1618年)堀直奇が入封し、更なる整備拡張が成されて総構、城下、山頂の丸の石垣も改修し三層の天守黒(下見板張)も輝き一新した。その後寛文3年(1663年)松平直矩が更なる修築しこの時天守も新造され白漆喰造りで二回天守が造られている、寛文7年天守は落雷で焼失し以後再建されてない。

 探訪ルート:三の丸四ツ御門、二の丸御鐘門、出櫓台、本丸、本丸冠木門虎口桝形、本丸天守台、多聞櫓台、本丸石垣下の曲輪を廻る。 山頂に高石垣をよくも積み上げたものです、良く残ってる高石垣城郭を今後も大切に守って行きたい名城です。また中世城郭土の城も残存してる稀有な城郭です。

 桜はまだつぼみから膨らみかけ、翌日訪ねた新発田城は満開でしたが山頂部は満開の桜は1週間後位、投稿時の現在までに村上城は5回ほど登城してますが満開の桜を体験して居ません、新発田城と村上城は登城タイミングをずらさないと無理の様です。

 この後下城して郷土資料館、城下町散策、武家屋敷見学と村上城を3時間超過ごし瀬波温泉泊り。

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新ろくべえ

大河ドラマ巡り行ってきました!②北条寺周辺 (2022/03/06 訪問)

大河ドラマに関係する遺跡や寺に行ってきました!

【北条寺】
 北条義時の長男である安千代を供養するために建立された寺です。
安千代は勉学に励むため珍野村の千葉寺にかよっていた。
だが安千代が11歳の時、家に帰る途中にある大池の堤で大蛇に襲われ、
溺れて亡くなってしまった。
このことに義時は大いに怒ったが、大池の仕業なためどうしようもなかった。
ですがある時に義時は大蛇の左目を弓で射た。
そうしたら大池の水量はどんどん減り、田んぼになったという伝説があります
今ここには、北条義時とその三人目の後妻である伊賀の方の墓があります。

【北条義時館(江間公園)】
 ここは少年時代の義時が屋敷を構えた場所といわれています。
義時が江間小四郎といわれていたのは、この屋敷の土地の名である江間からです。
今ここには江間公園が建っており、石碑があります

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新ろくべえ

大河ドラマ巡り行ってきました!①守山地域 (2022/03/06 訪問)

今大河ドラマで有名な北条氏邸の近くにある守山砦とその周辺の遺跡に行ってきました!
【守山】
守山は北条氏邸を守る要害です。
ここを拠点に北条氏はこの地域を支配しました。
いまは後程紹介する守山砦と御所の内遺跡と願成就院遺跡の三か所で分かれています。

【守山砦】
守山砦は、北条氏邸の南に位置する守山の大部分をしめる場所です。
北条氏邸の防衛を行ったりしていたと考えられます。
守山はのぼれるので、特に遺構はありませんが行ってみてはいかがですか。
〔砦情報〕
・築城年     ❙1100年頃?
・廃城年     ❙1180年頃?
・廃城理由    ❙北条家が源頼朝とともに鎌倉に移ったため
・築城者     ❙北条家
・城主      ❙北条家
・最後の城主   ❙北条時政?
・遺構      ❙無し
・トイレ、駐車場 ❙トイレ無し、駐車場は北条氏邸後か真珠院か願成就院
・評価(自己判断) ❙遺構は残っておらず全体的にわからない

【堀越御所】
 堀越御所は応仁の乱の時に坂東で起こった戦争をおさめるために
足利幕府第八代将軍足利義政によって送られた足利の一族が、坂東に入れず
堀越に御所を作り堀越公方と名乗ったのが始まりです。
知っておられる方もいると思いますが、母と弟を殺して公方に成り上がった
足利茶々丸はここに住み、その後伊勢新九郎(北条早雲)に殺されました

【北条政子産湯の井戸】
 隣には北条氏邸、前に堀越御所があるこの井戸で北条政子は洗われ
その後もこの地域ではこの井戸で生まれた子供を洗う風習がありました
いまは水は入っていません。




 

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イオ

藪の先は藪… (2022/02/26 訪問)

日高平野西部を流れる西川とその支流の間にある南北に細長い独立丘(入山)の「城山」「本丸」と呼ばれるふたつのピークに築かれた城で、「城山」は戦国前期に三好義長が小坊子城の支城として築き、「本丸」は羽柴秀吉の紀州攻めで湯川直春が亀山城を退去した後に青山一矩(由定)が築いたと伝わりますが、詳細は不明です。

西麓の入山公民館に車を駐めさせてもらって登城開始。公民館の少し南には入山城の説明板が設けられています。公民館から東の三宝寺に上って行くと、城山へ続く登城道が墓地の脇を通っています。なお、三宝寺は亀山城主・湯川直光の菩提所で、墓地には墓石と説明板があり山門前には石碑が建てられていますが、城山の南麓にあたることから城山を築いたのは三好氏だったとしても直光の時代には亀山城の支城となっていたと思われます。

三宝寺からなだらかな尾根道を北に向かうと馬場と呼ばれる細長い曲輪が広がり、そこから数分で城山から西にのびる尾根の付け根に到着。まず西尾根の先の竪堀(堀切?)を確認してから城山の主郭部へ。城山と西尾根の間には堀切が設けられていますが、戦時中の防空壕により大きく改変されているようです。主郭部の外周には西辺から北辺にかけて二段の帯曲輪がめぐり、帯曲輪の北斜面には竪堀と竪土塁が見られます。竪土塁から主郭北西下の曲輪を経て主郭へ。どちらの曲輪も周囲を土塁が囲んでいますが、木々が生い茂っていて曲輪内さえほとんど見通せません。主郭南辺の大きな土塁を回り込んで南下の曲輪に下りると一段と藪が激しくなってきましたが、この先に南尾根の三重堀切があるはず! とかすかな踏み跡を頼りに藪を突破した先は……さらなる藪でした。一応、一条目の堀切と土橋は確認できましたが、藪に沈んでいてほとんど見通せません。それでも気力を奮い起こして残る二条の堀切を確認しようとするも、鋭いトゲトゲの木(タラの木?)の群生に行く手を阻まれて気力が尽きました…。

三宝寺まで戻って、今度は本丸へ。尾根伝いの道を南に進み、舗装道を越えて民家の倉庫裏手の藪に埋もれた道を登って行くと本丸に至ります。本丸は主郭の周囲に曲輪群を配した造りですが、すっかり竹藪と化していて見通しがきかないばかりか、まともに歩き回ることもできない状態で、何とか主郭南部の虎口だけは確認したものの、城山で気力を使い果たしていたためこれ以上竹藪を探索する気になれず、キンヤさんの投稿にある石積みは見逃してしまいました。

先人方の投稿で藪の中は承知していましたし、必要とあらば藪漕ぎも辞さず! のつもりで臨みましたが、城山、本丸とひたすら藪が続き、遺構もよく見えないとなると、さすがに心が折れますね。もう少し整備されれば見どころはあると思うんですが…。

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トク

地震

私もニュースを見てびっくりしました。
5年前の地震から未だ復興途中の熊本城を見ているので本当に地震は怖いと思いました。遠い九州の地から、一日も早い復旧をお祈りいたします。(写真はニュース映像より抜粋したものです)

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小荷駄

松尾山城 (2022/03/11 訪問)

関ケ原駅から徒歩20分~25分程で駐車場です。駐車場の大きさはあまり大きくはありませんでした。6~7台程停めれると思います。トイレは駐車場から徒歩5分程名神高速を潜った先にあります。駐車場から徒歩40分位で主郭に着きました。登山道は整備されていて歩きやすくとても良かったです。当日は主郭からの眺望は良く関ケ原方面を一望出来ました。此の場所で合戦当日小早川秀秋さんはどれ程悩んだのかと想うとなんともいえない気持ちになりました。主郭南側の枡形虎口に暫し見惚れてしまいました。ほかにも見応えのある遺構がいくつもあり大変満足いく一日になりました。主郭西側の曲輪とその南側の曲輪は残雪の為に行けず次回に持ち越しとなりました。帰りにはまつのやさんにてお菓子を買って帰りました。

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赤い城

再訪することもないけれど (2022/03/06 訪問)

以前訪問したけど近くを通ったので再訪。
わざわざ行くことも無いと思います。
跡地は遊具のある公園になっていて、入口に重厚な黒い石碑があります。
子供達が遊ぶ公園には似つかない感じですね。
横田越中守頼業が築いた城で五稜形の城郭だったとされます。
遺構は残っていません。

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じゅんじん

公園 (2022/02/27 訪問)

城址碑見逃した!!
現場集合前に行ったので公園見て満足しちゃってました。

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