那波城は昌雲寺の北側、伊勢崎市立第二中学校の西側にあったとされ、石碑が田畑の中に残っています。
さらに西に行った先の名和小学校にも石碑と案内板がありますが、いずれも遺構は残っていません。
城主の那波氏は大江広元の子、政広を祖としています。この那波氏とは別に藤原秀郷系の那波氏が佐波郡玉村町に
いるようです。永禄3年(1560)上杉政虎が那波城を攻め降して、北条高広を置いたとされます。
那波宗元は嫡男次郎を人質として本領を安堵、まもなく亡くなり、次郎顕宗が継ぎ、高広の妹が室になったと言います。
天正6年(1578)顕宗は北条氏(小田原)に従い北条高広の攻撃をうけますが、これを撃退します。
天正15年安芸、原因は不明ですが那波城は小田原北条氏に占拠され、顕宗は上杉景勝を頼り、天正18年奥州九戸で討ち死にしたと
有ります。後に那波城城代、大和晴親は小田原攻めに際し、秀吉軍に降伏しています。後に関東に入封した徳川家康によって
松平家乗が一万石で入りますが、慶長6年(1601)廃城となりました。
※参考資料・日本城郭大系・第四巻
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