遺構は見当たらず、幼稚園・中学校・畑などに変わっている。本丸跡碑の北西に飯玉神社があり、鳥居の南へ行くと名和小学校敷地内に、那波城址碑と設置経緯を記した説明板がある。本丸跡の碑の一帯は、畑・幼稚園・中学校になっている。諸先人の記録を参考にさせて貰うと、南東に昌雲寺が建ち、周りを堀で囲んだ一郭を構成していたようだ。大きな城址碑の建つ名和小学校辺りまで城域だったのだろうか。
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2024/09/25 09:35
2024/08/18 07:45
2023/08/31 21:14
今は田畑に石碑が残る。 (2023/05/01 訪問)
那波城は昌雲寺の北側、伊勢崎市立第二中学校の西側にあったとされ、石碑が田畑の中に残っています。
さらに西に行った先の名和小学校にも石碑と案内板がありますが、いずれも遺構は残っていません。
城主の那波氏は大江広元の子、政広を祖としています。この那波氏とは別に藤原秀郷系の那波氏が佐波郡玉村町に
いるようです。永禄3年(1560)上杉政虎が那波城を攻め降して、北条高広を置いたとされます。
那波宗元は嫡男次郎を人質として本領を安堵、まもなく亡くなり、次郎顕宗が継ぎ、高広の妹が室になったと言います。
天正6年(1578)顕宗は北条氏(小田原)に従い北条高広の攻撃をうけますが、これを撃退します。
天正15年安芸、原因は不明ですが那波城は小田原北条氏に占拠され、顕宗は上杉景勝を頼り、天正18年奥州九戸で討ち死にしたと
有ります。後に那波城城代、大和晴親は小田原攻めに際し、秀吉軍に降伏しています。後に関東に入封した徳川家康によって
松平家乗が一万石で入りますが、慶長6年(1601)廃城となりました。
※参考資料・日本城郭大系・第四巻
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分類・構造 | 平城 |
---|---|
築城主 | 那波宗俊 |
築城年 | 天文年間(1532〜1555) |
主な城主 | 那波氏 |
遺構 | 消滅 |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 群馬県伊勢崎市堀口町 |