なわじょう

那波城

群馬県伊勢崎市

別名 : 堀口城
旧国名 : 上野

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飯玉神社 参道
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イタさん

遺構は畑・学校 (2024/09/23 訪問)

遺構は見当たらず、幼稚園・中学校・畑などに変わっている。本丸跡碑の北西に飯玉神社があり、鳥居の南へ行くと名和小学校敷地内に、那波城址碑と設置経緯を記した説明板がある。本丸跡の碑の一帯は、畑・幼稚園・中学校になっている。諸先人の記録を参考にさせて貰うと、南東に昌雲寺が建ち、周りを堀で囲んだ一郭を構成していたようだ。大きな城址碑の建つ名和小学校辺りまで城域だったのだろうか。

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todo94

お盆の攻城① (2024/08/15 訪問)

お盆の帰省に合わせて15日の午後、太田献血ルームに献血の予約を入れておきましたので、周辺の城めぐりも計画に入れました。山城が一つもなかったのは幸いです。まずは東毛地域に向かう途中で伊勢崎市の那波城に立ち寄ります。名波小学校前でネット越しの城址碑と説明板をチェック。本丸は東方にあった旨記載されているのは、ありがたい限りです。伊勢崎市立第二中学校前には城址碑のみが建っています。

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しんちゃん

今は田畑に石碑が残る。 (2023/05/01 訪問)

那波城は昌雲寺の北側、伊勢崎市立第二中学校の西側にあったとされ、石碑が田畑の中に残っています。
さらに西に行った先の名和小学校にも石碑と案内板がありますが、いずれも遺構は残っていません。
城主の那波氏は大江広元の子、政広を祖としています。この那波氏とは別に藤原秀郷系の那波氏が佐波郡玉村町に
いるようです。永禄3年(1560)上杉政虎が那波城を攻め降して、北条高広を置いたとされます。
那波宗元は嫡男次郎を人質として本領を安堵、まもなく亡くなり、次郎顕宗が継ぎ、高広の妹が室になったと言います。
天正6年(1578)顕宗は北条氏(小田原)に従い北条高広の攻撃をうけますが、これを撃退します。
天正15年安芸、原因は不明ですが那波城は小田原北条氏に占拠され、顕宗は上杉景勝を頼り、天正18年奥州九戸で討ち死にしたと
有ります。後に那波城城代、大和晴親は小田原攻めに際し、秀吉軍に降伏しています。後に関東に入封した徳川家康によって
松平家乗が一万石で入りますが、慶長6年(1601)廃城となりました。

※参考資料・日本城郭大系・第四巻

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赤い城

田んぼの傍らに石碑がポツンと (2022/10/01 訪問)

名和幼稚園の近く、田んぼの傍らに石碑が立つのみ。
遺構はありません。
那和氏によって築かれたと言われています。
西側の少し離れた場所にある名和小学校にも石碑と説明板が立っていました。
こちらにも遺構はありませんでした。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 那波宗俊
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な城主 那波氏
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板
住所 群馬県伊勢崎市堀口町