畑城主の奥田氏は、大和に進出した松永秀久に仕え、最後は徳川幕府の旗本になったと。
伊賀盆地から大和高原に入り、まだ奈良盆地は遠いが、松永の支配地域なんですね。伊賀は小豪族の集合体であったせいでしょうか。
畑城の北西の高校の脇から上がって行くルートと城の南側を回り込んで行くルートがありますが、城域に登り始める登城口は一つです。登山口と書かれた矢印のところから尾根を登って行きます。説明板にあるように規模は大きいです。
大和高原は、奈良県東北部の高原地帯の総称であり、北から、笠置産地、宇陀山地、室生山地を含みます。笠置城の下を流れる木津川を南に渡ると、標高200〜500mの高低差が少ない丘陵地帯が、奈良盆地と伊賀盆地の間に拡がります。奈良盆地の標高は100m以下、伊賀盆地の標高は200m前後なのでけっこうな比高があります。ここも吉備高原と同じく、一旦平坦になった土地が隆起した準平原と。吉備高原と違い、大きな川が無いので、小さな川が小さな盆地を断続的に作っています。そして、これらの盆地を支配する豪族の城が点在します。
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