吉崎御坊からの転戦です。県道109号線沿空スペース(36.211196、136.203928)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、堀江氏によって長禄年間(1457~60年)築かれたと云われています。
堀江氏は鎮守府将軍藤原利仁の後裔で、齋藤氏の流れを汲み、利仁より九世の孫實嗣のときに越前国坂井郡堀江郷より、堀江を名乗ったと云われています。
当初は番田に館を構え、細呂木郷・本庄郷・荒居郷に広く公文職を有した有力な勢力でしたが、長禄年間に越前守護の斯波氏と守護代甲斐氏・朝倉氏との内紛で守護方に味方して敗北し、衰退すると朝倉氏に従いました。
1506年(永正3年)加賀一向一揆宗徒との九頭竜川の合戦には堀江景実が参陣しています。その後、堀江氏は本拠を一向一揆に対応するために番田から下番に館を移したと云われ、それがこの下番の堀江館です。
1567年(永禄10年)堀江氏が秘かに一向一揆と結んで朝倉氏に背くとの風説が広まり、これを聞いた朝倉義景は魚住備後守景固と山崎長門守吉家を大将として堀江氏を攻めさせます。
このとき朝倉方は溝江館に本陣を置いて堀江景忠父子を攻めたが、堀江氏も巧みな戦術でこれを撃退し、最終的に和議となって堀江父子は堀江館を出て能登国熊木へ隠棲しました。
朝倉氏が織田信長に敗れて滅ぶと、1575年(天正3年)堀江藤秀(景忠を改名)は加賀一向一揆とともに越前に舞い戻り、溝江館の溝江氏を攻めて滅ぼすと、秘かに織田氏に通じて海神城主となり、名を岡部に改めました。
織田信長は藤秀の戦功を賞して、息子の利茂に加賀大聖寺の所領を与えましたが、藤秀は恩賞に不満をもっていたらしく、それが信長の耳に入り翌年に誅殺されたそうです。
番田の堀江館は番田駅の南東一帯に築かれていたそうですが、現在は遺構はなく道路脇に「堀江公番田館跡」の石碑などが建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=丸岡藩砲台に向かいます。
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