岩門城①の続きです。
北の曲輪に着くとここからは福岡市内が一望できました(写真①②)。ここは見張台だったと思われます。市街地の先には博多湾、左に能古島、中央に志賀島、右に立花山(立花城)まで見えました。そして帰りは、行きと異なり高津神社の方を経由して鳥居をくぐる石段を下りて帰りました。高津神社は前回お伝えした、安徳天皇を匿った原田種直が建てた神社のようです(写真④⑤)。
二度の元寇を命がけで戦い、見事勝利したにもかかわらず、九州の御家人たちには恩賞が与えられませんでした。小弐景資は安達泰盛とともに鎌倉幕府に直談判します。しかし1284年執権北条時宗が死去すると、北条得宗家は鎌倉にて、目障りとなった安達泰盛を殺してしまいます(霜月の乱)。
同じ頃、父の小弐資能が死去すると、兄経資(つねすけ)と弟景資(かげすけ)の間で家督争いが起きます。弟景資の方が人気実績とも圧倒的であったため、兄経資はそれを妬みます。この時、安達泰盛が殺された事を知った景資は仇を討つため、肥後の守護であった泰盛の子安達盛宗とともに挙兵し鎌倉へ向かおうとしました。それを知った北条得宗家は家督争いに目をつけ、肥前守護の北条時定に兄経資と手を組んで岩門城を攻め落とすよう命じ、そして兄経資は弟景資を討ち取りました(岩門合戦)。敵は北条得宗家であったにもかかわらず、まさかの兄に殺されるとは、景資はさぞかし無念だったでしょう。その景資が討たれたとされる場所には墓が立てられていました(写真⑥⑦⑧)。裂田溝公園と高津神社の途中の少し入った所にありました(標識あり)。
「小弐景資・安達泰盛・竹崎季長」、元寇で最も活躍し、日本を救ったこの3人のヒーローたちは、一体何のために戦ったのでしょうか? 小弐景資の墓の前に立つと、あまりにも可哀そうに思えてなりませんでした。
もしよければ、私の過去の投稿(竹崎城・元寇防塁)もまた見て頂き、彼らの活躍を思い出していただければと思います。『みんなの投稿→竹崎季長』で検索して下さい!
次は、その後の兄経資と小弐氏の栄枯盛衰(浦ノ城)に続きます。
+ 続きを読む