埴生城に引き続き神尾山城に行ってみた‼️
今回は夕方ではなく日中からの登山で余裕があった。
光秀の配下に加わった野々口西蔵坊は今も曲輪の南端に鎮座する金輪寺の修験僧であったとされる。歴史資料の確認はないが、地元には光秀と波多野に一族が分かれ味方したという伝承があるようだ。
金輪寺の東側を進むと歴代住職の墓所があり、ここから登って行く。
墓所の西方にも比較的大きな曲輪が2つあるがブッシュで行きにくい…てか分かりづらく行きたくない感じ。
登山道の西側に2、3曲輪を横目に登ると天頂部だが本丸は最北部なのだろうか。天頂部には南側と東側に曲輪が連坦しているが、東側は展望台などと謳っているが何も見えませぬぞ(;゜0゜)
地図には天狗岩との記載もあるが相変わらず分からない。
南北に伸びた雛壇状の曲輪群は亀岡盆地の西端に位置し、北からの波多野と東からの内藤の動きを押さえるにはうってつけで、能勢からの動きも掌握できる要衝の地にある。
破れた波多野兄弟が送られる際に留め置かれたと言われる場所で、埴生城と二本拠地化していたものと思われるが、その後は何故埴生城へと移ったのか。街道町の発展度合いが影響しているのだろうか。
それと、丹波の山城に共通する若干の石垣がどの時代のものかということ。光秀統治後とは言いきれないひょっとしたら感が楽しい。
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