池田宗家?天城池田家、由之・良成父子の思いを偲び天城陣屋探訪を終えて、東へ約18km程に在る八浜城(両児山城)に向かう、ナビは八浜城山腹にある駐車場に合わせ、同駐車場を利用、8台位は駐車可能かな? トイレ有り 中腹まで車で行けて大変ありがたい。
ガイドと情報は城郭放浪記さん、同縄張図、グーグルマップに依る。
八浜城の別称両児山城に有る様に、北と南に峰が有り遺構が有る、児島湾児島湖に面した独立丘陵で北と西は湾、湖に面して、東、南防御の構えに成って居る。
駐車場から南側南城へ入口に神社跡鳥居が有り、舗装されて道が頂上へ主郭の様ですが左右に墓石が並んでいる、八千浜城跡の城名石碑裏に碑文が有る、南一段下がって東屋、公園と成って居る、南に降りると東西に堀切、堀切を先端に南側から東側に掛けて食違いや高低差のある横堀が続いている、縄張図に畝状竪堀が記されて居り良く観ると横堀土塁下に畝状竪堀の痕跡が見て取れる、笹や樹木が有り良くは分からないが目視では確認できるが写真を見ると分かりずらいですが、ここ一番の見所です。
南城を降りて北へ、北側北城は入口に神社鳥居が有り階段と脇スロープ道が有る、スロープ道を登り東西に堀切、堀切上に現在は神社参拝階段が有り土橋階段の様、頂上には八幡宮、快神社が鎮座して居り北端からは児島湾児島湖の眺望が良く俯瞰できる、縄張図に北城東側にも畝状竪堀群が記されているが樹木深く良く観えない、深く観察して無いのかも?
碑文によれば 八浜城、両児山城、児島地方は戦国時代の末頃、織田・毛利両軍の衝突地点であった、天正九年春(1581)毛利の大軍が麦飯山城を中心に陣を張った、時に岡山城では宇喜多基家が城主直家の死を秘して、自から親衛五百を率いて当城に入り毛利軍と対陣した、八月二十一日大崎の柳畑から八幡社付近で合戦し、城主興太郎基家は討死したが有名な七本槍の働きによって、さすがの毛利の大軍も引きあげ、翌十年豊臣・毛利の決戦、高松城水攻めへの前哨戦となった因縁の城跡である。(昭和41年12月建之)
(一部読み取りにくい所も有り抜粋して居ます)
この後、南西に約24km程のJR児島駅に向かい、JRで瀬戸大橋線を渡り高松城復元桜御門見学へと向かいました。
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