勅使館を終えて北陸路6番目北北東に約10km程の御幸塚城別称今江城を初登城しました。
駐車場:今江小学校西から廻り込み児童クラブ駐車場3台可を利用(36°22'48"N 136°26'11"E h=20m?)。
参考資料:余湖図コレクションさん城郭放浪記さんグーグルマップに依る。
駐車場はグランドの西端、校庭グランドの南に小高い城域が樹木に囲まれ覆われて残って居ます、余湖図コレクションのラフ図を頼りに2の曲輪の亀鹿公園側から登城開始、本曲輪の切岸の階段を登り本曲輪内部へ北から南にスロープ状に下がっている、本曲輪北東部に櫓台が有り「今江城址」石碑がある、城址碑名は元首相の岸信介記と成っていた、この辺りは森元総理の地元で有り派閥の繋がりが有ったのでしょう。櫓台北下には聖徳太子三尊像が立っている。本丸には遊戯器具が有るが現在使用不可に成っていた。ポールを挟んで北東側の高台に3の曲輪で現駐車場に成っている。
北の校舎とグランドも含めて城域だったのでしょう、小高い小山を削って小学校を建てたようです。
丁度時間はお昼を終わって児童がグランド、城跡の小山を駆け回って居ました、皆に「こんにちわ」と挨拶されまくり、また西4~5km程に航空自衛隊小松基地があり、訓練か?、実践か?戦闘機の飛び交う爆音が響き渡って居ました。
今江城址の側面の碑文には、今江城は御幸城とも呼ばれていた平山城である。初め富樫高家が築城し後に野々市に移るや一向一揆の拠点となっていた、織田信長がこれを攻略して佐久間盛政らお城主たらしめが本能寺の変の時に又もや一揆が占領した。よって豊臣秀吉が来攻して陥落せしめたり、浅井畷合戦の時には前田家の一部隊がここに陣していた歴史も有る。昭和51年8月29日 小松市文化財調査委員長 川 良雄 記 と記されていました。
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