太宰府からの転戦です。路側帯(33.525720、130.519903)に路駐し、登城口(33.526079、130.519909)に向かいました。
登城口と道路を挟んで南に100mくらい降りると「高橋紹運公の墓」があります。
築城年代は定かではないようですが、天文年間(1532年〜1555年)に高橋鑑種によって築かれたと云われています。
高橋鑑種は豊後の大友氏の庶流一萬田氏より、筑前国高橋氏の家督を継いだ武将で、筑前国守護代として宝満山城と岩屋城の城督を務めました。
高橋鑑種は武勇に優れた武将でしたが、永禄年間(1558年〜1570年)に大友氏を離反して毛利氏に付きました。
しかし、1569年(永禄12年)毛利氏は山陰で尼子残党が挙兵したこともあって九州から撤退しまする。
これにより、後ろ盾を失った高橋鑑種は大友氏に降り、鑑種は高橋家の家督を剥奪されました。替わって吉弘鑑理の子の高橋鎮種(のちの高橋紹運)が家督を継ぎましだ。
1586年(天正14年)薩摩の島津氏が北上してくると、岩屋城には高橋紹運、宝満山城には紹運の次男で筑紫広門の娘婿である高橋統増が筑紫氏の家臣とともに籠城しました。
岩屋城では壮絶な戦いの末に、高橋紹運以下籠城兵数百がことごとく討死しました。
その後、秀吉の援軍が九州に来襲した報を受けた島津氏は城を秋月氏に預けましたが、立花山城の立花統虎によって奪いかえされ、1587年(天正15年)破却された。
本丸には「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑があり、北背後に土塁と堀切が残っています。
本丸からの眺めはいいですが、当日は強風の為、写真はブレまくり何枚も写真を撮りました。
高橋紹運公の墓に行きましたが、綺麗に整備され地元の方に愛されているのが、よくわかります。
信長の野望での高橋紹運は戦闘能力が非常に高く、島津軍5万の軍勢を居城にて7百の兵で遊撃、敵兵多数を道連れ玉砕した話は有名です。
高橋紹運の息子である立花宗茂も知勇兼備の武将です。息子の方がちょっと有名ですね。
攻城時間は20分くらいでした。次に高鳥居城&稲居塚城を攻城する予定でしたが、遠征疲れもあり、ここで遠征を終了することにしました。
よって、今回の遠征(対馬/五島/福岡/佐賀/熊本)は、ここがラストになります。
レンタカー返却時間まで、かなり時間がありますが、レンタカー返却の為、西鉄久留米駅に向かいます。
その後、博多に向かい、お土産を購入(遠征を許可してくれた妻へ)&食事をして、福岡空港から千葉の自宅に戻ります。
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