ふなやまじょう

船山城

長野県下伊那郡


旧国名 : 信濃

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堡塁石積み跡
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ぴーかる

最奥の出丸跡まで行きましょう (2024/04/20 訪問)

【船山城】
<駐車場他>御射山神社前に神社駐車場3台分あり。
<交通手段>車

<見所>堀切・石垣
<感想>日帰り飯田・伊那地方河岸段丘平山城の旅7城目。現地説明板によると船山城は平安時代末から室町時代末に至る四百余年にわたり、伊那地方に栄えた片切氏によって築造されたものであり、1582年織田氏の侵攻によって落城するまでの間、片切氏の本拠地となっていた所である。また松川町のホームページによると、城は室町時代以降に南東方向の尾根上部分の曲輪群と広大な平坦地の削平地は別々に築造されたようです。
 城跡は西の主要部の丘城部分と南東方向に船山である尾根上の連段曲輪の2局の構造に分かれます。主要部の部分は西の御射山神社西側に堀切があり遮断しています。主要部中心部に幅広の空堀跡があります。松川町のホームページには主要部にある石垣について記述がないので後世のものと思われますが、西端の獣柵の外側の下の方、竹藪まで石垣が残っているので、当時のものを利用していると期待したいところ。船山である尾根上連段へは果樹園の東のドン突きまで行くと獣柵ゲートがありますので開けて山に入ります。ゲートを開けるとそこが堀切になっていて、右手の尾根上に登ります。大きく深い堀切が2条あり、堀切前の土塁が虎口か何かの遺構で巨岩石積みが崩れたように見受けられました。見応えのある堡塁です。東端の出丸跡は広く、北面に虎口跡があり石列が残っています。
 河岸段丘の城は、川側の周囲が谷の深い先端部に主郭を置いている城跡が多かったですがこの船山城は丘陵地の手前側に主郭を置いています。御射山神社の西の堀切は現在改変されていて、貯水池があったり、住宅地になっていたりしているので堀の規模は想像がつかないが、西側に広大な丘陵地が広がっているので、攻め込まれると結構イケイケな感じを受けました。

<満足度>◆◆◇

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刑部

枝垂れ桜 (2024/04/15 訪問)

一本の素晴らしい名前のついた枝垂れ桜が見事でした!

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しんちゃん

中世前期、後期の縄張りを残す城 (2023/11/12 訪問)

船山城は天竜川の支流と、同じく天竜川の支流である片桐松川に挟まれた河岸段丘の先端地に築かれています。南北朝時代に北朝方であった片桐氏の城で、天正10年の織田信長の信濃侵攻時に城主・片桐正忠は討死したと伝わります。先端部の遺構が多く残る部分は中世前期の城で西側の広大な果樹園から御射山神社、瑞応寺に至るあたりが中世後期の城とされています。おそらく通常は後期の城に住み、有事の際に前期の城を詰めの城にしたのではないかと考えます。果樹園を丘陵の先端部に向かって東に進むとゲートがあるので、そこから中に入ります。詰めの城は4つの郭から成り、郭の間を堀切で遮断し、土塁が一部残ります。尾根先をまっすぐ進んでいく形になりますが、郭の間に高低差もあり端部を石垣で補強してあるのであなどれない防御力を備えています。いくつか堀切をわたり詰めの城の最東部にたどり着きます。詰めの城としては十分な広さがあり、十分主郭の雰囲気を漂わせています。織田氏の侵攻時には最後にはここに籠って戦ったはずなので、詰めの城の最東部が落城時の主郭であったであろうと推測します。そう思うと神妙な気持ちになり一礼して主郭を後にしました。
補足‥漢字で「4つ」と入力するとエラーが出ます。ちょっとAIが過敏に反応し過ぎですね。数の入力もできないのはどうかと思います。

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ほりーないと

【城と標柱】 (2022/04/10 訪問)

畑の中(Ⅱ郭)にある「船山城 本丸趾」標柱

史料がほとんど存在しないため、確かなことはわからないそうです。山城と丘城の二つの構造を持ち、大きく二時期にわたって築城されたと考えられています。

標柱があるⅡ郭は、第二期の本丸だと考えられています。

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城郭情報

分類・構造 連郭式平山城
築城主 片切氏
築城年 不明
主な城主 片切氏
廃城年 天正10年(1582)
遺構 曲輪、堀切
指定文化財 県史跡(船山城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 長野県下伊那郡松川町上片桐/上伊那郡中川村他
問い合わせ先 松川町商工観光係
問い合わせ先電話番号 0265-36-7027