日宮城からの転戦です。石碑説明板付近(36.777109、137.089987)に路駐し、石碑と説明板の写真を撮った後、放生津台場を攻城する為、放生津八幡宮駐車場(36.780288、137.094021)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代末期に越中国守護名越氏が置いた越中守護所が始まりのようです。
室町時代には守護畠山氏の守護代神保氏の入城しました。1493年(明応2年)明応の政変で自害した畠山政長の重臣であった神保長誠は、政変で幽閉された十代将軍足利義材(よしき・義伊・義稙)を迎え、上洛のための諸準備を進めます。
義材は放生津に幕府政権を樹立し、京都の幕府重臣細川政元と対峙しました。義材のもとへ公家、大名が出仕し、禅僧、歌人ら多くの文化人も訪れ、放生津は北陸の政治・経済・文化の中心として栄えました。
1520年(永正17年)神保長誠の子慶宗が越後守護代長尾為景(上杉謙信の父)の攻撃で落城し自害し、神保氏は拠点を富山城に移しました。
その後神保氏により再建され、加賀前田氏の武将が城代となったが、江戸時代初期に廃城となりました。城跡は畑とされ、江戸後期に加賀藩前田家の米倉が設けられたそうです。
現在の放生津城小学校一帯が城址で、小学校北側の道路沿いに案内板があります。
放生津台場(城びと未登録 富山県射水市)
1850年(嘉永3年)加賀藩によって築かれました。 加賀藩主前田斉泰が台場を見分したとき、放生津八幡宮に参拝したそうです。
放生津台場は放生津八幡宮境内付近に築かれていたそうです。
境内の北側にある「奈呉之浦」の碑が建っている所が台場の土塁跡だそうです。
現在境内の東側から北側にかけて土塁らしき境界があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=古国府城に向かいます。
+ 続きを読む










