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刑部

島だった城址 (2022/05/02 訪問)

海に浮かぶ小さな島全体が城址、大友宗麟時代に丹生島城として築城で四方に海に囲まれた海城。今は埋め立てられているので当時の面影は薄いですね。残念ながら正面虎口の古橋からは通行止めなので入れませんでしたので攻城風に訪問は出来ませんでした。

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ぴろちゃん

迷路の先には…… (2022/06/02 訪問)

カーナビに名前で出てこないので、画面上の三神社で設定しました。驚くぐらいの細い道をクネクネとホントにここか?と思いながら進んだ先に、立派な城跡がありました。近所の方々は、毎日石垣を眺め、太鼓橋を渡っているのを羨ましく思いながら帰路につきました。くしくも本能寺の変の日に、高松城水攻め関連のお城に行けて、よかったです。庭瀬城にも寄りましたよ。

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AJ

ギョーザ、かぶと揚げ、吊り天井 (2022/05/04 訪問)

どうやら事件らしい。「餃子の町」として散々PRしてきた宇都宮は昨年、一世帯あたりの購入額が全国3位にまで後退したとのこと(1位宮崎、2位浜松。総務省家計調査)。某テレビ番組はさっそく、ギョーザ以外の地元ソウルフードとして「かぶと揚げ」(鳥の半身揚げ)を推し始めていた。

が、ちょっと待て。私の中では宇都宮といえばギョーザ以前から「吊り天井」、、。うん、賛同ないね。

驚天動地の大事件が起きたのは1622年。幕府最高幹部のひとり、本多正純(父は徳川家康の参謀・本多正信)が宇都宮城内に吊り天井を仕掛けて、2代将軍・秀忠殺害を目論んだという疑惑が浮上したのだ。「罪」に問われた正純はその後、改易されてしまう。

そもそも城に吊り天井などなかったというのが今日の結論。疑惑は権力闘争の果ての陰謀で、ねつ造と考えられている。しかしながら、当時はかなり巷の話題をさらったようで、口談や歌舞伎の演目として頻繁に取り上げられた。ただしここでは将軍は秀忠ではなく3代家光だとされ、単純に正純の悪事として処理されることが多い。

父同様、家康の懐刀と目された正純。それほどの人物に付け入る隙なんて本当にあったのだろうか、というのが素朴な疑問。ひとつ推測するとすれば、それは大規模な城の改修と関係しているのではなかろうか。

15万石超で宇都宮入りした正純は城域を拡張。水堀を巡らし、土塁を高く積んで近世城郭化した。本丸に天守はなく、御殿のほかは空白地が多い。おそらく将軍の日光社参に不可欠な設備を整えるためのもので、吏僚派トップとしてはしごく当然な働きだったように思える。ところが、もともと秀忠周辺との折り合いが悪いところにこの大改修が加わり、「宇都宮に不審あり」との疑惑に発展した可能性は考えられないだろうか。

さて、そんな正純を偲びながら縄張りを綿密にトレースしたいところだが、全くの平城だったためか、城跡はかなり市街地化が進んでいる。こうなるともう絵図片手に歩き倒すしかない。もし挫けそうになったら、ひとまず本丸に戻るのもよい。2007年に復元された土塁や土塀、二基の櫓(清明台と富士見櫓)を眺めていれば、おのずと体力も想像力も回復するだろう。

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小寺氏の城 (2022/06/02 訪問)

 JR御着駅より徒歩10分くらいで行くことができます。石碑や案内板があります。

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龍野古城 (2022/06/02 訪問)

 龍野城から上がっていくルートもありますが、紅葉谷ルートで行ってみました。紅葉谷から徒歩にて上がっていくと途中、鳥ヶ撓番所跡や侍屋敷の蹲いなどを見ることができます。道は舗装されて歩きやすい道です。鶏籠山と的場山方面と分岐する場所があり、鶏籠山(龍野古城)へ行く道を選択すると主郭等には上がっていきますが、主に下って城址を散策することができます。曲輪や石垣、土塁、竪堀などを見ることができます。よく整備されていて歩きやすく、この日も落ち葉を風で飛ばす機器(すいません 名前を知りません)で落ち葉を除去して道を確保されている方がいました。藪もなく、この時期でも遺構を確認することができます。縄張り図を見ると少し離れたところに竪堀があるようですが、よくわかりませんでした。
下まで降りて行くと龍野城となります。

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ryu

古代山城基肄城探訪と丸幸ラーメン (2022/05/28 訪問)

JR基山駅から10分ちょっと歩いて続100名城スタンプが置いてある基山町民会館着。ここでスタンプを押して、さらに登山口の水門跡まではダラダラ登りのロード歩きで30分くらい。
水門跡を見学し、階段状に整備された急な登山道を山頂まで登る。山頂から戦国時代の山城に付随する4本の連続する堀切「いものがんぎ」~北峰~東北門跡~つつみ跡~米倉礎石群と基肄城の遺構を見ながら時計回りに周回し、水門跡に戻る。
帰りは、丸幸ラーメンセンターに立ち寄ってラーメンを食べ、JRけやき台駅まで歩く。

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脇坂氏の城 (2022/06/02 訪問)

本丸御殿、城門、模擬櫓などが 再建されています。市内の寺に移築門があるとのことでしたが、今回は行っていません。

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零汰

終活2:100城・続100、城郭巡りの記録:近畿・東海・四国 6日目

城郭巡りの人間は、100城・続100城を巡る事は義務なのか?そんな疑問を求めて巡る終活シリーズ2。

この日は朝から曇天、今にも振り出しそうだった。本来はパールラインを走りたかったが致し方無い、本日も終日城郭巡り。北畠氏館の裏側に霧山城があるとは知らなかった、時間を短縮出来たので100城・続100城の縛りを中断して登城。自分の好みの城郭だった、登城してよかった。

5月21日(6日目)
1.津城(三重)・・・・・・・計測無し
2.松坂城(三重)・・・・・・45分:1.5km
3.田丸城(三重)・・・・・・1時間:1.6km:累計高低差112m
4.北畠氏館・霧山城(三重)・2時間10分:3.1km:累計高低差327m
5.赤木城(三重)・・・・・・40分:0.7km:累計高低差73m
6.新宮城(和歌山)・・・・・30分:0.8km:累計高低差66m

霧山城以外は100城・続100城です。詳細は諸先輩方のレポートをご覧ください。

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刑部

ずっと来たかった城址 (2022/05/01 訪問)

私の好きな戦国武将の1人、立花宗茂の居城。1度は訪れようと思っていた城址です!予想通り遺構は余り残されていませんがここに来たということだけで胸がときめいてしまいます。知らずに微笑んだ顔して城址をウロウロ、もうここにいるだけで充分満喫してしまいました。

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第5回】勝龍寺城  (2022/05/08 訪問)

(第4回「本能寺」からの続きです)

天正10年(1582年)6月2日、本能寺で信長を討った光秀は、同日いったん坂本城に入り瀬田唐橋の修理を待つ2日間に近江を平定、そして5日に安土城に入ります。7日には朝廷よりの勅使(吉田兼見)を迎え京の治安維持を要請されます。9日には京に入り朝廷と面会(返礼として銀500枚を渡す)。しかし翌10日には秀吉が毛利と和睦してこちらに向かって来ている(中国大返し)すでに尼崎付近まで到達しているとういう報が受け、その予想外の早さに戸惑いますが、山崎の地で秀吉を迎え討つ事に決めた光秀は6月12日に京を立ち勝龍寺城へ入りました。

勝龍寺城は、以前は細川藤孝が城主の時に信長の命で軍事的に改修された城で、藤孝の嫡男「忠興」と光秀の三女「玉(珠)」(後のガラシャ)が婚礼を上げた場所としても有名です。そして二人は丹後宮津へ移るまでの2年の間、仲良くここで新婚生活を送りました😊。城内には二人の銅像も立っていました(写真⑤⑥)。細川の旗(藤色に九曜紋)と明智の旗(青に桔梗紋)を背景に無数の鉄砲狭間が並ぶ光景は、何か身が引き締まるような緊張感を誘う城ですね(写真③④)。

信長の遺体が見つかっていない事を逆手にとり、大坂で織田信孝と合流した秀吉は「まだ信長様は生きておられる」とデマを流し「信孝様とともに謀反者光秀を討つべし」と味方を募ります。これを信じた光秀与力の諸将(高山右近、中川清秀、池田恒興、(筒井順慶))が寝返り秀吉につくという誤算が起きてしまいます(順慶は動かず籠城)。また、北陸の柴田勝家のもしもの南下に備え、明智秀満の軍勢を安土に残さざるを得ないなどの状況も重なります。さらに最大の誤算は、最も頼りとしていた細川藤孝が剃髪して幽斎と名乗って仏門に入ってしまい、忠興とともに丹後から一歩も動かなかった事です(玉は幽閉される)。もう秀吉軍はすぐそこまで迫ってきています。光秀はこれらの報告をこの勝龍寺城で聞き、圧倒的な兵力差となってしまった事を悟り、もはや最期の戦になるかもしれぬ覚悟を決めざるを得なくなってしまいました。


私は勝龍寺城の天主があった場所に上がり、秀吉がやってくる天王山の方向を、眺めてみました(写真⑦)。 光秀はどんな思いでここにあった天主に立ち、同じようにここから天王山を眺め、明日には始まるであろう秀吉との戦(いくさ)に、どのようにして臨む決意を抱いていたのでしょうか?

(第6回「山崎の戦い」へ続きます)
 

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イオ

惣構めぐり (2022/05/21 訪問)

(続き)

城内を出て南に進み、外堀に設けられていた古世門跡(説明板あり)で東に折れると、かつての外堀沿いに古世親水公園が設けられ、外堀の痕跡を今に伝えています。さらに東に進んで亀山城惣構東端の京口へ。昌寿院(古世城跡)の裏手で年谷川から西に惣堀(の名残の水路)が分岐しているので、惣堀跡をたどってみました。

分岐からしばらくは住宅地が続きますが、坂部公園の奥に惣構の御土居がありベンチが設けられています。御土居の奥は惣堀です。坂部公園の西の聖隣寺には亀山城主・羽柴秀勝(織田信長の四男)が建てた信長の供養塔があるようですが、通常は非公開です。聖隣寺の西側から裏手に回ると惣堀に架かる小さな橋があり、橋の南詰に惣堀の説明板が建てられています。

聖隣寺の西の宗堅寺から嶺樹院にかけての墓地の奥に惣構の御土居が大規模に遺っています。高さも厚みもかなりのもので、おそらく往時の姿に一番近いんじゃないでしょうか。嶺樹院の御土居と惣堀は、西側に回ってスーパーマツモト裏手の駐車場からが見やすいと思います。また、スーパーマツモト西側の駐車場の奥にもブロック塀越しに御土居が見られます。

京町天満宮の児童公園の奥にも御土居が遺っています。正誓寺付近の惣堀に架かる小さな橋にも惣堀の説明板が建てられています。正誓寺西隣の宗福寺の裏手にはL字に折れのある御土居がある…はずですが、正誓寺方向から眺めただけで折れの箇所は見られませんでした
(グーグルマップの航空写真ではL字状の御土居がはっきりとわかります)。

下矢田交差点のあたりで惣堀は北に折れ、住宅地を抜けて穴太口からさらに北に続いています。穴太口の内側では秋葉神社の裏手に惣構の御土居が遺っていました。

…と、この辺で惣構をほぼひとめぐり。惣堀は埋められて名残の水路がある程度ですが、御土居はあちこちにしっかりと遺っていて、なかなか見応えがありました(続く)。
 

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おっちゃん

大胡城想像図 (2017/02/18 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

大垣城絵図・大垣城本丸城郭図 (2014/03/29 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

太尾山城跡概要図 (2017/12/29 訪問)

現地案内板より抜粋。

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朝田 辰兵衛

ヒロシマ・モナムール (2019/11/24 訪問)

G7サミット広島開催決定,おめでとうございます。人類の生存をおびやかしている世界情勢に憂いており,いち早く平和の連帯の強化を祈る昨今です。何かしら,平和宣言的なものが発せられることを願います。

BGMは…「ヒロシマ・モナムール/アルカトラス」でした。

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にのまる

山口城址通り (2022/05/04 訪問)

西武狭山線・下山口駅近くの衣料品店サンキ横に土塁が保存・展示されていました。交差点の一隅、線路や道路、建物が迫るなかで踏ん張る小さな土塁、健気です。
城の推定範囲はかなり広かったようで、山口小へ向かう上り坂は柳瀬川を背にした平山城の記憶を留めているようです。説明板の写真や図がたいへん頼りになりました。
サンキの斜向かいのマクドナルドも城域で、店舗建設時の発掘調査で堀跡や井戸跡の遺構確認、また遺物の発見があったそうです。入口に説明板がありました。
近くにある山口民俗資料館は開館日がひと月のうち4日間で、この日は開いておらず見学は叶いませんでした。
最後の写真、大きなコインランドリーの看板の下にすっぽり収まっている説明板と城址碑もまた、健気です。

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刑部

素敵な城址 (2022/05/03 訪問)

ここの城址は私の中では無知でした、豊臣秀吉の親戚関係にある木下家の城。細川忠興の義兄弟でもあるそうです。石垣は私の好きな野面積みで見事です、天守台から別府湾が一望できます。こんな城址の近くに住んでいたら毎日散歩来る事間違いなし!
案内所では食事や売店などがあり休憩出来ます。

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カズサン

安倍貞任築城伝承のある浮牛城 (2022/05/28 訪問)

 長年探し求めていた陸奥不動堂城がぎりょうさん投稿の鶴頭城が不動堂城であり西館とも呼称されてる事を知り、昨年より今春の城廻りに岩手宮城を当て込んで居ましたが、武漢コロナウイルス新株7波の広がり、連休初めと当て込んで居ましたがカーナビの内臓電池の膨らみ故障で断念、カーナビが入手出来ましたので早速先週末から3泊4日で、浮牛城、不動堂城、桑折城、大衡城、大窪城を目指して高速道北上約800km程、前沢SAで車中泊し北上釣子ICを降り浮牛城を目指し初登城しました。
 登城触発はぎりょうさん投稿に由ります、車は古城盛衰記さん情報の駐車エリヤを利用、登城探訪は余湖図コレクションさんの情報縄張図による。
 
 駐車したエリアが大手門跡桝形の内部でした、そこから丘陵が控え、切岸、本丸が殿と構え一気に胸キュンです、本丸、広い帯曲輪の下が二の丸跡本丸を南、東、北が囲ってる、畑、あぐり夢くちないの施設に成って居る、本丸、帯曲輪は公園と成って居る、しかし夏草が茂り踏み込むには躊躇する、遊歩道らしき所は草刈りされて居り、梵字池、浮牛城解説板、石碑、標柱は望遠を使い撮影、搦手道も草刈りされて居て北側の帯曲輪に降りる、帯曲輪の北が北からの山稜を堀込んだ空堀跡草木が茂り良く分からいが凹みが有りうすうす分かる、北側二の丸が公園広場、あぐり夢くちない施設に繋がっている、駐車可能の様子。
 戻って口内川の橋が大橋跡の標柱、南から東に水堀が残っているが葦類で茂っている、土曜日日曜日晴れの予想で高速を飛ばして訪ねたのですが40分探訪した頃にわか雨で撤収。
 帰りに気が付きましたが入り込む角の在る口内郵便局の南前に六区?公民館が有り駐車可能かも?

 800km程飛ばしてきた甲斐が有りました、本丸切岸、広い帯曲輪切岸が素晴らしい残りです、安倍貞任の伝承にも興奮ものです、大堀切空堀は草木ではっきりとは確認出来ませんが秋枯れの年末か春先の草が茂る前が見応えの在る時期かと思います。
 夏草と安倍貞任で芭蕉の句「夏草や 兵どもが 夢の跡」を安倍貞任にも捧げても良いのではと思ってしまう。

 歴史的な面は「ぎりょうさん」の投稿を見て頂ければ深い知識で十分に書き込まれています。
 ぎりょうさん有難うございました、今後も期待して拝見させて頂きます。

 この後宮城県不動堂城(鶴頭城・西館・鶴館)を目指し約100km程南下します。

 

 

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零汰

終活2:100城・続100、城郭巡りの記録:近畿・東海・四国 5日目

城郭巡りの人間は、100城・続100城を巡る事は義務なのか?そんな疑問を求めて巡る終活シリーズ2。

予習をしないで城郭巡りをしているので遺構を見ても理解出来ない時が稀にある、そんな時は大半謎のままにしておく。なぜなら時間が経つと似たような遺構に遭遇して以前の謎が解決する、とても不思議だ。

馬出しは九州では見た事が無い、書籍など見てもどうもしっくりとこない。終活1で新府城と名胡桃城で馬出しを見た、やっぱりピンと来ない。諏訪原城で馬出しを見た、スッキリした。また謎をひとつ現地で解決。

5月20日 5日目
1.駿府城(静岡)・・・・計測忘れ
2.諏訪原城(静岡)・・・1時間10分:2km:累計高低差140m
3.掛川城(静岡)・・・・40分:1km
4.高天神城(静岡)・・・1時間15分:2km:累計高低差167m
5.浜松城(静岡)・・・・計測忘れ
豊橋市~静岡市~鈴鹿市:走行距離389km

5城共に100城・続100城です。詳細は諸先輩方のレポートをご覧ください。

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ぴーかる

来島城 (2022/05/03 訪問)

【来島城】
<駐車場他>波止浜港<34.109867, 132.968899>無料駐車場あり。
<交通手段>車→就航船

<見所>曲輪・石垣・岩礁ピット
<感想>日帰り伊予海賊海城攻めの旅3城目。来島城の築城は城びと情報では1419年、村上義顕の三男吉房が来島に分家した際に築いたものである。以降来島氏・久留島氏を名乗る。秀吉の中国攻めの際には来島氏は因島氏と共に河野氏を裏切り信長方についたため、毛利氏、河野氏や能島氏による攻撃を受け、来島通総は羽柴秀吉の下に逃走した。本能寺の変後四国征伐に来島通総が先鋒として伊予を攻め、通総は秀吉から伊予風早郡1万4千石を与えられた。関ヶ原では来島氏は西軍についたため所領を没収され廃城となった。
 波止浜観光休憩所に券売機がありますので往復チケット320円購入し乗船時間約5分で到着します。14:00の便に乗り、戻りの便が14:35、これを逃すと16:15まで無いので滞在30分程の超強行軍の城攻めとなった。時間によって戻りの便がまちまちなので滞在時間を考慮して渡船したほうがいいと思います。城跡は随所に石垣が見られるので土止めの為だろうと思われる。能島城では近くまでは行けないが、岩礁ピットも海岸岩場に無数にあり、また触ることができ満足できた。

<満足度>◆◆◇

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