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2022/06/17 23:11
2022/06/17 22:58
2022/06/17 22:42
【高城②】高城川(耳川)の戦い (これが島津の「釣り野伏せ」戦法だ!) (2021/02/11 訪問)
(高城①からの続きです)
高城本丸跡から眺めた合戦場の写真を元に、よければ私が作った解説図を見ながら読んでいただければと思います。
日向を追われた伊東氏の要請を受け、豊後の大友宗麟は全軍をもって出陣します。しかし、宗麟は途中の日向(ヒムカ)の地で、キリスト教の理想郷(ムシカ)を作る事に没頭し始め、そこから動きません(これが大友家臣団の不協和音を作ってしまいました)。
大友軍本隊はその南25kmにある山田有信とその援軍の島津家久らがわずかな兵で守る高城を攻撃します。しかし、なかなか簡単に落ちません。そうしているうちに、島津本隊が到着。根白坂に陣を構えたため、大友軍(3万5千)と島津軍(3万)が、高城川(現:小丸川)を挟み対峙します。そして、
① 島津義久(総大将)の旗印を初めて見た大友軍は、敵総大将が自ら出陣してきたのを知り、血気にはやる佐伯宗天・田北刑部は、もはやじっとしていられず、宗麟が制止命令を出していたにもかかわらず川を渡り突進して行きます。
② 義久隊は応戦しますが、ひるんだと見せかけ兵を引きます(ここが罠!)。佐伯・田北両隊は、義久の首を上げる最大のチャンスとばかりに、競うように敵陣奥まで深追いします。
③ すると、山の両側に隠れていた島津以久・島津義弘が山を下り佐伯・田北両隊を取り囲みます(三方から囲まれる)。
④ これを見て両隊が危ないと悟った後詰めの田原紹忍が助けに行きます。
⑤ それを見て高城に籠城していた島津家久・山田有信が城から下り討って出て背後より攻め、大友軍全軍は四方から島津軍に完全に囲まれてしまいました。これにより、大友軍は大敗北を喫してしまいます。😩~
この後、傷を負った大友軍の生き残りの将兵は豊後へ逃げ帰ろうとしますが、途中の日向の耳川まできたところで雨により水位が増して川を渡れず、そこへ島津軍が追ってきたため、ある者はそこで討たれ、ある者は川で溺れて、戦死者の数は膨大に増えてしまいました。高城川と耳川で合わせてその死者数は1万とも2万とも言われています。この負戦により、九州六ケ国の大大名であった豊後大友氏は、この後、没落の一途をたどる事になってしまいました 😱~。
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2022/06/17 22:39
【高城①】二度にわたる九州最大の合戦にも落ちなかった城 (2021/02/11 訪問)
高城は、宮崎県木城町の標高60mにある小さな城です。今は本丸跡に櫓を模したような時計台がひっそりとあり(写真①②)ここにかつて城であった事を伝えています(写真④⑤)。しかし実はここで、過去二度にわたる九州最大規模の合戦がありました。そして何と二度ともこの城は落ちませんでした。😲!
一度目は、天正6年(1578年)豊後大友氏と薩摩島津氏が、両者初めて全軍をもってここで激突しました(写真③:本丸跡にある櫓(時計台)より合戦場所を眺める)。薩摩の山田有信はわずか1500の兵で島津本隊の援軍が到着するまでの23日間耐え続け、ついに勝利します(詳細は次の【高城②】で解説します)。
二度目は、天正15年(1587年)豊臣秀吉の九州征伐(=島津討伐)で、豊臣秀長率いる15万の軍勢に囲まれましたが、またしても薩摩の山田有信は1300の兵で23日間耐え続け、ついにまた最後まで城は落ちませんでした。しかしこの時は、島津本隊の援軍が、根白坂で秀長軍に敗北し、有信は孤立してしまったため、やむをえず息子を人質に出して城を明け渡す事にはなりしましたが・・・
また、ここには7つの空堀(竪堀)も残っています(写真⑥⑦ファン必見かも?)。
落ちなかった城 ⇒ ⇒ ⇒ 縁起のいい城? 😊かもしれませんね!
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2022/06/17 22:12
山下城跡案内図 (2017/02/12 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/17 22:08
三木城想像図 (2017/02/17 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/17 22:05
此隅山城跡縄張り図 (2017/05/14 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/17 21:40
2022/06/17 20:46
整備がされていて見易いでした。 (2021/11/03 訪問)
松尾城・荒神城・肥田木城と呼ばれる3つの小山で構成されている須木城。主郭は松尾城で大きく4つの曲輪があります。一番高所にある曲輪入口に石畳の虎口と天端が土塁の石積があります。北面には土塁が施され一部には石が散見します。南側には舗装された車道があるが元々は空堀だったのではと想像しています。宮崎県調査報告書の縄張図には現在の舗装道路が記載されているので確証はありません。
松尾城より東に荒神城、南側に空堀があります。これが松尾城まで続いているように感じます。虎口と土塁も確認できます。
さらに東に肥田木城、南側に堀切を設けています。ここの虎口は桝形に見えるのですが少々形が崩れているのでこちらも確証が有りません。
滞在時間45分:1.6km:累計高低差108m
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2022/06/17 14:00
2022/06/17 12:32
2022/06/17 07:48
202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:妙見城 (2022/06/09 訪問)
柿原城からの転戦です。空堀前(32.862397、130.684982)に路駐しました。
詳細は不明です。鹿子木氏の出城と云われています。
台地東端の道路から見下ろせる畑となっている部分が妙見城のようです。
時間もなく、畑となっているので道路から見学しただけです。
攻城時間は5分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。
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2022/06/17 07:45
202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:柿原城 (2022/06/09 訪問)
上代城からの転戦です。空地付近(32.828830、130.689643)に駐車しました。そこから主郭まで150mくらいです。
主郭に向かう途中に標柱(32.828901、130.689421)があります。
築城年代は定かではないようです。天文年間(1532年~1555年)の城主は鹿子木鑑員、天正年間(1573年~1592年)には隈本城主の城氏の支城となって城番が置かれていたそうです。
また1539年(天文8年)に隠居した鹿子木親員(寂心)が隠居城として柿原城に移ったとも伝えられています。
「城の原」と呼ばれる丘陵の北端部が主郭とされますが、一帯は宅地や田畑となっており、遺構はよくわかりません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=妙見城に向かいます。
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2022/06/17 07:41
202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:上代城 (2022/06/09 訪問)
河尻城からの転戦です。墓参用駐車場(32.783755、130.659488)に駐車の予定でしたが辿り着けず、麓の光明寺の駐車場に駐車しました。
上代城の城主は、鹿子木親員の家臣今福民部と伝えられています。
ナビされた道(光明寺右手からのルート)からは車進入禁止でした。場所的に切り返しもできない為、バックで登ってきた道を下り、光明寺駐車場に駐車しました。
ただ、墓参用駐車場はあるので別ルート(正福寺ルート)から辿りつけると思います。
配水タンクの東側に祠が祀られ、「史蹟上代城趾」の碑が建てられているそうなのですが、見つけられなかった。
あとで調べたら祠を聖徳太子堂と誤った為とわかりました。聖徳太子堂は配水タンクの西側にあります。
墓ばかりで遺構は見つけられませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=柿原城に向かいます。
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2022/06/17 07:29
202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:河尻城 (2022/06/09 訪問)
隈庄城からの転戦です。川尻公会堂駐車場(32.738258、130.680320)に駐車しました。北側に川尻公園と古城神社があります。
今から約810年前、河尻三郎源実明がここに築城し、この地一帯を治めました。
河尻氏は鎌倉時代から室町時代にかけて約230年間、干拓や川尻港を利用しての交易で地域の発展に貢献しました。
戦国時代、河尻氏は肥後守護菊地氏と争って衰退し、菊地氏家臣の隈庄城主甲斐親昌が川尻城を預かっていました。
1588年(天正16年)に加藤清正の所領となり、加悦飛騨守が城代を務めました。
その後、1615年(慶長20年)の一国一城令によって廃城となりました。
古城神社は江戸時代の肥後藩主細川氏により河尻氏の功績を讃えて建立されたそうです。
古城神社に神社由来文が立てられているそうなのですが、見つけられなかった。(鳥居横の標柱かな?)
駐車場所の道路を隔てた南側に「上田休と町奉行所跡の説明板」と「川尻御蔵前の船着場の説明板」があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上代城に向かいます。
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2022/06/17 07:24
202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:隈庄城 (2022/06/09 訪問)
木原城からの転戦です。幼稚園付近の空スペース(32.711017、130.727130)に路駐、100m離れた城の鼻公園入口(32.710616、130.727514)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に築かれたと云われています。
1534年(天文3年)肥後国守護菊地義宗は、兄の豊後国大友義鑑に反旗を翻し兵を挙げました。
この時、隈庄城には菊地氏を支援する相良氏の兵が入城していましたが、大友方の名和氏が豊福城から攻め寄せました。この戦いは菊地義宗が相良氏を頼って落ち延び終焉します。
その後、甲斐敦昌が城主となっていましたが、敦昌が亡くなると目方能登守に乗っ取られました。
この目方能登守については定かではないようですが、隈庄城を入手した後は相良氏と結び大友氏に対抗したが、1543年(天文12年)阿蘇惟豊と名和氏が結んで隈庄城を攻め落としました。
1543年(天文12年)には甲斐敦昌の子甲斐親昌が城主となりますが、この隈庄甲斐氏と御船城主となっていた甲斐親直(宗運)は、その後一族同士で幾度となく争いました。
天正8年(1580年)隈庄城主甲斐守昌は阿蘇氏に反旗を翻したので、阿蘇氏は御船城主甲斐宗運に隈庄城を攻めさせました。
この守昌は宗運の娘を娶っていたそうです。守昌は名和氏の援軍を得て対抗しましたが落城しました。
現在城の鼻公園として残された部分が本丸跡、南側にある墓地付近が二の丸跡(行ってません)。
明確な遺構は残っていないようです。路駐していた為、時間が気になり、石碑と説明板を捜さずに撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=河尻城に向かいます。
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2022/06/17 07:15
202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:木原城 (2022/06/09 訪問)
曲野城からの転戦です。木原不動院奥の院駐車場(32.698408、130.703535)に駐車しました。
駐車場から主郭まで50m、小城(展望台)は350mくらいです。
築城年代は定かではないようです。古くは鎮西源為朝による築城伝説があり、矢橋宗親や木原氏一族の居城であったとも伝えられています。
1503年(文亀3年)に名和顕忠が古麓城を追われて木原城に移り、さらに宇土古城へ移り住んだことが「相良家文書」に記されているようです。
木原城は木原不動尊の奥の院のある城山の山頂に築かれており、奥の院の西背後の頂にあります。
拝殿左より裏手に回ると、竹林に広い郭があり、そこより左手(南)に段々になった郭があります。
小城(展望所)に行く道は一旦、下っており心配になりますが、その後、小城(展望所)手前で登っていきます。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=隈庄城に向かいます。
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2022/06/17 07:05
202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:曲野城 (2022/06/09 訪問)
豊福城からの転戦です。説明板前(32.656911、130.694132)路駐しました。主郭まで50mくらいです。
詳細は不明です。弘治年間から永禄年間にかけて阿蘇氏家臣の鈞野民部小輔が城主であったと云われています。また、弓術に秀でた辻姫なる人物が城主であったとも云われています。
現在大半は開墾されて畑となっていますが、南東側にある竹林の中に空堀が残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=木原城に向かいます。
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2022/06/17 06:38
2022/06/17 06:38
202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:豊福城 (2022/06/09 訪問)
竹崎城からの転戦です。豊福城跡入口付近(32.631211、130.704173)に路駐しました。主郭まで100mくらいです。
築城年代は定かではないようですが、名和氏によって築かれたと云われています。
交通の要所に築かれた城で名和氏、阿蘇氏、相良氏によって争われ数々の攻防戦の舞台となったそうです。
小高い丘に標柱と説明板、社を確認しました。路駐していたので速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=曲野城に向かいます。
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