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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:柿原城 (2022/06/09 訪問)

上代城からの転戦です。空地付近(32.828830、130.689643)に駐車しました。そこから主郭まで150mくらいです。
主郭に向かう途中に標柱(32.828901、130.689421)があります。

築城年代は定かではないようです。天文年間(1532年~1555年)の城主は鹿子木鑑員、天正年間(1573年~1592年)には隈本城主の城氏の支城となって城番が置かれていたそうです。
また1539年(天文8年)に隠居した鹿子木親員(寂心)が隠居城として柿原城に移ったとも伝えられています。

「城の原」と呼ばれる丘陵の北端部が主郭とされますが、一帯は宅地や田畑となっており、遺構はよくわかりません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=妙見城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:上代城 (2022/06/09 訪問)

河尻城からの転戦です。墓参用駐車場(32.783755、130.659488)に駐車の予定でしたが辿り着けず、麓の光明寺の駐車場に駐車しました。

上代城の城主は、鹿子木親員の家臣今福民部と伝えられています。

ナビされた道(光明寺右手からのルート)からは車進入禁止でした。場所的に切り返しもできない為、バックで登ってきた道を下り、光明寺駐車場に駐車しました。
ただ、墓参用駐車場はあるので別ルート(正福寺ルート)から辿りつけると思います。
配水タンクの東側に祠が祀られ、「史蹟上代城趾」の碑が建てられているそうなのですが、見つけられなかった。
あとで調べたら祠を聖徳太子堂と誤った為とわかりました。聖徳太子堂は配水タンクの西側にあります。
墓ばかりで遺構は見つけられませんでした。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=柿原城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:河尻城 (2022/06/09 訪問)

隈庄城からの転戦です。川尻公会堂駐車場(32.738258、130.680320)に駐車しました。北側に川尻公園と古城神社があります。

今から約810年前、河尻三郎源実明がここに築城し、この地一帯を治めました。
河尻氏は鎌倉時代から室町時代にかけて約230年間、干拓や川尻港を利用しての交易で地域の発展に貢献しました。
戦国時代、河尻氏は肥後守護菊地氏と争って衰退し、菊地氏家臣の隈庄城主甲斐親昌が川尻城を預かっていました。
1588年(天正16年)に加藤清正の所領となり、加悦飛騨守が城代を務めました。 
その後、1615年(慶長20年)の一国一城令によって廃城となりました。
古城神社は江戸時代の肥後藩主細川氏により河尻氏の功績を讃えて建立されたそうです。

古城神社に神社由来文が立てられているそうなのですが、見つけられなかった。(鳥居横の標柱かな?)
駐車場所の道路を隔てた南側に「上田休と町奉行所跡の説明板」と「川尻御蔵前の船着場の説明板」があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=上代城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:隈庄城 (2022/06/09 訪問)

木原城からの転戦です。幼稚園付近の空スペース(32.711017、130.727130)に路駐、100m離れた城の鼻公園入口(32.710616、130.727514)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に築かれたと云われています。
1534年(天文3年)肥後国守護菊地義宗は、兄の豊後国大友義鑑に反旗を翻し兵を挙げました。
この時、隈庄城には菊地氏を支援する相良氏の兵が入城していましたが、大友方の名和氏が豊福城から攻め寄せました。この戦いは菊地義宗が相良氏を頼って落ち延び終焉します。
その後、甲斐敦昌が城主となっていましたが、敦昌が亡くなると目方能登守に乗っ取られました。
この目方能登守については定かではないようですが、隈庄城を入手した後は相良氏と結び大友氏に対抗したが、1543年(天文12年)阿蘇惟豊と名和氏が結んで隈庄城を攻め落としました。
1543年(天文12年)には甲斐敦昌の子甲斐親昌が城主となりますが、この隈庄甲斐氏と御船城主となっていた甲斐親直(宗運)は、その後一族同士で幾度となく争いました。
天正8年(1580年)隈庄城主甲斐守昌は阿蘇氏に反旗を翻したので、阿蘇氏は御船城主甲斐宗運に隈庄城を攻めさせました。
この守昌は宗運の娘を娶っていたそうです。守昌は名和氏の援軍を得て対抗しましたが落城しました。

現在城の鼻公園として残された部分が本丸跡、南側にある墓地付近が二の丸跡(行ってません)。
明確な遺構は残っていないようです。路駐していた為、時間が気になり、石碑と説明板を捜さずに撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=河尻城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:木原城 (2022/06/09 訪問)

曲野城からの転戦です。木原不動院奥の院駐車場(32.698408、130.703535)に駐車しました。
駐車場から主郭まで50m、小城(展望台)は350mくらいです。

築城年代は定かではないようです。古くは鎮西源為朝による築城伝説があり、矢橋宗親や木原氏一族の居城であったとも伝えられています。
1503年(文亀3年)に名和顕忠が古麓城を追われて木原城に移り、さらに宇土古城へ移り住んだことが「相良家文書」に記されているようです。

木原城は木原不動尊の奥の院のある城山の山頂に築かれており、奥の院の西背後の頂にあります。
拝殿左より裏手に回ると、竹林に広い郭があり、そこより左手(南)に段々になった郭があります。
小城(展望所)に行く道は一旦、下っており心配になりますが、その後、小城(展望所)手前で登っていきます。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=隈庄城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:曲野城 (2022/06/09 訪問)

豊福城からの転戦です。説明板前(32.656911、130.694132)路駐しました。主郭まで50mくらいです。

詳細は不明です。弘治年間から永禄年間にかけて阿蘇氏家臣の鈞野民部小輔が城主であったと云われています。また、弓術に秀でた辻姫なる人物が城主であったとも云われています。

現在大半は開墾されて畑となっていますが、南東側にある竹林の中に空堀が残っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=木原城に向かいます。

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todo94

県内の城めぐり2022㉙ (2022/05/28 訪問)

善光寺平の平地の城を攻め続けます。長沼城は堤防が城を貫いていますが、その堤防道路が通行止でアクセスにちょっと難渋しました。二の丸跡に城址碑があり、何箇所も案内説明板が立っていて楽しく散策することが出来ました。発掘調査も行われているようでした。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:豊福城 (2022/06/09 訪問)

竹崎城からの転戦です。豊福城跡入口付近(32.631211、130.704173)に路駐しました。主郭まで100mくらいです。

築城年代は定かではないようですが、名和氏によって築かれたと云われています。
交通の要所に築かれた城で名和氏、阿蘇氏、相良氏によって争われ数々の攻防戦の舞台となったそうです。

小高い丘に標柱と説明板、社を確認しました。路駐していたので速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=曲野城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:竹崎城 (2022/06/09 訪問)

田川内城からの転戦です。説明板前(32.626697、130.713412)に駐車しました。主郭まで50mくらいです。

築城年代は定かではないようです。 元寇のおりに活躍した竹崎季長の居城とされます。
竹崎季長は阿蘇大宮司宇治氏の一族とも菊地氏の一族とも云われ、元寇では敵船に乗り込んで首級をあげるなど活躍しました。

説明板以外、遺構らしきものは見つけられませんでした。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=豊福城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)5日目:田川内城 (2022/06/09 訪問)

古麓城からの転戦です。路肩(32.441554、130.587787)路駐しました。主郭まで300mくらいです。途中に標柱(32.441879、130.589018)があります。

築城年代は定かではないようです。
はじめ名和氏の家臣園田宗林の居城でしたが、千代永城主桑原能登守との争いに敗れて戦死しました。 その後に阿蘇氏家臣の草壁文右衛門が城主となりました。

登り口の標柱は確認しましたが、それ以外は畑で遺構は確認できませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=竹崎城に向かいます。

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城とマスク

名古屋城本丸御殿 (2020/02/03 訪問)

天守閣は老朽化で入れませんが本丸御殿は入れます。
マスクはシルバーチェーンラメ

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城とマスク

愛知のお城巡り (2020/02/03 訪問)

新幹線降りてホームの立ち食いきしめんを食べてから行きました。

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にのまる

5/12城目 (2022/05/20 訪問)

本星崎駅から線路沿いに徒歩数分の笠寺小学校。いくつかある校門のうち、駅にいちばん近い階段を上がったところに城址碑がありました。
もう一箇所は秋葉神社。こちらも高台で、この秋葉神社から小学校を見ると、こっちの曲輪からあっちの曲輪を見ているのかなという感じがしました。(間にある住宅がばっちり入るので写真の掲載は控えます。)

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赤い城

何もないとわかっていながら (2022/06/04 訪問)

寿能城からの転戦、最寄は東武アーバンパークラインの大和田駅ですかね。
以前にも訪れ何もないとわかっていましたが近くに来るとつい立ち寄ってしまう悲しい性。
跡地として示す場所には立派な住宅があり、畑も隣接しています。
位置的に少し高いところにあるのが何となくの痕跡でしょうか。
江戸時代の旗本、伊達房実の陣屋です。
もう来ないとは思いますがもしかしたら・・・。

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零汰

トレース:2 上村城(麓城)熊本県球磨郡あさぎり町 (2021/11/09 訪問)

情報収集の上でTwitterは欠かせない上に勉強にもなる。不定期に城郭放浪記さんやウモさん余湖さん眺めている。そこでは全国に散らばる在野の城愛好家が散見出来る。在野で活動している人々のパワーの何たるものよ、ドローン撮影してYouTubeにアップしている方や城跡発見する方もいて型に嵌らない独自の活動している人々に驚きを隠せない。話のレベルが高くて時折分からない情報もあるが、そこではスルーして頭の引出しにしまっておく。

去年の1月に城郭放浪記さんのTwitterで扉の紅葉写真がどこの城跡か調べてみた。熊本のあさぎり町だと!すぐ行けるじゃないか!それから10か月紅葉に合わせていく機会を狙っていた。紅葉情報で見頃の合図が出た時に行ってきた。2週間早かった。2週間後にまた訪問。写真の冒頭2枚が再訪問の写真です。1枚目がTwitterと同じアングル。

麓城跡公園と呼ばれ駐車場も完備しており紅葉で有名な場所だそうです。北側の入口から入ると西に開口部のある仕切土塁が目に飛び込んでくる、整備しているのでとても綺麗な造形だ。開口部の西は一段高くなってここが主郭のように思われた。南に何段かの曲輪があり東側に土塁と通路が付いている。その先には二重の空堀とその上にはウネウネの様な遺構があるがその時は確信は無かった。主郭の西は2本の堀切で遮断している、そこで城域は終わりと判断した。

2回目の訪問が終わって落ち着いた頃、城郭放浪記さんのサイトと自分の写真を比べる復習の時間。東はウネウネらしいし二重空堀もある、西側の堀切も合っている。「今回は調子いいんじゃない自分」と思うのも束の間、西側の堀切の先には麓に迄続く大きな空堀があるんだそうだ。そう簡単には行きませんね。基本は一発勝負で同じ城跡に2度行く事は無いのだが今年の紅葉シーズンに子供と孫を連れてきて見落とした空堀見るのもいいかもしれない。



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城とマスク

兵庫のお城 (2020/02/02 訪問)

姫路城は感動しか言葉が出ませんでした。
マスクはラゴーシャン製チェーンラメタイプ

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城とマスク

滋賀県のお城巡り (2021/07/16 訪問)

福井県から滋賀県に移動して彦根城に行きました。
マスクお城の金部分を意識して旧金ラメタイプ

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城とマスク

福井のお城巡り (2021/07/15 訪問)

北陸地方唯一の現存天守です。
マスクはHAYASHI製金旧ラメ東京オリンピック開催を記念して製作しました。

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城とマスク

福井のお城巡り (2021/07/15 訪問)

県庁の中にありました。

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城とマスク

2021江戸城 (2021/10/16 訪問)

この時は富士見櫓と伏見櫓を見学できました。
皇居内なのでマスクの撮影は困難でしたがなんとか成功しました。
マスクはラゴーシャン製パールブルーラメ

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