倉賀野城へ向かう途中に国宝埴輪を見たくて群馬県立歴史博物館へ立ち寄り、国宝埴輪に満足の大満腹、いよいよ群馬県埼玉県の国道17号線沿いの未踏の城廻り第一城として以前より気に成っていた倉賀野城へ、歴史博物館から西へ約1km、皆さんの投稿で駐車場は無く路駐の様なので、城名石碑の有る雁児童公園(東西に細長い公園です)の東側入り口から攻めて、住宅地の駐車場出口を避けて邪魔に成らない烏川北岸寄りに路駐。
参考資料:余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。
邪魔に成らない様にと急ぎ足で探訪、写真撮影、倉賀野城趾石碑と説明石板が中央に、住宅と近い位置にある、西のやや中央に雁児童公園の入口北向き、右手に雁児童公園の名盤が入れ込まれている、左右に解説板、左手は「倉賀野城跡」説明看板、右手はやや古く「倉賀野城址」説明板。
雁児童公園は倉賀野城の本丸にあたるのか?南側の烏川崖上に在る崖城と分かり、これでは後ろ堅固の難攻不落のしかも?余湖図コレクションの縄張俯瞰図を見ると、本丸を中心に外へ二の丸、三の丸、外郭と広がる悌郭式城郭と分かる、また先に群馬県立歴史博物館で倉賀野宿のジオラマを見ましたが、その中に倉賀野城も示されて居り良く観ますと、北は旧中山道現県道121号線まで広がり、東は倉賀野河岸、西は東公園の古墳当たり?とかなり広い城域だった様です。(歴史博物館で撮影したジオラマ倉賀野宿アップ倉賀野城を掲載します)
土塁が残って居ると言われてる、井戸八幡宮辺りは路駐も有りパスしました。
歴史は
鎌倉時代初期、武州児玉党の支流、秩父平四郎行高の子孫、三郎高俊がこの地に館を建て倉賀野の地名を氏とした。
戦国時代に成ると関東管領上杉氏に仕え、上杉謙信が上州へ進出すると箕輪城主長野氏と共に上杉方へ、武田信玄が侵攻してくると箕輪城と共に落城し、武田方の城へ、金井秀景が城主となり倉賀野氏を名乗り、武田氏が滅亡すると織田方の滝川一益に従い、本能寺の変の後は北条氏に従う、秀吉の小田原征伐の後は降伏廃城となった、倉賀野氏倉賀野城の400年は終焉した。
この後は信玄が倉賀野城を攻める本陣を置いたと言われる木部城(城びと未登録)へ。
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