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イオ

半分だけでも (2022/01/15 訪問)

室町期に在地土豪の椿井氏が居城として築いたとされ、松永氏のもと信貴山城の出城となったとも、松永氏滅亡後には嶋左近の居城となったとも言われますが、詳細は不明です。

矢田丘陵南端の南北ふたつのピークを中心に連郭式に曲輪群を配した山城で、北郭群が主城と考えられますが、北郭群は遺構保護のため見学路が整備されるまで進入禁止になっています。

道の駅の第二駐車場に駐めさせてもらって登城開始。東側に聳える山並みが椿井城のようです。登城口までは10分ほど歩きますが、あちこちに案内標識があって迷う心配はありませんでした。登城口は、地名の由来であり聖徳太子ゆかりの椿井井戸側と椿井春日神社側の二つあり、北郭群と南郭群の間の鞍部に続く椿井春日神社側が大手道にあたります。なお、椿井春日神社境内の西隣には宮山塚古墳と呼ばれる円墳がありますが、墳丘から大手口まで土塁が築かれ、墳丘は削平加工されて、大手口の防衛施設となっていたようです。

大手口から登ること約10分で鞍部に到着。北郭群側には進入禁止の案内表示と柵が設けられていますが、笹藪と化していて整備している様子は窺えません。鞍部から南に数段の曲輪を抜けると南郭群の主郭です。主郭には椿井城ののぼり旗がはためき、西側には平群谷と生駒山地の眺望が開けています。説明板によると主郭東下には石積と竪堀があるようですが、笹藪の中でよくわかりませんでした。主郭の南端には土塁があり、土塁の脇から下りて行くと副郭との間を隔てる深い堀切が設けられています。副郭には新しい説明板(2020年12月)とのぼり旗が建てられ、南端の浅い土塁の先には堀切と土橋があります。遺構保護のためか滑り止めか、土橋に人工芝が敷かれているのは残念ですが、土橋は細く両側は鋭く落ち込んでいて怖いほどでした。南郭群はここまで。土橋を渡って登城道を下って行くと山麓に宮裏山古墳があり、そのすぐ下が椿井井戸登城口です。

何年か前から北郭群の整備が済んだら訪れようと様子を見計らっていましたが、なかなか進展が見られないので、しびれを切らして来てしまいました。南郭群だけでは規模的に少々物足りなくはあるものの、眺望は良く、堀切は深く鋭く見応えがありました。説明板によれば発掘調査は済んでいるようなので、これからいよいよ北郭群の整備が進められるんでしょうけど、以前は登城道すらない藪の中の城だったのがここまで整備されたんですから、気長に待つことにします。
 

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ばばよ

建物復元しないかな (2021/07/11 訪問)

石垣のない近世城郭。馬出し空濠有名ですね。
資料館は規模は小さいですが、復元模型や古写真が充実。
天守は古河城三回櫓建地割図を基に作られたのではないかとか。
公園自体は空濠や本丸の土塁に城跡をどうにか見出せる程度ですが、資料は多いので色々復元できそうな雰囲気はありました。

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todo94

2021年の城納め・手打麓(鹿児島県薩摩川内市下甑島) (2021/12/29 訪問)

予定では里港周辺を徒歩散策するだけの予定でしたが、急遽レンタカーを借りて下甑島を目指すことにしました。2020年8月に鹿児島県で一番長い橋甑大橋が開通していました。甑島が1つにつながったおかげで日本遺産「薩摩の武士が生きた町~武家屋敷群「麓」を歩く~」の構成資産・手打麓まで脚を伸ばすことが出来て満足です。此処が2021年の城納めとなりました。

津口番所跡はパスしてしまったので、いつか、甑島は再訪したいと思います。やはり、断崖絶壁の絶景は青空の下で楽しみたいですし、ナポレオン岩も見てみたいですので。今回、かごしまらくめぐりキャンペーンで甑島にて2つのスタンプをゲットし、レンタカー料金が2000円引きとなりラッキーでした。

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Ohmi_jin

昔の写真

初めて車で行った記念すべき城です。

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赤い城

整備されて堀底道が歩けた (2022/01/30 訪問)

東武東上線の森林公園駅から徒歩で25分。
まずはラブホテルの背後に空堀と土塁がありました。
古ぼけた標柱も立っているもののこの時季でも藪でした。
ここは再訪なのですが前回は夏で結構な藪でした。
今回はこの時季だからというか結構整備されていて深い堀底道を歩くことができました。
郭内は畑で高い土塁が囲んでいます。
扇谷上杉氏がここに陣を置いたとの記録もあるようです。


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しらさぎ

三方の馬出が特徴 (2021/09/19 訪問)

主郭の石垣以外にも東馬出や南馬出が残っております。
南馬出は未整備状態ですが高土塁が確認できますし、大手馬出も名残は確認できます。
周辺には武家屋敷通りも残っており、何件か内部も見学できますので飽きることはないかと。

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ばばよ

竹林と空堀と (2021/05/22 訪問)

竹林の立派な山城。
規模は大きくなく、回れる場所も限られてはいますが、急峻で空堀もしっかりした衛りの城でした。
訪問した日も整備されてる方がいらっしゃいました。感謝。

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イオ

藪を抜けた先には… (2022/01/15 訪問)

富雄川西岸の尾根の先端に位置する丘城で、詳細は不明ながら、室町期に筒井氏の傘下にあった小和田氏が築いたとされます。

北麓の大和田集落のため池近くの道幅が広くなったあたりに路駐して登城開始。先人の投稿を参考に北西側からアプローチするも防獣柵の扉を見つけられなかったので、縄張図であたりをつけて倉庫の背後の藪に突入。藪を抜けると北西部の池が広がっていました。

池の東側には主郭北辺の横堀が東西にのび、東端で折れて南(東辺)に続いています。横堀は幅も深さもあり、なかなかのものです。主郭北辺の土塁はかなりの厚みがあって、土塁上の北辺をさらに低い土塁がめぐり、中央部は櫓台状になっています。主郭西辺にも土塁がのび、土塁の外は西尾根を遮断する堀切になっていて、土塁が途切れたあたりに土橋が見られます。ここが虎口だったようです。

土橋を越えて西尾根を進むと廃屋があり、その先の防獣柵の扉から出ようとしましたが、内側から探してもやはり扉は見つけられず、やむなく主郭まで戻って藪を抜けて城を出ました。全く整備されていませんが、その分遺構は状態良く遺っていて、諦めずに藪を突破した甲斐がありました。
 

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陣屋と御殿 (2022/02/06 訪問)

 奈良時代より遠江国の国府置かれていた場所ですが、徳川家康がこの地を支配していた頃、鷹狩の際に使う施設として、または移動時の拠点として御殿を建てたと言われています。家康の関東移封後、この地を支配した堀尾吉晴により陣屋が御殿に隣接する場所に築かれています。江戸時代は直轄領となり代官所となりました。磐田駅南口に「御殿遺跡公園」として整備されていて陣屋の石碑と案内板もあります。
市内にはそれぞれの門が移築され残っています。全部回ったことがなかったので、今回行って来ました。
中泉御殿の移築門
   表門 西光寺
   裏門 西願寺(門扉が新しくなっていますね)
中泉陣屋の移築門
   表門 市内の個人宅
   裏門 中泉寺

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Rocky

障子堀 (2021/12/19 訪問)

北条名物障子堀。これだけでも見る価値があります。

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ぴーかる

楯岩城 (2022/01/15 訪問)

【楯岩城】
<駐車場他>若王子神社側のルートは若王子神社前にゲートがありますので、ゲート前に駐車スペースがあります。ゲートを開けて神社内にも駐車できそうです。
<交通手段>車

<見所>石垣・大岩・竪堀・主郭南側の段曲輪壁
<感想>赤松氏の関連の山城攻め昨年からのつづき。楯岩城は行ってみたかった城、朝駆けで攻城した。
楯岩城は建武年間(1334年~1338年)に赤松則弘が築城しましたが、嘉吉の乱で一旦落城します。その後赤松貞村が入城し、その後5代続きますが、羽柴秀吉の播磨攻めによって落城しました。
 登城ルートは西側の若王子神社からを選択しました。境内に登城口と案内板がありますのですぐ分かります。案内板の奥、山の谷間に方形の段曲輪があり壁面に古い石垣遺構が見られます、居館跡かと思います。登山道は広いので迷うことなく20分程で城跡の西端から入ります。東西に伸びる尾根上を切開いて削平地化しています。南北の斜面に竪堀を配して、二の丸・主郭の南斜面は石垣がかなり残っています。
 最大の見所、主郭の南側に5段程の段曲輪がありますので是非ともストックと手袋を用意して下段まで降りて見て下さい。上から覗くとほぼ土の段曲輪のように見えますが段曲輪の曲輪壁すべてが岩と岩の無い部分は石垣で埋めています。下から見ると圧巻で楯岩城由来はここにあるかと思われます。今では崩落して欠落した部分が多いですが当時は岩と石垣で覆われていたことと思います。思うに岩の集中部分の上部を削平地にして段曲輪を造ったような感じがしました。
 TV塔のある主郭は狭く、すぐ東側が城山(楯岩城大山構)との鞍部があり鞍部の中程南側斜面に石積み遺構があります。私見では城門跡と見ました。鞍部北側は竪堀が数条あります。大山構と呼ばれる場所にも行ってみました。主郭より標高が高く広い曲輪内に巨石が多くあります。地表には主郭周辺にあった人一人が持てるような岩が無く、巨石を並べて仕切壁のようにしているのでこちらも何らかの施設だったと思われます。
 私見ですが、麓の居館跡と思われる段曲輪も東西に段になっているので大手道は西から居館跡を突き抜けてさらに東に山の谷間を登って城の真南辺りから方向を北に変えて登って行くと主郭から南に伸びる巨岩壁の段曲輪が待ち構えている。大手城門虎口はさらに東の主郭を超えた東側にあるので敵がそこまで辿り着くのは大変だ。山頂は大山構のある場所であり城門の入ったそばに主郭があるのは不自然なので主郭のみを最重要曲輪としてではなく、城の南側を特に強固な造りにして城全体を守る感じになっていたように思われます。

<満足度>◆◆◆

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じゅんじん

キャンプ場? (2022/01/15 訪問)

道路沿いに城址碑と説明板があります。そこに駐車して林のほうへ。門跡があり主郭へ。いくつか曲輪があります。かなり整備がされていました。

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カルビン

[鎌倉殿の13人]関連史跡 しとどの窟 (2016/10/23 訪問)

散策自粛している今、丁度鎌倉殿の13人を放送しているので、ゆかりの史跡をご紹介したいと思います。

放送ではスルーされてましたが、石橋山合戦で敗北した源頼朝が身を潜めていたとされる場所が[しとどの窟]と呼ばれております。
(大泉洋さんの夢枕に西田敏行さんが登場したシーンの場所です(笑))

近くにある土肥城城主・土肥実平にこの場所に匿われた・・・んだそうな(ーωー;)

現地には解説版と雰囲気のある洞窟が残りますが、逆にそれだけなので行かれるかどうかの判断はお任せします。。。



湯河原駅からバスで[しとどのいわや]バス停で下車し、上に行くと土肥城、下に行くとしとどの窟に行けますのでセット訪問が良いかと。

ただこのバス思いっきり本数が少ないので、お城と史跡散策した後は急坂を下って土肥氏の菩提寺・城願寺も合わせて訪問するのがよいでしょう(バス停のところに駐車場あったので車なら問題ないかな)

ちなみにこの下りの道中、前にも土肥城UPした際に野生の猪と遭遇して危険な目に遭っておりますので要注意です。
(土肥城の記事にも猪ネタ以外にも上と同じような事書いてましたww)

余裕があれば今後も鎌倉殿の13人ネタ書くかもしれません(^^;)

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Yosihiko

浜松城 (2022/02/06 訪問)

攻城 🏯9城、攻城址4

徳川家康が三方原の合戦に大負けして、浜松城に逃げ帰り門を開けたままにして武田軍にワナだと思いおこさせ、城を死守。

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Yosihiko

長篠城址 (2022/02/06 訪問)

攻城址🏯8城、攻城址4

何も無い。近くに飯田線と第二東名が見えました。

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ばばよ

山城らしさがよく伝わります (2021/04/28 訪問)

八王子駅からバスに乗り、滝山城址下で降りればそれほど迷わずに行けると思います。
まずは加住市民センターで情報収集するとよいでしょう。
空堀や馬出しのダイナミックさがよく伝わります。
十分立派ですが、東西方向(街道と平行)にはかなり広い一方、それと比べて南北方向(街道と垂直)には相対的に小ぶりに見えなくもないです。
関東の中だけで勢力争いをするならまだしも、強大な豊臣勢を相手にするのに北条氏照がより堅固さを求めて八王子城に移った理由が分からなくもないです。
構造的にはだいぶしっかりしてそうに思えますがね。
初めての山城でもあり、写真はいまいちです。

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一言坂の戦い 古戦場 (2022/02/06 訪問)

「家康に過ぎたるものが二つあり 唐の頭に本多平八」と謳われた本多忠勝の奮戦で有名な一言坂の合戦の跡地です。石碑と少し離れた場所に案内板がありました。

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城之崎城 (2022/02/06 訪問)

 静岡県西部の磐田市にあります。徳川家康が一時は遠江の拠点として整備しようとしました城址です。しかし、武田方に対して天竜川を背にするため、天竜川の西側の浜松に城を築きました。
現在は城山球場となっています。グランドと本丸の範囲がほぼ一致しているとのことです。周りの盛り土は土塁の痕跡ということですが、よくわかりません。

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小城小次郎

奥平氏の苗字の地なのだ (2021/10/16 訪問)

豊前中津10万石の奥平氏の苗字の地。同じ上州出身ということになっている徳川氏にとってはそういう意味でも家康の実娘を送り込むには相応しい家柄だったのかもとか余計なことを考えるが、城自体は拍子抜けするくらい遺構が薄い。

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カズサン

【三河・大樹寺】愛知県岡崎市 ビスタライン (2011/03/24 訪問)

 大樹寺は松平家・徳川家の菩提寺として名高く、桶狭間の戦いで今川義元が討取られ家康が大高城から大樹寺へ敗走し祖先の墓前で自害を覚悟するが時の住職に「厭離穢土、欣求浄土」の経文で諭され以後この八文字を旗印に戦って行く。深いつながりが有る寺です。

 住所:愛知県岡崎市鴨田町広元5-1  車は大樹寺の駐車場を利用

 案内:以前TV番組で大樹寺本堂、山門、総門のラインから岡崎城を望むビスタラインの放映を受けて是非確認探訪したいと訪ね実感遠望しました、この間には眺望を遮る建物は立てないとの岡崎市民の心意気が約400年近く発揮され、この貴重な景観を今日見る事が出来ます。
 寺院は本堂、鐘楼、多宝塔、山門、総門、松平八代墓所ここは秀忠公が修復再建、昭和44年には岡崎市民が隣接して家康公の墓と碑を建立、家康公の遺命により位牌は大樹寺におさめよと、以後歴代将軍14代まで等身大の位牌を安置して居ます、有料で文化財収蔵庫、位牌堂を拝観できます。

 岡崎城登城の後に大樹寺ご参拝も宜しいかと、岡崎城のビスタライン遠望を兼ねて良い体験が出来ます。

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