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todo94

宿泊地に向かう途次 (2020/10/03 訪問)

この日最後の攻城は、羽前中野城。山形市立大郷小学校の校門付近に城址碑と説明板が立っていました。ごく僅かながら遺構もあるようですが、今回はノーチェックです。

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ひろし

雲海も見れました (2020/11/08 訪問)

まずは竹田城向かいの立雲峡に向かいました。
早朝3時に行きましたが、思ってた以上にすごい人でした!
すでに駐車場は満車で、かなり外に出たとこに止める始末…。
でも、暗く寒いなか、30分ほど歩いて第一展望台まで、かろうじて竹田城が見える位置に行けました!
ちょっと雲海の形はアレでしたが、かろうじて拝むことが出来ました。

下山してそのまま、竹田城跡に登城しました。
こっちもまだ早い時間だったため、かすかに雲海が残っていました。

それにしても、よくこんな高い山の頂上に築城したもんです…
先人の知恵や技術に脱帽です。

どちらもそうなのですが、たぶん有名になったおかげか、道が比較的整備されていて、思ったよりは登りやすかったです。
竹田城跡の方は、春は桜がキレイだろうと思うので、また暖かくなったら来てみたいと思いました。

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BUGTI

関東の外様大名大関氏の城 (2020/11/07 訪問)

関ヶ原前に徳川の支援で相当な改修が行われた城で、大田原城とおなじく本丸を囲む土塁は高い。また、堀切も非常に深く土塁の折れも複雑で、上杉に対する備えを万全に行っていたことがわかる。城下の武家屋敷跡にも土塁がしっかりと残っていた。

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赤い城

駐車場の中に雷電神社 (2020/11/01 訪問)

東武江曽島駅から徒歩で15分くらい。
住宅地の中の駐車場に小さな雷電神社がありこの辺りが跡地のようです。
石碑もあるようですが見つけられずでした。

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BUGTI

戊辰戦争で攻撃された城 (2020/11/07 訪問)

関ヶ原前に徳川の支援で城が拡張されているので、本丸を囲む土塁はさすがに高い。公園化しているけれども、こんなに立派な土塁が残っていれば、お城だったことが理解してもらえるので良い。お城の麓にたい焼き屋さんがあり、とても人気のようで行列ができていた。時間がないので味を見ることができず残念。

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エグ1394

瑞巌寺 (2020/11/09 訪問)

家族旅行で瑞巌寺へ行ってきました。
伊達政宗が造ったお寺です。建物内は本丸御殿のような部屋がたくさんありました。
特に「孔雀の間」が有名です。建物内は撮影禁止なのでお見せできないのが残念です。
瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。
9世紀初頭、慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっています。
13世紀中頃、幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めています。
関ヶ原の戦い後、仙台に治府を定めた伊達政宗公は、仙台城の築城と併せて、領民の精神的拠り所とするため盛んに神社仏閣の造営を行いました。中でも戦国時代を経て衰退していた円福寺の復興には特に力を注いでおり、事業開始にあたり自ら縄張りを行い、平安の昔から「浄土の地」とみなされてきた紀州熊野に用材を求め、畿内から名工130名を招き寄せる等、政宗公の意気込みが感じられます。
慶長13年(1608)に鋳造された大鐘には、「山を号して松島と曰い、寺を名づけて瑞岩(巌)と曰う」という一文を見ることができます。これが「瑞巌寺」という呼称の初出で、以後、正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」としました。
翌慶長14年(1609)、5年の歳月を経て工事が完了し、以後江戸時代を通じて伊達家の菩提寺として領内随一の規模格式を誇りました。
桃山美術を現在に伝える貴重な建築物であることから、昭和28年(1953)に本堂と御成玄関が、昭和34年(1959)に庫裡と本堂をつなぐ廊下が国宝に指定されています。
平成30年(2018)には10年に及んだ「平成の大修理」が完了し、政宗公が心血を注いで完成させた創建当初の姿が現在に甦りました。

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エグ1394

瑞鳳殿 (2020/11/08 訪問)

家族旅行で瑞鳳殿へ行ってきました。
伊達政宗のお墓です。日光東照宮のようなイメージがしました。
<瑞鳳殿>
仙台藩祖・伊達政宗(1567~1637年)は、生前に自らの死後は、遺骸を仙台経ヶ峰に葬ることを遺言し、70歳で生涯を閉じました。後を継いだ二代藩主・伊達忠宗は、政宗の遺言に従い、翌1637年(寛永14年)政宗の御霊屋(おたまや、霊廟)を建立し『瑞鳳殿』と命名しました。瑞鳳殿は、本殿、拝殿、唐門、御供所、涅槃門からなります。桃山様式の威風を伝える豪華絢爛な廟建築として1931年(昭和6年)には国宝に指定されましたが、1945年(昭和20年)の戦災で焼失。現在の建物は、1979年(昭和54年)に再建されたものです。
<感仙殿>
第二代藩主・伊達忠宗公(1599~1658年)は、政宗公の治世を引き継ぎ、法治体制の確立を進め、新田開発や治水、港湾の整備など産業・経済の振興をはかり領内の安定に尽力し、藩の基礎固めをなしとげました。
<善応殿>
第三代藩主・伊達綱宗公(1640~1711年)の御霊屋(おたまや)である善応殿は、戦災で焼失し、戦後感仙殿と共に再建されました。綱宗公は、19歳から2年ほど治世の後、故あって幕府から逼塞(ひっそく)隠居を命ぜられましたが、その後の生涯は書画・蒔絵などに天分を発揮し、優雅な余生を送ったといわれています。

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エグ1394

仙台城(青葉城) (2020/11/08 訪問)

家族旅行で仙台城(青葉城)へ行ってきました。
宮城縣護国神社で御朱印と隣の売店で御城印を購入しました。
仙台城は「関ケ原の戦い」の後、伊達政宗によって築かれた城です。以降、約270年にわたり伊達氏代々の居城であり、仙台藩の政庁でした。伊達政宗が築城した仙台城は約2万坪で、徳川家康の江戸城に次ぐ大きさを誇り、全国最大級の城でした。天守は築かれませんでしたが、スペインの探検家であるビスカイノに「日本のもっとも勝れ、またもっとも堅固なるもののひとつ」と評されるほどの比類ない堅城だったそうです。残念ながら太平洋戦争末期の仙台空襲によって、大半の建築物は焼失してしまいましたが、「江戸切」と呼ばれる技法によって加工されている切込接の石垣は残っています。現在は青葉山公園として整備されており、本丸には伊達政宗騎馬像が建てられています。

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ぴーかる

淡河城 (2020/10/25 訪問)

【淡河城】
<駐車場他>駐車場なし。道の駅淡河に駐車しました。
<交通手段>車

<見所>土塁・堀
<感想>淡河城は台地状の北端に位置しており、北側の道の駅から見ると、川を利用した天然の堀と二十㍍程の切岸になっている。東・南・西側は堀で囲まれ、その先は比高はなく現在は田園化している。
 城主だった淡河氏は鎌倉時代に播磨一帯の豪族であった北条氏がのちに淡河氏と称した。南北朝時代は赤松氏に属し、戦国時代には別所氏に属したが、淡河定範が城主の時、織田軍の播州攻めの際に一度は羽柴秀長軍を撃退したが、のちの再攻撃で落城、有馬則頼が城主となった。 1601年有馬氏は三田城に移り廃城となった。
 道の駅から見えているので、そこから5分程度ですぐ登れます。見えてる模擬櫓の建て位置も変だし、中にも入れなく、城跡は整備もされてなく何の為に建てたんだ?という感じは受ける。主郭の土塁は明確に残っており、天守台(天守台とは思えないので)には石碑・稲荷社がある。ここに物見櫓があったかなあという感じはしたのでここに模擬櫓建てればと思った。主郭の横堀もきれいに残っていた。

<満足度>◆◆◇

<グルメ>道の駅淡河で販売されている黒枝豆はつぶも大きく少し甘みがあります。枝付きを是非

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ふゆづき

江戸時代の山城国唯一の藩 (2020/11/08 訪問)

江戸時代の山城国唯一藩である淀藩の居城淀城を訪問しました。
僕は車で訪問しましたが、城跡に隣接する稲葉神社のコインパーキングが利用可能です(駅前ですが、1時間200円)。ただし、京都競馬場の近接地であることから京都競馬場でレースがある時の攻城は避けた方が無難でしょう。
電車でも京阪の淀駅下車直ぐの場所にあります。
城跡は本丸と二の丸の一部が公園と神社の敷地になっており、石垣と内堀が残されています。
他の方も書かれているように、天守台は残されていますが、天守台の中には入れません。
京阪電車(鉄道)用地に隣接しているので、金網で仕切られており、堀にも石垣にも一定の距離で離間されてしまいます。

休日の駅前にもかかわらず、城内(公園と神社)にはあまり人出はなく、それなりにゆっくり見ることができました。
もう少し遺構を整備してくれると、駅に近いので訪問者が増えるようにも思いますが、これは無いものねだりかもしれません。

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カズサン

朝田辰兵衛さん心遣いありがとう/高清水要害として明治まで残る (2020/10/26 訪問)

 朝田辰兵衛さんお心遣いありがとうございます。熊情報、R113情報有難うございました、結局4泊5日の下越、奥州の城廻りは最後の5日目のみ晴天、後は雨が止んだり降ったり、しかし素晴らしい紅葉、各所の景観を堪能しました走行距離約2000km程。

 奥州市の豊田館を終えて南方約90km程先の高清水城を目指す、水沢ICから東北道へ築館ICを降りR4号線南下途中で県道1号線に入り目的の高清水城、高清水中学校西校門前に到着、車は3時を過ぎてましたので校門前の空き駐車エリアに停める。

 城址は高清水中学校に成ってます、校門左右が土塁跡、南側土塁に高清水城の案内解説板が有り、ロープが張って有りましたが校門の内側直ぐ傍に城名石碑が立ってる、北側にプールを過ぎて西に本丸土塁跡、その北に東西に延びる外濠が外濠公園として管理保全されてる。

 歴史的には大崎氏一族の城で秀吉奥州仕置きにより大崎氏改易、大崎・葛西一揆を経て伊達領へ伊達氏一門が高清水要害を明治まで継承。

 詳細説明は地元先達のぎりょうさんの投稿をお読みください。

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イオ

近江を睥睨す (2020/10/24 訪問)

京と近江を結ぶ街道を制するため、織田信長の命により森可成が築いた城で、志賀の陣で森可成が討死したことで明智光秀が入って比叡山延暦寺対策にあたりましたが、比叡山焼き討ちの後、光秀が坂本城に拠点を移したことにより廃城となったようです。

宇佐山頂部の本丸、南側一段下の二の丸、鞍部を挟んだ北側の三の丸で構成され、本丸はテレビの中継施設で埋め尽くされていますが、本丸東下の腰曲輪や本丸北東角には石垣が残り、本丸北東下には横堀も見られ、本丸南端に設けられた虎口は二段に折れ曲がって二の丸に通じています。二の丸北端には虎口に接する土塁と堀(貯水?)があり、二の丸東南角に石垣、二の丸東下には竪堀、その少し南側の腰曲輪には見事な石垣が見られます。三の丸の東裾にも石垣が築かれ、宇佐山テラスと呼ばれる三の丸北東角の展望台からは琵琶湖を一望する絶景! 本丸からは西下に京へと続く街道を見下ろし、街道を押さえるには絶好の立地であることがよくわかります。

さらに、三の丸から北西に延びる腰曲輪から尾根伝いに行くと信長公記にいう「端城」と目される曲輪群がある……らしいのですが、尾根は細く斜面は急で、しばらく行っても先が見えず、本当にこっちでいいのか不安になり、途中で引き返してしまいました。縄張図にある曲輪には極力全て行く主義なんですが……無念です。
 

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昌官忠

関西/東海/北陸/遠征3泊4日の旅・100名城制覇 (2019/02/09 訪問)

墨俣城(墨俣バス停)から岐阜バス(おぶさ墨俣線)に乗り名鉄岐阜駅に到着。名鉄岐阜駅から岐阜バス(松籟加納線)で岐阜公園歴史博物館前で下車。そこから徒歩5分ちょっとで金華山ロープウェイ乗場に着きました。ロープウェイは土曜日でしたので10分間隔で動いてました。100名城スタンプは岐阜城資料館入口(復興天守のすぐ側)にありました。
復興天守もいいですが、個人的には堀切、石垣(崩落防止?用に網がかけてありました)が好きです。攻城時間は50分くらいでした。
投稿写真は2016/09/18岐阜駅で撮った信長像も併せて投稿します。

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うさぎ屋

市ヶ谷門跡 (2020/10/22 訪問)

外濠公園(九段北4丁目側)の一角に
市ヶ谷見附に関する史跡があります。
駅前の交番の裏です。

現在は黒い説明板がありますが、
一年前は別の説明板でした。
以前の説明板には、
「市ヶ谷御門橋台の石垣石」と名付けられ、
元の場所も記載されていました。
新しい説明板は辞書的に感じます。

外濠の釣り堀辺りから運んだようです。

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昌官忠

関西/東海/北陸/遠征3泊4日の旅 (2019/02/09 訪問)

北の庄城(JR福井駅)から電車で米原駅経由で大垣駅に向かい、大垣駅前から名阪近鉄バス岐垣線(岐阜聖徳学園大学行)で墨俣バス停下車。そこから徒歩15分位で墨俣城に着きました。
現在、墨俣城があった場所は公園として整備されており、模擬天守は大垣市墨俣歴史資料館になっています。
桜の名所らしいですが、自分が攻城したのは2月なので当然咲いていません。
歴史資料館は豊臣秀吉にまつわる資料が展示されていました。攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

関西/東海/北陸/遠征3泊4日の旅・北の庄城 (2019/02/09 訪問)

「北の庄城」は城びと未登録でした。
「北の庄城」の住所は福井市中央1-21-17にあります。JR福井駅から徒歩5分の柴田公園(柴田神社)になっています。自分は福井城から歩いて来ましたが10分くらいで着きました。
柴田勝家像やお市の方、浅井三姉妹の銅像が建てられており、石垣が残っています。攻城時間は電車の時間上、10分くらいでした。

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昌官忠

関西/東海/北陸/遠征3泊4日の旅・続100名城制覇 (2019/02/09 訪問)

宿泊先ホテル(大阪富士屋ホテル)から地下鉄とJRを乗り継ぎ福井駅に到着。福井駅から徒歩5~6分くらい(前日、足を痛めましたが何とか復活しました)で福井県庁に到着。
続100名城のスタンプは当日が土曜日で閉庁だった為、福井県庁通用口のインターホンを押し、守衛さんにスタンプを借用して押印。
遺構として内堀(水堀)、石垣、天守台が残っており、復元された屋根付きの御廊下橋も綺麗でした。
個人的には石垣と水堀の美しさに見惚れました。結城秀康像を見ましたが、昔の馬はこんな感じだった(ちょった小さい)のでしょうか。
帰りの電車までの時間に郷土料理の「越前おろしそば」を食すか「北の庄城」に立ち寄るか悩みましたが、「北の庄城」に行くことにしました。攻城時間は30分くらいでした。

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todo94

陣屋の玄関 (2020/10/03 訪問)

この日の泊は米沢にとりましたので、左沢から米沢に向かう途次に立ち寄ってみました。城としての遺構はないと言って良いかと思いますが、城址碑ときれいな説明板があるだけでもありがたいものです。陣屋の玄関部分のみが残っているというのも面白い物件です。

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キンヤ

田んぼに堀が良く残る三箇氏の居城 (2020/11/08 訪問)

草ボウボウですが、主郭の南・西・北側の三方を囲む堀が良く残っています。
南・北側の堀の外側には土塁もありました。

田んぼには邪魔と思われる堀なのに埋めずに残されており、地主様に感謝です。

この城の前に同じ五條市で遺構として見応えある城に行きましたが、地元の方には城跡として認識されていない為か下山時に私を不思議そうな目で見られていました。

でも、ここは道沿いに立派な石碑があり城跡として認知されているのか、写真を撮っていて通りすがりの方に挨拶しても不審がられませんでした。

城びとで登録されている城より遺構的にはもっと良い城があるのに、なぜ登録されないのか疑問でしたが、今回その理由が少し分かったような気がしました。

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ダイエティシャン

武名が平城跡Ⅲ 山頂 (2020/10/05 訪問)

武名が平城跡へは、赤穴瀬戸山城経由で攻城。瀬戸山城登城口から、片道約1時間で着きました。帰りの時間も加味しての攻城を オススメします。

山頂の眺めは素晴らしいです。


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