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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:安田城 (2022/07/31 訪問)

白鳥城からの転戦です。安田資料館駐車場(36.679849、137.159324)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1585年(天正13年)頃に築かれたようです。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による佐々成政征伐で、秀吉が富山城攻めの本陣となった白鳥城の支城として現れるのが史料上の初見だそうです。
白鳥城にいた前田氏の家臣岡島一吉が安田城に移っており、築城もこの頃と見られるそうです。
1587年(天正15年)佐々成政は肥後に転封となると、新川郡は秀吉直轄領となり、安田城の役目は一旦終わったものと考えられるようです。
1597年(慶長2年)には前田利長が守山城から富山城に移ると、岡島一吉は白鳥城へ入り、その後、ふたたび安田城へ移ったそうです。
1599年(慶長4年)前田利家死去により、利長は金沢へ帰還し、岡嶋一吉もそれに従いました。
その後しばらく代官平野三郎左衛門が居城しましたが、慶長年間(1596年~1615年)には廃城となったようです。

安田城跡資料館(月曜、祝日の翌日、年末年始は休館日 9:00~17:00(休日は16:30) 入館無料 無料駐車場50台)の駐車場が利用できます。
安田城は現在、城址公園として整備されています。
城は、3つの郭(本丸、二の丸、右郭)を配置しており、その周囲は水堀がめぐらされています。
駐車場から土橋を通り右郭に入りますが、何もありません。
右郭から土橋を通り二の丸に入ります。本丸へ続く西側を除いて土塁で囲まれています。
二の丸から土橋(土橋の上に木橋があります)を通り本丸に入ります。本丸へ続く西側を除いて土塁で囲まれています。
本丸の周囲は上端幅が広い土塁で囲まれています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=願海寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:白鳥城 (2022/07/31 訪問)

大峪城からの転戦です。城山公園駐車場(36.698247、137.166063)に駐車しました。
ナビが指定したルートは工事中で通行禁止。現地でルートを捜し、呉羽ハイツに向かうルートなら行けることがわかりました。
城山公園駐車場に着いた時、FMとやま呉羽送信所横(駐車場手前)で工事してました。

築城年代は定かではないようですが、古くは1183年(寿永2年)源義仲の部将今井兼平が御服山に陣を張るなど要害として活用されていたようです。
1537年(天正6年)には神保八郎左衛門が居城としていたとも云われるが定かではないようです。
神保氏は越中国中央部に勢力を持った国人で、1543年(天文12年)頃に神通川を越えて富山城を築き、新川郡を支配していた椎名氏と対立していました。
1560年(永禄3年)頃から越後の上杉謙信は圧迫された椎名氏を援助して神保氏を攻め、1562年(永禄5年)神保長職は呉増山に立て籠もってこれに抵抗したが敗れて城を去ったそうです。
1572年(元亀3年)西から攻める一向一揆勢により落城しました。
1578年(天正8年)謙信死後、越中が織田信長の支配に入ると、佐々成政が富山城に入り白鳥城は引き続きその支城となりました。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の佐々成政征伐では、秀吉の本陣が白鳥城に置かれ、白鳥城に籠もっていた前田氏の部将岡島一吉は南麓の安田城に出城を築いて移りました。 この頃に現在に残る縄張に改修されたようです。
佐々成政が降伏すると成政は新川一郡に減封となり、砺波・婦負・射水三郡が前田利家に加増されました。
利家は越中三郡を支配するため守山城に前田利長、木舟城に前田秀継、増山城に山崎長鏡、白鳥城に岡島一吉、城生城に青山佐渡を置き、佐々成政に備えたそうです。
1587年(天正15年)佐々成政は肥後に転封となると、1597年(慶長2年)には前田利長が守山城から富山城に移り、岡島一吉は白鳥城から安田城へ移ったそうです。

「FMとやま呉羽送信所」の道路反対側が駐車場で、城山には遊歩道が設けられ公園として整備されています。
西側の階段を登ると「東出丸跡」があり下って少し行くと空堀があり、階段を登ると三の丸跡になります。
三の丸跡の西に二の丸跡があり、間に横堀があります。
本丸下の空堀の横に井戸が残っているようですが、ヤブが凄く確認できません。
本丸には土塁が残り、案内板、平面図看板や「天測点」があり、一段高い土壇は天守台跡のようです。東方に富山の市街地が眺望できます。
本丸の北側に本丸下郭があり、間に横堀があるようですが、ヤブが凄く確認できません。
本丸下郭の北西側の堀切(木橋がついています)の先に北二の丸があり、西側に土塁が確認できます。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=安田城に向かいます。

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キンヤ

本丸の荒々しい野面積み石垣が見所の城 (2022/08/21 訪問)

本丸の石垣は、1576年からの金森長近による築城時のものと考えられるそうで、荒々しい野面積みで1番の見所でした。
但し、積み直しされた部分が多いそうです。お福池そば辺りの石垣は当時のままらしいです。

復興された大天守は古風な感じで、なかなかカッコよかったです。
天守内に展示してあった古絵図では、かつては御殿風の天守群だったようです。

城下町は雰囲気良く武家屋敷や清水などを巡り楽しかったです。
武家屋敷旧田村家の庭には、外堀の土塁が城下で唯一残ってました。
名水の町で、かつては殿様の御用水に使われていた湧水の御清水では飲むことができ美味しかったです。

近くの光明寺には元は二の丸・三の丸間の鳩門だった立派な移築門がありました。

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肉球

駅から徒歩0分 (2022/08/23 訪問)

佐野駅北口を出ると三の丸跡。 
江戸時代初期に廃城になっていますが
発掘調査で色々遺構が確認されています。
犬走りが二の丸西側に僅かに見ることが出来ます。
しかし殆どの遺構が保存の為埋め戻され地中に眠っているようです。
城山公園東側にある城東中学校の北東部まで歩けば堀跡を確認できます。
佐野厄除大師で知られる惣宗寺の山門は佐野城の大手門と言われています。

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おっちゃん

白巣城縄張図 (2019/07/13 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

旧柏原藩織田邸平面図 (2017/05/07 訪問)

現地案内板より抜粋

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赤い城

日蓮入滅の地 (2022/08/14 訪問)

有名な池上本門寺の隣にある本坊本行寺が館跡とされています。
日蓮宗の開祖である日蓮が入滅した地でもあります。
土塁が残ると言われていますが恐らく紀州徳川家墓所横なのではないかと思います。
ただし館の土塁なのか墓所を守る土塁なのかはわかりません。
隣の本門寺には加藤清正寄進の石段や戦国武将関連の墓もあるので見どころはあると思います。
石段を何度も往復する人もおり写真には苦労しました。
あっ、猪木世代の私では萌えませんが力道山の墓もありました。
なかなか立派なお寺です。

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おっちゃん

清水城案内図 (2017/11/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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肉球

綺麗な公園に整備されました (2022/08/23 訪問)

2006年以来の訪問でした。
陣屋跡の案内板などは当時のままでしたが絵図面に描かれている池が整備されたのか綺麗な公園が整備されていました。
陣屋南側の僅かに残る土塁の上には堀田稲荷神社が鎮座しています。
表門は陣屋北西にある東光寺に移築され裏門も東光寺から北にある病院に移築されています。

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カズサン

【遠江・市野砦】静岡県浜松市 今川氏の砦案内板のみ (2022/08/27 訪問)

 市野砦は浜松市の広報で紹介されて居ましたので、浜松城の大河ドラマ館建設工事の様子を見た帰りに寄って見ました。
 住所:浜松市東区市野町167-1に在る宗安寺山門の道を挟んだ対面に浜松市の歴史遺産【市野砦】の案内板がある。
 案内板がある草原一体南側が市野砦との事ですが遺構は無く案内板が有るだけです。

 今川氏親が永正10年(1513年)斯波氏に味方する井伊領を攻めるために市野砦に布陣、桶狭間の戦いで今川義元討死し遠州忩劇なる国人衆の叛乱が起き今川氏真が市野砦周辺で攻防戦が永禄7年(1564年)繰り広がった所でした。
 市野砦は宗安寺辺り一帯が市野町の本村に当たり、天龍川の本・支流が縦横に流れる土地の内、比較的安定しており、浜名湖北回りの東海道(のちの姫街道)が通るこの地は古くから要衝でした。
 (案内板抜粋と加筆)

 曹洞宗宗安寺に駐車場が在り利用可能かも?案内板横にごみ集積場が有り小スペースに路駐可?、宗安寺三重塔が有り浜松では方広寺三重塔と双璧です。
 東名高速浜松ICの近く宗安寺住所をナビに入れれば案内板に辿り着けます。
 

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JPN-AZE

With the great view (2022/08/19 訪問)

2022年8月19日朝、真田本城跡こと松尾城を訪問しました。行って気付いたのですが、城址に着く前の道が、割と狭かったです。リンカーン・ナビゲーターや、キャデラック・エスカレードのようなフルサイズSUVだと、ちょっときついかもしれません。私の車はMazda CX-3なので、特に苦労はなかったです。城址に、建物の類はなかったですが、城址の標高が890mなのもあるせいか、見事な信州の山並みを見る事が出来ました。

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朝田 辰兵衛

「帰りのバス停は,どこになりますか?」 (2020/12/20 訪問)

公共交通利用の場合,王道は掛川駅前から路線バスだと思います。最寄りは「土(ひじ)方」バス停。このバス停周辺は変則交差点となっています。向い側に帰りのバス停が見えなかったので,「帰りのバス停は,どこになりますか?」と運転手さんに尋ねました。だいぶうしろで,交差点の向こう…。これは聞いといて正解だと。
この日以降,ほぼほぼ毎回「帰りのバス停は,どこになりますか?」と確認するようになりました。
私の他にもバス攻城者がおられました。意識的に距離を置きましたが,帰りの「土(ひじ)方」バス停で一緒となり苦笑い。少し息が上がっている感じに見えたので,感染予防の観点から声掛けは控えました。

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津城 (2022/08/28 訪問)

続日本百名城

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松阪城 (2022/08/28 訪問)

日本百名城

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田丸城 (2022/08/28 訪問)

続日本百名城

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伊賀上野城 (2022/08/28 訪問)

日本百名城

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霧山城 (2022/08/28 訪問)

続日本百名城

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岐阜城 (2022/08/26 訪問)

日本百名城

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くらのり

山形城 (2019/06/15 訪問)

別名「霞城(かじょう)」「霞ヶ城」と呼ばれています。城郭構造の基礎は、最上善光の時代に作られ、鳥居忠政の時代に現代の形に整えられました。
江戸時代には山形藩の政庁が置かれ、現在は武家屋敷群のあった三の丸が市街地化しており、本丸、二の丸跡は霞城公園として整備されています。山形城の建造物は、大手南門が万松寺山門として移築され現存しています。
現在、本丸全体の発掘調査を行っており、本丸枡形門の復元を完了することを計画しています。三の丸跡からは奈良時代~平安時代のものと推定される竪穴住居跡6棟が発見されました。

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くらのり

平田城 (2019/04/30 訪問)

戦国期は、在地領主野仲氏の居城。野仲氏は城番として平田氏を置く。黒田氏入部時に攻撃され落城。その後、平田城は黒田家の重臣栗山利安に与えられ、石垣作りの城へ造りかえられたと考えられる。
遺構の残存状況は城域は二つの丘陵に及ぶ。南側の忠霊塔のある丘陵斜面には、16世紀末の石垣がある。算木積みが未発達な点など中津城跡と共通する特徴がある。築石部は布目崩し積みになっている。

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