ぶぜんまつやまじょう

豊前松山城

福岡県京都郡

別名 : 松山城、神田城
旧国名 : 豊前

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①	JR苅田駅東口から見た松山城
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トク

21【秀吉の九州平定をたどる②】豊前松山城(秀長九州上陸の拠点) (2026/08/18 訪問)

JR苅田駅からコミュニティバス(北ルート)に乗り15分、「松山城登山口」で下車しました(写真①⑩)。登山口に置いてあった杖を借りて(写真②)、そこから標高128mの山頂にある松山城の主郭へ。30分で山頂の主郭に到着しました(写真③)。

豊前松山城は、古くは大内氏・毛利氏・大友氏が争奪戦を繰り広げた城で、1561年には大友に勝利した小早川隆景が入城しています。しかし1569年門司城の戦いの時は、大友宗麟が奪い返し本陣を敷いた場所とされています。現在残る城跡は、秀吉の九州平定後に豊前の地を与えられた黒田官兵衛が、領地の北端を守る城として整備したものが残っているそうで、発掘調査で官兵衛時代の瓦が発見されたそうです。主郭には官兵衛時代の石段や虎口が残っており(写真⑦)、二ノ丸には土塁と空堀などが残っていました(写真⑧)。その下に畝状竪堀や石垣もあるらしいのですが、そこは草に覆われていてよく分かりませんでした。

1586年10月九州平定の先遣隊として毛利勢(毛利輝元・吉川元春・小早川隆景)と黒田官兵衛合わせて2万5千が九州に上陸し、高橋元種や秋月種実の支城である小倉城やこの松山城を攻め落として、本隊上陸への足掛かりを作ります。そして翌年3月、下関から門司へ上陸した秀吉は小倉城へ入り、秀長は毛利・黒田勢がすでに入っていたこの松山城へ入ったとされています。その数合わせ総勢20万! そして小倉で軍議を行い、陣ぶれを決め、秀長軍はこの天然の良港である苅田港を物資・兵站の拠点とし、出陣の準備を整えたようです。

その3カ月前の12月、豊後への先遣隊として入った仙石秀久・長曾我部元親の四国連合軍が、戸次川で島津家久に何と惨敗してしまいます。そしてこの時、家久は大友館を焼き払い、臼杵城に籠城する大友宗麟を攻めていました。

松山城は180°周防灘が見渡せる絶景の場所で、とても眺めがよかったです。門司やその遠くに見える陸地は山口県です(写真④)。平成の人工島(北九州空港)も眼下に見えました(写真⑤)。夏なので草が多かったのがちょっと残念でしたが(笑)。ここだったら確かに関門海峡や周防灘を行き交う船が見渡せ、全軍を監視できる場所だったと思います。

軍議の後、東九州を任された秀長は10万の大軍を率いて出発、豊後大友氏の救援に向かいます。しかし豊臣軍の南下を知った島津軍が豊後から撤退したため豊後での戦は無く、戸次川から高崎山城を経て逃げて来た大友義統と龍王城(宇佐)で合流し、さらに秀長は島津討伐のため日向を目指して南下して行きました。

この時の秀長は、いったいどんな気持ちでいたのでしょうか? 大友氏や四国連合軍を破った戦上手の「島津」は必ずどこかで反撃して来るはず。彼らはどうやって攻めて来るのだろうか、本当は未知との強敵に、震えていたのではないでしょうか?

次は、小倉を出発した秀吉と官兵衛が密談をした地(馬ヶ岳城)を訪れます。
 

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にのまる

北九州空港の近く。 (2026/05/29 訪問)

諸々の用事を済ませに実家に滞在中、隙を見て出かけてきました。

駅から登城口までは約2km。
「松山城登城口」に停車するコミュニティバス(ゆめシャトル)がありますが時間が合わなかったため徒歩で向かいました。

登城口で作業をしていらした方にご挨拶したところ「ゆっくりー」と見送ってくださいました。
登城路は案内板、杖、階段、ロープと至れり尽くせりです。苅田町作成のPDF版ハイキングマップで土塁、石段、虎口、主郭などを確認しながら、15分ほどで山頂に到着しました。立入禁止区域も多かったですが、大切な遺構の保全と登山者の安全のため。守る会の方々に感謝です。

久しぶりの山梨県外の🏯でした。

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送りバント

20170909豊前松山城(福岡県京都郡苅田町) (2017/09/09 訪問)

南麓の専用駐車場から急勾配の登山道を登ること20分ほどで一の郭へ

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藤原広嗣 (2024/12/27 訪問)

 天平12年(740)に、反乱を起こした藤原広嗣が築城したと伝えられています。中世には周防の大内氏あるいは毛利氏と豊後の大友氏の間で攻防戦が繰り広げられました。豊臣秀吉の九州平定後は黒田氏、細川氏が慶長11年(1606)に破却されるまで城番を置いていました。
 縄張り図を見ると、かなり見どころが多くありそうな城址ですが、平成30年7月の大雨による土砂崩れのため、多くの場所が立ち入り禁止となっています。登って下りてくるだけの登城になりました。事前にネット情報で知ってはいましたが、残念です。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 藤原広嗣
築城年 天平12年(740)
主な改修者 長野助盛、細川氏
主な城主 藤原氏、神田氏、平氏、城井氏、大内氏、大友氏、毛利氏、黒田氏
廃城年 慶長11年(1606)
遺構 曲輪、石垣、土塁、竪堀
指定文化財 町史跡(松山城跡)
再建造物 説明板
住所 福岡県京都郡苅田町松山
問い合わせ先 苅田町生涯学習課まちの歴史担当
問い合わせ先電話番号 093−434−2212