たけくまじょう

武熊城

茨城県水戸市

別名 : 武熊館、武熊故城
旧国名 : 常陸

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城址碑
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柳堤の材料になったお城 (2024/03/27 訪問)

 JR水戸駅北口から水戸城の南側を通る国道51号を進み、常磐線と桜川を渡り、川に沿って東に進んだ路地に入ったところにある水戸市竹隈市民センターの東側に城址碑があります。
 慶安4年(1651)に千波湖に築かれた柳堤(りょうじょう)の築造の際に、武熊城跡から採土が行われ、城跡は消滅してしまい、遺構は残っていません。
 城に関する地名については一部残っていて、石碑から北東に少し行ったところに「搦手橋」という桜川にかかる橋が現在も存在しています。
 また国道51号近くの柵町児童公園には、柳堤の石碑があります。武熊城の土で築造された柳堤も、大正から昭和初期にかけての千波湖の東側の埋め立てで失われてしまったようです。ですが柳堤の名前は、こちらも桜川にかかる橋の名前としては現在も残っています。

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カズサン

城名石碑だけでも有難い (2023/11/12 訪問)

 常陸吉田城を終えて水戸城方向へ移動し丁度中間に在る武熊城に初登城。水戸城からは南東に1.5km程の水戸市竹隈市民センターの東角に城名碑が側面に由来書きで立っています。

 駐車場:水戸市竹隈市民センターの駐車場を利用
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップに依ります。

 竹隈市民センターに車を駐めて、東角の有る城名石碑を確認、側面の由来書きを確認し、周辺を確認するが住宅地、竹隈市民センター東角の生垣の中に石碑が立っている、ごみの集積地の様で黄色いネットが置かれてる。

 石碑の由来によると、かってこの地には東西550m南北400mに渡り武熊城が存在した。吉田の豪族石川望幹が築城したと伝えられる。その後江戸氏の支配を経て、天正18年(1590年)佐竹氏が水戸城を攻略し城主となるに及んで、一族の東義久の居城となった。
 佐竹氏移封後は廃城と成った。慶安4年(1651年)柳堤築造の時、採土されて城跡は無くなった。と記されています。
 
 この後近くまで来ましたので水戸城へ、イチョウのモミジを観たさに寄りました。
 
 

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赤い城

石碑の所はゴミ置き場に (2022/05/15 訪問)

別に行かなくても良いのに再訪。
難台山城で消耗した体力をスタミナラーメンで回復しましたが全く体力を使うことはありません。
竹隈市民センター周辺が城跡ですが遺構は全くありません。
すぐ近くを流れる桜川が天然の堀だったのでしょうか。
当時は水戸城の周辺から台地で繋がっていたそうです。

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じゅんじん

市民センター (2022/01/16 訪問)

昔は水戸城がある台地が伸びてその端部に築かれていたとのことです。干拓で切り取られ今では城址碑のみです。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 石河望幹
築城年 延文年間(1356〜1361)
主な城主 石河氏、江戸氏、東義久
廃城年 慶長7年(1602)
遺構 消滅
再建造物 石碑
住所 茨城県水戸市柳町2