毛利元就が国人領主だった頃の旧本城を目指す。
三万の尼子氏の軍勢を迎え撃った舞台(?)とも言われているが、行ってみると確かに毛利軍二千が立てこもるには狭い感じだ。郡山合戦で尼子軍が陣を敷いた青山、光井山は本丸から目と鼻の先に見える。
旧本城と本城を比べれば毛利家の躍進が一目瞭然だ。
なお、旧本城方面の案内は明確だが、最後の本丸切岸を登る箇所は不明瞭でこんなとこを登る!という岩肌だ。
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2021/12/20 08:56
旧本城を中心に再訪 (2021/12/12 訪問)
毛利元就が国人領主だった頃の旧本城を目指す。
三万の尼子氏の軍勢を迎え撃った舞台(?)とも言われているが、行ってみると確かに毛利軍二千が立てこもるには狭い感じだ。郡山合戦で尼子軍が陣を敷いた青山、光井山は本丸から目と鼻の先に見える。
旧本城と本城を比べれば毛利家の躍進が一目瞭然だ。
なお、旧本城方面の案内は明確だが、最後の本丸切岸を登る箇所は不明瞭でこんなとこを登る!という岩肌だ。
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2021/12/20 08:50
天守再建60周年 (2018/10/03 訪問)
紀州攻めの後、羽柴秀吉の命により羽柴秀長が藤堂高虎を普請奉行として築いた城で、桑山氏が城代(後に城主)を務めましたが、関ケ原の戦いの功により浅野幸長が城主となりました。浅野氏の広島藩転封の後は徳川頼宣が入城し、御三家・紀州徳川家の居城として明治まで続きました。廃城令により建物の多くが撤去(移築)される中、遺された国宝指定の天守群も和歌山大空襲で焼失しましたが、戦後、市民の強い要望によりRC外観復元で再建され、現在も虎伏山の上に聳え立っています。
虎伏山に本丸や天守曲輪、山麓に二の丸をはじめとする各曲輪を配した平山城で、豊臣期には大坂を守るための城として南東側(現在の岡口門あたり)が大手とされましたが、浅野期になると、逆に大坂への抑えとして北東部に蔵の丸、下の丸を設け、北東隅の市之橋門を大手としました。豊臣滅亡後の徳川期には、御三家の居城に相応しく大規模に拡張されて西の丸、砂の丸、南の丸が設けられ、「南海の鎮」と呼ばれる巨城となりました。
和歌山城は小学生の頃にプラモデルを作ったり遠足で訪れたり、子供が小さい頃には城内の動物園に連れてきたり、40年以上にわたって馴染みの深い城で、100名城のスタンプラリーも和歌山城から始めていますし、仕事ついでのちょい寄りで(続)100名城の中で最も多く訪れている城なんですが、あまりに身近すぎて、これまでちゃんと投稿したことがなかったな…ということで、過去の登城から何度かに分けて投稿させていただきます。
3年ほど前になりますが、再建60周年を記念して天守が無料開放されていましたので、仕事ついでに登城しました。東内堀越しに天守を仰ぎつつ現存の岡口門から入ると、岡口門内側の石垣には多聞櫓に上る合坂が設けられています。岡口門から東内堀沿いに巽櫓まで続く土塀は漆喰が剥がれ落ちて無惨な有り様です。貴重な現存土塀なんですが…。
表坂を上って天守曲輪へ。和歌山城の天守群は三重三階の大天守に玄関のある小天守が連結し、天守二の門、二の門櫓、乾櫓、台所を多聞櫓で結んだ連立式で、台所には岩盤をくり抜いた埋門が設けられ、水の手曲輪に通じています(通常非公開)。天守はさほど大きくはありませんが、眼下に天守曲輪、遥かに紀の川河口を見渡すことができます。また、天守内には紀州徳川家ゆかりの品などが多数展示されています。
この日は天守再建60周年の横断幕やのぼり旗をあちこちで見掛けましたが、戦災で焼失はしたものの、図面や様々な方向からの写真が数多く残っていたため、往時とほとんど違わない姿で再建された天守群を今も虎伏山に仰ぐことができるのは嬉しいことですね。徳川御三家のお城はやはり県民の誇りです。
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2021/12/20 07:37
お城EXPO 2021 (2021/12/19 訪問)
行ってきました! お城EXPO 2021。
今年は三浦と多古の、これまで私には馴染みのなかった時代を学習し、
セーシェル共和国?
アンティグア・バーブーダ?
何故か国旗のお勉強。
プランAが叶わなかった心残りはあるものの、プランBで充実!充実!
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2021/12/20 06:58
2巡目の続日本100名城のスタンプラリー44城目 (2021/11/03 訪問)
小学館のビジュアルワイド「日本名城百選」に載っていたので続100名城選定の遙か前に訪れてその素晴らしさには触れていましたが、続100名城選定によって整備がどんどん進んで嬉しい限りです。昔はなかった駐車場もこんなに用意されているとは。案内所が出来てからは初めての攻城でした。個人的には、100名城の佐倉城以上、千葉県の城で最も好きな城です。ただ、セッテイ山には相変わらず整備の手が入っていません。いつか、きれいに整備されて壮大な空堀を拝めるようになりますように。
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2021/12/19 23:15
屏風折れ土塀が復元されたお城 (2021/12/18 訪問)
昨年、「屏風折れ土塀」が復元されたと城びとの記事「理文先生のお城NEWS解説」で紹介されていましたので、見てきました。
この「屏風折れ土塀」や「二之丸丑寅櫓」には人があまりおらず、本丸丑寅三重櫓ばかり写真撮影で人が集まっています。
こちらの方が全国でも珍しい復元なのに分っている人は少なく残念です。
地元の取組に感謝します。
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2021/12/19 22:28
2021/12/19 22:22
寺部城(愛知県西尾市):小笠原諸島を発見した幡豆小笠原氏の居城 (2021/12/17 訪問)
愛知県史跡整備市町村協議会が主催するイベント「あいちの史跡をめぐって」で西尾市西幡豆の寺部城を知り、行ってきました。
このイベントは指定された史跡を巡りその土地の指定施設で写真を見せると「御城印」や「御史跡印」を無料でいただけます。
寺部城は徳川家康の水軍を率いた幡豆小笠原氏の居城。
小高い丘の上に公園として城跡が整備され、本丸は三河湾を望み、本丸、本丸の土塁、二の丸、空堀の遺構があります。
歴史として城主の幡豆小笠原氏は、家康の関東移封に伴い、上総国周准郡の領地を賜り、江戸湾を守る御船手を務めた。
その後、家康に南海渡航の許しを得て、小笠原諸島を発見し、その名前がついたようです。
麓には、薬師如来の威光がかかった「寺部の立岩」がある。
この岩は、多くの石工が目をつけていたが誰も割ることが出来なかったと言われています。
一般的に知られていないですが行ってみると重要な歴史のある城跡でした。
このイベントが無ければ、知ることもなかった城跡ですが、出会えて良かった。
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2021/12/19 21:42
やっと行けました〜 (2021/12/19 訪問)
いつも近くまでは行くのに、寄れずにいましたが、今日はやっと念願かなって登城できました。時間が限られていたので櫓も展示もゆっくり見れませんでしたが、また次回の楽しみにとっておきます。
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2021/12/19 21:09
歴史的には意味深い城だが空中に消えた (2021/09/11 訪問)
上杉麾下にあった上田氏が伊勢氏の調略に乗り権現山城に籠ったことが上杉氏の武蔵支配に亀裂を生むきっかけになったという点で歴史的になかなか意味深いお城なのだが、肝心の城跡は幕末の土取りで空中に消えてしまった。
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2021/12/19 19:13
2021/12/19 19:07
2021/12/19 18:42
中世山城の教科書 (2021/12/18 訪問)
のような作りの城。(直線上に配置された曲輪。竪堀、畝状竪堀群、土塁を見事に配置。)
案内板が少ないので縄張り図をダウンロードして登城しないと見逃しが多くなりますよ。
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2021/12/19 18:22
2021/12/19 18:06
この城は、いつか負けないが名城で紹介されます!・・・が、危険なルートは無理に行ってはならんです。 (2021/10/18 訪問)
以前子供と大分県の水族館(うみたまご)に行った際、お土産ショップの中にあった中津市のパンフレットを持って帰ったのがきっかけで、黒田官兵衛ゆかりの地として紹介してあったこの城に興味を持っていましたが、100名城(続100名城)を優先していた事もありずっと行きそびれてました。しかし、コロナを機に近傍の名城を求め、決意新たに攻略にかかりました。
また、この城を攻略するにあたり、ジーパンに長袖シャツというスタイルはもう通用しないと決心し、トレッキングシューズ、ウエア、帽子などを買いそろえました。ただこの時は、手袋を買い忘れてしまった事を後悔するとは思ってませんでした…
当日は快晴。事前情報で4~5時間は掛かるという事でしたので、長岩城のパンフレット持参して見逃さない様に登城しようと思い、耶馬渓支所に寄りました。玄関付近にパンフレットがあるかと思ったのですが、見当たらずにキョロキョロしていると、受付の方、歴史課の方が連携して丁寧に対応してくださり、誠に恐縮で…登城前から耶馬渓のファンになり、暖かい気持ちになりました。
車は長岩城の旗がなびく専用の駐車場に停め、攻略を開始しました。『石積櫓』は絶対に見たかったので、体力がある前半にそちらに向かい、後半で本丸に向かう計画でしたが、それは結果としてよかったと後から思いました。このお城は写真や言葉では伝えきれない程、石垣(石塁)が随所に残っており、本当に飽きる事はありません。ただ、『石積櫓』に行く際の梯子、その先の断崖上の通路は、他諸先輩方のコメント通り…本当に危険です。足腰に自信のない方、小さなお子様は止めた方がいいです。私も行きはそうでもなかったのですが、『石積櫓』からの帰りは恐怖で、頼りのトラロープではささくれが指に刺さり、地面を這うように手を付いた際は松の葉が刺さり、両手の指を負傷しながらも梯子を下りた時は「ホッ」としました。その後、本丸への道筋を進むと、長大な石塁が頂上側へ向かって連なるという壮大な景観に出会えます。こっちのルートは安全ですし、見応えも十分あるので、危険を回避したい方はこちらだけでも楽しめると思います!ちなみに、私は下山した際に別ルートで弓形砲座に行く体力が残って無かったので、無理せず撤退しました…
【駐車場】
長岩城駐車場:登山口付近の道路脇(向かって道路の左側です)
旧永岩小学校:長岩城駐車場のちょっと先(向かって道路の右側、臨時駐車場と表記あり)
【トイレ】
長岩城駐車場の横に、綺麗な水洗トイレがあります。
【装備】
トレッキングウェア&シューズ、帽子、手袋(必須)、トレッキングポール(梯子や断崖上では収納を)
【時間】
約4~5時間(本丸側だけなら2~3時間)
【目印】
カーナビ:永岩小学校(私のナビは10年前のトヨタ純正です…)
登山道:長岩城駐車場から記帳所を経由して登山道まで全体が見えます。
【親子】
本丸側:小学校 高学年~
石積櫓側:高校生~、足腰に自信のある方
【モデル】
中津市 耶馬渓支所 → 石積櫓 → 本丸 → 下山
【 + α 】
帰路の途中、山国町の道の駅で巨大な「なし」(3個で1200円)を買いました。ハンドボール位あったのでそのインパクトで家族が驚くかな~と思ってましたが、あまりの美味しさで直ぐになくなり、その味で家族を驚かせる結果になりました。来年も買おうと思ってます!
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2021/12/19 13:15
笑路城 (2021/11/28 訪問)
【笑路城】
<駐車場他>駐車場はなし。国道423号脇鳥居のある<34.974385, 135.520159>のポイントに駐車しました。
<交通手段>車
<見所>堀切・石垣・枡形虎口・虎口礎石
<感想>笑路城は松尾山城とも呼ばれ永享年間(1428~1441)に弥勒寺別院庄西の笑路に入部した長澤(中澤)六郎正綱が築いたと伝えられます。長澤氏は戦国時代には波多野氏に従属して長澤家綱の代には明智光秀の丹波攻略に抵抗したがのちに和睦し光秀に従属した。家綱は光秀とともに山崎の合戦に従軍して討ち死にしたようです。
順路は上記ポイントに駐車し谷小屋近くの登城口、グリップの付いたワイヤーを外して通ります(電気柵注意)。進んで網がかけられた害獣よけのフェンスを通ってここから山に入ります。あとは矢印の付いた火の用心の道標通りに進めば城跡東端の大堀切に出ます。
城跡は東西に長い感じで山頂の主郭を中心に東側に大きい二郭があります。二郭の東端が先述の大堀切で谷に沿って2条程の竪堀、二郭の大切岸など見応えがあります。二郭内の東端に土塁があり大石が転がっているので大石でできた石垣造りだったと思われます。進入口周辺にも石垣跡が見られます。二郭中心の南側にも石垣造りの枡形虎口が明瞭に分かります。主郭は山頂部の帯郭より3~5m程高い土塁上、東西に長い削平地になっており西側一角に仕切石塁があります。東側に送電線の鉄塔がありますが整備されているおかげで石塁の南北2か所の虎口、北側の虎口は方形の礎石が見られます。主郭南側に石垣枡形虎口、脇に天守台跡が残ります。主郭の鉄塔側はかなり見応えがあります。主郭北西側に数m下がって腰郭がありそこを繋ぐスロープ状の遺構、内部に巨石が残ります。主郭西側は腰郭、さらに西が堀切になっています。堀切先が段郭になっているそうですが行きませんでした。
天守台や主郭法面に所々に残る石垣や腰・帯郭に落ちた転落石が沢山あって、当時は主郭は石垣で取り巻いていたことが想像できます。高さ面積が大きいので光秀時代に改修されたものだろうか?高い技術力を感じました。当時の雰囲気を濃く残し感じ取れるいい城跡でした。JR亀岡駅の観光案内所に御城印販売しています。
<満足度>◆◆◆
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2021/12/19 08:28
2021/12/19 00:22
expo
参戦してきました。
中井均先生と平山優先生のプログラム受講がメインで、あとは行きたいお城のパンフレットもらったりお得な書籍をゲットしたり。城びとの投稿でかわいい♡と思った中城城のキーホルダーもいただきました!
「小・中学生 城の自由研究コンテスト」毎年すごいなぁと思って見ています。ひとつのお城に全力で向き合って疑問を解決し、自分の答えを導き出す。知りたい、やってみたいと思ったことには手抜きも妥協も一切なし‼︎見習いたいです!
…と言いつつ、明日はノー勉で「城好きNo.1決定戦」に立ち向かう予定です。。。
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2021/12/18 22:59
2021/12/18 20:53
家康公が眠る城 (2021/12/11 訪問)
甲陽軍鑑に「駿河に久能、甲州に岩殿、上州の吾妻」と並んで武田の三名城と称される久能山城は、武田信玄公が駿河の今川を攻め滅ぼせると築城した山城です。築城前は、山岳信仰の天台宗の寺であった久能寺で、この地は信玄公が立地的に重要とし、強制移転させたといわれています。こうして信玄公は馬場美濃守・山県三郎兵衛の二人に命じて、三方を断崖絶壁に囲まれた難攻不落の山城を完成させました。
武田氏没落後は、中村一氏が駿府城主となり、この久能山城を守備したが、1607年再び徳川家康公が大御所として駿府に入ると、堅固な城として、本多上野介が守備に就いた。
家康公は「久能山は駿府城の本丸と常に思召す」と言われるほど重要視していました。
現在の久能山城は、2代将軍秀忠公の命により徳川頼宣公が総奉行となり、大工中井大和守によって、1年7ヶ月で見事な社殿(国宝)を構える久能山東照宮として神君家康公を祀っています。また、家康公が眠る神廊があり、家康公のメッカとされています。
御祭神は徳川家康公 相殿豊臣秀吉公 相殿織田信長公を祀っています。
4度目の登城となりますが、2度目まではここが城であるとはつゆ知らず、いちご狩りしたあとに東照宮に参拝していましたが、城跡と知ってびっくり(@_@)城跡らしきものは残っていませんが、城跡としてみるとなるほどと納得する城跡です。
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2021/12/18 16:14
本丸から見た富士山 (2018/11/17 訪問)
晴れた日は真正面に富士山が見えます
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