むらさきじょう

紫城

岡山県高梁市


旧国名 : 備中

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曲がり角の道標と説明板
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成羽川から400mあまりの崖上 (2023/02/24 訪問)

先に投稿した土居庄屋跡を西に少しいくと、写真①の説明板があり、そこから時々現れる道標に従って進んでいきます。最後のT字路を右に行くと行き止まりで、駐車スペースがあります。紫城一番槍の織田晃司さんは、「登城口1歩目からススキの藪漕ぎ。おまけにイバラまで…それを抜けると笹藪。夏の登城は無理な気がする。」と書いておられたので、ゴム引き手袋と剪定ばさみを持参しました。写真③の登城口の表示がポール下方に落ちていてかつ裏を向いてたので、左側の舗装道を上がって行くとか、だいぶうろうろしました。夏場だと進入したくないほど、すすきが密生しており、イバラも混じってました。この時期なので、20mほどのすすき地帯を踏破して、熊笹地帯へ。
城域では、堀切や虎口などの説明札が朽ちつつも頑張っています。「横矢」がよいですなあ。城域は、下草なく、遺構が明瞭です。方形のⅠ郭の南側に方形のⅢ郭、Ⅳ郭。北側に、これも方形のⅡ郭が並んでいます。Ⅱ郭から西に伸びる尾根に堀切があります。北と東は400mあまりの崖です。写真⑨、⑩をご覧下さい。ダム湖が遥か下に見えます。帰りに、すすきの中のイバラを根本の方から切っておきました。
備前における下克上:赤松氏→浦上氏→宇喜多氏に興味を持って、2019年から、関連の城を巡り始めました。そのうち、宇喜多氏の敵役として、三村氏がちょくちょく登場するようになるのですが、備中の兵乱で滅んだことくらいしか取り上げられてなく、本を漁ってたら、地元作家 井瀬さんの「瀬戸の群狼」を見つけました。三村氏は、備中の覇者とされており、関連の備中、美作の城を巡り、その勢いで、今回の紫城をもって、城びと登録の岡山県の城を巡り終えました。この日のルートは、岡山道から高梁市に抜けて、三村氏が最後の拠点にした、備中松山城を遠望し、成羽川を遡って、備中松山城の前の拠点 鶴首城の下を通りと、これまたよかった。

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天空の郷 平川 土居庄屋跡 (2023/02/24 訪問)

紫城を主な城とした平川氏は、建武年間に、近江野洲郡平川から入部。その後、尼子氏、三村氏、毛利氏に挟まれた中、戦国期を生き残り、関ヶ原の後、毛利氏が減封されると、帰農して、領主的な庄屋となったと。
平川は、天空の郷を称しておられます。高梁川の支流の成羽川沿いから登っていくと、車道に「*合目」の表示が楽しい。登りきると、なだらかな起伏の小盆地に出ます。自動車がない時代では、下界から隔絶された感が。吉備高原は、侵食・堆積により、いったん平坦になった土地が隆起して、再び侵食が始まった準平原です。同じ準平原の大和高原と異なり、大きな川が深く切り立った谷を作っており、比較的平坦な高原上に人家、耕作地が展開されています。
集落の中に、土居庄屋跡があり、紫城訪問前に立ち寄りました。正面アプローチの石垣と敷地石垣が残っています。
庄屋跡から少し進むと、紫城の説明板かあり、そこを3kmほど奥へ行きます。

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織田晃司

いきなり藪漕ぎ (2022/02/26 訪問)

登城口1歩目からススキの藪漕ぎ。おまけにイバラまで…
それを抜けると笹藪。
夏の登城は無理な気がする。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 平川高親
築城年 延元元年〔南朝〕/建武3年〔北朝〕(1336)
主な城主 平川氏
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、虎口、土橋、井戸
再建造物 説明板
住所 岡山県高梁市備中町平川
問い合わせ先 平川の歴史をかたる会
問い合わせ先電話番号 0866-45-2343