(続き)
幸橋門は第一ホテル東京の北東部の交差点あたりにあったようですが、遺構はもとより痕跡すら窺えません。説明板もなく、かろうじて幸橋門の前の外堀に架かっていた幸橋の名がJRの高架下に見られるくらいです。
外堀は幸橋門で北に折れますが、土橋を隔てて東側に流れる汐留川に架かる新橋の北詰には芝口門が設けられていました。朝鮮通信使に国威を示すために江戸中期に築かれた門で、二重隅櫓を備えた豪壮な枡形門だったようですが、建造からわずか14年で焼失した後は再建されず、石垣も撤去されて、今では説明板と石碑が建てられているだけです。
芝口門の南東部(たぶん芝口門の隅櫓があったあたり)からは、北東に三十間堀と呼ばれる舟入堀が続いていました。汐留川と三十間堀の分岐点(高速出口近くのトイレの横)に三十間堀跡から発掘された石垣と説明板が設置されています。
このまま海岸通りを進んで浜離宮(浜御殿跡)にも行きたいところですが、開園前のため外堀に戻って山下門へ。山下門は帝国ホテルタワーの北東、JRの高架と丸の内線が交差するあたりにあったようですが、今では高架下に説明板があるくらい……かと思いきや、にのまるさんの投稿にあるとおり幸橋門側のJR高架沿いの道は深く沈み込んでいて、外堀の痕跡を感じます。
山下門から小学校の前を通って数寄屋橋門へ。数寄屋橋公園の東端に数寄屋橋の石碑が建ち、外堀に架かる数寄屋橋を渡ったところに数寄屋橋門がありました。現在の有楽町マリオン前あたりが門跡で、遺構も痕跡も見られませんが、数寄屋橋は数寄屋頭の屋敷が、有楽町は織田有楽斎の屋敷があったことに由来し、地名に往時の名残が見られます。
南町奉行所跡(別途投稿します)を訪れた後、鍛治橋門へ。鍛治橋交差点あたりが門跡で、交差点の南西部に説明板が設けられています。門そのものの遺構は見られないものの、鍛治橋門の近くで発掘された外堀石垣が外堀周辺の何箇所かに移設されています。
鍛治橋門から外堀通りを北に進むと東京駅八重洲口に至ります。八重洲という地名が、徳川家康の信任のもと朱印船貿易を担ったオランダ人、ヤン・ヨーステンに由来することは承知していましたが、八重洲地下街にはヤン・ヨーステン記念像が、日本橋三丁目交差点の西側中央分離帯にはヤン・ヨーステンのモニュメントが設けられ、丸の内側には丸ビルの南東隅にヤン・ヨーステンやウイリアム・アダムスらが豊後の臼杵湾に漂着した時の乗船・リーフデ号の彫刻があります。思えば、鎖国とされる江戸期にあって唯一の西洋との窓口であり続けたオランダとの交流はこの漂着から始まっているわけで、その後の日本に大きな影響を与えた出来事だったんですね。
…と、このあたりで時間切れ。ホテルに戻って出張2日目の仕事に向かいます(続く)。
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