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にのまる

36見附めぐり⑪~芝口御門~

 銀座8丁目交差点そばの高速道路のたもとに古い橋柱があり石垣のようなものが見えたので絶対ここだと思ったらそこは“銀座の柳”の碑で、芝口御門跡はドンキの横の向かい側のビルの角でした。
 説明板には『宝永7年(1710)に朝鮮の聘使の来朝に備えて新井白石の建策にもとづき我が国の威光を顕示するため……外桜田門に見られるような城門が建設されて…』とあります。外桜田門(一般に言う桜田門)は外枡形の大きな城門なので、あんなにすごいのがここにあったのか!と思いながら横の絵図を見ると、そんなもんじゃないカッコいい城門が描かれています。真ん中に大きな渡櫓。隅櫓もあります。家でよく眺めている江戸城の絵図で確認してみましたがこの形が描かれている門は他にありません。36見附に入っていないのが不思議でしたが、湊に近い南端であること、「我が国の威光を顕示するため」のもの、それから、わずか14年で焼失し再建されなかったということなので、人々の記憶にもあまり残らなかったのかもしれないと思いました。

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やま

凛とした平山城 (2021/09/02 訪問)

伊東氏と島津氏により、約100年にわたって激しくその領有権を争われた城である飫肥城を訪問。あまりに遠いので行けないだろうと諦めていましたが、九州出張の帰りの飛行機までの時間があったので、意を決して車で向かい登城することができました。ずっと想像していた通り凛とした静けさが広がる城跡で、激しい戦いがあったとはとても想像できませんでした。大手門を抜け中の丸(本丸跡)に登る階段は息をのむ美しさ。中の丸には日南市立飫肥小学校(藩校の振徳堂が前身)が建てられており、こんな静かで美しい城跡で勉強できる小学生がとても羨ましく思えました。旧本丸に上がるとも素晴らしい杉林が広がっており、想像を絶する美しさでした。遠かったけど行って良かった~。

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にのまる

36見附めぐり⑩~幸橋御門~

 現在の新橋駅の北側にあったようです。“新幸橋”の交差点や石碑はありますが、新がつかない幸橋は見当たらず。諦めかけていた時にJRガード下に「幸橋架道橋」「幸橋ガード」のプレートを見つけ、心の中でガッツポーズいたしました。御門跡とは関係ないかもしれませんが充分満足です。

 何か痕跡がないかとうろうろしていると「土橋」という交差点がありました。道路がカーブしている場所に素通りできないこのネーミング。城びとの習性で写真を撮り、帰宅後、江戸時代の絵図を見てみると幸橋御門から芝口御門にかけて、土橋・中ノ橋・新橋と三本架橋されており、この場所は土橋跡のようでした。(芝口御門は36見附には含まれていませんが、この後投稿します。)

 門跡の遺構らしきものは見つけられませんでしたが、前回投稿の虎ノ門とこの幸橋門の間にある日比谷セントラルビルには、かつて外堀を固めていた石積みが展示されています。説明板には普請に携わった九州の諸大名の名前が見られます。折敷に三文字の刻印は臼杵の稲葉一通のようです。(←今、検索しました)

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todo94

遺構なし (2021/11/13 訪問)

この城は遺構無しでいいんですよね。このところ遺構の見のがしが相次いでいるのでかなり不安になってしまっています。公園の一角に見つけた説明板だけしかありませんでした。

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十郎

道南十二館のひとつ (2018/05/02 訪問)

北側の郭と主郭部の間にある二重の空堀、8mの段差、主郭部の平面復元、山側の搦め手と見所満載。
何度でも行きたい。

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todo94

教信寺未訪 (2021/11/13 訪問)

三木城合戦の故地である野口城。野口神社のほど近くにある説明板のみで満足してしまっていました。教信寺に立派な説明板があるとはつゆ知らず。赴く前に城びとの投稿をチェックすべきだと海より深く反省しています。

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朝田 辰兵衛

お城EXPO 2021(前夜祭) (2021/12/17 訪問)

初めての前夜祭参加。一度,その雰囲気を味わってみたいと思ってました。全体的にゆるい感触だったので,リラックスできました。お堅いインテリビジュアルの平山優先生が,実は面白い方だった…というのが最大の収穫でした。
その平山優先生ですが,「どうする家康」の時代考証を担当されるとの発表がありましたので,ご紹介します。
前夜祭プログラムの中でも,平山優先生の自論による考察が一番面白かったです。信玄が三方ヶ原の合戦に持ち込むきっかけづくりと,家康への詰め方はゾクゾクしました。オチは,信玄の究極ともいえる一手に対して「どうする家康」と。場内の笑いを誘いました。
そうそう,抽選で御城印が当たりました。けっこう当選者がいましたので,あまりレアではないかも…。
なお,平山優先生の直筆サイン入り書籍が販売されていたので,衝動買いしてしまいました。

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小城小次郎

よくよく探せば (2021/09/11 訪問)

学校の許可を得て校内に立ち入った際の写真が散逸してしまい長らく「写真なし」の状態だったが、漸く再訪叶い七曲口からの風景をカメラに収めてきた。よくよく探せばあちこちに城の面影を残していることに気付けると思う。

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todo94

高砂神社 (2021/11/13 訪問)

現在、高砂神社となっている高砂城。姫路に入城した池田輝政が海岸防備のために築城した城と云うことで池田輝政の銅像が建っていますが、元和の一国一城令で廃城となってしまったため、なかなか短命な城ですね。高砂神社には能舞台やご神木のいぶきがあったりします。

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肉球

土塁あり (2021/11/02 訪問)

上杉氏によって築かれ中学校部分が本丸、
小学校部分が二の丸だったようです。
住宅が建ち並び地形の見極めが難しいですが
三嶋神社の裏手がかなりの高台で
中学校のグランドとなっているので
こちらが本丸のような気がします。
三嶋神社と岡津小学校の間に土塁が確認できます。

三嶋神社に駐車場があります
 
 
 
 

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新ろくべえ

玉縄城に行ってきました (2021/12/12 訪問)

玉縄城に行ってきました
この城は北条早雲が三浦半島に領地がある三浦道寸を攻めるための、 
足掛かり、そして抑えとして築城した平山城です。
そして初代城主として北条氏時が入りました。
三浦氏が滅亡してからは鎌倉一帯の防衛と北条水軍の拠点として存続しました。
歴代城主の玉縄北条氏は北条最強軍隊を率いて最前線で戦いました。
そして豊臣氏の北条攻めのため落城し、徳川の支配へと変わると本多正信、
松平氏といった徳川の重臣が城主となり、元和の一国一城令まで続きました。
そして現在は、城址として大きな塁壁(20m)のある諏訪壇や城主や家臣たちが蹴鞠を楽しんだ
蹴鞠場の曲輪や当時のままの堀切、七曲りを守るための三角広場、
火薬が保管されていた焔硝蔵とその小曲輪群があり、多くの痕跡があります。
(諏訪壇などは、現在立ち入り禁止のため清泉女学院中高等学校に事前に連絡が必要です。)

玉縄城については、玉縄城周辺にある龍寶寺の横にある、
玉縄ふるさと館に行けばわかりやすいと思います。
〔城情報〕
・分類       ❘平山城
・築城者      ❘北条早雲(伊勢宗端)
・歴代城主     ❘北条氏、本多氏、松平氏
・築城年      ❘1516年
・廃城年      ❘1615年
・主な遺構     ❘曲輪、堀切、土塁
・再建造物     ❘石碑、看板
・関係施設、場所  ❘龍寶寺、玉縄首塚など
・天守       ❘無
・駐車場      ❘玉縄ふるさと館裏にあり

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十郎

落ち着いた雰囲気 (2018/04/15 訪問)

竹林になってて、深い堀など見応えあり。
散策がてら行ったので次回はしっかり見たい。

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十郎

赤穂浪士の赤穂ですね。 (2018/03/24 訪問)

現在進行形で復元されているみたい。
見事な大手枡形や天守台など石垣も立派。

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十郎

圧巻の白城 (2018/03/23 訪問)

平成の大修理のあと、3年経ってましたが白かったです。
この時は桜の一歩手前だったのが残念でしたが、それでも圧巻の城でした。

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十郎

明石大橋が! (2018/03/22 訪問)

下から見上げるアングルがイイねー

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十郎

巽櫓と申坤櫓 (2018/03/22 訪問)

昔すぎて写真が一部なくなってましたが、場内のカフェで櫓を見ながら炬燵でお茶飲んでました。
また行きたい。

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やま

瓦林氏城跡 (2021/12/19 訪問)

子供の頃よく登った鷹尾山にある鷹尾城を築いた瓦林正頼公にまつわる城跡を自転車で回りました。鷹尾城址⇒越水城址⇒瓦林城址⇒富松城址の順で回りましたが、富松城以外は遺構がほとんど残っていない城跡でした。鷹尾城は登山口の案内板のみが残っていました。越水城はこちらも石碑のみしか残っていませんが、お城があったと思われる現在の住宅地が北側を除き、高台にあることがわかる地形で、特に東側の急な崖は恐らく切岸の跡かと想像できました。瓦林城は瓦林正頼公の居城で、1570年(元亀元年)に三好氏の家臣である篠原長房に攻められ落城した城ですが、こちらも城址に遺構はなく、日野神社の境内に城址碑が建てられていました。富松城は薬師寺氏によって築かれた城だと推定されています。戦乱のたびに城主が入れ代わった城で、三好長慶が摂津を治めていた時代には越水城の支城として利用されていましたが、織田信長の摂津進攻により越水城とともに放棄されたとのことです。現在城址には土塁、水堀の遺構が残っていましたが、柵が張り巡らされており、中には入れませんでした。

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イオ

西南外周めぐり (2021/04/05 訪問)

仕事の後、時間があったので和歌山城へ。城内は1年前にひとめぐりしていますし、外周も岡口門から西の丸までの内堀沿いは歩いたことがあるものの、西辺と南辺の外周は歩いたことがなかったかも(自動車では何度も走ってますが)、ということで、この日は西南辺の外周めぐりです。

吹上口からスタートし、西外堀沿いに南に進むと堀越しに天守群がよく見えます。連立式天守は見る方向によって違った表情を見せてくれるので楽しいですね。西外堀の南端で砂の丸の高石垣が国道側にせり出していますが、国道沿いの面(西面)はコンクリートで不自然に覆われており、近くの説明板によると、かつて高石垣は現在の国道の真ん中付近まであったのが、明治に路面電車敷設のために取り除かれたんだとか。そこから少し南に行くとまた高石垣が復活し、折れを加えながら追廻門まで続いています。追廻門は徳川期和歌山城の搦手にあたり、門前の馬場で馬を追い廻したことからその名が付いたとされますが、昭和の解体修理で朱塗りの痕跡が見つかったことから、現在は朱で塗られ「赤門」とも呼ばれています。

追廻門から南、さらに東へ。建ち並ぶ建物の合間から高石垣がずっと続いているのが見えます。そして不明門に到着。不明門は「不浄門」として通常は閉ざされていたとされますが、現在では和歌山城公園駐車場の出入口として多くの車が行き交っています(喰い違いで見通しが悪いのでご注意)。不明門の脇には、徳川吉宗の普請とされる切込接ぎ石垣による高櫓台が聳え立っています。

なお、不明門から道路を挟んだ南側の岡山には徳川吉宗が建立した時鐘堂があり、その鐘は大坂夏の陣で鹵獲した豊臣方の青銅製の大砲を改鋳したものと伝わります。岡山は高櫓台越しに大天守を望む高台(かつては砂丘)で、ここから江戸期のみならず大正に至るまで城下に時刻を撞き知らせていたそうです。

不明門まで戻り、岡山砂丘との間の切通道だった三年坂を東へ。南の丸との間の南堀は水を抜いて公園化していますが、石垣は往時のまま遺り、南堀越しに大天守を仰ぐことができます。そして岡口門でゴール。寄り道しながら約45分の散策でした。

この日は外周を北西部から南東部まで半周しましたが、石垣を除去した痕跡とか時鐘堂とか、マイナーながら意外に楽しめましたので、
主な見どころはめぐり尽くしたという方にはおすすめかもしれません。
 

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やま

有岡城址散策 (2021/12/19 訪問)

ロードバイクの修理ついでに、JR伊丹駅前にある有岡城址を散策。何度か訪れていましたが、今回はゆっくり見学してみました。とはいうものの、駅の西側に公園として整備された主郭部と土塁や石垣が少々あり、その外側には大きな空堀らしき公園がある程度でした。近くの寺社にも砦址などがありましたが、かつて激戦のあった有岡城を感じるには遺構が少なすぎる感はありました。ただこれでも関係者の方々により色々復元されたとの話を聞き、只々頭の下がる思いでした。

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やま

三日月陣屋 (2021/12/18 訪問)

西播磨城郭巡りの帰り道ふと見ると「三日月陣屋」の看板があり、慌ててハンドルを切り寄り道することに。突如立派に復元された物見櫓~通用御門が目に飛び込んで来てテンションが上がりました。閉館前なので慌てて見学しましたが、人がいなかったこともあり、ゆっくり写真撮影できました。裏地には現存の藩校舎があり、なかなか見どころがありました。三日月陣屋は播磨三日月藩の藩庁として津山藩森家の分家である森長俊によって築かれた陣屋とのことです。津山藩森家の改易に伴ってこの地に新規立藩したそうです。廃藩置県により陣屋は解体され、物見櫓と藩校舎のみ現存しています。少し離れた場所にたつの市新宮町にある西法寺に移築されていた表門もありました。

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