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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:上桜城 (2022/07/21 訪問)

川島城からの転戦です。説明板付近の空スペース(34.052816、134.318652)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、戦国時代末期に篠原長房によって築かれたと云われています。
篠原長房は三好義賢に仕え、1562年(永禄5年)和泉国久米田の戦いで先鋒を務めたが、大将三好義賢が討死して大敗しました。
義賢亡き後、遺児三好長治と十河存保及び阿波細川氏の細川真之を補佐し、阿波・讃岐の軍勢を率いて各地を転戦し、畿内の三好政権を支えたそうです。
1572年(元亀3年)長房の弟という木津城主篠原自遁の讒言により、三好長治、十河存保、細川真之が上桜城を攻め、長房・大和守父子は討死して落城したそうです。
長房の死後、上桜城は廃され、長房討伐で功績を挙げた川島惟忠が川島城を築城したそうです。

主郭に土塁、土塁の上に祠、祠の前に城址碑があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=平島館に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:川島城 (2022/07/21 訪問)

脇城からの転戦です。天守前駐車場(34.065861、134.3205)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)初期に川島兵衛進惟忠によって築かれたと云われています。
川島氏は三好長慶の甥にあたり200貫を知行していたが、1579年(天正7年)川島惟忠は脇城外の戦いで討死したそうです。
1585年(天正13年)阿波国に蜂須賀家政が入封すると、川島城には林能勝(道感)が城主となりました。
1638年(寛永15年)一国一城令により廃城となり、その跡には徳島藩の奉行所が置かれ、明治になるまで存続したそうです。

模擬天守は休館中ですが、阿波9城のひとつです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=上桜城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:脇城 (2022/07/21 訪問)

岩倉城からの転戦です。秋葉公園横の駐車スペース(34.073061、134.143611)に駐車しました。
脇城址入口付近の空スペース(34.074202、134.143109)に駐車できるようですが、そこに行くまでの道は狭い(軽自動車でギリ)との事前情報より、駐車場所から脇城址入口付近の空スペースまで歩いて(徒歩7~8分で着きます)向かいました。

築城年代は定かではないようですが、 戦国時代の初期に脇権守仲房の館があったといわれ、1533年(天文2年)に三好長慶が城を築いて三河守兼則が守っていたともいわれています。
その後、1557年(弘治2年)大和国より武田信玄の異母弟とも言われ、三好家家臣となっていた武田上野介信顕が脇城に入りました。
1579年(天正7年)信顕は岩倉城主三好康俊とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利しました。
1582年(天正10年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城へ押し寄せ、信顕・信定父子は讃岐へ逃れたが逃亡先で討たれました。
その後、長宗我部親吉が脇城に入った。親吉は元親の甥または叔父といわれる人物で一族の中では最も剛の者であったといいます。
1585年(天正13年)羽柴秀吉による四国征伐では三万の兵が押し寄せ、親吉は五千の兵でこれを迎え撃ったが、支えきれず開城しました。
1586年(天正14年)蜂須賀家政が阿波に入国すると家老稲田稙元が10,000石を領して脇城主となり、脇城を改修して阿波九城の一つとなりました。
阿波9城も1615年(慶長20年)の一国一城令により、1638年(寛政15年)に破却され、廃城となりました。

阿波9城のひとつです。
主郭と2郭間、2郭と3郭間に堀切が確認できます。
本丸は雑木や竹藪となっていますが、土塁や石積井戸があり、北側に深い横堀が残っています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=川島城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:岩倉城 (2022/07/21 訪問)

重清城からの転戦です。城址入口付近(34.073732、134.131645)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1267年(文永4年)三好郡領平右馬頭盛隆が叛乱したとき、阿波国守護小笠原長房はここに城を築いて盛隆を平定したといいます。
永禄年間(1558年〜1570年)には三好康長が岩倉城を築いて嫡子三好徳太郎康俊が城主となりました。
1578年(天正7年)康俊は脇城主武田信顕とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利しました。
1582年(天正10年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城も攻略して岩倉城にも攻め寄せ、康俊は降伏開城して逃れたとも討死したとも云われています。
豊臣秀吉の四国征伐で再び豊臣秀次等によって攻められ落城しました。
1586年(天正14年)蜂須賀家政が阿波国に18万石で入国後は、脇城は阿波9城(一宮城・撫養城・西条城・川島城・大西城・海部城・牛岐城・脇城・仁宇城)の一つとなりました。
阿波9城も1615年(慶長20年)の一国一城令により、1638年(寛政15年)に破却され、廃城となりました。

本丸の北側(本丸と2郭間)に堀切があり、その北側は墓地になっています。
本丸の南側に説明板と城主の墓がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=脇城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:重清城 (2022/07/21 訪問)

叶堂城からの転戦です。説明板入口付近(34.049301、134.013467)に路駐しました。

南北朝時代、1339年(暦応2年・延元4年)阿波国守護の小笠原長房の孫・長親によって築かれたと云われています。
1577年(天正6年)正月に城主小笠原豊後守長政は、白地城主大西覚養の弟で長宗我部氏に人質として送られていた大西上野介頼包と中鳥城主久米刑馬によって謀殺されました。
大西頼包は讃岐へ逃れていた兄覚養を長宗我部氏に降らせ、重清城に迎えます。
重清城を長宗我部方に落とされた三好氏は、十河存保が兵三千余りで押し寄せ城を取り戻したが、1579年(天正7年)長宗我部元親が大軍を率いて重清城に押し寄せ、十河存保は5,000の兵をもってこれに対応したが敗れ、重清城は落城しました。

土塁を巡らせた主郭があり、石積井戸が残され、中央に城主を祀った今にも崩れそうな小笠原神社があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=岩倉城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:叶堂城 (2022/07/21 訪問)

志知城からの転戦です。感応寺駐車場(34.326838、134.736863)に駐車しました。

1595年(文禄4年)志知城主加藤嘉明が伊予国松前に転封になった後、豊臣秀吉の直轄領となり代官として石川紀伊守光之が派遣されました。
その後、1600年(慶長5年)までに志知城は廃城となり、新たに志知城に代わる水軍基地として築城されたそうです。
しかし、間もなく光之は「関ケ原の戦い」で西軍に与して敗れたため、淡路国は阿波国徳島藩主蜂須賀氏の所領となり叶堂城は廃城となっています。
江戸時代には、築城時に北の松原に移されていた感応寺が1621年(元和7年)に再建され、徳島藩主・蜂須賀氏の庇護を受けて、石垣などが改修されました。

石垣と説明石板を確認しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=重清城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:志知城 (2022/07/21 訪問)

養宜館からの転戦です。声明寺付近空スペース(34.299894、134.745411)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代初期に菅和泉守道忠によって築かれたと云われています。
菅氏は淡路国三原郡野口村を拠点としていたといわれ、その後、菅氏あるいは野口氏を称したそうです。
南北朝時代以降、菅実正は足利尊氏に従い、細川師氏が淡路守護となって淡路に入部すると菅氏もそれに従いました。
1581年(天正9年)菅長宗のとき、織田信長の命により淡路に侵攻した羽柴秀吉らの軍勢により、志知城は降伏・開城しました。秀吉は家臣の黒田官兵衛を志知城に置いて守らせました。
1585年(天正13年)加藤嘉明が15,000石を領して志知城に入り、志知城が改修されと考えられている。
1595年(文禄4年)加藤嘉明は60,000石に加増され、伊予国松前に転封となり、その後は秀吉の直轄領となって代官が置かれたが、後に叶堂城に移され廃城となりました。

声明寺付近が城址跡らしいですが、何も見つけられませんでした。事前調査不足です。残念です。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=叶堂城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:養宜館 (2022/07/21 訪問)

洲本城からの転戦です。中八木集会所の空スペース(34.305223、134.795103)に駐車しました。

1340年(暦応3年・興国元年)足利尊氏の命により、淡路を平定した細川師氏によって築かれたと云われています。
それ以前に守護所があったとも云われていますが、定かではないようです。
以後、細川氏は7代約180年間にわたって淡路を支配しましたが、1519年(永正16年)7代・細川尚春が三好之長に謀殺されたため、この館も廃されることになりました。

薬師堂横に館跡碑&説明板があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=志知城に向かいます。

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赤い城

海老名氏の居館跡 (2022/07/18 訪問)

海老名SAから徒歩で15分くらいのところに石碑があります。
周辺がある館跡とのことですが住宅地となっていて遺構はありません。
海老名氏は源親季を祖とし、永享の乱で幕府軍によって滅ぼされました。
近くには菩提寺の寶樹寺跡にある霊廟や有賀神社、寶樹寺を統合した總持院などもあります。
散策してみるのも良いかと。

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POYO58

さすが日本一最強の城! (2022/08/06 訪問)

大坂城に行ってまいりました。大坂城はもちろん豊臣秀吉が築いたお城ですが、実は今現在あるものは全て徳川家康の遺構なんですよね。まあ正直僕は豊臣秀吉があまり好きではないので悲しくはないですが…。(豊臣秀吉のファンの人には申し訳ないです)
では豊臣秀吉とどのように違うのかというと、枡形虎口が設けられていること。この枡形虎口というものは通常江戸時代の城に多いです。ただ明智光秀の黒井城や織田信長の安土城にも枡形虎口はありますがそれは例外です。枡形虎口を設けることで四方から攻撃されるため攻めようがないです。また現在の大坂城の天守は8階まであり、日本ではとても珍しいです。ただ大坂城にはエレベーターが設置してあるため登るのは辛くないです。ただ城らしさが消えてしまう…。

評価
遺構:5
建物:5
行きやすさ:3
全体:5

攻城時間
2時間くらい

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POYO58

桶狭間合戦 徳川家康が初めて人を置いた城 (2022/08/04 訪問)

犬山城を終えて、翌日に桶狭間古戦場に行きました。豊明市にある桶狭間古戦場伝説地があったので近くのコインパーキングに車を置いて行きました。中は公園となっていましたが、石碑だらけ。そこらじゅう「〜家」と書いてある石碑があり、すべて塚でした…。戦争の激しさをかんじました。
この公園には他にも今川義元の墓や今川義元が討たれた場所も存在します。歴史を感じられる公園でした。その後大高城に行こうとした時に、桶狭間古戦場公園との看板がありましたが、一旦スルー。大高城へ向かう時に狭い道を通り、なかなか車では通れない道でしたので、近くで車を止めてチャチャっと攻城。少し坂道を登ると本郭?が見えました。そこに土塁らしきものがありましたが、当時のものか不明です。期待通りでなく、しょんぼりしながら、道を下っていくと、となりに大きい堀切がありました。ただその堀は見えただけで近くまでは行きませんでした。でも当時の遺構が一つでも見れたので嬉しかったです。その後本当は帰る予定でしたが、やはりさっきの桶狭間古戦場公園の看板が気になったので行ってみました。その公園には信長像と義元像がありました。また今川義元が合戦当時、馬を結びつけていたとされる木や今川義元の位牌を見ました。公園は歴史が楽しめるように整備されていてとても面白かったです。ただ気になるのは、この桶狭間古戦場公園と豊明市の桶狭間古戦場、どちらも歴史的な現存物があるのですが、どちらが正しいのかが不明です。

評価
遺構:2
建物:-
行きやすさ:1
全体:2

攻城時間
15分

※補足
すみません、豊明市の桶狭間古戦場伝説地の写真を撮っていませんでした。

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織田晃司

駅チカ物件 (2022/07/30 訪問)

上毛高原駅から徒歩約5分。
本丸と空堀が残る。
二の丸・三の丸は消滅

コンパクトながら見ごたえあり。土塁には石積も使用。

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吉良陣屋(岡山陣屋) (2022/08/06 訪問)

 地元では名君と知られる吉良上野介義央の陣屋です。東条城城主吉良義昭は徳川家康(当時 松平元康)によって追われますが、先代義安の子は取り立てられ旗本となっています。義定の子義弥は高家となり、義弥の孫が吉良上野介義央です。この陣屋は義定によって築かれたとされています。
 吉良上野介義央は治水や新田開発に業績を上げ領民からも慕われていたといわれています。その一例が黄金堤として残っています。たびたび起こる水害に領民は苦しんでいたとのことです。領民のため長さ180m、高さ4mの堤防を築き、その後水害はなくなり良田になったため、この堤防を黄金堤とよんで遺徳を称えたとされています。今では桜の名所として知られています。

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鎧ヶ淵古戦場 (2022/08/06 訪問)

 夏の古戦場めぐり第3弾は鎧ヶ淵古戦場です。といっても黄金堤を見に来て偶然案内板を見つけたものです。桶狭間の合戦の翌年、今川氏を離反した松平元康が吉良氏を攻めたときの古戦場です。このときは吉良氏が松平氏を敗走させています。

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吉良義昭 (2022/08/06 訪問)

 公園として整備されています。以前あった櫓と櫓門は老朽化のため撤去されていました。
 東条吉良氏の城です。写真に収めることができませんでしたが、城の近くに松平元康の軍勢が吉良氏を破った藤波畷古戦場の石碑があります。

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西条城 (2022/08/06 訪問)

 2度目の登城です。名鉄西尾駅から徒歩約15分くらいでしょうか。以前にはなかった丑寅櫓と屏風折れの土塀が再建されていました。公園として整備されていて歩きやすい城址です。

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織田晃司

にくまれそうなNEWフェイス (2022/07/30 訪問)

山上城址公園の三の丸は芝生広場となっていて市民の憩いの場となってますが、空堀を越えて二の丸に入ると全く別の顔。
まさににくまれそうなNEWフェイス。

遺構がよく残る。

目と鼻の先に膳城があります。併せて行ってみては…

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チェブ

番外編「鳥居 強右衛門磔死之趾」の巻。 (2022/05/06 訪問)

『長篠城の戦い』と言ったら、鳥居 強右衛門さんのエピソードは有名です。
「長篠城」から豊川を挟んだ向こう側に、磔にされた場所があります。

「長篠城」に籠城し、援軍を待つ奥平氏。
武田軍の攻撃にギリギリ耐えていた、最後の手段に鳥居 強右衛門さん、川から脱出し「岡崎城」に援軍要請の確認。
援軍が来る事を確証し「長篠城」に帰る途中、 武田軍に捕まりました。
『援軍は来ない』と長篠城内に叫べば命は助ける。
しかーし、『援軍は来る!』と叫ぶ強右衛門!
磔にされ、殺されました。
ざっくりですが、日本一有名な足軽の鳥居 強右衛門さんの勇気ある行動です。

畑が広がり、奥に石碑と説明板があります。
ここから「長篠城」に叫んだのか、と前を見ると木々で覆われ向こう側が見えません。残念。

鳥居 強右衛門さんの他に鈴木 金七郞さんが、狼煙をあげる役で籠城軍を活気づけてました。
鳥居 強右衛門さんの絵は、武田軍にいた 落合 道次さんが画かせて旗指物にしたんだとか。
武田 勝頼さんに怒られなかったのかな?
本当は、落合氏を調べても、どちらの軍に所属してたか分かりませんでしたが、、、。

人の心の深い所に、忠義がある事を知る『鳥居強右衛門磔死之趾』でした。

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POYO58

3度目の攻城 (2022/08/03 訪問)

今年の1月に犬山城はいったばっかなのですが、もう一度犬山城を訪れました。
まず、初めて木曽川の屋形船に乗り、犬山城を眺めました。いろんな角度から見る犬山城はどこから見ても素敵でした。でも木曽川から見ると美しさはちがいました。

木曽川の屋形船を乗ること40分、屋形船を降りて早速3度目の攻城へ参りました。犬山城は国宝のものの天守しかなく遺構は少ないのですが、天守へ向かう途中にある、堀と鉄砲櫓の石垣を写真に収めました。

その後登っていくと、枡形虎口の先には大きな天守。犬山城の天守は比較的小さいのですが、思ったより大きく見えました。犬山城は複合式天守で付櫓が設けられていますが、残念ながら、付櫓は地震により半壊し復元。しかし天守自体は現存です。

評価
遺構:2
建物:4
行きやすさ:3
全体:3

攻城時間
30分くらい

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織田晃司

膳城 (2022/07/30 訪問)

主郭とその周りが残るコンパクトな城跡です。
いい感じの堀と曲輪が残る。

目と鼻の先に山上城があります。併せて行ってみては…

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