石垣山城から小田原城に移動して見学しました、以前来たときは真夏の昼間でしたが今回は真冬の夜です。お城一周したら暖かくなりました。
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2023/01/05 18:28
2023/01/05 17:12
国宝五城・松本城に行ってきました!①歴史編 城レベル→4 (2023/01/03 訪問)
2019年08月15日に登城し、二度目の松本城に行ってきました。
国宝の天守があり、北アルプスが眺められる城です。
『注意』
松本城の別名は烏城ではなく、深志城です。
《小笠原、武田氏時代》
この城は、戦国・永正時代初期の1504年頃に、小笠原氏の居城である林城の支城として
築城された深志城が始まり。
しかし、甲斐の武田信玄が信濃侵攻で1550年8月7日に、林城、深志城が落城すると
城主である小笠原長時が追放され、武田氏が小笠原領を占領し、
林城を廃城にして、深志城代として馬場信春をいれ、
信濃国の支配の拠点とした。
だが、1575年の長篠・設楽が原の戦いで、馬場信春が戦死し、
嫡子である昌房が城代となるが、その昌房も織田家の甲州征伐で降伏し
織田長益に松本城は明け渡され、その後は甲州征伐で織田家に裏切った木曽義昌が城主となった。
その後本能寺の変で信長が亡くなると、織田家の領地に入ってまもない旧武田家領では
武田領を巡り、天正壬午の乱が勃発し、1582年6月上杉家の擁立で小笠原長時の弟の
小笠原洞雪斎が奪われていた小笠原領を回復したが実権は家臣の梶田氏と屋代氏が握り、
求心力は低下し、その間に他の家臣たちは小笠原長時の三男で、
德川家康麾下となっていた貞慶が深志城を攻め、交渉の結果、明け渡された。
そのとき、深志城は松本城という名に変わった。
1589年に貞慶が嫡子の小笠原秀政に家督を譲り、城主は秀政になるが、
1590年に家康が関東に移封となると秀政も下総の古河にうつった
《江戸時代》
城主は元徳川の家臣で、豊臣方に寝返っていた石川数正とその子・康長になった。
数正父子は松本城の改修を行い、天守や城郭、城下町などをつくった。
しかし、大久保長安事件で、康長が改易になると、
城主は小笠原秀政へ戻り、小笠原忠真、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田氏
と続き、明治維新を迎えた。
《その後》
明治維新の後の1872年に、天守がオークションにでて、解体されそうになったが、
市川量造ら地元の有志が松本城を借り、博覧会を開き、お金を集め、
天守を買い戻した。
しかし、1897年頃に、地盤沈下の影響で天守が大きく傾き、
それを危なく思った旧松本中学校校長の小林校長らが松本城天守閣天主保存会を設立し、
修理費を募り、1903年~1913年までの10年間で明治の大修理を行った。
1936年には、天守、辰巳付櫓、月見櫓、渡櫓、小天守が当時の国宝
(今は旧国宝とも言われている。)になっている。
1952年に、改めて国宝となる。
1946年にGHQのチャールズ・ギャラガーが松本城にきて、
解体調査を国に依頼し、1950年~1955年の五年間、
国宝保存事業の第一号として昭和の大修理を行った。
【城情報】
・形式 ❙平城
・築城年 ❙1504年頃
・廃城年 ❙1869年
・築城者 ❙小笠原貞朝
・最後の城主 ❙戸田氏
・廃城理由 ❙明治維新を迎えたため
・主な城主 ❙小笠原氏→馬場氏→木曽義昌→小笠原氏→石川氏→小笠原氏→戸田氏
|→松平氏→堀田氏→水野氏→戸田氏
・遺構 ❙ 水掘、掘、土塁、石垣
・主な建築物 ❙天守、渡櫓、辰巳附櫓、乾小天守、月見櫓、太鼓門、黒門など
・説明看板、石碑 ❙両方各地にあり
・駐車場、トイレ ❙あり
・天守 ❙あり(5重6階)国宝
・保存状態(自身判断)❙天守を含め、建築物や遺構がきれいに残っている
・城レベル |4、(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考 ❙・各地に井戸が残り、巡るのもおもしろい
❙・今は小天守には耐震工事のため入れない
❙・惣堀がある
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2023/01/05 15:51
名古屋城駅 (2023/01/05 訪問)
名古屋城へ行くときは地下鉄を利用しているのですが、前は「市役所」という駅名だったのに「名古屋城」と変わっていました。いつから変わったのか確認すると令和5年1月4日からなっていました。昨日からかと笑ってしまいました。お城を見学する者にとってはわかりやすくてありがたいことです。
名古屋城周辺には金シャチ横丁が東西にあり、東が宗春ゾーン、西が義直ゾーンとなっていて名古屋グルメなどを食べることができます。
ちなみに私は山本屋総本家金シャチ横丁店さんで久しぶりに味噌煮込みうどんを食べました。
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2023/01/05 15:41
東南隅櫓特別公開 (2023/01/05 訪問)
名古屋城冬まつりの開催にあわせて東南隅櫓の特別公開があるとのことで行ってきました。もともと11基の櫓があったのですが、明治維新後陸軍の拠点となったときに取り壊されたり、太平洋戦争時の空襲で焼失したりしたようです。今、現存しているのは3基の櫓と3つの門です。
現存する櫓
東南隅櫓
西南隅櫓
西北隅櫓
現存する門
本丸表二之門
二之丸大手二之門
旧二之丸東二之門(本丸東二之門跡に移築)
子供のころから何度も来ている城ですが櫓内部の見学は初めてでした。
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2023/01/05 15:10
「浮城」と呼ばれた備後の名城を訪ねて (2023/01/05 訪問)
広島城天守が6基も入る程の大きな天守台が特徴のお城です。天守台は三原駅の構内と繋がっていて、6時30分から22時の間無料で中に入れます。天守台にはベンチが数台設置されていて木々も多く公園の様な感じです。天守台の隅石は北西部と北東部の積み方が異なっているのがよくわかります。北東部の方が算木積みと呼ばれる新しい技法で積まれています。天守台に寄り添う様に建てられている駅舎の下には本丸の石垣が使用されているのが確認できます。その他三原駅の南側に船入櫓跡、本丸中門跡、東側の和久原川にかかる神明大橋付近の水刎(みずはね)等見所が点在してますが30分もあれば見学できます。
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2023/01/05 15:08
安土城 (2023/01/05 訪問)
攻城🏯17城、攻城址6
岐阜駅の信長像を見て
ふと安土城に行った事無いなぁ~
信長って、岐阜城より安土城でしょ
凄い山城、小高い山で
攻められなかったのか不思議
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2023/01/05 12:01
#24 寅臥城 (2022/11/12 訪問)
雲海に浮かぶ竹田城。まさに天空の城でした。
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2023/01/05 11:48
#23 桃山城 (2022/12/29 訪問)
立派は立派なんですが模擬天守なんでね・・・ ロケーションはとてもいいです。
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2023/01/05 11:12
犬山城 (2023/01/04 訪問)
犬山城
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2023/01/05 11:08
2023/01/05 11:01
2023/01/05 09:20
浄真寺 (2022/05/04 訪問)
明けましておめでとうございます。
昨年のGWの話になりますが、奥沢城跡を訪問しました。行きは自由が丘駅より歩き、帰りは九品仏駅まで歩きました。九品仏駅の方が近いうえ、道が分かりやすかったです。
現在は浄真寺という寺院になっており、境内に複数のお堂がありました。城跡であるからか、寺院にしては境内の起伏が激しいような気がしました。
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2023/01/05 08:26
大物城(兵庫県尼崎市大物町) (2022/12/10 訪問)
大物城(尼崎古城とも・城びと未登録)は室町中期には記録が見られる城で、戦国中期には細川高国が細川晴元に敗れた大物くずれの舞台となり、織豊期には織田信長に反旗を翻した荒木村重が有岡城から逃げ込んだことでも知られます。大坂の陣の後、すぐ西に尼崎城が築かれたことにより廃城となったようです。
大物主神社から北にかけてが大物城跡とされますが、遺構はなく所在地も明らかではありません。ただ、大物主神社を西側の若宮公園から見ると一段高くなっており、推定地とされるのも頷ける気がします。大物主神社の境内には義経弁慶隠家跡の石碑が建てられていますが、これは源義経追討の院宣を受けて大物浦から船で西国に逃れようとした義経・弁慶主従が大物主神社付近に逗留したことによるもののようです。また、大物主神社から北に徒歩3分の大物交番の南脇には大物くづれ戦跡碑(と説明板)が建てられていますので、こちらもあわせてどうぞ。
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2023/01/05 07:35
奈良の城めぐり② (2022/12/10 訪問)
辰市城跡にあった辰市幼稚園は、辰市こども園として移転統合しています。現在、辰市城にある建物は、別施設に転用されているようですが、園庭、遊具などには廃墟感が漂っていました。
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2023/01/05 05:58
安芸の名城を訪ねて② (2023/01/04 訪問)
JR利用ですと広島駅と新白島駅利用になりますが、後者の方が徒歩で15分程度、駅を出てからまっすぐ南に進んで行くだけなので迷うこともなくおすすめです。天守閣からは原爆ドーム、宮島を眺めることができます。北側の石垣には刻印の有る石垣、福島正則公が壊したとされる石垣を見ることができます。西側石垣にも刻印の有る石垣があります。堀に突き出したようなニノ丸は、馬出しの機能を持っており堀に写る櫓群の水鏡は美しかったです。
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2023/01/04 19:21
高藤山城 柳沢城 (2022/12/31 訪問)
城びとさんでは高塔城とされてますが、現地の
表記は高藤山城(たかとうやま)。別名で柳沢
城とも呼ばれてます。
広い主郭には、町指定文化財としての看板や
古蹟碑がありますね。ほぼ中央部が堀で2分さ
れてます。南北に派生する尾根にも土塁を巡ら
せた曲輪や堀切、井戸跡など戦国期らしい遺構
が多くみられます。複雑な地形で遺構の判断が
難しい所も多いのですが、面白い城跡です。
主郭部までは整備されてますが、各尾根の堀切
等を見るには根っこにつかまり移動しないと行
けない場所もありますね。
入口に看板があり駐車可能です。
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2023/01/04 19:04
和気富士 (2022/12/04 訪問)
【北曽根城】
<駐車場他>和気町営和気駅前駐車場を利用(100円)
<交通手段>車
<見所>石垣・巨岩
<感想>1泊2日城びと美作・備前山城攻めの旅2日目5城目。朝一に2日目メインの天神山城登城口(和気美しい森)に行ったがあいにくの雨模様で断念し、次の城 数キロ南の北曽根城は曇天ながら行けました。
北曽根城の築城・築城者とも定かではないですが戦国時代には明石景行の城だったそうです。北曽根城は和気富士とよばれる山の山頂にあり、和気富士は北方向に伸びる和気山脈の先端部分にあたります。山全体に巨岩が多くあり麓に大正時代に自然石に彫られた大題目岩があります。松茸山で秋は入山禁止のようです。
登城ルートはいくつかあるようですが<34.799246, 134.148301>ポイントの奥から入るルートを選択しました。ハイキングコースにもなっているので傾斜はきついですが登り易いです。途中に岩場の眺望の良い所(山頂は木々が少しあり完全には開けていない)、2段程の曲輪があります。25分程で山頂に着きます。急斜面の為か曲輪は山頂部分に集約されています。主郭部分に電波塔があるので少し改変されていますがコの字状の石垣曲輪や巨岩を組み合わせた石垣遺構は見応えあります。ただ分かる城跡遺構の面積が小さいので少し物足りない。
<満足度>◆◆◇
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2023/01/04 17:12
2023/01/04 16:24
国分一宮 (2023/01/04 訪問)
諏訪神社の裏山が主郭部なのですが途中、最近熊の出没があり侵入禁止でした残念!
この神社意外と立派でしたよ!
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2023/01/04 14:27
八王子悲話 (2022/12/27 訪問)
真夜中、タクシーに乗り込む若い男女4人組。行き先は八王子城址(東京都八王子市)。季節は冬。「こんな遅くからですか?」と訝しむ運転手。まあいいか、とそれ以上は詮索しなかったそうです。
真偽はどうあれ、「出る」と言われ続ける関東屈指の山城。背景に悲話があります。
1590年、豊臣秀吉は天下統一の仕上げに小田原攻めを敢行。北条方の支城・砦の多くが無血降伏するなか、八王子は抗戦。踏み込んだ前田、上杉ら北国勢3万5千が老若男女の別なく斬りふせ、火を放つと、女性や子供は自害し滝に身投げしたといいます。城主・北条氏照(氏康の三男)は当時、主力を率いて小田原に籠城中。留守城だった八王子はわずか1日で落城します。
もとは同市内の滝山城に拠った氏照。武田信玄に防御拠点を破られたのを機に1584-87年ごろ、来る秀吉との対決に備え、より堅固かつ交通の要衝でもあった八王子に居城を移します。戦巧者と言われた氏照が小田原に向かわず残っていたら、この巨大山城を使ってどのように戦ったか。そんなことを考えずにはいられません。
山麓部の居住スペースには大規模な礎石建物跡と庭園遺構をもつ御主殿跡が発掘調査済み。そこに続く通路も確認されていて、対岸から木橋(当時は曳橋)を渡ったあと、石積に囲まれた枡形虎口で3回曲がらせるという厳重ぶり。一方、詰の城である山上要害部は広大なハイキングコース。本丸部と最前線の曲輪を中心に展開。要所には石垣を用いて、籠城用の井戸跡も2ヶ所。
圧倒的戦力差から消化試合のように言われることが少なくない小田原合戦ですが、山中、忍、八王子といった支城での攻防の裏には結構な人間ドラマが隠れていそうです。とくに八王子の惨劇は、最終的に小田原の戦意を削ぎ、開城の流れを決めたと指摘する向きもあります。冒頭の若者たちが真夜中に一体何を見たのかはわかりませんが、今なお何らかの思念が城址に残留していてもおかしくない気はします。
私ですか?供養塔に手を合わせた後、日が沈む前に立ち去りました。小走りで。
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