(5人目)は「島左近」です。
初戦で一矢を報いた「杭瀬川合戦の地」を訪れてきました。
大垣から養老鉄道に乗り北大垣駅で下車、川の土手沿いを10分程歩いた所です。それから、関ケ原の笹尾山にある「島左近陣跡」も訪れてきました。
岐阜城を落とした徳川家康は、1600年9月13日(関ケ原決戦前々日)清州城を出て岐阜城下を迂回し、美濃赤坂(岡山)に陣を張ります。大垣城にいる西軍諸将は、14日夜明けとともに、家康の金の馬印が背後の赤坂に見えた事に動揺します。この動揺を鎮めるべく、島左近は500の兵をもって杭瀬川にいる(東軍)中村一栄隊に一撃、そして逃げるふりをして誘い出した所を明石全登(宇喜多家臣)の鉄砲隊が一斉射撃! 初戦に勝利を収める事で動揺を鎮め、逆に味方を鼓舞する事に成功しました。逆に家康は、ここ大垣で戦をするは不利と判断、その夜に関ケ原へ移動する事を決断します。
「治部少には過ぎたるもの、島左近と佐和山城」
と石田三成は自ら語ったように、家禄の半分を左近に与え、左近を最も頼りとしていました。
私は、杭瀬川合戦の地から、徳川家康が陣を張る「赤坂」の地を眺めてみました(写真①)。この杭瀬川で一矢を報いた時、島左近はどんな気持ちでここから同じように赤坂の地にいる徳川家康の陣を眺めていたのでしょうか? (どうだ! と家康に自慢する気持ちだったのでしょうか? それとも・・・)
そして翌9月15日、島左近は笹尾山の石田三成を守るように三成陣の前に馬防柵を設け、最前線に陣を構えます(写真⑥⑦⑧)。そして、この「島左近」が関ケ原で最大の激闘(死闘)を繰り広げます。
次は(6人目)に続きます。
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