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todo94

県内の城めぐり2022㉗ (2022/05/28 訪問)

城びと登録物件でJR長野駅最寄りの城となりますかね。ちなみに善光寺口ではなく、東口側です。周辺の道は入り組んでいて細いので鐵道でのアプローチがお薦めです。日吉神社の境内の一角に説明板と城址碑がありました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:綾部城 (2022/06/08 訪問)

柳川城からの転戦です。
宿泊ホテルから西鉄柳川駅➡西鉄久留米駅に電車で向かい、西鉄久留米駅でレンタカーを借り、綾部八幡神社駐車場(33.360465、130.441806)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1159年(平治元年)頃に藤原通良によって築かれたと云われています。
1159年(平治元年)藤原通良は平氏に対して蜂起したて籠りますが、平氏の大軍に包囲され落城しました。
鎌倉時代に通良の子通俊が綾部荘を賜わり、綾部氏を名乗って居城としました。
その後は九州探題方の拠点として利用され、永正年間(1504年〜1521年)には九州探題渋川氏を追って大宰少弐武藤氏の居城となりましたが、大宰少弐武藤氏は1571年(元亀2年)滅亡しました。
その後は筑紫氏の城となっていましたが、天正年間(1573年〜1592年)頃には龍造寺氏の家臣綾部鎮幸が城主となっていました。
綾部城は別名=宮山城とも呼ばれるそうですが、一般的に綾部城はこの辺り一帯の城郭群(少弐山城、白虎山城、臥牛城など)を指しているそうです。

綾部城は綾部八幡神社の北西背後にある宮山に築かれおり、綾部八幡神社境内北西側から遊歩道があり、そこから登っていきます。
登り口から北少し行くと、南西側に曲がりその道を進むと折り返しになって、北側に進むと「城ダン」と呼ばれる3郭の虎口に着きます。土塁の側面部に岩があります。
3郭虎口の脇から上に登ると2郭、さらに進むと主郭です。主郭は山頂にあり中央に一段小高い土壇があって宝塔が祭られています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=堤土塁に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)4日目:柳川城 (2022/06/08 訪問)

朝早く起きてホテルの朝食前に散歩がてら、城跡碑&説明板付近(33.160156、130.401337)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、蒲池治久によって築かれたと云われます。 蒲池治久は蒲池城の支城として柳河城を築き、後に蒲池氏の本城となりました。
1581年(天正9年)蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されると龍造寺氏の支配下に置かれました。
1587年(天正15年)豊臣秀吉による九州征伐の後に、立花宗茂が132,000石で柳河城に入りますが、関が原合戦で西軍に属し、敗戦後大坂を脱して帰国するとそのまま籠城して抵抗しますが、黒田如水・加藤清正の説得に応じて開城しました。
その結果、宗茂は浪人となりますが1603年(慶長8年)陸奥国棚倉城で10,000石をもって大名に復帰しました。
立花氏に変わって三河国岡崎城から田中吉政が320,000石で入封、この田中氏によって柳河城は近世城郭として大改修され、天守が設けられました。
しかし、田中氏は忠政に嫡子なく断絶となり、筑後国北部を有馬氏に、南部2郡は立花宗茂に与えられ以後明治に至ります。

柳河城は現在の柳川中学校・柳川高校の辺りに築かれていました。
天守は明治になっても存続していましたが、1872年(明治5年)1月18日に火災により焼失したそうです。
遺構は柳川中学校と高校の間にある石垣で、ここに説明板が設置されています。
ホテルへ戻る途中に立花宗茂と誾千代がデザインされた自動販売機を見つけました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=綾部城を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取ります。

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じゅんじん

食後のハイキング (2022/05/07 訪問)

おなか一杯ラーメン食べたんでちょい運動がてらに。
かいた汗が風に当たて涼しかった。
曲輪や堀の説明板もありました。

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ぴーかる

高田城 (2022/05/08 訪問)

【高田城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>JR高田駅から徒歩

<感想>日帰り列車で奈良盆地1周ちょこ城巡りの旅5城目。現地説明板によると、高田城は1432年に當麻(当麻)為貞が6代将軍足利義教の命により築城された。當麻氏は在地名の高田をとって高田氏を称し戦国時代まで活躍しました。1580年織田信長の命により城は破却され筒井順慶の侵攻により所領は没収され、1587年に高田城主は滅んだと伝えられます。
 遺構は残っておらず、城は常光寺・片塩小学校辺りにあったかと思われます。城跡碑・説明板は常光寺公園にあり常光寺には當麻三河守為長公之墓があります。

<満足度>◆◇◇

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赤い城

市役所と城山稲荷 (2022/06/04 訪問)

本庄駅から徒歩で10分。
本庄市役所が二の丸になります。
北側に小山川が流れていて自然の堀となっています。
市役所が建つ下は城塁のようにも見えます。
隣に城山稲荷神社があり、ここが本丸跡。
拝殿前に立つ大ケヤキは築城当時に植えられたものとされます。
本庄氏が築いた城で本庄氏は北条氏の傘下として秀吉の小田原攻めで敗北。
本庄城も廃城となりました。
訪問したのは雹の被害があった後で市役所ではブルーシートが配られていました。
近年は自然災害も多くなってきました。
何か変ですね。

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にのまる

3/12城目 (2022/05/20 訪問)

名古屋城訪問のあと市役所駅より東別院駅へ地下鉄で移動。
とても広く立派な寺院の片隅に城趾碑。その傍らにはこのあと何度か目にする信長攻略の銘板がありました。
説明板の“信秀はここから末森城に移った”を読んで、末森城をこの日の予定に組み込んでいなかったことに気づき、予定変更してこのあと向かうことにしました。
とその前に「古渡 下茶屋公園 見落とすな」のお城川柳を呪文のように唱えながら下茶屋公園へ。残念石かもしれないし名古屋城から持ち出された石かもしれないと言われる石が展示されていました。
朝田さん、100名城コンプリートおめでとうございます。そして角牟礼城、いってらっしゃいませ~!

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朝田 辰兵衛

八丁沖古戦場(新潟県長岡市) (2022/06/04 訪問)

鬼頭熊次郎は四夜をかけて,魚捕りの仲間と共に沼の深い場所には板橋を渡すなどをして,八丁沖の中央を北から南へ貫く4㎞の攻撃路を構築しました。
1868(慶長4)年7月24日深夜,大黒堡塁からの監視の目をかすめ,長岡軍が泥の中を這うように2㎞の軍列で八丁沖の行軍を開始。
7月25日午前4時,奇襲部隊が富島に上陸。先頭を進むのは鬼頭熊次郎。薩摩藩の哨戒兵が長岡藩兵士を発見し絶叫して発砲。その弾は不運にも八丁沖渡渉の最大の功労者である,鬼頭熊次郎に命中してしまう。
この発砲を機に,突撃が始まる。富島を守っていた薩摩藩は防戦したが敗走。長岡藩は新政府軍前線基地を占領。さらに,追走して長岡城下へと向かう。
三間市之進率いる第2陣は(八丁沖から西側の)蔵王へと向かい,新政府軍兵士が逃げ込んだ安禅寺に火を放ち,松代藩兵が籠る極楽寺を襲撃。徴兵で参加している松代藩兵は決死の長岡藩兵の敵ではなく,戦わずして着の身着のままの状態で逃げ,信濃川に追い詰められておぼれ死んだ者が多数いたという。
花輪求馬率いる第3陣は亀貝に上陸。栖吉川を遡上し,東神田から長岡城へ。長州兵が反撃するも,長岡藩兵の銃撃に撤退。長岡藩兵は城下の要所要所に防御陣地を築いていく。
新政府軍は抗戦するも昼過ぎには勝敗は明らかとなり,河井継之助率いる本陣も長岡城へ。新政府軍率いる山縣狂介(有朋)は前線状況を確認せず,帯ひろ裸で素足のまま榎峠に逃げ,舟で信濃川を渡り,小千谷の本陣まで逃げたという。
長岡城奪還に成功し,さらに新政府軍が長岡城に持ち込んだ武器・弾薬は火をかけられずに長岡藩の手に渡ることとなりました。
この続きは,ぜひ劇場にて。

見せ場のひとつである八丁沖の映画ロケは,佐潟(さかた)水鳥・湿地センター(新潟市西区)で行われました。新潟県内最大の淡水湖で,ラムサール条約の登録湿地です。
今回,行きそびれましたが,八丁沖古戦場の近くの日光社に「鬼頭熊次郎顕彰碑」があるとのこと。個人的には,河井継之助に次ぐ準主役は鬼頭熊次郎だと思っています。いずれ行くつもりですので,行って来たらこっそり画像を追加しておきます。

そうそう,今回の遠征で日本100名城コンプリートです。書き込んでいない城は,ポチもしてません。あと40城くらいあるのかな…。さらに,続日本100名城にリーチ。ラス1は,しりとり前半で手詰まりになりかけ,にのまるさんの連方屋敷でフォローできた,大分県の山城です。いまだにこの城のフォロー手札は連方屋敷しか見当たらないですね…。7月9日攻城予定です。大雨で土砂災害にならなきゃいいが…。JR久大本線,たのむぜ~!

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チェブ

石垣マニアVS野鳥マニア。 (2022/05/04 訪問)

2回目の「岡崎城」です。
前回は10年位前の大晦日にお邪魔しました。お正月の準備で、お休み。
今回、100名城スタンプ目的で城攻めです。

1455年、西郷 頼嗣さんが、築城しました。家康さんの祖父にあたる松平 清康さんが整備します。
家康さんが、産まれました。家康さん、人質時代を経て桶狭間の戦いで 今川 義元さんが討たれると、ちゃっかり「岡崎城」に入城しました。
その後、嫡男 信康さんが「岡崎城」の城主になりました。
と、徳川家の歴史には必ず登場する「岡崎城」です。

『岡崎公園』の駐車場は満車でした。でも、近くにコインパーキングがたくさん あるので大丈夫です。
少し歩いて「岡崎城」攻めです。
入城して、『本多平八郎忠勝公銅像』が見えました。
蜻蛉切を携え格好いいです。
そして、家康さんの『しかみ像』、、、。
もちっと、風格ある家康さんの銅像にした方が良いのでは、、、?大敗した教訓だからいいのでしょうか?

と、歩いていると、いろんな時代の石垣が見えてきます。家康さんが産まれた頃は、石垣がなかったんだとか。
たくさんの経験から強固したんでしょうね。
因みに『清海掘』は築城した西郷 頼嗣さんの『清海入道』から名付けられたそうです。

掘から石垣に向かって、たくさんのカメラマンがいました。
もちろん私も、紛れ込みました。
この方々、野鳥を追いかけてシャッターチャンスを待ってました。(私を含む石垣好きチームは、ずっとシャッターチャンスです。)

水辺や木々があり、たくさんの鳥達の 憩いの場所にもなっている「岡崎城」でした。

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零汰

トレース:1 二辺塚城 熊本県阿蘇市 (2021/05/09 訪問)

城ひとに登録が無く、大御所(城郭放浪記・古城盛衰記)の情報を元にマイナーな城をトレースしながら訪問しています。石碑のみ・神社のみなど幾つも訪問していますが、特徴のある城跡や印象に残る城跡を思い付いた時に投稿します。

阿蘇カルデラ、外輪山に囲まれた阿蘇市の平野部にポツンと小山が3つ、そのうちの一番大きな小山が二辺塚城です。現在は樹木は全く無く草原の広がるとても爽やかな城跡です。こんな城跡に来てしまうと遺構を探すという事を放棄していまう私にとってはデンジャラスな城跡です。実際に遺構は残っていないと考えています。

当時は樹木があり平地の中の小山で、最後部が主郭でそれに伴う最低限の防備があったと思われます。阿蘇周辺は放牧の為に樹木を整備して牧草地に変えていったそうです。おそらく整備が行う際に遺構は破壊されていったのではないかと想像しています。

滞在時間25分:0.9km累計高低差70m

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小荷駄

花岡城跡 (2022/06/12 訪問)

城跡は公園として整備されていました。駐車場までの道が非常に狭くなおかつ急坂でした。それでも市道19号の路地(36.053943,138.045247)を入っていく道が一番広かったです。諏訪湖の眺望が非常に素晴らしかったです。曲輪、土塁、堀なども確認出来ました。主郭にて諏訪湖を眺めながらご当地名物の鰻弁当を食べて楽しめました。

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おっちゃん

国府山城跡平面図 (2016/11/06 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

御着城跡縄張推定図 (2016/11/06 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

鶏籠山龍野古城想像復元図、龍野城下絵図 (2022/03/13 訪問)

現地案内板より抜粋。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)対馬五島移動手段

6/5から6/11まで「対馬&五島&北部九州(熊本県がメイン)」のお城を巡ってきました。
一番の目的は、続100名城の金田城と福江城を攻城することでした。
今回、金田城と福江城を攻城したことで、続100名城制覇まで残り8城(スタンプ押印も含めた完全制覇まで残り10城)となりました。
スタンプ押印も含めた完全制覇までの残り10城は、今年の7/20~8/4の「四国&京都&北陸&東海遠征」で達成するつもりです。
金田城と福江城の続100名城スタンプ、今回遠征時に利用した飛行機&船の写真投稿します。
・6/6 0:05発/4:45着 フェリーちくし(博多港➡厳原港)
・6/6 15:25発/20:10着 フェリーきずな(厳原港➡博多港)
・6/6 23:45発/(6/7)8:15着 太古(博多港➡福江港)
・6/7 12:45発/13:25着 ANA4696(五島つばさ空港➡福岡空港)&五島つばき空港
船の乗船券を記念に保存したかったのですが、下船時に回収されてしまいました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:三池陣屋(城びと未登録 福岡県大牟田市) (2022/06/07 訪問)

大間城から徒歩20分ちょっとで、移築御殿屋根(33.045966、130.482656)に着きました。
そこから、陣屋井戸(33.046049、130.482433)➡石段前(33.045296、130.482309)➡眼鏡橋上(33.044850、130.482316)➡寿光寺移築城門(33.043323、130.480763)の順番で巡りました。

1587年(天正15年)高橋直次によって築かれました。
直次は関ヶ原合戦で兄の立花宗茂とともに西軍に属した為に改易となりましたが、1614年(慶長19年)常陸国柿岡で5,000石を与えられました。
その子の種次は1621年(元和7年)5,000石を加増されて10,000石で三池に移封となり陣屋を構えました。
1805年(文化2年)6代藩主の立花種周は老中松平定明らとの政争に敗れて失脚し、蟄居謹慎を命ぜられました。
わずか13歳で家督を継いだ7代種善は、1806年(文化3年)陸奥国下手渡に転封となりました。
1851年(嘉永4年)9代種恭のとき、下手渡の所領のうち3,000石余りを幕府に返上し、代わりに筑後国三池に5,000石を与えられました。

三池陣屋は現在の三池小学校の辺りに築かれていました。
小学校の西に三池郷土館という荒廃した建物があり、その東側に付いている尾根が移築御殿屋根の一部です。
その西側には陣屋井戸、南に進んでいくと三池藩居館跡の案内板や陣屋遺構である石段、さらに川には陣屋の大手口である眼鏡橋が残っています。
場所についてはGPS座標を参考にしてください。

攻城時間は20分くらいでした。電車の時間が迫っているので速攻で撤退です。
本日の城巡りは、ここがラストで明日からレンタカーを使用して、北部九州(佐賀&熊本&大分&福岡)の城を攻城する為、本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:大間城 (2022/06/07 訪問)

鷹尾城からの転戦です。西鉄銀水駅から徒歩20分くらいで、説明板付近(33.048253、130.475352)大間神社付近に着きました。

1200年(正治2年)三池氏によって築かれました。
三池氏は源頼朝の家人であった藤原親能が三池郡の地頭職に任ぜられ、三池氏を称したことに始まるようです。
三池氏は中原氏の末裔を称しており、安芸木工助定時の末裔で、三池南郷の地頭職を得て下向し今福城を築きました。
三池師員(貞)の8代孫上野介鑑速と紀伊介親久兄弟は大友方に属しましたが、1567年(永禄10年)龍造寺隆信に攻められ、兄弟ともに戦死。
天正年間(1573~1592年)嫡子三池上総介鎮実は大友氏の支配下となり、1587年(天正15年)秀吉の九州征伐の後、三潴郡内において1,000石を賜り、1620年(元和6年)柳川城へ入った立花宗茂の家臣になったそうです。

大間神社周辺が城址で、周辺には空堀・土塁・水濠などの遺構が残されていると説明板には記述されていますが、周辺は住宅地で遺構はみあたりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三池陣屋(城びと未登録 福岡県大牟田市)に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:鷹尾城 (2022/06/07 訪問)

佐留垣城から徒歩30分くらいで、田尻親種墓碑説明板付近(33.129790、130.444677)に着きました。

1548年(天文17年)田尻親種によって築かれました。
親種は風水害により田尻城に不都合が生じた為、鷹尾城を築き本城を移したそうです。
1581年(天正9年)柳河城主蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されます。
田尻氏は蒲池と同族でしたが、龍造寺氏に従い蒲池氏一族を滅亡に追いやりました。
しかし、1582年(天正10年)田尻氏は龍造寺氏に反旗を翻し、本城の鷹尾城を中心に江浦城・浜田城・津留城・堀切城の各支城を固めました。
龍造寺氏は直ちに軍を発し攻め寄せますが落とせず、一部の兵をもって支城を攻略させますが失敗し一年余りの籠城の末、有馬氏が島津氏と組み肥前侵攻する気配があった為、和議を結び引き上げました。
柳河城に立花氏が入封すると家臣立花織部介が城主となり、立花氏改易の後入封した田中氏の時には家臣宮川才兵衛門が城主となりますが、田中氏改易により廃城となりました。

案内板近くの水路が堀跡か不明です。 田尻親種の墓碑が残されています。
鷹尾城の説明板は安房神社(33.128922、130.442962)にあります。
また、白峯神社付近(33.127906、130.442111)に菊池氏一字一石塔があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大間城を目指す為、電車で西鉄中島駅から西鉄銀水駅に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:佐留垣城 (2022/06/07 訪問)

慶長本土居跡(城びと未登録 福岡県柳川市)から徒歩5分くらいで、説明板付近(33.124313、130.424315)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、柳河城主蒲池氏の支城でした。
1581年(天正9年)蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されと、龍造寺氏の柳川侵攻により蒲池統春の守備する佐留垣城も落城しました。

戒音寺周辺が城跡といわれ、寺の周囲は内堀(33.124089、130.423508)と思える水路が残されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鷹尾城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:慶長本土居跡(城びと未登録 福岡県柳川市) (2022/06/07 訪問)

中島城(城びと未登録 福岡県柳川市)から徒歩15分くらいで、江越八幡海岸灯台公園(33.122762、130.425940)に着きました。

城跡ではありませんが、佐留垣城に行く途中で見つけた慶長本土居跡について投稿します。
筑後藩主田中吉政(たなかよしまさ)は、大川新田(大川市)から柳川~渡瀬(わたぜ/三池郡高田町)までの有明海沿岸32キロメートルに及ぶ慶長本土居を築きました。
このうち大川新田から鷹尾までの25キロメートルは、山門(やまと)・三潴(みづま)・下妻(しもづま)3郡の領民を総動員して、慶長7年(1602年)8月6日から8日までのわずか3日間で完成させました。
吉政は佃町(つくだまち)新田の潮止め口の完成後、慶長12年(1607年)に本土居上に新田龍神の石の祠(ほこら)をつくり、田33アールを寄進しました。
つまり、有明海沿岸に堤防を構築して海潮の侵入を防ぎ、湿地・干潟地を農地に開発したという歴史的な土木施設のようです。

隣には江越八幡海岸灯台の説明板があります。
これは、この土地の漁師たちが、船着場の目標にしていたと云われる常夜灯(灯台)であったそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=佐留垣城に向かいます。

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