説明板の概略は、江田行義の館跡と伝えられている。行義は新田義重の子、義季の四世の孫で新田義重の鎌倉討伐に従い・・・。地元では堀之内と呼ばれる本丸跡は、東西の両面に折れをもち、東西約80メートル・南北約100メートルの土塁と堀を巡らせている。虎口は土橋を伴い、南西と東にある。外郭には本丸の南と西をL字に囲んだ二の丸がある。北東には黒沢屋敷跡・茂呂屋敷跡・柿沼屋敷跡があり、土塁と堀の一部が残る。
東北角に黒沢屋敷との境に土塁が残るが、他の屋敷跡は行けず確認しなかった。主郭周囲の堀は水が溜まり水堀となっている。西の外郭の南西には土塁跡らしき高まりを感じる。元は続いていたのだろうか。西側は切岸状の急斜面になり、下にはほぼ埋まっているが堀跡を思わせる凹みが南北に続く。さらに西は一段下がり水田だが、元は湿地だったのかも。
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