唐沢山を駆け降り、宇都宮に向かう途中で小山に立ち寄りました。かつて広大な敷地を誇った祇園城(小山城)もさることながら、その時歴史を動かした(かもしれない)会議が開かれた町として有名ですね。
1600年、会津の上杉討伐に向かう徳川家康はこの地で、京で石田三成が挙兵したとの報告を受けます。急遽召集された評定(軍議)では、引き返して三成を討つという家康側の意向を酌むかたちで諸将が合意したといいます。関ヶ原への流れを決めた「小山評定」。出席者の思惑が絡み合う人間ドラマの場として、今なお小説やテレビドラマなどでよく描かれます。
会議ひとつで町おこし、というわけでもないでしょうが、自治体の推しは相当なもの。少し前、小山市は庁内の会議をすべて「評定」と呼ぶと発表し、歴史愛好家をザワつかせました。あれ、その後どうなったのだろう、、。また、会議推しといえば、織田家の跡目争いの場として近年有名になった清洲会議(清洲城。愛知県清須市)周辺の取り組みも目を引くものがありました。
とはいえ、小山も清洲も一次資料の少なさを指摘する専門家が少なくありません。つまり再現の多くは裏付けの曖昧な伝聞記録をベースにしているということです。演出じみた描写は、エンタメとしては大いに楽しめるのですが、受け手の我々にはある程度の節度が求められているとも言えそうです。
JR小山駅西口から祇園城通りを10分ほど歩くと左手に広大な空き地を備えた小山市役所。徳川将軍家が日光社参の際の休憩・宿泊所とした「小山御殿」跡で、発掘調査を終えた今は文化活動や歴史学習の場として整備されています。敷地内南側には「評定跡」の石碑もしっかり。
通りをさらに行くと、こんどは右手に祇園城跡。遺構の整備はそれほどでもありませんが、公園と一体化した、“近所の憩いの場”タイプ。西に思川をひかえた丘陵に築かれており、園内では堀や堀切の跡、河原に出れば結構な高さの断崖を見ることができます。
正確な年代は不明ですが、記録に表れるのは14世紀後半とのこと。藤原秀郷を祖にもつとされる小山氏が治めた北関東の要衝で、戦国期は上杉や北条に攻められ、結果的に小田原の支城に。江戸時代に入ると、家康の側近・本田正純が3万石で入城。最終的な縄張を完成させますが、1619年、正純の宇都宮転封に伴い廃城となりました。
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