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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征⑥ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の6城目(ラストです)は足利政氏館です。古河公方館からの転戦です。
古河城/古河公方館見学後、古河駅に向かいレンタサイクルを返却し、古河駅からJR宇都宮線で久喜駅下車。そこから徒歩で甘棠院(足利政氏館)を目指しました。

足利政氏館は埼玉県久喜市にあった城館。築城年代は明らかではないが、初代古河公方の足利成氏、あるいは彼の家臣が太田荘を防衛するために築いたと考えられています。成氏死後の1496年に、第2代の古河公方に就任した成氏の嫡男・政氏の居館です。
政氏は嫡男・高基と対立し、小山城、岩槻城と逃れた末に、最終的には政氏は隠居を余儀なくされ、この館へ移ったとされます。その後、政氏と高基は和解し、1519年(永正16年)に甘棠院(かんとういん)が建立され、現在も甘棠院の境内となっています。山門脇に石碑と案内板が設置されています。
攻城時間は古河城込みで90分くらいでした。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征⑤ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の5城目は古河公方館です。古河城からの転戦です。
古河駅前で借りたレンタサイクルで古河城を見学した後、古河総合公園(古河公方館)を目指しました。

古河公方館は古河公方・足利成氏により築城された古河城の別館で鴻ノ巣御所とも呼ばれています。
1590年には豊臣秀吉の関東征伐の際に最後の古河公方・足利義光の娘である氏姫(氏女)の居館となり、氏姫の孫にあたる尊信が下野国の喜連川に移ったのちは廃城となり、時宗十念寺の寺域となったそうです。

現在は「古河総合公園」として整備されており、城址碑が建てられています。また公園内には茨城県の伝統的な住宅である飛田家と中山家の住宅があります。
攻城時間は古河城込みで90分くらいでした。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征④ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の4城目は古河城です。小山城からの転戦です。
小山城から小山駅に向かい小山駅からJR宇都宮線で古河駅に到着。古河駅前の「わんぱくステーション」で無料のレンタサイクルを借りて、古河城を目指しました。

古河城の期限は、平安時代末期あるいは鎌倉時代初期に、下河辺行平(下河辺氏は藤原秀郷の子孫である下野国小山氏の一門で、行平は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将・御家人。「吾妻鏡」に記述があるそうです)が、古河の立崎に築いた城館とされている。
室町時代には、古河公方・足利成氏が本拠とし、以後、戦国時代の関東における中心の一つでした。江戸時代には、多くの譜代大名が入れ替わりで城主を務め、近代城郭として整備されました。
古河藩庁が置かれ、行政機能を担うとともに、将軍の日光社参時の宿として、あるいは江戸城の北方の守りとして機能したそうです。

攻城ルートを写真から辿ると、古河駅➡頼政神社➡船渡門跡石碑➡追手門跡石碑➡獅子ヶ崎➡桜門跡石碑➡歴史博物館➡福法寺(乾門)➡坂長➡御馳走番所跡➡御茶屋口跡石碑➡ここから古河公方館(古河総合公園)を見学➡古河公方館見学後、渡良瀬川沿いの本丸跡碑確認➡古河駅に戻り、レンタサイクル返却。
石碑巡り中心の攻城でした。攻城時間は古河公方館込みで90分くらいでした。

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todo94

惟新公邸址之碑 (2020/12/29 訪問)

高麗稲荷神社がその故地となっています。立派な惟新公邸址之碑が建っていて、石碑の近くに大手門跡があります。なかなか立派な石垣が取り巻いていました。隣接地には花園寺跡があり、庭園や門などが公園として整備されています。ここには駐車場も完備しています。

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スティクラ

石垣好きでなくても必見。高取城。 (2020/12/27 訪問)

2020年最後の城巡りは高取城。

今回は壺阪山駅から壺阪寺経由で高取城跡へ。
壺阪寺から登ると五百羅漢を見ることができるが、自分的にはあまり魅力的でなかったので、城跡のみを目的にする人は大手道から行った方が時間と体力を節約できます。

壺阪寺から高取城の大手門跡までは30~40分程度。ハイキングに慣れている人にとってはそれほど苦ではないと思います。

高取城跡は、大手門跡→二ノ丸跡→本丸跡→天守跡と進んでいくとともに石垣の迫力に圧され感動の連続。本丸跡からの景色もきれいだが、自分は石垣を見ながら1時間ほど散策していました。(さーっと見るだけなら20分くらいでまわれます)

帰りは大手道から。途中にある国見櫓跡から景色は見ごたえがあるので、オススメです。分岐から5分もかかりません。

下り終わった後、石畳の道にある案内所「夢創館」で御城印と名城スタンプをゲット。名城スタンプは案内所が休館の時でも外に置いてくださっているそうです。

紅葉の時期が一番の見所らしいので、次回は秋を目標に。もちろん紅葉の季節以外でも見る価値のある城跡だと思います。

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日本最大の十一面観音坐像がある櫟野寺の川向かい (2021/01/04 訪問)

城びと先達のレポートによると、けっこうな藪とのことにつき、冬季に訪問しました。
北側の土塁の中央辺りの一部を削って山の神が祀ってあり、その辺りとそこまでの道は草刈りがされていました。
櫟野川に削られて、北側は、高さはそれほどではないものの急斜面です。尾根続きとなる南はとても高い土塁とその向こうに深く広い堀切を設けています。
谷間を挟んですぐ西に滝川西城があり、そちらも行ってみました。西側道沿いに笹を刈り取ったところがあり、そこから進入。こちらも尾根続きとなる南に高い土塁。滝川城と滝川西城に共通して、郭内南側土塁の下に四角い池がありました。
川向かいには、日本最大の十一面観音坐像の他、平安時代の仏像が多数ある櫟野寺があります。延暦寺建設などの都の建材の供給地としてひらけていたようです。また、近くには、甲賀武士団の団結の象徴でもあった油日神社もあります。滝川城からも御神体の油日岳が見えます。

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KKRht熊本まっち

熊本城大天守小天守 (2020/01/07 訪問)

熊本地震での修理の為に組まれていた足場が取れて大天守小天守が美しく観えます。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征③ (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の3城目は小山城です。宇都宮城からの転戦です。
宇都宮城から宇都宮駅に向かい、レンタサイクルを返却。宇都宮駅からJR宇都宮線で小山駅下車。そこから徒歩で小山城(祇園城)を目指しました。

小山城築城の年代や築城者は明らかではありませんが、藤原秀郷の子孫・太田正光が1148年に小山市を名のり、この城を築いたのが始まりだと言われています。
代々、小山氏の居城でしたが、小山秀綱の代に北条氏に降伏して北条氏の北関東攻略の拠点となるが、1590年の豊臣秀吉「小田原征伐」により小山氏は領地を没収され小山氏は滅亡しました。
「関ケ原の戦い」ののち、本多正純が城主となり近世城郭に改修しましたが、正純が宇都宮に移封となった際に廃城となりました。
この城は「関ケ原の戦い」直前、徳川家康が諸大名を集めて行った「小山評定」を行った城として有名です。

現在、城址は「小山城址公園」として整備されており、空堀や土塁の跡が残されています。攻城時間は35分くらいでした。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征② (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の2城目は宇都宮城です。飛山城からの転戦です。
飛山城からレンタサイクルで、宇都宮城まで8.5Kmの距離を目指しました。

宇都宮城は関東七名城のひとつです。(残りは河越城、忍城、前橋城、金山城、唐沢山城、常陸太田城)
平安時代後期に築かれたと言われています。鎌倉時代以後は宇都宮氏の居城でしたが、500年間宇都宮を支配した宇都宮氏は豊臣秀吉に滅ぼされました
江戸時代には譜代大名の居城となりましたが、その中でも本多正純は、城と城下町を作りかえを行い、現在の宇都宮市中心部の骨格はこのとき作られたと言われています。
宇都宮城主・本多正純と言えば「釣天井事件:日光社参から帰る将軍をからくり仕掛けの天井を作って暗殺しようとした事件」が有名ですが、事実ではないようです。正純が突然、宇都宮城を取り上げられて出羽(秋田県)へ流されたことから生まれた創作のようです。

現在、城址は「宇都宮城址公園」として整備されており、本丸の土塁と堀が外観復元、建物(清明台、富士見櫓、土塀)が木造で復元されています。攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

宇都宮/小山/古河日帰り遠征① (2018/05/12 訪問)

「宇都宮/小山/古河日帰り遠征」の1城目は飛山城です。
自宅の最寄り駅から、宇都宮駅に到着。「宇都宮駅第2駐輪場」でレンタサイクルを借りて、飛山城まで8Kmの距離を目指しました。

当時、ナビ(車ルート:これが失敗だった)で示されたのは飛山城西側(鬼怒川沿い)からの登城だったのですが、どこから登城すればよいかわからず、しばらくウロウロした後、近所の方に南側の6号堀(外堀)からの入城口を教えてもらいました。
自転車押しての登城だったので大変でした。➡後からわかりましたが、飛山城の東側に「宇都宮市とびやま歴史体験館」があり、ここからの登城が正式ルートです。
飛山城付近をうろうろしたので10Km近くは自転車で走っていると思います。事前にちゃんと調査すればよかったと、この時は思いました。

飛山城は、鎌倉時代の後半に芳賀高俊によって築かれたと伝えられ、豊臣秀吉の命(小田原征伐後の「宇都宮仕置」)で破却されるまで、芳賀氏の重要な拠点として機能していました。
現在、城址は「飛山城史跡公園」として整備されており、土塁や空堀などの遺構が残り、大手口には木橋が復元されています。
また、公園には堀立柱建物や竪穴建物、古代竪穴建物などが復元されています。攻城時間は80分くらいでした。

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todo94

島津義弘 (2020/12/29 訪問)

岩剱合戦で初陣を飾った島津義弘が在番となった城です。麓の岩剱神社に説明板があり登城口には標柱も立っています。平松城から見た岩剱城はものすごく急峻な山に見えますが、登城路は裏手側なのでそこまで急峻ではありません。本丸の表示がある曲輪には石垣も見られます。曲輪10が展望スポットとなっており、こちらの方が本丸というテイストを持っているようにも感じました。土塁や堀切などの遺構もあり、登城路の足元はあまりよくはないのですがなかなか楽しめるお薦めの山城かと思います。

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赤い城

塚田館 栃本県小山市 (2020/12/12 訪問)

間々田駅から徒歩で1時間以上。
歩いて行っても達成感は味わえません。
車でどこかのついでに立ち寄るのが妥当です。
館館には氷川神社が建っていて鳥居の側に石碑もあります。
遺構はなさそうですが神社裏側は何か雰囲気も感じました。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 10城目 (2020/11/20 訪問)

高知県立歴史民俗資料館駐車場から登城
(HPで確認すると建物改修工事のため、令和3年4月中旬まで休館らしいです。)

駐車場入り口に資料館休館の立看板があったので、資料館には最初から近づかなかったのだが、
それが失敗につなっがた。       「長宗我部元親 飛翔像」 を見落とした。
8年前に見た「長宗我部元親 初陣の像」が、私の中ではダントツの1位ですが「飛翔像」も悪くない。
存在は知っていたがどこにあるのか調べもせずにいたのが致命的に。  ここの資料館だったとは・・・

さて、説明板によると、発掘により二の段の土塁は幅3m、高さ1mほどだったそうである。
堀切は幅3m、深さ2mとあり、井戸は岩盤を3.6mも掘っていたとある。
いまでは土に埋もれ想像するのは難しいが、なんとか岩肌と数段の石積みを見ることができる。

詰の南の帯曲輪の南側は切岸となっており、こちらから登るのは無理そうだ。
詰には数年前に期間限定で二層模擬櫓が建てられていたそうだが、いまはコンクリートで固められた
礎石群が並んでいる。    ただあまりにも正確に方形をしているので、たぶんダミーだろう。

三の段には幅いっぱいに建物が建っていたとのこと。  すると建物内を通らないとダメってことか。
石積みで囲まれ、詰へ登る幅の広い石段もある三の段は、かなり詰と密接で重要な曲輪だったのだろう。

四の段の虎口は坂になっており木戸や番所などがあったのだろう。
崩れてこないように一部石積みもあるが、なんとも中途半端感が否めない。
案内板には、土佐では岡豊城で初めて枡形虎口が取り入れられたとある。
そういえば見てきた曲輪の虎口は平虎口ばかりだった。   枡形虎口もここ一か所だけだ。

立派な岡豊城址碑が建っているが南側の城外を向いている。 城下から見てほしくて建てたのか?
見えるかなー?  なんて書いてあるか読めないだろうにね。

伝厩跡曲輪へ向かう途中に畝状竪堀があるというが笹などの草に覆われうまく写真に撮れなかった。
伝厩跡曲輪でも樹木が邪魔をし、二重堀切や畝状竪堀群は見ることができない。
西からの攻撃に、詰を守る重要な出城であることを感じ取ることができなかった。

いま岡豊城の縄張り図をみていると、
疑問 その①  詰とか、○○の段、という曲輪の名前だけど、なぜ?  ここだけの呼び方?
疑問 その②  北東から南西にかけて、二の段、三の段、四の段 と並んでいる。
        とすると、資料館の場所には、 一の段という曲輪があったのだろうか?

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チェブ

JR内房線 五井駅。 (2020/12/30 訪問)

「五井陣屋」、想像力を最大限に働かせても『駅』にしか見えません。

1781年、有馬 氏恕さんが伊勢西条藩から五井に移り陣屋を築いたそうです。
伊勢西条藩は現在の三重県鈴鹿市辺りです。
遠くから、お疲れ様です。
2年後の1783年、氏恕さんは23歳の若さで亡くなります。
1842年、有馬 氏郁さんの時代に下野吹上藩へ転封となり「五井陣屋」は廃藩しました。
下野吹上藩は現在の栃木県栃木市辺りです。
やっぱり、お疲れ様です。

「五井陣屋」はJR内房線の五井駅。
ロータリーから五井駅の写真を写し、駅の改札付近まで行きましたが、ごくごく一般的な駅です。
、、、「五井陣屋」を忘れそうなので早目に投稿しました。が正直な感想です(-_-;)

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todo94

門松 (2020/12/29 訪問)

岩剱城在番となった島津義弘が麓に築いた城館です。重富小学校の校門には旧鹿児島県庁正門の門柱が移築されています。年末ということで校門には門松が飾られていました。鹿児島県では普通のようですね。群馬県や長野県では公立学校の校門に門松を見ることはまずありません。

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にのまる

土塁散歩 (2020/12/28 訪問)

 東門、乾櫓を見て高崎公園まで歩いてみましたが、この日は朝早く出たので3城目といっても時間はまだ午後2時過ぎ。このまま帰るのはもったいないなと「みんなの投稿」を振り返り、todo94さんおすすめの高松中学校テニスコートを目指して行ってみることにしました。
 こちらの方まで明瞭な土塁が残っていたとは全く知りませんでした。情報提供ありがとうございます。郵便局側から土塁に上がって一往復。そしてそのままNTTを取り巻く土塁へ。こちらも前回見ておらず、初めてでした。
 高崎城の案内板は昔の絵図上に現在地が示してあるのがとてもありがたかったです。
 帰りに通りがかった本屋さんで御城印を見かけ、井伊の赤鬼が鬼滅している限定版を購入しました。

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昌官忠

常陸太田近辺日帰り④ (2018/05/21 訪問)

「常陸太田近辺日帰り」の4城目は石神城(ラストです)です。額賀城からレンタサイクルで、石神城址公園駐車場(36.483771、140.577708)まで6Kmの距離を目指します。

石神城は小野崎通老によって築かれた城です。石神氏は額田氏とたびたび対立しましたが、最終的に主家である佐竹氏から離反した額賀氏に対して、石神氏は佐竹氏を支えつづけ、1602年に佐竹氏の秋田移封の際には石神通広も同行しています。

現在城址は「石神城址公園」として整備されており、土塁や堀などの遺構が残っています。
簡易トイレも駐車場にありました。攻城時間は30分位でした。
帰りは「常陸太田駅」までレンタサイクルで9Kmの距離を戻りました。(レンタサイクルの総移動距離は31Km強の旅でした。これに城跡内を歩いた距離が加算されるので、足は棒のようでした。)

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鯉城 (2020/09/19 訪問)

楽いです‼️
平城の中の平城。平坦で登らないから楽‼️
でも、立派な、さすが毛利輝元の居城です。
天守閣は復元ではありますが、歴史を感じ、どっしりとしてます。本当は小天守が東と北にあったらしいです。
天守閣の東側なな回ってみて下さい。どっしりとした感じが、よ〜く見えます。また、夕方以外は逆光にもならないので、天守の写真だけならお勧めです。
天守閣内には、休憩しながら観れるビデオコーナーがあり、勉強にもなります。
最後にお堀の周りを一周すると良いかと思います。
堀に映える天守閣が見えます。
西側から堀と天守閣のカッコいい写真が撮れます。
場内には自販機、トイレあります。
天守閣一階の土産屋には御城印も2種類売っています。
遊覧船に乗るのも気持ち良いですよ‼️

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昌官忠

常陸太田近辺日帰り③ (2018/05/21 訪問)

「常陸太田近辺日帰り」の3城目は額田城です。久米城からレンタサイクルで、阿弥陀寺入口(36.486971、140.518920)を目指します。
電動アシスト付といえど、9Km近くの自転車移動はきつかった。

額田城は額田氏の居城として知られています。1591年、額田照通は伊達正宗に通じたとして佐竹義宣に攻められて落城しました。
照通は正宗を頼って落ちのびましたが、「関ケ原の戦い」後の1602年に佐竹氏が秋田に転封となった際に帰国し、額賀久兵衛と称して水戸の徳川頼房に仕えました。

現在城址には土塁や堀などの遺構が残っています。本丸と二の丸を囲むように堀が広がっています。
阿弥陀寺の鐘楼がいい味出しています。阿弥陀寺のしだれ桜は名所でもあるそうです。攻城時間は60分位でした。

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昌官忠

常陸太田近辺日帰り② (2018/05/21 訪問)

「常陸太田近辺日帰り」の2城目は城びと未登録の久米城です。常陸太田城からレンタサイクルで、鹿島神社鳥居前(36.548271、140.480259)まで5Kmの距離を目指します。

久米城は佐竹義治の四男で、佐竹義信を祖とする佐竹北家の居城として知られています。
もともとは小野崎氏の一族である久米氏の居城でしたが、戦国時代初期、佐竹氏は山入氏と対立しており、義治はその攻撃に備えて久米氏を部垂城へ移し、子の又三郎義武(久米義武)を城主にしました。
1478年11月に山入義知に攻撃され、義武は戦死しますが、翌12月に義治は城を奪還しています。その後、義武の弟の義信を久米城主にしたそうです。

現在城址には土塁や虎口のほか堀切などの遺構が残っています。また、3郭に鹿島神社、西の城にTV中継所があります。
自分的には堀切に感動、時間の都合で「北の出城」と「南の出城」を見学できなかったのが心残りです。攻城時間は70分位でした。

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