東神奈川駅から国道1号線を渡ると本覺寺。
そこが青木城跡となります。
遺構はありませんが幕末にはアメリカ領事館が置かれていました。
その石碑はあります。
権現山合戦の後に築かれたとされます。
かつては権現山城とも尾根続きだった僧ですが今では見る影もありません。
ただ、本覺寺からは線路越しに権現山城を望め、往時のイメージはできるかもです。
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2022/07/23 20:14
2022/07/23 15:15
説明板に目を凝らす。 (2022/05/05 訪問)
前回、投稿した「牛久保城」から国道151号を「長篠城」方面に進みます。途中に「牧野城」がありました。
皆さんの情報通り、ビニールハウスと「牧野城」が共存してました。
土塁も高く残ってます。
説明板がありました。背の低い草木が土塁を覆い進入を拒み続けてます。
説明板を読もうと、目を凝らしてみると、4代将軍 足利 義持さんの命で讃岐国から移った、牧野氏の最初のお城なんだそうです。
「今橋城」(後の吉田城)に移ると廃城しまいました。
私は牧野氏の、新しいお城からお邪魔した事になりますね。
因みに、足利 義持さんは9歳で4代目を就任しました。お父様も御健在なので、苦労したのではないでしょうか?
、、、感染症が原因で亡くなってます。お尻のイボが、、、。
失礼しました。大きく脱線しました。
「牧野城」は広かったようです。大きな土塁から推測できます。宅地と農地の開発の波は、土塁が阻止してます。
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2022/07/23 13:19
千種顕経 (2022/07/23 訪問)
南北朝時代の公家、千種忠顕の子、顕経が築いたとされています。案内板のある所にある階段を上がっていくと東西の二郭があり、その間には堀があり土橋でつながっています。東郭は藪になっていますが、西郭には石碑があり土塁を見ることができます。西郭の石碑の裏には、大空堀があります。一番の見どころと思える見事な空堀ですが藪になっていて少し残念な状態でした。大空堀には踏み跡があり容易に降りて行くことができます。
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2022/07/23 13:04
菰野町立菰野小学校 (2022/07/23 訪問)
菰野小学校付近が跡地です。学校の南に石碑と案内板があり、近くに角櫓跡の案内板を見つけました。石碑しかないかと思っていたので、土塁、堀跡の存在に気が付いていませんでした。
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2022/07/23 11:40
【安芸・大和ミュージアム】広島県呉市 戦艦大和10分の1模型展示 (2008/08/02 訪問)
広島出張の後同僚仲間と夕食懇親の翌日、JR呉線で呉れに向かう、平成17年4月に開館した大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)を訪ねたいと、14年前の平成20年8月上旬、呉駅を降りて港の方に約500m程歩き初入館しました。
住所:広島県呉市宝町5番20号 駐車場有普通車65台
城びと投稿どうかなと思ったのですが、城、古戦場、武器、要塞などの繋がりも有るかなと、来月には戦後77年になる現在です、安芸の城廻りの途中にでも、寄って頂いたらと投稿致しました。
10分の1の戦艦大和模型でも、迫力ある模型展示です、コンパクトデジカメの広角いっぱいにしても、収まり切れず、部分部分の撮影、2階から展示を眺めるとかしますが、上手く撮れません。1階から4階と廻り展示コーナ閲覧、ゼロ戦の実物の展示も有り、大和など戦艦使用の砲弾等の展示も有りました。
野外展示では大和波止場に戦艦大和デッキを模した実物大展示も有り砲塔の大きさも実感し、呉軍港の潮風に当たりながら、係留されてる海上自衛隊艦船、海上保安庁艦船を遠く眺める事も出来ます。
又大和ミュージアムの北前に「てつのくじら館」(海上自衛隊呉史料館)も有り機雷掃海と潜水艦あきしお艦内見学も出来ます、狭い艦内でしたが初めての経験、見れる所を見学しました、国家機密潜水艦の内部見学を公開して良いのかなと思いながら、楽しく見学。
戦艦大和の模型10/1を見学して大変満足な探訪でした、拙い写真ですが思いを見て頂けたら幸甚です。
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2022/07/23 11:35
2022/07/23 10:16
龍福寺 (2022/07/16 訪問)
南北朝時代の1360(正平15/延文5)年、大内弘世はに本拠を山口へ移転しました。
このときの居館跡が大内氏館で、「西の京」とよばれた山口の街に似つかわしく、城ではなく館として建てられたそうです。
毛利隆元は、山口進行後、大内氏の菩提を弔うために、館跡に龍福寺を移しました。
現在も龍福寺の境内でありますが、復元された池や建物跡が見られます。
また、龍福寺資料館もありますが、内容的に大したことことなく、200円は高いかな?
一番すばらしいのが、入り口に置かれた大内義興像だったりします。
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2022/07/23 10:09
糸米川砂防園の駐車場から歩きました (2022/07/16 訪問)
高嶺城は、1556(弘治2)年、戦国大名大内氏最後の当主、大内義長によって築城がはじまりました。
しかし、1557(弘治3)年、毛利氏が山口に侵攻しはじめ、義長は未完成の高嶺城を放棄して長門国の且山城へと逃れ、その地で自害することとなりました。
大内氏滅亡後、高嶺城の築城は毛利氏によって再開され、完成することができました。
木戸神社西から山道を740kmクルマで2分、糸米川砂防園の駐車場にとめました。
三段あり20台くらいとめられそうでした。
ここから1500mは、緩い登りの舗装路を歩きました。
クルマで行けなくもなさそうでしたが、待避場所はなく、すれ違いができないので歩くべきです。
案内板にも「歩くこと」と手書きされていました。
ようやく電波塔まで23分かかりました。
ここはすでに、城内です。
霧雨の中、曲輪を一通りまわって所要時間約1時間30分でした。
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2022/07/23 09:59
勝沼氏館 (2022/07/17 訪問)
駐車場は館跡北側旧甲州街道沿い古屋ぶどう園さんのとなりでした。トイレは館跡入口に休憩所て併設されており中にパンフレットが有りました。下草は綺麗に刈りとられていてしっかりと維持管理してありました有難いです。遺構は東側北側の土塁と堀は見応えがありました。館内も建物跡や工房跡水路跡など分かりやすくなっていて説明板や発掘調査で出土した品の写真パネルなどもあり充実した内容で一時間半ほど行ったり来たり暑さも忘れて散策して来ました。
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2022/07/23 08:27
2022/07/23 08:24
2022/07/23 08:19
和歌山城 (2022/07/16 訪問)
あいにくの天気でした。
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2022/07/23 05:26
♪ほっほっ法勝寺 法勝寺の城は (2022/07/10 訪問)
くく草だよ 夏草ぼーぼーぼー
登城口から夏草が茂り足元の視界が悪い。
主郭まで行ってみたかったのだが草むらに蛇や蜂、マダニなど潜んでそうなので途中で断念。
登城は晩秋から早春にかけてするのがベスト。
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2022/07/23 00:39
2022/07/23 00:12
2022/07/22 22:12
2022/07/22 21:34
石垣を見る城だ (2022/01/29 訪問)
緑泥片岩を使った近世城郭として和歌山城と並び称されるが、途中で他の石材に切り替えたらしい和歌山城とは異なり、積み方を進化させながら一貫して緑泥片岩を使い続けている。徳島城は、石垣を見るお城だ。
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2022/07/22 21:24
皆さんの投稿を見て行く気になって (2022/07/12 訪問)
登城した。花尾公園城址看板前に駐車して中登山道で登り、下りは東登山道を選んだ。
石垣構造がぽつりぽつりとあり、他にも分かりづらいが竪堀、堀切などもそれなりに楽しめた。しかし、ぽつりぽつりと突然現れる石垣にはなにやら不自然さも感じた。いずれにせよ、この城の圧巻は本丸下の段から一気に石段で下っていく石組み井戸だろう。他には見たことのない構造だ。
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2022/07/22 18:33
2022/07/22 16:52
新井城に行ってきました (2020/03/09 訪問)
《新井城の戦いまでの背景》
三浦親子(道寸、義意)最後の地である、新井城に行ってきました。
この城は、北条早雲の相模平定における最後の戦いがあった城です。
北条早雲は小田原城を落とした後、三浦半島一帯に勢力を持ち、
関東管領家とのかかわりの深い三浦氏を攻めるべく三浦半島へ向かいました。
まず最初に1512年の永正の乱に乗じて、相模岡崎城を落城させ、
次に鎌倉と逗子の市境にある住吉城、そして最後にこの新井城を攻めました。
この戦いがいわゆる新井城の戦いです。
《三浦道寸と扇ガ谷上杉氏の関係》
三浦道寸は、元々扇ガ谷上杉氏の出で、三浦氏に養子として、
三浦時高の新井城に行きました。
しかし時高に実子・高教が産まれると不和となってしまいます。
なので、一度 小田原城主である大森氏頼をたより、
その時元々の名前である義同(よしあつ)から、出家したあと道寸と名乗りました。
そして大森氏の力を借り、時高・高教父子を滅ぼして、
無理やり三浦家当主となりました。
《新井城の戦い》
1512年、三浦氏の城を落城させながら三浦半島に侵攻した伊勢宗瑞(北条早雲)は、
ついに1513年(永正10年)道寸の本城である、新井城を攻めました。
宗瑞は、力攻めではなく兵糧攻めをしました。
その時に上杉氏の侵攻を防ぐべく築かれたのが玉縄城です。
(玉縄城の投稿もしているので、ぜひ見て下さい!)
北条軍は1513年9月29日、扇ガ谷上杉氏の援軍である、太田資康
(太田道灌の息子で、道寸の娘婿)をうち、ますます三浦軍を孤立させました。
しかし、さすがの北条軍も新井城には難攻し、1516年(永正13年)、兵糧がなくなり、
息子の義意は潔く城外にでて討ち死に。道寸ほか一族も自害しました。
道寸の辞世の句は、
討つ者も 討たるるものも 土器(かわらけ)よ くだけた後は もとの土くれ
という、討つ者、討たれる者も砕け散るかわらけのようだ という意味の句です
《その後》
落城後は、北条家の城となりました。
しかし豊臣家の北条討伐のより廃城となりました。
【城情報】
・形式 ❙平山城
・築城年 ❙鎌倉時代ごろ
・廃城年 ❙1590年(天正18年)
・築城者 ❙三浦氏
・最後の城主 ❙北条家
・廃城理由 ❙豊臣家が北条家を滅ぼし、使われなくなったため
・主な城主 ❙三浦氏→北条氏
・遺構 ❙ 曲輪、土塁、堀など
・主な建築物 ❙なし
・説明看板、石碑 ❙両方有
・駐車場、トイレ ❙なし
・天守 ❙なし
・保存状態(自身判断)❙歴史的な意味では重要で、遺構もあるため良
❙普通
・備考 ❙・遺構は少ない
❙・遺構は東京大学の研究施設にある。
❙道寸祭りには見れる
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