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にのまる

佃島砲台&越中島砲台 (2021/01/03 訪問)

 昨年末から年始にかけて東京駅のKITTEで開催されていた「麒麟がくる展」に行ってきました。実際に使用された衣装や甲冑、小道具などが展示されていました。
 印象的な派手な衣装、双六、蘭奢待など、「あー、これこれ!」と思うものがずらりと並んでいて、早くも懐かしい気分に浸ってしまいました。(ほとんど撮影可でした。)
 時代考証の小和田先生の特別解説「『敵は本能寺にあり』光秀の決心と葛藤」(ビデオ上映)は4本立てで、全部で1時間近くありました。テレビでは「名前にバッテン」されて終わった勝頼くんのことも、最終回で出てくる??長宗我部元親関与説もしっかりと聴いてきました。
 限定グッズ目当てに<雲丹ラーメンとパフェ>という信じられない組み合わせを食してしまったので消化せずには帰れません。江戸城一周が近くてちょうどよさげでしたが一般参賀もなく東御苑も閉園していたので、佃島砲台跡と越中島砲台跡までお散歩してきました。(どちらも城びと未登録。ニッポン城めぐりサイトの城攻め地図に載っていました。)
 東京駅から3kmくらい。佃島砲台には解説板が設置されていたのですっきりとゴールインできました。ありがたいです。越中島砲台は川の向こうの東京海洋大学の中、あのあたりだろうなあ、と眺めてきました。埋め立て地であるこのあたりの景色はおそらく目まぐるしく変わってきたのではないかと思います。50年後、100年後はきっとまた全然違った様子になるのだろうなあ。。。

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ぴーかる

リベンジなる (2020/12/26 訪問)

【望月城】
<駐車場他>登城口前の空き地<34.919317, 136.150197>に駐車できますが、入り口の道路幅が狭い為<34.919842, 136.149072>の道路脇に駐車する方がいいでしょう。
<交通手段>車

<見所>土塁・堀
<感想>前回は2019,11,17に訪城したが入口を調べず行ったので主郭の北西側をウロウロして主郭を見つけられず終了した(2019.12.26投稿)。今回は登城口をストリートビューできっちり確認してリベンジした。主郭部は甲賀郡中惣遺跡特有の高土塁に囲まれ、東側に平虎口が一つある。土塁高さは10㍍程はあろうか、近くの新宮支城に匹敵する高さだ。特徴的なのは西側奥の土塁には中段があって土塁の中段曲輪になっているのが珍しかった。虎口前に舌状の曲輪に祠があり、その舌状曲輪と主郭間と北側にかけて堀があったと思われる。北側に回ると堀は明確に残っている。北側堀のすぐ北側にも細長い曲輪があり土塁がある。主郭の西側から北西側はいったん下がってその北西側にも削平地がある。この削平地が前回間違えて来た所で2回目にして繋がった。結果的にはこの城跡の遺構は主郭部1つあるだけではなく、北側に腰曲輪、北西部にもそこそこ大きい曲輪、さらにその曲輪の北西部斜面には竪掘りがあることが分かった。
 しかし何度撮影しても高土塁の臨場感ある写真が撮れないのと、思うのは高土塁は山を削って造ったのか、土を盛って造ったのかどっちなんだろうか。そう思わせるこの迫力はやっぱり行って見るのがいいです。

<満足度>◆◆◇

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肉球

空堀を散歩できます (2021/01/26 訪問)

お城巡りを一日中するわけもいかず仕事終わりに立ち寄りました。
本丸や二の丸などお城の中心部は住宅街になり見極めるのが難しくなっています。が
岩槻城趾公園には鍛治曲輪、新曲輪の土塁空堀が残り埋め戻されていますが障子堀が確認されています。
この他に黒門、裏門が移築され保存されています。
少し離れた場所には藩校遷喬館と時の鐘が現存しています。

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pascal

対北条戦に備えた海城 (2014/12/06 訪問)

 稲村城を手に入れた義堯と次の義弘は、里見氏歴代でも特に優れた武将だった様で、安房の枠を超えて上総に討って出ると、久留里城に本拠を替えて、下総南部まで手中にし、最大版図を得ました。
義弘は次に来る北条氏とのガチンコ対決に備え、相模湾に面した麾下の海賊:岡本氏の海城を譲り受けて、水軍力の強化を図ります。
それが岡本城です。

 館山からR127を北上して豊浦に入り、豊浦小学校を越えた切通しの所に『里見公園』の看板があります。
此処が岡本城址ですが、周辺に駐車場が見当たりません。
地図で近くに『豊浦海水浴場』の表記を見つけたので、『海水浴場なら駐車場は有るだろう』と、行って見たら、有りました(^^;

 クルマを降りて、振り返った背後の山が岡本城です。
漁師町特有の狭い路地を抜けて国道に出て、隧道の手前に『岡本城入口』の看板と階段があるので、登って行きます。
城址は整備は不十分で、山全体に常緑樹が生い茂っているので、殆ど見通しが効きません。
削平した平坦地はというと、特産のビワの果樹園に活用されていて、特に城の遺構などは見当たりませんでした。
 一番上まで登ると、樹木が伐り払われて芝生の広場になっています。
ここを里見公園と称してるのかな? と思いますが、主郭というほどの広さはありません。
これでは御殿も建たないから、見張り所機能が主で、御殿は浜に近い場所に有ったのかな?
 ただ、此処から見える景色は格別で、洲崎から三浦半島、遠く大島や伊豆半島まで見渡せます。
里見の城の何処かに別荘建てていいよ と言われたら、迷わず此処にするなぁ(^^;

 水軍は海が戦場だから、海城も堀や土塁などと言った陸の城と概念が違うのかも知れませんね。
里見義弘はこの岡本城を里見水軍の拠点とし、岡本氏、正木氏などの水軍を育てて、北条氏との戦いに使います。
義弘の子:義頼はこの岡本城で育ちましたが、当主になると本拠を久留里城から岡本城に替えました。
そして次の義康が天正19年(1591)館山城を築いて移るまでの間、里見氏の中心でした。

 最後にクルマに戻るついでに、山上から目星をつけた船着き場の遺構を確認します。
基本は砂浜ですが、所々に岩礁があるので、運が良ければ遺構が見られる筈ですが… 果たして、有りました(^^;

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pascal

戦国大名:里見氏の誕生 (2014/12/06 訪問)

 安房里見氏の前期の居城です。
戦国時代の南関東にあって、最後まで北条氏に屈せず互角に渡り合ったのは里見氏だけです。
地勢上のアドバンテージは有ったにせよ、キラリと光る氏族ですよね。

 南総里見八犬伝のモデルになった滝田城に続く訪城で、安房グリーンラインを南下して行きます。
内房線を横切った右奥の丘が城址なのですが、最初の交差点に『☞稲村城こちら』の小さな看板がありました。
☞看板は要所にあって、最後は『☞稲村城入口』で集落の細道を案内していますが、駐車場はその先の広場(看板は無いがたぶん駐車場)に停めさせてもらいました。

 稲村城は古河公方の命で上野から安房に移った里見義実が築いた城で、2代目の義通、3代義豊と、3代50年に渡って里見氏の本拠地でした。
この期間に里見氏は近隣の有力国人衆を味方にし、或いは討伐して安房国内を統一、戦国大名へと名乗りを上げる事となるのです。

 縄張りは、北西から南東に延びる細長い丘陵を二ヶ所の『水往来』と呼ばれる堀底道で分断した、連郭の形式を採っています。
しかし広さは中央の主郭が圧倒的に広く、室町期の単郭の城の名残りを感じますね。
南東の斜面は緩やかで、階段状に平場が重なっています。
現在も此処に集落が有るのですが、祠や古井戸がいっぱい有るそうなので、ある程度家臣を集住させてたのかも知れません。

 現在、城址の多くは果樹園として活用されていて、カキやミカンが実を付けています。
さすがに主郭だけは国史跡指定を機に整備した様で、まだ伐採した果樹の切り株が遺っていました。
城址遺構と農業道路の見分けが必要ですが、さすがに車道などの大きな改変はされていないので、城の姿はイメージしやすい城址ですね。

 主郭に立つと館山市街とその向こうの東京湾が一望できます。
里見氏は最終的にはあの館山を本拠にして終わるのですが、その前に稲村城を舞台にして肉親同士で争う大きな内訌がありました。
2代目の義通は若くして死の病に冒され、跡継ぎの義豊はまだ幼児だった為、その養育と元服後の当主就任を弟の実堯に託して亡くなります。
託された実堯は良く家を守り、義豊も無事成人しましたが、20歳になっても叔父:実堯は当主の座を譲ろうとしません。
先代の約定違反には憤る重臣も居り、義豊は思い切って城内で実堯を取り囲んで詰問し、切腹に追い込んでしまいました。
 実堯の子の義堯は、軍を率いて上総に遠征していましたが、この処置に激怒して軍を返して来ます。
義豊も正統性を基に義堯を討たんとして兵を上げますが、国人の多くは実績ある義堯についてしまい、義豊は自害したので、4代目以降の当主は義堯の子孫が担って行く事になるのです。


 安房に入ってから、気になった事がひとつあります。
クルマで走っている時に、地元№のクルマのマナーがやたら良いのです。
皆さん車間を取ってゆっくり走るので、後ろを気遣う心配がありません。
それどころか、右折のため対向車待ちをしてる際に、わざわざ止まって譲ってくれる場面も何度もありました。
この時から、なんとゆうか 千葉県のイメージが180度変わりましたね(^^;

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イオ

北野城(和歌山市北野) (2021/01/17 訪問)

北野城は、詳細は不明ながら土井氏によって築かれた城とされます。

現在の紀伊中学校あたりが城域とされ、あたりには「城屋敷」や「古戦場」という地名が伝えられていますが、遺構も石碑も説明板もなく、中学校東隣の若宮池が堀代わりだったのかな、と想像をめぐらせることができるくらいです。

この日は好天の休日ながら仕事で出掛けなければならず、せめて城でも行かないとやってられるか、ということで薗部城と北野城に寄り道してみましたが、背広に革靴では山城に行けないのはやむを得ないとしても、遺構も何もない城跡だけではかえってモヤモヤが募るばかりでした…。
 

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑨:立山城➡城びと未登録(千葉県千葉市) (2020/01/23 訪問)

大椎城から転戦。車で10分くらいでした。
携帯のアンテナ基地前(35.520024,140.251618)に駐車して攻城しました。

立山城は土気城を居城とする酒井氏が支配した大椎城の出城であったと思われますが、詳細は不明です。
大椎城より古く、平安時代から築かれていたという説もあるようです。
また「隠居城」という別名も大椎城のことを指す可能性があるそうです。
現在城址には土塁や堀切の遺構のほか、「立山城の跡」という石碑が建てられています。

土塁、堀切があるとのことで探したのですが、堀らしきところに家電の不法投棄があり残念。
城碑の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑧:大椎城 (2020/01/23 訪問)

土気城から転戦。車で10分くらいでした。
駐車予定していた場所からは徒歩でも攻城できないことが、現場に着いて判明。しばらく駐車場所を探したが見つからず断念。

大椎城は平安時代末期に平高望の曾孫にあたる平忠常によって築城されました。その後長らく千葉氏を称した忠常の後裔が拠ったとされます。
一方、忠常の館に関する伝承は東庄町にもあり、「千葉伝考記」はその2代後の平常長が前九年の役の功で大椎の地を賜り、次の常兼の代に大友城から大椎城に移ったように記しています。
1126年(大治元年)に常兼の嫡子、常重が亥鼻城を築いて居城を移しました。
戦国時代には土気酒井氏の支配下に入り、支城として大規模な改修を受けたと思われます。現在残る遺構も土気酒井氏時代のものと考えられ、土塁や空堀などを確認することができます。
1590年(天正18年)、小田原征伐により酒井氏が滅亡し廃城となったとされます。

ワンハンドヒルズ(チバリーヒルズ)から登城口を遠望するも攻城かなわず。城跡を目の前にて痛恨のミス。
攻城時間は10分くらいでした。(投稿写真ありません➡遠望でも写真撮ればよかったですね)

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑦:土気城 (2020/01/23 訪問)

本納城から転戦。車で20分くらいでした。
馬出曲輪の貴船神社(35.528949,140.2881)➡3郭➡2郭➡1郭を車を進めて攻城しました。

土気城は神亀年間に鎮府将軍・大野東人が蝦夷に対する備えとして「金城」あるいは「貴船城」と呼ばれる城砦を築いたのが起源とされますが定かではありません。
室町時代、土気荘の地頭職を得た千葉氏の勢力圏となり、室町時代には千葉氏の流れを汲む土気氏が当地の地頭職を得て土気城に拠ったとされています。
室町時代後期には一時大関城主の畠山重康の勢力下となったが、1487年(長享元年)原氏と組んだ中野城主酒井定隆に追われ、翌1488年(長享2年)酒井氏が移り、以降酒井氏が滅びるまでの100年強同氏の一族が拠りました。
後に定隆は三男隆敏と共に土気から東金に移り、隆敏は東金酒井氏の祖となりました。
1564年(永禄7年)第二次国府台合戦で土気酒井氏は里見氏に組し、里見氏の敗退後北条氏に組した東金酒井氏を含む北条勢に攻められた。
この際、搦め手のクラン坂方面から北条勢が攻め寄せたとされるが、酒井胤治が良く守りこれを撃退しました。
その後、土気酒井氏も北条氏に降り、1590年(天正18年)の小田原征伐では酒井氏は北条方として小田原城に篭城しました。
この役で北条氏が滅ぶと、酒井氏も運命を共にし、土気城も豊臣方に接収され廃城となりました。
現在本丸跡は旧日航研修センターの庭園になっており、5m近い土塁に囲まれた二の丸跡には老人ホームが建てられています。

馬出曲輪の貴船神社➡3郭➡2郭➡1郭を車を進め、クラン坂を通り抜けようとしたら倒木の為、前に進めず。
クラン坂の狭い登り坂を車で50m程バックで脱出を図りますが、雨で土砂が道路上に流れており、スリップの為、脱出するのに時間がかかりました。
本当に通行止めにしておいてほしかった。(反対側の入口は通行止めになっていました)
攻城時間は45分くらいでした。(見学時間には脱出時間も含んでいます)

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赤い城

曲輪が深い堀切で分断されている (2021/01/30 訪問)

フルーツライン沿いに城址の入口があり、看板も立っています。
近くの道路脇の広くなった所に駐車しました。
登城口から左に進むと搦手、綺麗な土橋が残っていました。
箕輪城の支城で、連郭式縄張になっていてそれぞれの郭の間は深い堀切で分断されていました。
大手の虎口には石積、二郭、三郭の下には竪堀も残っています。
なかなか見応えのある城だと思います。

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ダイエティシャン

重ね捺しスタンプラリー(2/28迄)松江城の巻と、節分限定恵方巻き【堀尾巻】 (2020/02/02 訪問)

ドキドキ、ワクワクの、重ね捺しスタンプラリー、松江城の巻です。今日やっとコンプリートです。
スタンプ場所を教えて下さった方、ありがとうございました。
3城コンプリートで抽選で島根県の特産が当るそうです。

今日は節分限定恵方巻き【堀尾巻】の販売日。開店時間に、スーパーで【堀尾巻】を入手し、攻城しました。松江特産【しじみ】が入っており、とても美味しかったです!節分の恵方巻きは、堀尾吉晴が巻き寿司を食べ、戦勝した事が由来とか、松江市の言い伝えだそうです。

鳩や水鳥も散策を楽しんでおり、寒さの中も長閑な攻城でした。

天守閣は、2/13迄の平日のみ、休館です。本丸の庭には入れます。

周辺博物館では、島根県の中世のお城関連の展示を開催中。今日 火曜日は、休館なので、また次回。

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チェブ

お米が先。 (2020/12/30 訪問)

昨年のラスト城攻めは「夏見城」。そこから車で5分位の場所に「米ヶ崎城」があります。

「夏見城」の夏見氏が築城したそうですが、こちらも文献が残っていないので、はっきりしません。
、、、抜け穴伝説はないみたいです(´ε`;)

意富比神社(おおひ じんじゃ)が「米ヶ崎城」周辺です。
周りは畑です。
「米ヶ崎城」の石碑等はありません。
写真②に、米ヶ崎 字 城之内と記載してあるので城跡を感じます。
『米ヶ崎』の由来は、こちらの地域の新米を最初にお供えするので、米が先。→米ヶ崎なんだそうです。
そこから、西側に土塁がありました。写真④です。
、、、夕日を写したら、土塁がありました。が正解。

「米ヶ崎城」から海老川を渡ると「夏見城」です。
ちなみに海老川は源 頼朝さんに海老を献上し名付けられた、という説が残っているそうです。

「米ヶ崎城」の伝説は、ないんかーい!と、突っ込みを入れてしまいそうです。

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朝田 辰兵衛

手荷物預けるなら,秩父鉄道 行田市駅へ。 (2019/06/29 訪問)

当初の予定は,JR行田駅前の行田市観光案内所にて,レンタサイクルしようと考えてました。しかし,手荷物預かりは扱っておりませんとのこと。しかも,JR行田駅にはコインロッカーなし。タクシー乗り場にタクシーの待機はありませんでしたが,運良く入ってきたタクシーに飛び乗りました。
手荷物預けるなら,秩父鉄道 行田市駅へ。レンタサイクルもあるようです。

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pascal

真田氏発祥の地と初期の詰め城 (2013/11/12 訪問)

『真田の聖地』と呼ばれる松尾古城です。
此処はほとんど登山になるので、それなりの装備が必要です。
それに万一の事故に備えて、単独登城は避けた方が良いと思います。

 城址は写真①の山の尾根の最初のピークにあります。
駐車場は無かったので、写真に見える送電線の鉄塔の下に停めさせてもらいました。(県道からメンテ用の道路がある)
そこからはひたすら山登り、明瞭な道は無いので、岩の多い痩せ尾根の馬の背だけを意識してどんどん登って行きます。
やがて、平らな自然石を積んだ小規模な石垣が現れ始め、最後は石垣で囲まれた小郭になり到着です。

 郭内には祠が祀られていて、城址の体裁にはなっていますが…小さいです。
尾根城だから、大規模には出来ませんが、これは詰め城というか、避難所ですね。
真田郷の支城ネットワークのひとつみたいな説明文も目にしましたが、これでは“敵の虚を突いて討って出る”様な動きは出来ません。
強い敵に襲われた時に、難を避け逃げ込む避難所です。

 そういえば麓にある『日向畑遺跡』は真田家初期の屋敷跡だと言われています。
その屋敷とセットになった詰め城がこの松尾古城ではないでしょうか?
郭の規模から数十名で満杯ですから、おそらく真田郷を掌握していた幸隆よりも前の世代の城ですね。

 幸隆以前の真田氏の系譜は明らかではありませんが、弱小土豪の時代があった筈です。
主郭に立って麓を見下ろしていると…
ある日強い豪族に襲撃されて、命からがら此処に逃げ込み、火を掛けられて蹂躙される麓の屋敷を唇を噛んで見つめる姿が浮かんで来ました。
『強くならなければ生き残れない…』真田家の原点の城なのかも知れませんね。

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pascal

なぜ此処にこんな巨城が!? (2014/05/03 訪問)

 百名城でお馴染みの高取城。
城下の壺阪山からは約4㎞、比高差390mの急な登城路の山道を2時間掛けて登った先で目に飛び込んでくる壮大な石の遺構。
そんなインディー・ジョーンズにも似た感激を味わえるのは、この城ならではですね。

 南北朝期の越智氏の築城に始まり、筒井順慶も詰め城に使った高取城を、総石垣の巨城に仕上げたのは豊臣秀長です。
高取山は石材の採取に適した山ではないので、使っている石の多くは麓で調達・加工して、歩いて来た坂道を引っ張り揚げた訳ですね。
過去の癖で、それをすぐにコストに換算してしまうのですが、この築城には膨大な金額が費やされていますね。
地理的効果でも随分とコスパの悪い仕事です。
(大和郡山城が百万石の太守の居城にしてはショボい理由はこれか?)

 『秀長は見栄張ってえらい無駄遣いしたもんやなぁ、豊臣やから…なぁ』
で片付ければ、話はそれで終わるのですが、あのケチで有名な徳川家康が高取城を継承し、幕府は管理人大名を置いて明治まで維持して行った事実で謎は一気に深まります。
そう思うと、大和郡山に代々譜代の大身を配した事も、紀州を御三家で抑えた事も、一連の繋がりの政策に見えて来ます。

 紀州の海~山深い紀伊山地とその入り口にある高取城~そして奈良盆地から京都
何か大きな国体戦略の要の位置に有ったのが高取城なのでは?
もしも千田先生と話す機会があったら、ぜひ訊いて見たい日本史の謎です。

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イオ

薗部城(和歌山市園部) (2021/01/17 訪問)

薗部城は薗部重茂の築城とされ、平家物語にも記載のある紀伊国住人薗部氏の居城でしたが、薗部国康が息子の広覚上人のために薗部城に一楽寺を建立し、宅地化によりお城の面影は消え失せても、お寺は現在まで続いています。

…と古い歴史のある城ではありますが、遺構はもとより石碑も説明板もなく、一楽寺の由緒書も見付けられませんでした。
 

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑥:本納城 (2020/01/23 訪問)

大関城から転戦。車で25分くらいでした。
蓮福寺墓前の空スペース(35.483457,140.3004)に駐車して攻城しました。

本納城は室町時代後期、1529年(享禄2年)に構築されたと伝えられており、黒熊大膳亮景吉の居城として知られています。。
永禄の頃、房州里見の支城である本納城は長南武田の進攻に備え、佐矢止砦、壇上砦を強化していたようです。
1564年(永禄7年)の国府台合戦ののち、房州里見氏の傘下を離反した土気城主・酒井胤治の軍勢に急襲され1569年(永禄12年)3月28日落城、城主景吉は切腹したと記録されています。
その後、土気酒井氏方から城代として、板倉右衛門他2名がきて統治したが、1590年(天正18年)小田原落城後徳川幕下の旗本知行地となり廃城となりました。
黒熊大膳亮の菩提を弔うために建てられたといわれる蓮福寺は居館跡だといわれており、そのすぐ裏手の山が城址です。

墓の真ん中の道を進んで主郭、2郭、3郭、4郭の尾根は確認したが、本納小学校裏手にある尾根への道を見つけられずに撤退。
蓮福寺から主郭まではよく整備されており、主郭虎口手前にある袋狭間と呼ばれる堀底道は見事です。
攻城時間は30分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ⑤:大関城➡城びと未登録(千葉県東金市) (2020/01/23 訪問)

東金城から転戦。車で15分くらいでした。
大関神社前(35.524424,140.3846)に駐車して攻城後、砂古瀬神社への道路側からの侵入口(35.517727,140.382210)に車を進めて駐車しました。

1204年(元久元年)畠山重忠の支族が安房国から上総国に移り、重康によって築かれた城だそうです。
1526年(大永6年)12月に東金城主・酒井隆敏に攻められ落城、重康は上谷常福寺で自決して畠山氏は滅亡しました。
現在城址は大関神社の境内となっており、また東金九十九里自動車道の開通工事により遺構は残っていません。
なお「依古島(よこじま)」の地名のとおり、かつてこの周囲は低湿地帯に囲まれていたそうです。

大関神社前に駐車して案内板の写真を撮り、砂古瀬神社への道路側からの侵入口に車を進めて砂古瀬神社裏側の土塁や堀を確認。
攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

房総日帰り攻城Ⅱ④:東金城 (2020/01/23 訪問)

田間城から転戦。車で10分くらいでした。
登城口前の空スペース(35.561010,140.356625)に駐車して攻城しました。

東金城は東金酒井氏の居城として知られていますが、築城説には2説あります。
①酒井定隆によって1521年(大永元年)に築かれた説
②室町時代に千葉氏が築いた鴇ケ峯城を起源とする説
酒井氏による築城が有力だそうです。

1590年(天正18年)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に、酒井氏は北条氏についたため、浅野長政によって接収されました。
その後、徳川家康の関東入封後の1613年(慶長18年)、東金は家康の御鷹場となり宿泊施設として東金御殿が建てられました。
1630年(寛永7年)の徳川秀忠を最後に鷹狩りはおこなわれなくなり、1671年(寛文11年)には東金御殿も取り壊されています。
現在、東金御殿跡には千葉県立東金高等学校があり、同校と本漸寺との間に登城口があります。

登城口前の空スペースに駐車して攻城しましたが、台風による倒木の為、門が閉鎖され中に入れず。登城口前の案内板の写真を撮り撤退。
攻城時間は10分くらいでした。

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赤い城

安房里見氏のルーツ (2021/01/30 訪問)

城山稲荷神社の大鳥居前に空き地があり車を停めました。
少し登ったところに墓地があり、
その先の畑の畦道を進むと本丸があります。
本丸には説明板が立っています。
本丸手前には土橋や堀の跡も残っていました。
二郭、三郭は畑となっているようです。
当然里見氏の岩盤堀切はここでは見ることが出来ません。
武田信玄の箕輪城攻めの際に落城したそうです。

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