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小城小次郎

スケール感までは破壊されていない (2021/10/24 訪問)

宗教施設だが受付を通れば見学可能エリア内には快く通してくれる。いろいろあって爆破されたのは紛れもない事実だが、このお城がもともと持っていたスケール感までは破壊されていない。今でもいい城だと思う。

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朝田 辰兵衛

江戸東京博物館(東京都墨田区) (2022/02/13 訪問)

にのまるさんが紹介してくださった『徳川一門ー将軍家をささえたひとびとー』を鑑賞しに行ってきました。想像を超えるクオリティでした。江戸の町を再現しているとは…。しかも,フラッシュ撮影可能エリアが多いこと,多いこと。3月6日(日)までの会期なので,お見逃しなく!

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ぴーかる

御着城 (2022/02/11 訪問)

【御着城】
<駐車場他>市役所出張所駐車場
<交通手段>車

<感想>御着城は赤松氏一門の宇野氏の庶流小寺氏、1519年に小寺政隆が築城したといわれています。山陽道の街道や町を取り込んだ惣構えの平城だったようです。御着城が小寺氏の本城として姫路城は支城とし黒田氏を城代として守らせました。3代目の政職の代になり家老の小寺孝隆(黒田孝高)の進言を最後は無視して別所氏の謀反に同調して離反、逃亡する。城は接収され廃城となったようです。
 現在は本丸跡には市役所の出張所となり北側に天川橋という復元橋の下が堀跡、二の丸跡はグランドで北側に土塁が残っています。また本丸跡西側に黒田家廟所があります。

<満足度>◆◇◇

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トク

「がばい藩主」鍋島直正 (2022/02/27 訪問)

佐賀城は、龍造寺氏の村中城が前身の輪郭悌郭複合式平城です。幾重にも巡らされた堀と土塁に松の木が植えられ。一見沈んだように見える城(沈み城)と呼ばれてきました。
戦国大名の龍造寺隆信が沖田畷の戦いで死去してから、家老の鍋島直茂が実質上実権を握り、江戸時代に入り直茂が藩主となる事を幕府より認められ、1602年村中城の改修を開始し1611年に完成、佐賀城と名を改めと同時に初代藩主を子の勝茂に譲ります。

江戸中期になり、2度による大火で天守・本丸御殿(1726年)、二の丸御殿(1835年)は焼失。1838年10代鍋島直正は本丸御殿を再建し、併せて鯱の門を造ります(この門が現存)。

明治に入り1874年、江藤新平を中心とする明治新政府に不満を持つ士族が反乱を起こし(佐賀の乱)、鯱の門にはこの時の弾痕跡が今でも生々しく残っています。

現在、直正期の本丸御殿が再現され、内部は佐賀城本丸歴史館になっています。無料で入館でき佐賀城と佐賀藩の歴史が実によくまとめられていますので見学される事をぜひオススメします。

[佐賀城へのアクセス]:JR佐賀駅から佐賀市営バス佐賀城行(鯱の門の前が終点)。


【ここからはまた余談ですが】
鍋島直正は、フェートン号事件による藩の失態に学び、海防の重要性を説き、長崎警固役の役職を通じて、諸外国の情報や技術を積極的に収集。一方で藩校弘道館を作り人材を育成、その人材を登用し財政が窮地に陥った藩の藩政改革と近代化を行いました(大隈重信、江藤新平はこの弘道館の出身)。そして、反射炉や海軍所を作り幕府に技術供用する事で信頼を得ていきました。特にこの反射炉で、日本で初めて国産の大砲50門が造られ、日本各地の台場に送られていきました。佐賀城を訪問して直正とその藩士の偉業を初めて知り、佐賀の人は、まっこと「がばい」と思いました。(ちなみに島田洋七は佐賀城内の小学校の卒業生だそうです(笑))。

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ばばよ

ふつうの公園 (2022/02/23 訪問)

葛西城址公園はびっくりするほど普通の公園。
名前がこれでないと全くわからない。
環七向こうの御殿山公園に案内板があり、公園としてもまだ雰囲気はある(遺構はない)。

●アクセス
京成青砥駅から徒歩15分
または
常磐線亀有駅から徒歩25分
 または亀有駅からバス

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー51城目 (2022/01/06 訪問)

青春18きっぷでアプローチしたので昼頃の到着となりました。あいにくの雨天の中、無事、続100名城のスタンプをゲット。天守門の写真はずいぶんと撮影しやすくなっていました。天守内の展示がリニューアルされており、本丸南広場も整備されていて新しい説明板が立ち並んでいました。

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カズサン

整備修復が進み見易く成ってます (2022/02/24 訪問)

 県を越えての移動が自粛中の武漢コロナウイルスオミクロン株感染禍中で静岡県城びと登録未踏の庵原山城、間門城探訪終えて、帰路静岡市清水区に在る小島陣屋を十数年振り探訪しました。
 車は前回と同じく龍津禅寺の駐車場を利用、参拝も忘れなく。
 駐車場は小島陣屋北側の裏門跡辺りの道が広く成ってる山側に2~3台縦列駐車可能、ごみ収集場横。
 駐車場は小島町自治会館、JAしみずきょうみ店が可能(ここは小島陣屋御殿書院の資料館の近くです)。その手前のウエルシアドラッグストアも可能かも?

 南東の大手枡形虎口より入る、手前で檻に入った大型犬に吠えれれますがそのまま進み、案内板と資料箱、桝形虎口の手前に白梅が満開、虎口大手東側の登り石垣は素晴らしい、見所の一つ、順路板が有り南下より西に進み最上段の石垣石塁が素晴らしい、各曲輪は以前畑に成って居ましたが、今回見た所、畑の耕作は無くなり曲輪状態に草は枯れて又刈られ大変見学探訪し易い状態、上段の石垣は修復中ですがほぼ完成してる、工事看板は期限R4年3月18日と成って居ました。以前より良く整備保存されています。
 井戸跡、稲荷跡の多段石垣曲輪、裏門跡、大手門跡、最上段の郭跡より枡形虎口、南、西の渓流筋を眺める、東側の高い多段6段石垣を見下ろす、登城前に住宅街の隙間から見上げる、相当の高さが有ります。
 酒瓶神社の藩主寄進の鳥居を眺めて、国道52号線沿いの旧小島陣屋御殿書院、現資料館を表より撮影見学、ちょっと古いですがトイレも有ります。
 国道52号線身延街道(トラック、ダンプ走行の風で煽られますチョット危険)を南に龍津禅寺駐車場へ、龍津禅寺には藩主正信公の墓石が有るそうですが参拝して居ません。

 

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イガちゃん

四ツ山城跡 (2022/02/22 訪問)

周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川、南は市ノ川流域を一望できる要害の地に築かれています。
鉢形城と松山城の間にあって、鎌倉街道上道を監視し、交通路を押さえる重要な役割をしていたと言われています。
高台だけあって階段を登りますが、周囲を一望でき、土塁や堀切もしっかりと残っています。

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やま

萌える山城⑦ (2022/02/27 訪問)

これほど遺構がはっきり残っている城跡が神戸にあったとは驚きました。登城ルートは2つあり、新神戸駅裏から直接城に向かうルート(東曲輪群経由ルート)と、布引の滝経由で猿のかずら橋を渡って行くルート。どちらも急坂です。 基本「登山」ですので、登山靴は必須です。お勧めのコースは後者で、猿のかずら橋を渡ると細い尾根伝いに城跡までの道があり、時々曲輪跡があります。中央曲輪群手前で新神戸駅裏ルートと合流します。中央曲輪の入口手前には竪堀が確認でき、また城門があったと思われる場所の両側に曲輪と、石垣跡が確認できます。そこから50Mほど進むと城跡の案内板があり、縄張り図がありましたが、それと同じ遺構が確認できるため迫力満点。但し城跡として見学用の整備はされていないので、ハイキングコースを外れての城跡の見学は骨が折れました。本丸跡には城跡碑が建てられていてインスタ映えする感じです。また本丸裏に進むと全国でも珍しいとされる二重堀切跡があり、西曲輪群へと続きます。帰りは新神戸ルート(東曲輪群経由ルート)を下りましたが、数多くの曲輪跡が確認でき、萌えます。堀切、土塁、曲輪群などは城跡としても全国屈指のレベルだと感じました。

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小荷駄

岩崎城 (2022/02/25 訪問)

歴史公園になっています。駐車場トイレに資料館が有ります。しかも無料です。主郭から二の郭の堀は立派です。遺構が少なめですが資料館の資料や展示物は充実しています。城郭ジオラマを見てから散策しましだ。

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赤い城

川と尾根が守る天然の要害にさらに。 (2022/02/20 訪問)

先月行ったばかりですが、その際に出会った方に案内頂けるとのことで再訪。
南側に展開する尾根を歩きました。
倒木も多く立入禁止の看板もあるので登城の際にはご注意とそれなりの装備を。
さらにこの日は朝は雨、関東ローム層が威力を発揮。
滑りやすい細尾根はスリリングでした。
主郭である倉の台から最初の尾根を進んで行きます。
結構な高さの細尾根です。
引き返し倉の台下の巨大な岩盤堀切へ。
房総の城の特徴ですがあまりにも凄い。
これだけ削る労力ってどれほどのものなのでしょう。
近くには石積状の遺構もありました。
で、尾根部分に進んで行きます。
本来は遊歩道になっている部分も倒木で大変。
土橋を見上げながらさらに進むと東屋があります。
ここの下に曲輪がありますがその切岸がまた凄い。
垂直に岩盤が切り立っています。
東屋からさらに尾根を進むと大きな堀切。
ここも岩盤を削ったものです。
堀切の上には三角点があり、少し進むと飯綱大権現。
武者溜となっていて土塁も残ります。
さらに先の南東側の尾根の先には少し開けたような曲輪が。
ここから攻めて北的に尾根上から集中砲火できるキルゾーンのようです。
すでに満腹でしたが引き返し遊具がある郭下に。
ここにももの凄い岩盤堀切がありました。
見学に5時間超。
まだ見れていない部分もあるので次の冬に再訪したいです。

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カズサン

日本武尊が滞在した別称蝦夷城 (2022/02/24 訪問)

 城びと登録城郭静岡県未踏の城廻り、庵原山城探訪の後国道1号線バイパスを富士市へ途中道の駅富士で昼食、愛鷹山の西麓に在る間門城を目指す、国道1号線バイパスから県道76号線を北上、富士山が大きく見えるが曇って裾野だけ、ナビは間門浅間神社南側に合わせ新東名真下を潜り赤淵川を渡って直ぐ、門前に在るごみ収集場の村道三角コーナーに1台ギリギリ駐める。

 情報とガイドは古城盛衰記さん、GoogleMapによる。

 石碑「史跡蝦夷城跡」(エビスと読みます)が浅間神社の東側の道沿いに在る、内容は日本武尊が東征(西暦110年)の折にしばらく滞在したと伝わると刻まれて居ました。1900年昔に神話で名高い日本武尊の立たれた地を踏み訪ねた事は感激です。
 浅間神社は木花之佐久夜毘売命を祀っています、日本武尊を助けた妃で有名です。
 
 浅間神社の奥段に五社神社三柱、奥山尾根道に祠が一柱有り奥は崖で赤淵川に落ちて居り、背後を護ってる状態、西は赤淵川、東も河川が守りそれなりに地形の利を取り込んでいる、西の赤淵川沿いに土塁が在る様に見えるが土塁かどうかは不明、チェブさん、とある煩悩の登城目録さんの投稿写真に在る土塁写真の跡が見つからず。(浅間神社の橋一つ南に在ったのですね!)
 帰ってから城びとの城跡位置と古城盛衰記さんの城跡位置のマークが違い、城びと位置は浅間神社の有る所から南に橋一つ南の畑に在り、当日スマホで詳しく確認すればと後悔。

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Yosihiko

天守閣無し (2022/02/27 訪問)

攻城址🏯9城、攻城址5

何も無くて残念。

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織田晃司

いきなり藪漕ぎ (2022/02/26 訪問)

登城口1歩目からススキの藪漕ぎ。おまけにイバラまで…
それを抜けると笹藪。
夏の登城は無理な気がする。

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2021年7月4日の高松城攻城 (2021/07/04 訪問)

高松城は、かつて「城が見えます波の上」と謡われたように、瀬戸内海に面して築かれており、日本3大水城のひとつに数えられております。
高松城は、1587年に讃岐一国の領主になった生駒親正によって1588年に築城が開始された城郭で有ります。
かなり長期間をかけて城郭が整備されていったと考えられております。
北は瀬戸内海に面して、残りの三方を3重のお堀で囲まれたいわゆる海城で有ります。
生駒氏後に、1642年に徳川御三家の水戸藩主徳川頼房の息子の松平頼重が常陸下館5万石から12万石で領主となりました。
松平頼重は、1644年から城の改修に取り掛かっており、1670年にはそれまでの3重の天守を3重5階に改修しています。
1671年から北の丸、東の丸を新しく増設を開始し、それを引き継いだ松平頼常によって1976年に月見櫓(着見櫓)を上棟、1677年に艮櫓を完成させました。
これに伴って、桜の馬場南面にあった大手の木橋が撤去され、新たに桜の馬場東面に造られた門が大手門としての機能を担うようになり、1700年には三の丸に御殿を完成させました。
その後、大幅な縄張り改変はなく、松平氏が明治維新まで続くので有ります。
明治維新後は、1884年には天守も取り壊されました。
その天守の復元が高松市民の念願になっております。
高松城の城郭構成としては、天守台がある本丸、本丸の北側に位置し、鞘橋で本丸と連結する二の丸、披雲閣や披雲閣庭園がある三の丸、三の丸の南側に広がる桜の馬場、月見櫓(着見櫓]や渡櫓、水手御門が位置していました。
また、かつては瀬戸内海に面していた北の丸、その東側には石垣のみが史跡となっている東の丸、各曲輪を区画して海水をたたえるお堀などが挙げられますね。
水手御門は、瀬戸内海に直接面していて海城特有の門で、現存するのは高松城だけで有ります。
この水手御門がどのように使われていたか分かりますか?
この水手御門は、参勤交代の時にのみ使われておりました。
即ち、海の御門なんですね。
参勤交代の時に、藩主は水手御門で小舟に乗り、御座船に乗り換えて江戸に向かったのですね。
水手御門のそばに月見櫓がありますが、名前の由来は知っていますか?
月見櫓は着見櫓と書きます。
月見をする為の櫓ではありません。
高松城に近づいてくる船に見張る為の櫓だったのですよ。
着見櫓の内部に入ると分かるのですが、内部から瀬戸内海だけでなく遥か本州の岡山まで一望できるのです。
豊臣秀吉の配下の生駒親正は、毛利輝元や島津義久の動きを警戒する必要があったのですね。
海の交通の要衝だったのです。
当時は、高松もかなり井戸が多かったのです。
それに、海の近くにあるのに井戸には海水が含まれておらず真水なのです。
城下町から海に向かって緩やかな扇状地になっているのですね。
扇状地とは、川の流れで運ばれてきた石や砂が扇状に堆積した地形のことです。
しかし、高松は扇状の形にはならなくて舌状の形になっているのが特徴なのです。
どうしてなのかはよくわからないのですが、川が大きな洪水で埋められてこのような土地が出来てしまったと考えられております。
このような扇状地が出来たおかげで、真水が得られるようになったのです。
井戸が多いのは、かめ井戸から木樋を通して真水を城下町の井戸に送っていたのです。
高松では、上水道が玉川上水よりもかなり早くから整備されていたんですね。
かめ井戸は、東西18m、南北40mもあったのです。
歴代の高松城主が100年位をかけて完成させた栗林公園の大名庭園には、むかし香東川だったと云われている細長い池があります。
香東川を西側に一本化して洪水を防いだので、東側は川は無くなったのですが、栗林公園の付近には池となって治水の痕跡が残ったのです。
また、屋島には古代城郭の屋島城があり、今は復元された石垣が見事に残っておりますが、その屋島城も海城だったのです。
江戸時代までは屋島は島でした。
高松城は、軍事的な拠点や海の交通の要衝として、巨大な海城が築かれて城下町が発展していったと思います。


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ばばよ

城址公園外にも見どころあり (2022/02/23 訪問)

世田谷城址公園自体は広くありませんが、城そのものは豪徳寺含めた一帯だったようです。
豪徳寺は開発されて城跡の名残はありませんが、公園近くの住宅街の隙間に郭(D)、豪徳寺側から公園を眺めたところに郭(A)の土塁も確認できます。
豪徳寺自体も立派な建築物と井伊氏にまつわるエピソードの案内板など見どころあります。
公園だけで終わりにするともったいないので、周辺探索までしてみてはいかがでしょうか。

新型コロナまん延対策のために県境を越えず都内だけにしている昨今、特に23区内はせいぜい案内板だけで遺構がないところが非常に多いため、貴重な存在です。

●アクセス
東急世田谷線宮の坂駅 徒歩5分

駅に城址公園の方角を示す矢印が書かれ、駅前の城山通りをまっすぐ進むだけで着けます。

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小城小次郎

恐らく真剣そのものだったのだろう (2021/10/24 訪問)

「万一の折に天皇を護る」として幕末期に築城を許された経緯は一見荒唐無稽の感があるが、天皇への敬愛の念が人一倍強かったとされる丹波ならではの事情を考えると恐らく真剣そのものだったのだろうと思い至った。

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設楽氏が築城 (2022/02/26 訪問)

 鎌倉時代に設楽氏によって築かれたとされる城です。蛇行した大地瀬川を利用した地形で天然の堀となっています。堀切、竪堀、土塁等が残っています。竪堀の表示が各所にありますが、藪になっていたり浅くなっていたりして確認しにくいとところもあります。概ね整備されていて歩きやすい城址です。
山の中腹まで車で行くことができ駐車スペースがあります。

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徳川信康初陣の城 (2022/02/26 訪問)

徳川信康が初陣で攻め落としたと伝わる城です。現地の案内板には山岡荘八の小説「徳川家康」にそのときの様子が詳しく書かれているとありましたが、昔読んだのですが全く覚えていません。時間があれば読み直したいと思います。また武田勝頼が長篠の戦いで敗れ甲斐へ帰る途中に立ち寄った城としても伝わっています。
道の駅「どんぐりの里いなぶ」から武節城の看板が見えます。上の方まで車で行けますが、歩いても5分くらいで城域に入れます。本丸と外曲輪の間の堀切(空堀と表示されています)が見どころです。どこまで当時ののかわかりませんが曲輪と思える削平地があります。

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天下布武 (2022/02/25 訪問)

 山の上に見える模擬天守は岐阜城の象徴といっていい存在ですが、私は山頂周辺にある石垣が好きです。織田信長の時代か、それより前から山頂には石垣があったようで、実際にはどのような石垣で、そのような建築物があったのか興味のあるところです。
 昔は徒歩で登城したこともありますが、今では迷わずにロープウェイを利用しています。中学生のころ徒歩で裏から下山して、知らない民家の裏へ下りてしまったこともありました。

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