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小荷駄

福与城跡 (2022/06/12 訪問)

城跡南側に駐車場と仮設トイレがありました。下草も綺麗に刈っていただいてありました。この季節には非常に有難いです。整備して下さった皆様ありがとうございます。南側の曲輪は畑になっていましたが主郭との間の堀や土橋、北城やニの曲輪なども良く確認でき楽しく散策出来ました。予想以上に遺構があり整備もしっかりしていただいてあり大満足でした。

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カズサン

外濠が四方残存広大な陣屋です (2022/05/30 訪問)

 坂田城址を終えて、地道と初めて圏央道を使い、館山道から木更津南ICを降りて、飯野陣屋跡内に在る飯野神社鳥居前に到着、車は鳥居前の脇駐車エリアに駐める。坂田城址から行程は約80km程有り約1時間半、17時からの探訪と成る。
 情報と案内は古城盛衰記さん余湖図コレクションさんに依る。
 
 飯野陣屋は外濠、土塁が完全に残って居り、外周長方形で約1400mは在るのか?、三大陣屋の一つと言わられる、他は徳山陣屋、敦賀陣屋。訪ねて居ませんが西地域に三条塚古墳、その東前に飯野神社が中心地に鎮座、南東に本丸、二の丸、三の丸の悌郭式、西外に外郭が有った模様、現在古墳と神社以外は住宅と畑に成って居ます、元藩士の方々の住宅かも?
 南側の中間地に折れが有る、又東側の中間地辺りに出隅があり折れを作ってる。

 外濠探訪は南側半分、東側、北側半分の東地区中心、濠の土塁側が垂直に立って居るので石垣、石積の護岸が有るのかと訝るも草が茂り良く分からない、近くを通った方に聞くと石垣と答えてくれたが良く分からない。
 その方と会話してたら浜松ナンバーの車を観て、浜松から来たの、私は磐田市出身と言われ故郷の話で盛り上がる。

 歴史は、保科正忠が慶安元年(1648年)築いた、17000石、分知し15000石に成るが後5000石加増し2万石で明治を迎える。飯野藩は大坂城番、江戸城の門番を務める事が多く、飯野陣屋には代官2名がいて事務処理を行っていた。

 飯野陣屋を終えてアクアライン経由を選択、これがトンネル内の事故2件の渋滞に掛かり、圏央道の事故渋滞情報で分かって居ましたが3時間も経てば空いてるのではと、木更津南ICより18時過ぎ入り、海老名SAまで3時間、やっと夕食、浜松帰宅は深夜過ぎ。

 岩手宮城茨城千葉4県未踏11城チョイ寄り2城、天気に恵まれ昨年11月から6ヶ月振りの良い城廻りでした。

 

 

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うさ

浜田城 (2022/06/12 訪問)

街中にある神社&公園。
冠木門が建てられていました。

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higekam

信長に先んじて天下人と呼ばれた三好長慶の故郷 (2022/06/10 訪問)

城館跡の規模には驚いたが、城跡が思いのほか小規模で驚いた。三好一族を育み、支えたところと言われても相当の想像力が必要。

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higekam

阿波九城のひとつということで登城 (2022/06/10 訪問)

敷地内駐車場に立派な模擬天守が立ちはだかる。
その後ろに堀切跡と思われる車道があり、その向こうがかっての城域の中心。
先端部は岩の鼻と呼ばれ、眼下を吉野川が流れる。そうか、吉野川を使い徳島城へと向かう動きを監視していたと知る。

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カズサン

南突舌状台地に凄い城郭、大手口・三郭・二郭編 (2022/05/30 訪問)

 主郭・見台編からの続きです。

 坂田城址の見所の一つに大手口が有ります、二重空壕、三重土塁、桝形、食違い虎口が案内板縄張図に見られます、是非見たいと目を凝らすが樹木、深い草木が茂り中々確認する事が出来ないが、長い土橋通路で壮大で在り様な事は分かる。
 もう一つは三郭と二郭間の空壕と土塁、縄張り図によると二郭側の土塁に東西一つづつ出隅横矢掛土塁が在るのだが大手口同様樹木、草木が茂り良く分からない、土塁の高さは何となく分かる。
 一ヶ所でもいいですから見学探訪拠点を作って欲しいものです、遊歩道見学探訪では折角の遺構が周知されなく勿体無い気持ちでいっぱいです。
 三郭・二郭とも果樹園(梨、葡萄、桃、など)、畑に成って居ます。

 素晴らしい遺構、城跡を見学させて頂きました、続100名城に次ぐのでしょうか、続々100名城?には入ってもおかしくない城址です。
 民有地の中、路駐と見学させて頂き有難うございました。

 

 

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toco

天下布武の出発点 (2022/06/12 訪問)

信長攻略の出発点。

城内は程よく動画やパネルなどの展示があり楽しく学ぶことができました。

隣接の古城跡公園や清洲公園も楽しく散策できました。

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カズサン

南突舌状台地に凄い城郭、主郭・見台編 (2022/05/30 訪問)

 坂田城はバラエティー番組TOKIOの鉄腕ダッシュの1~2年前の放映を観ていたら、ここは城跡?案内板が映し出されて坂田城跡を認識し、早速調べて何時か行きたいと未踏の城にリストアップし、今回の岩手宮城茨城千葉の未踏の城廻りに入れました。
 車は東側中頃に在る坂道を登り三郭南半分側の農道東側に路駐、勿論作業されてる方に了解は取りました、感謝します。
 情報と案内は余湖図コレクションさん、古城盛衰記さんに依ります。

 坂田城の構造は、南に主郭、東に見台・(馬出)、北に二郭・(登城)、その北に三郭・(於東・道城)、大手口で外郭に成って居る、南北約1400m、東西約250mと長大で各郭は空壕、土塁で囲まれ土橋で繋がってる、大手口は二重空壕と三重土塁、食違い虎口、枡形が厳重に守ってる、その北外郭は現在梅園で早春は観光客で賑わってるとか?、搦手は主郭の西側に急峻な崖をぬって坂田池方向に抜けれる、現在急な階段が付いてる。規模は千葉県でも最大級との事、凄い素晴らしい城郭で、堪能させてもらいました。
 空壕、土塁が見所ですが樹木、草木が茂り中が良く確認できない、遊歩道沿いに見学探訪、二郭、三郭は畑、果樹園に在ってる、見台、主郭は樹木草で茂り遊歩道以外は入り込めない。

 歴史は、千葉氏の築城と伝えられ、坂田城はこの地の領主三谷胤興の居城、一族の内紛で弘治元年(1555年)井田友胤に襲われ三谷氏は滅び、千葉氏に従属し里見氏に属する正木氏の東上総侵攻を防ぐ、秀吉小田和征伐には城主井田氏は小田原城に在って、追討軍にて落城し廃城と成った。(案内板抜粋)

 大手口・二郭・三郭編に続きます。

 

 

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風に立つライオン

200名城攻城達成 (2022/06/01 訪問)

200名城の最後に残った河後森城。東京から鉄道で、丸亀、大洲のスーパーホテルに泊まりながら、3日かけて予土線松丸駅へ。風呂ケ谷登山口から、まず新城へ。一旦分岐に戻り、西第1十曲輪から本郭、古城と回る。200名城達成。通算288城目。特に本郭、古城で蚊の集中攻撃に会い、写真を撮るたび刺された。痒くてたまらず、3時間経過して、駅側に降りるのは止めて、古城から新城に行くルートから分岐に降りて下山。駅で予土線待ち時間に駅舎内の日帰り温泉へ。露天風呂もあり、極楽。

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higekam

阿波九城のひとつということで登城 (2022/06/10 訪問)

完璧な模擬天守.が最上段、一段下に妙見神社、さらに一段下に曲輪跡があり最下段の駐車場も曲輪跡のよう。城跡の雰囲気は十分ある。
妙見神社の裏に石垣が残るも石組みから見て織豊期以降だろう。ここだけ石垣が残っているのも城の遺構?と疑問がある。
模擬天守は閉まっていて、期待していた鳴門海峡の遠望は果たせなかった。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)対馬観光 (2022/06/06 訪問)

6/5から6/11まで「対馬&五島&北部九州(熊本県がメイン)」のお城を巡ってきました。
続100名城の金田城の攻城時に対馬観光をしました。
投稿写真は、対馬攻城時立ち寄った「萬松院」、「対馬歴史民俗資料館」、「万関展望台」、「対馬藩お船江跡」のものです。

①萬松院(34.204332、129.284506)➡開館時間(8:00~17:00)歴代藩主の墓等があります。朝早いので閉まってました。
②対馬歴史民俗資料館前(34.203556、129.288129)➡開館時間(9:30~17:00)。見学しましたが自分には興味がないものでした。すみません。
③万関展望台駐車場(34.301920、129.352919)➡展望台にはロープが張ってあり登れませんでした。
④対馬藩お船江跡:細道入口付近(34.186637、129.282669)に路駐しました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:金田城 (2022/06/06 訪問)

金石城➡レンタカー会社経由で、登山口付近(34.294401、129.278206)に駐車しました。
続100名城スタンプは美津島地区公民館(34.267775、129.316676)で押印しました。
帰路は厳原港(15:25発)から九州郵船/フェリーきずな(227便)で博多港(20:10着)に向かう予定。時間があるので対馬観光も行いました。
時間のある方はこちらも見学してみてください。写真は別途、つぶやきで投稿する予定です。
①万関展望台駐車場(34.301920、129.352919)

667年(天智天皇6年)大和朝廷によって築かれた朝鮮式古代山城です。
663年(天智天皇2年)白村江の戦いで敗れた大和朝廷は朝鮮半島からの侵攻に備えるため、対馬・壱岐・筑紫などに烽を設けて防人を常駐させ、各地に古代山城を築きました。
文献に残るだけでも、665年(天智天皇4年)に大野城、基肄城、長門城、667年(天智天皇6年)高安城、屋島城を築いています。

遊歩道が整備されています。遊歩道は山頂はもちろん、三ノ城戸、ニノ城戸、一ノ城戸を経て周遊できるようになっていますが山頂には行ってません。
金田城は城山山頂から北東側一帯に石塁を築いて城域としており、一ノ木戸、二ノ木戸、三ノ木戸、南門、ビングシ土塁、ビングシ山などの遺構を見ることができます。
水門は一ノ城戸、二ノ城戸、三ノ城戸にあり、高石垣や門の礎石なども見所です。
ビングシ山の所には土塁があり、ここにも門跡として門礎石が左右両方とも残っています。
石垣や石塁はほぼ一周するように残されています。すばらしい光景です。
攻城時間は130分くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストで、明日の福江城攻略の為、厳原港から九州郵船/フェリーきずな(227便)で一旦、博多港に戻り、その後、博多港➡福江港(今夜も船中泊の移動です)を目指します。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:金石城 (2022/06/06 訪問)

清水山城の登山口から櫓門(34.203513、129.287121)に着きました。
まずは金石城攻城の為、櫓門(34.203513、129.287121)見学と旧金石城庭園(朝早いので閉まってます)の外周を歩きました。
時間のある方はこちらも見学してみてください。写真は別途、つぶやきで投稿する予定です。
①萬松院(34.204332、129.284506)➡開館時間(8:00~17:00)歴代藩主の墓等があります。
②対馬歴史民俗資料館前(34.203556、129.288129)➡開館時間(9:30~17:00)
③対馬藩お船江跡:細道入口付近(34.186637、129.282669)に路駐しました。

1528年(享禄元年)宗将盛によって築かれました。
1526年(大永6年)対馬島主15代宗将盛は、池の屋形を築いて居所としましたが、1528年(享禄元年)豆酘郡主の一族が謀叛を起こし池の屋形は焼失しました。
この乱の後に将盛が新たに築いたのが金石城の前身である金石屋形です。
その後、代々宗氏の居城でしたが、20代宗義智のとき、豊臣秀吉による朝鮮の役が勃発し、金石城の北に聳える清水山に清水山城が築かれ、金石城もまた近世城館として改修されました。
1678年(延宝6年)22代宗義真のとき桟原城を築いて居城を移しましたが、その後も金石城は存続していました。

金石城は東の櫓門跡、西の搦手門跡、旧金石城庭園などがあります。
東の櫓門は大正期まで現存していましたが、今は復元されたものだそうです。庭園は貴重な遺跡として国指定名勝となっていますが、朝早いので閉まってました。
金石城の西側には萬松院があり、その北の山腹に対馬藩宗家墓所がありますが、朝早いので閉まってました。
攻城時間は15分くらいでした。レンタカー会社が開くので、そちらに立ち寄り、それから次の攻城先=金田城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:清水山城 (2022/06/06 訪問)

10Kgの荷物を背負い桟原城から徒歩で、登山口(34.205352、129.287239)に着きました。

清水山城は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役で肥前名護屋から朝鮮半島への重要拠点として、1591年(天正19年)に築かれました。
築城者は対馬に常駐していた秀吉の軍監毛利高政とする説が一般的のようですが、対馬の宗氏を主として相良長毎、高橋直次、筑紫広門が助力したという説もあるそうです。

対馬歴史民俗資料館から登山道への道標があります。
10Kgの荷物を背負って2850mの山道を登るのは、70才近いおじさんにはキツイので登山口で攻城を断念しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=金石城へ徒歩で向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)2日目:桟原城 (2022/06/06 訪問)

博多港を0:05出航の九州郵船/フェリーちくし(218便)で厳原港に4:45分に着きました。
まだ、レンタカー会社が開いていないので、港で荷物を預けて徒歩で、桟原城を攻略しようとしましたが、コインロッカーがありません。事前調査ではあったはずなのですが、港の人に聞いたらないと云われました。
しかたがないので、10Kgの荷物を背負い攻城することとしました。
厳原港➡高麗門(34.210830、129.290202)➡案内板(34.216009、129.287156)➡駐屯地前(34.216580、129.288311)の順番で巡りました。
厳原港から駐屯地前まで徒歩30分くらいかかったと思います。

1678年(延宝6年)宗義真によって築かれました。
宗義真は対馬府中藩3代藩主で金石城からこの桟原城へと居城を移し、藩の基礎を固め、格式も100,000万石になりました。
対馬藩は対馬だけではなく肥前にも飛領地があり田代代官所で管理していました。
対馬府中藩は以後代々桟原城を居城として続き明治に至ります。

桟原城は、現在陸上自衛隊対馬駐屯地となっている所に築かれていました。入口の写真を撮ったら、自衛官の人に削除してくださいと云われました。基地の写真は不可だそうです。
国道沿いに「桟原館跡」の道標が出ているものの、案内はこれだけです。西の国道と南の道路から見える部分に石垣があります。
桟原城の高麗門は対馬歴史民俗資料館に移築されていたが、今は厳原幼稚園に移築されています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=清水山城へ徒歩で向かいます。

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ぎりょう

南部藩南の拠点 (2022/06/11 訪問)

この城の歴史は古く平安時代に安倍氏により築城され、戦国時代は稗貫氏の本拠地鳥谷崎(とやがさき)城と呼ばれた。天正18年の奥羽仕置で稗貫氏が改易された後は南部藩の領地となり、藩政期を通して城代が置かれ花巻城として存続した。
城の構造は、北上川、豊沢川の河岸段丘上に北から本丸、二の丸、三の丸を配した梯郭式縄張だったが、現在は本丸以外は都市化により遺構は消滅しているようだ。
本丸には復元された西門、土塁、台所門の枡形、菱櫓台、井戸跡などが残り、本丸西の馬出曲輪、本丸南の水堀、空堀、旧三ノ丸の大手門跡(市役所脇)や円城寺門(搦手門)からかつての威容を偲ぶことができる。

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三浦の晃ちゃん

ライトアップ (2022/06/12 訪問)

小田原城址公園で、あじさい菖蒲祭りを、やっていました。また、夜間のライトアップを、していました。ふだんは、見られない景色でした。

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にのまる

<続き> (2022/05/20 訪問)

表二之門より本丸を出て、西の丸の発掘現場、鵜の首、剣塀を確認しつつ御深井丸へ。
深い木立の静けさの中に佇む西北隅櫓(清須櫓)の南面・東面の素朴な面持ちに日本ならではの引き算の美を感じます。
名古屋空襲の前に本丸御殿の障壁画や天井画を避難させ焼失を防いだ乃木倉庫。たくさんの人たちの機転と行動で貴重な宝が守られてきていることに思いを致し、感慨も一入でした。
城内見学エリアはここまでとし正門から退出して二之丸大手二之門へ。ガードレールに守られた門扉から枡形を抜けた二の丸跡地に現れたのは愛知県体育館(ドルフィンズアリーナ)。この北側がスタート地点の二之丸庭園ということで名古屋城めぐりはここで終了。見学を飛ばしたところもありますが、充実の1時間でした。

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零汰

そこに城があるから行ってみた:2  銀鏡(しろみ)城:宮崎県西都市 (2021/05/29 訪問)

熊本を通る国道3号線から宮崎を通る国道10号線を八代市から宮崎市迄を結ぶ国道219号線。熊本と宮崎の県境の横谷峠より東、国道265号線の交わる場所に村所城、そこから直線距離6kmあたりに小川城、更に5km東に今回訪問した銀鏡(しろみ)城がある。昨日投稿した雄八重城は銀鏡城から更に東に6km辺りに位置する。この地は維新以前は肥後藩であり、維新後より宮崎県に属するそうだ。

初代は肥後での争いに敗れてこの地に来た名門の菊池氏の嫡男、その頃から米良氏を名乗るようになり、維新後菊池に戻す事が許された。初代の父親が争いで亡くなったのは1504年、その後今回訪問した銀鏡城を築城し、村所城を経て小川城に移った。雄八重城の城主も米良氏で伊東48城のうちの1つである。尚、ここにあげた4城のうち雄八重城以外は伊東48城に入っていない。するとその頃は雄八重城を本城としていたのではないかと勝手に想像してみる。(この辺の情報は良く分からなかった)初代は1551年没、当然1551年以前に銀鏡城はあったと思われる。熊本との県境から国道219号線沿いの東の4城は全て米良氏所縁の城となる。(村所城は今だ訪問はしていない)

本文(訪問直後)
グーグルマップで雄八重城と同時に気が付いた銀鏡(しろみ)城に雄八重城の訪問後に向かった。おじさん壱に教えられた道路を通り山間の道路を走る事4・50分、直線距離6kmの所を山を大きく迂回するので時間がかかった。無事到着して早速散策を開始する。
そこは西側・東側が川、天然の堀に挟まれた土地だった。城域に入って1分もたたないうちに石積の連続、これでもかと石が積んである。驚きと喜びで足取りは軽く石積を追うように坂を上り、藪の中を進んで行く。「曲輪だ、虎口だ」とても楽しい時間だ。大手を登っていくと神社が見える、山は後ろに続いているがここがおそらく主郭だろう。大手が右に大きく迂回している。

何故こんな城跡が・・・・。と雄八重城の時と同じ事を考えながら訪問を終えて帰宅した。

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赤い城

烏川の流れ (2022/06/04 訪問)

倉賀野駅から徒歩で10分。
公園に石碑と説明板が立っています。
公園の周辺は住宅地で遺構はありません。
蛇行して流れる烏川の流れは見どころですね。
三の丸には井戸八幡が建っています。
この下に井戸があるそうで一晩で湧き出したとか。
地形的には段差もあり城らしい感じです。
戦国時代には上杉氏、武田氏、北条氏が配下としました。
交通の面から見ても重要な拠点だったのでしょう。
北条氏の滅亡により廃城となりました。

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