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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:敦賀城 (2022/07/28 訪問)

疋壇城からの転戦です。敦賀駅より徒歩25分くらいで、移築敦賀城中門(35.651404、136.060233)に着き、移築門を確認しました
その後、敦賀市立敦賀西小学校の由来碑前(35.653977、136.066636)に向かいました。

敦賀城は1583年(天正11年)に蜂屋頼隆が築城し、その後、1589年(天正17年)に大谷吉継が入城して整備拡張したようです。
大谷吉継は有名ですが、自分は蜂屋頼隆をよく知らないので、ウィキペディアで調べてみました。
織田信長の家臣で近江肥田城➡岸和田城➡敦賀城主になっており、1589年(天正17年)死去するまで結構活躍した武将でした。

遺構は敦賀城中門が来迎寺の東の表門に移築されています。
敦賀市立敦賀西小学校に城跡や奉行所跡、県庁跡の由来碑があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=金ヶ崎城に徒歩で向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:疋壇城 (2022/07/28 訪問)

北比良城からの転戦です。新疋田駅より徒歩10分弱で、疋壇城跡標柱前(35.599606、136.101010)に着きました。

室町時代に朝倉氏の武将・疋壇対馬守久保によって築かれたようです。
1570年(元亀元年)の織田信長による越前攻めで、天筒山城・金ヶ崎城と共に疋壇上も落城しました。
浅井長政の裏切りで、信長軍が撤収したのち、修復され、朝倉氏の栂野三郎右衛門尉景仍らが布陣しましたが、再び信長が越前に進撃すると、刀根坂の戦いで朝倉方は大敗、城主疋壇次郎三郎は討死、落城しました。

石段を登ると四郭(西愛発小学校跡)に着きます。そこから小高い丘方向に向かうと天守台下に説明板と城址碑があります。
空堀や石垣が残っており、土塁や天守台も確認できます。
もう少し、空堀を見学したかったのですが、電車の時間が迫っており、逃すと1時間待ちになるので、慌てて撤収しました。駅に着くと電車が6分遅れでした。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=敦賀城を目指す為、電車で新疋田駅から敦賀駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:北比良城 (2022/07/28 訪問)

衣川城からの転戦です。比良駅から徒歩10分弱で、福田寺入口(35.220736、135.948451)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1582年(天正10年)田中左衛門尉定光が在城し、織田信長に背き攻められ落城しました。

福田寺山門を入った左に城址の石碑があります。
山門横ある石垣は遺構ではないようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=疋壇城(北陸地方の攻城開始です)を目指す為、電車で比良駅から新疋田駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:衣川城 (2022/07/28 訪問)

瀬田城からの転戦です。堅田駅から徒歩20分弱で、公園入口(35.112756、135.906979)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、山内義重によって築かれたと云われています。
1234年(文暦元年)正月の粟津の合戦で功を挙げた義重が、衣川を領して築城したのが始まりと云われています。
11代の山内駿河守宗綱は1508年(永正5年)〜1511年(永正8年)にかけて浅井公政・京極高清とともに朝倉貞景・村上山城守・細川高国・河野通直・大内義興らと戦い勝利をおさめました。
1526年(大永6年)に細川高国の奇襲によって衣川城は落城、重清らは辛うじて城を脱し伊予国宇摩郡近井郷鏑先村に逃れて土着したそうです。

現在は衣川台の団地内にある児童遊園地に石碑はありましたが、説明板は見つけられませんでした(捜し方がわるいかも)
遺構はありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=北比良城を目指す為、電車で堅田駅から比良駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:瀬田城 (2022/07/28 訪問)

山科本願寺からの転戦です。山科駅から電車を乗り継ぎ唐橋前駅に着きました。
そこから徒歩10分くらいで瀬戸唐橋説明板前(34.972457、135.907656)を経由して石碑説明板前(34.970824、135.906849)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、永享年間(1429年〜1441年)に山岡氏の一族で田上城主であった山岡資広によって築かれたと云われています。
山岡氏の出自は詳らかではないようですが、甲賀の伴氏の後裔といわれ、甲賀郡山岡発祥とされます。
山岡氏ははじめ佐々木六角氏に仕えており、山岡景隆の時代には「江南の旗頭」と呼ばれる程の実力を持っていたそうです。
1568年(永禄11年)織田信長の上洛軍が攻め寄せ佐々木六角が観音寺城を捨てて逃れる頃になると、信長に降ったそうです。
その後は信長に仕えて伊勢国大河内城攻めや雑賀攻め、伊賀攻めなどに従軍しています。
1582年(天正10年)信長が本能寺の変に倒れると、明智光秀の誘いを断って勢多橋を焼き落として山中へ逃れたそうです。
その後は織田信雄に味方して伊勢峰城攻めに参加したが、賎ヶ岳合戦の折りに柴田勝家に通じたと疑われ、瀬田城を捨てて出奔し山岡城に蟄居したそうです。

瀬田城は瀬田川の東岸、瀬田唐橋(GPS参照:説明板があります)の南側付近に築かれていたそうです。
現在は宅地などとなり遺構はありませんが、県道29号線沿いに石碑と説明板があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=衣川城を目指す為、電車で唐橋前駅から堅田駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:山科本願寺 (2022/07/28 訪問)

山科駅から徒歩10分ちょっとで、山科本願寺土塁跡付近(34.984569、135.812382)に着きました。

1478年(文明10年)蓮如兼寿によって築かれました。
本願寺の総本山として「山科寺内町」と呼ばれる自治都市を形成していたそうです。
1532年(天文元年)細川晴元と対立し破れ、以後本拠を石山に移したそうです。

説明板によると山科中央公園一帯が寺内町跡だそうです。
現在は公園内に土塁の一部が残っているのみです。土塁の上に遊歩道が付けられていました。立入禁止のテープは解除されていました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=瀬田城を目指す為、電車で山科駅から唐橋前駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ9日目:東山霊山城 (2022/07/28 訪問)

朝早く起きて、ホテルの朝食前に東山霊山城を攻城しました。
宿泊先のアパホテル京都祇園EXCELLENTから徒歩15分ちょっとで、正法寺(元・霊山寺)階段前(34.998687、135.783041)に着きました。

室町幕府13代将軍足利義輝によって1552年(天文21年)に築城が開始され、翌1553年(天文22年)には陥落し、廃城となったと考えられるそうです。

正法寺の門(倒木の為、立入禁止になっていました)が閉まっていて中に入れません。
京都霊山護国神社は朝9時からなので、こちらのルートからも入れません。
別ルートとして将軍塚ルートがありますが、時間の都合で今回は行けませんでした。残念です。
攻城予定時間として60分を見込んでいましたが、時間が余ったので付近を観光しました。そちらの写真も併せて投稿します。
観光箇所は法観寺(八坂の塔)、高台寺(ねね)、八坂神社などです。
攻城時間は15分(観光した時間は含みません)くらいでした。次の攻城先=山科本願寺を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取ります。

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おっちゃん

島原城跡案内図 (2014/05/31 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

義統期の大友館の様子 (2017/04/22 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

大野城跡全体図 (2017/12/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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赤い城

市街地一帯が城域 (2022/07/30 訪問)

下妻市役所に車を置かせてもらい、道路を渡ると城址公園があります。
城址公園には石碑と説明板が立っていました。
この辺りに遺構はありません。
現在の市街地一帯が城域で当時は沼沢地に造られたようです。
常陸の平城は湿地に造られたところがいくつかありますね。
特徴の一つでしょうか。
周辺も少し歩いてみましたが明確な遺構にたどり着くことはできませんでした。
探せば土塁が残っているとの話もあるようです。

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橋吉

遺構はわずかだが見所は多い (2022/08/09 訪問)

鶴岡公園西駐車場に駐輪しましたが他にも無料駐車場がいくつか用意されています。
現在本丸は鶴岡公園となっており、大寶館,藤沢周平記念館,荘内神社および護国神社が置かれています。
遺構は堀,石垣,土塁,櫓跡がわずかに残る程度であまりありません。

ただ、藩校である致道館は建物がかなり残されていますし、致道博物館でも貴重な建物や資料が見ることができます。

見所は多く、所要時間は3時間かかりました。

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まっぴー

石垣を最大限に使った日本三大山城 岩村城🏯 (2022/03/20 訪問)

遺構度 ★★★★☆ 復元度 ★★☆☆☆
施設充実度 ★★★★★ お勧め度 ★★★★★

日本三大山城でもあり、女城主の里としても知られる岩村城に行ってきました!
標高がある山城なのにも関わらず、石垣をふんだんに使用しており、本丸はもちろん、門の石垣や櫓台が途中にも多く見られました。
苗木城、美濃金山城とともに訪れることをおすすめします。

【歴史】
鎌倉幕府時代に遠山氏によって築かれ、戦国時代まで統治し続けた。戦国時代になると織田、徳川、武田によって争奪戦が繰り広げられた。
遠山氏の養子として織田信長は5男の勝長を送り、その叔母であるおつやの方がおんな城主として采配を振るった。その後武田信玄の猛攻により、おつやの方が武田の家臣と結婚するという条件で降伏するも、信長は長篠の戦いで弱った武田軍から岩村城を奪還した。
以後、城主はコロコロと変わったものの、明治時代に廃城令が出されるまで存続した。

【遺構】
やはり一番の見所は本丸の六段壁などの石垣です。六段壁は石垣を補強するために作った石垣が積まれたものだそうで補強のためにここまでの石垣を作ってしまうのだからすごいなと思いました。一段だけでも圧巻ですが、六段もあると言葉が出ないです笑六段壁以外の場所にも石垣が用いられている他、空堀や土塁なども見ることが出来ます。

また藩主邸跡には正門、太鼓櫓などが復元されています。

城下町も残っており、江戸の町並みを楽しむことが出来ます。NHK朝ドラ「半分、青い。」のロケ地にもなっています。

【施設】
岩村城の登山道の入り口に岩村歴史資料館、民俗資料館があり、岩村城や岩村の町について知ることが出来ます。岩村城の絵図なども見ることが出来、勉強になりました。

2022.3.20現在 登山道の途中で石垣崩落の影響?により、足場の悪い不安定な階段を登る場所があるため、小さい子供連れの方や足が不自由な方は厳しいかもしれないです。

【インフォメーション】
●24時間営業(山城のみ)

100名城スタンプ:岩村歴史資料館受付窓口
[開館時間]
(4月~11月)9:00~17:00
(12月~3月)9:30~16:00
[入場料]
(民俗資料館と共通)
一般:300円
シルバー(65歳以上):200円
高校生以下:無料
[休館日]
月曜日(祭日と重なった場合は翌日)
年末年始

御城印販売場所:まち並みふれあいの舘(岩村城下町内)
[開館時間]
9:00~16:00

駐車場:あり
所要時間:1時間30分
トイレ:あり

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新ろくべえ

難攻不落 天下の名城 (2022/08/16 訪問)

難攻不落の名城である、小田原城に行ってきました
この城は、大森氏によって築かれた城です。
しかし、二代目の大森藤頼の時に、伊勢宗瑞(北条早雲)によって落とされました。
そして大改修され、山を利用した城となりました。
それが八幡山を主郭とした小田原古城です。
 ここからは細かく説明していきます。
《大森氏と勢子の計》
 この城は大森頼春によって築城された城です。
大森氏は、大森頼春の代に台頭しました。
一時期は伊豆、相模西部を支配し、この小田原城を本城にしました。
しかし、三代目となる藤頼の代に伊勢宗瑞の策略である
勢子の計という、鹿が小田原城の裏山に入ったと嘘の文を送り
小田原城の裏から奇襲を掛ける作戦にはまり、小田原城を奪われ
小田原城は大森氏から伊勢氏(ここからは北条氏とします)にわたりました

次の文は、少し後に書くので、ご了承下さい

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前ちゃん

早々に退散 (2022/08/22 訪問)

前日、夜景を撮影。翌朝開門ともに観光。大阪までの帰路安全圏を確保するため、(18切符使用)10時20分発の中津川行きに乗り込む

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昌官忠

2022夏の青春18キップ8日目:将軍山城 (2022/07/27 訪問)

中尾城から徒歩25分くらいで、京都トレイル(バプテスト病院)(35.034230、135.797047)に着きました。

1520年(永正17年)管領・細川高国は、近江守護六角定頼、丹波守護代内藤貞正の援軍を得て、築城し陣を構えます。
桂川原の戦いで高国が再び近江へ逃亡すると、将軍山城は六角定頼の援助のもと被官内藤彦七が城主となっていました。
大物崩れで、1531年(享禄4年)に高国が自害すると、隣にある東山新城と共に細川晴元軍に奪取されました。
1546年(天文15年)将軍足利義晴が細川晴元と対立するようになると、義晴は北白川城を大改修しました。
1547年(天文16年)3月、足利義晴は征夷大将軍を子・義輝に譲り自らは大御所となり、細川晴元を討つために洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城します。
しかし、細川晴元の家臣三好長慶軍が同年7月12日、相国寺に2万の軍勢で陣を張り周辺地域を焼き討ち。同月19日、足利軍は将軍山城を自焼させ、義晴・義輝父子は近江坂本へ脱出しました。
1561年(永禄4年)六角義賢が畠山高政と組んで京へ出陣し、家臣永原重澄を将軍山城へ入れましたが、三好方は松永久秀が将軍山城を攻め、守将永原重澄を討ち取りました。
その後幕府は軍勢の拠点を中尾城、霊山城へ移した為、将軍山城は部分的にしか使用されなかったようです。
1570年(元亀元年)9月から11月まで志賀の陣(織田信長と浅井・朝倉が対峙)となり、明智光秀がこの城に入って数カ月延暦寺を牽制しますが、織田信長の京都支配が確立すると、その軍事的意義を失って廃城になったそうです。

通常は狸谷山不動尊から登るようですが、バプテスト病院前の道から登るのが最短コースのようなので、こちらから登る予定でしたが、天候不順で雷が鳴っており登城せず登城口で引き返しました。
攻城時間は10分くらいでした。その後、明日の攻城先=東山霊山城を目指す為、バスと電車で本日の宿泊先がある祇園四条駅に向かいました。

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前ちゃん

思い立って高遠 (2022/08/21 訪問)

新大阪ー名古屋(新幹線)6:00ー6:48
名古屋ー伊那バスセンター(名鉄バス、高速バス)7:30ー10:30
伊那バスセンターー高遠駅(路線バス)10:45ー11:08

城公園徘徊後、松本(宿泊地へ)

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昌官忠

2022夏の青春18キップ8日目:中尾城 (2022/07/27 訪問)

船岡山城からの転戦ですが、折角なので銀閣寺を見学した後、銀閣寺から徒歩5分ちょっとで、「嗚呼中尾城」看板前登城口(35.027939、135.799243)に着きました。

1549年(天文18年)足利義晴によって築かれたと云われています。
室町幕府12代将軍足利義晴が、京への復帰を目論んで慈照寺(銀閣寺)の裏山に築いた城が、中尾城と考えられているようです。
築城翌年の1550年(天文19年)に義晴が病死すると、子の足利義輝が細川晴元とともに入城しますが、1550年(天文19年)に三好長慶によって攻められ自焼して落城しました。
その後、三好軍によって破却されたそうです。
この城は二重の壁の間に石を詰めたことが『穴太記』に記されており、これが鉄砲対策と考えられていて、文献でわかる最古の事例とされているそうです。

登城路の目印「嗚呼中尾城」の看板を捜しましたが見つかりません。
あとで確認しましたが、GPS座標はあっていると思います。しかし、自分は見つけることはできず登城を断念しました。
中尾城攻城前に見学した銀閣寺の写真を投稿します。
攻城時間の15分は登城路の目印「嗚呼中尾城」の看板を捜した時間です。次の攻城先=将軍山城へ徒歩で向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ8日目:船岡山城 (2022/07/27 訪問)

御土居から15分くらい歩いて、公園中腹トイレ(35.039444、135.742521)に着きました。

1467年(応仁元年)山名宗全によって築かれました。
応仁の乱で西軍山名氏が北方の要所として築いたが、1468年(応仁2年)東軍細川勝元が攻めよせ、火をかけて落とし、守将小鴨安芸守ら五十余名が討ち死にしたそうです。
その後は東西両軍とも利用しなかったため、廃城となっています。

山全体が公園となっており、遺構らしきものは、公園中腹あたりの公衆トイレ付近に見られる堀跡くらいでしょうか。
1875年(明治8年)創建の建勲神社には「本能寺の変」で討死した織田信長が主祭神として祀られており、信長に関連する御朱印も豊富に揃っていましたが、集めていないので横目で見るだけです。
途中から雨が降りはじめ、遠くで雷も聞こえてきたので早めに撤退です。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=中尾城を攻城する為、千本北大路/京都市営バス停➡銀閣寺道/京都市営バス停にバスで向かい、まずは銀閣寺を見学します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ8日目:御土居 (2022/07/27 訪問)

小泉城からの転戦ですが、折角なので金閣寺を見学した後、金閣寺参道入口から徒歩20分ちょっとで、鷹ヶ峯石碑説明板前(35.049889、135.735154)に着きました。
そこから5分ちょっと歩いて、鷹ヶ峯南入口(35.045816、135.736212)に着きました。

御土居は天下統一を成し遂げた豊臣秀吉が,長い戦乱で荒れ果てた京都の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と,鴨川の氾濫から市街を守る堤防として,築いた土塁です。
御土居の建造が始まったのは1591年(天正19年)の1月から閏1月(太陰暦)ごろで、同年の3月ごろにはほぼ完成していたそうです。
豊臣政権が崩壊すると、道路を分断していた部分の御土居が取り壊され、多くの出入口が設けられていました。
例えば現在の四条河原町付近で四条通を塞いでいた部分は、1601年(慶長6年)に撤去されています。
また市街地東部では、木屋町、先斗町など御土居の東側の鴨川河原まで町が広がり、1670年(寛文10年)に寛文新堤が完成して堤防としての必要もなくなったため、御土居は寺社や公家に払い下げられ、取り壊されて住宅地などになったそうです。
ただし、これらを除く部分の御土居は多くが残り、幕府によって竹林として管理されていて、江戸時代中期には角倉家(すみのくらけ)が管理を担当していました。
御土居は取り壊されるだけとは限らず、移築されることもあったようで、1641年(寛永18年)に始まる東本願寺の新たな寺内町の開発に伴い、御土居は高瀬川とともに東側に移されました。
枳殻邸(渉成園)の築山の位置は移築前の御土居に重なるため、土塁を再利用したと考えられているようです。

御土居の延長は22.5キロメートルに及び,東は鴨川,北は鷹ヶ峯,西は紙屋川,南は九条あたりにそって築かれたようです。
土塁の内側を洛中,外側を洛外と呼び,要所には七口を設け,洛外との出入口としました。鞍馬口,丹波口などの地名はその名残だそうです。
現在9箇所(紫竹、盧山寺、西ノ京、北野、平野、紫野、鷹ヶ峯(北区旧土居町3)、鷹ヶ峯(北区旧土居町2)、大宮)が指定地となっています。
全ての御土居を巡る時間はありませんので、今回は鷹ヶ峯2か所だけを見学しましたが、柵があって近づけないようになっているので、構造などはよく分かりません。
御土居攻城前に見学した金閣寺の写真も併せて投稿します。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=船岡山城へ徒歩で向かいます。

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