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ヒロケン

「ときは今 あめが下知る 五月かな」 (2022/05/28 訪問)

丹波亀山城は、天正5年頃織田信長公の命を受けた明智光秀公が丹波攻略の拠点として築城しました。一国の拠点となる城として総構えで築城されており、他の丹波の地の城とは異なっていたとのことです。
また、光秀公はこの城より、信長公を討つべく本能寺に向かい出陣したことは有名です。「ときは今 あめが下知る 五月かな」亀岡にある愛宕神社にてこの句を詠み出陣したとのことです。「土岐氏一族の自分が天下を治めるのは今だ」ということらしいですが、本当の事は分りません。本能寺の変後は、羽柴秀勝・小早川秀秋・前田玄以等が城主となりますが、徳川譜代家臣の岡部長盛の頃、天下普請で西国大名を動員し、亀岡城を整備しています。その後も城主が入れ替わりましたが、最後は、形原松平家が八代続き明治維新を迎えています。

現在の丹波亀山城は大本教の本部が置かれ、教団の管理下に置かれています。なかでも、天守のあった地は神苑で立ち入りが制限されています。遺構としては、石垣の一部と堀の一部が往時の面影を残しています。

大本のみろく会館受付にて、拝観料300円を支払い受付、スタッフの方から城跡に関する説明を受け(二度目の訪問なので今回は説明を遠慮させて頂きました)ホールには城跡のビデオ上映もされており、VRもあるそうです。大正時代に新宗教として当時の政府から本部を爆破・破却されたということなので、少し怖いイメージがありましたが、今回も気さくな方で「明治まで五層五階の天守があったんだよ」等々、優しく丁寧に教えて頂きました。
ただ、主郭となる場所は、神域なのでセンサーが設けられていたので、皆さまもご注意下さいませ。

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カズサン

見広城初登城、北端が大堀切 (2022/05/30 訪問)

 森山城を十二分に堪能して東に12~13km程、未踏の見広城を目指す、ナビは隣接地の雷神社駐車場を目的地にして走行、トイレ休憩と昼食で近くの麓下のコンビニに寄る。
 雷神社駐車場は広くてトイレ完備。住所:千葉県旭市見広千葉県旭市見広1371、(35°44'26"N 140°41'51"E)。

 城情報は余湖図コレクションさん、グーグルマップに依る。

 見広城址は雷神社の南側に在り、南側に突き出した舌状台地に立地する。西側は急峻な海蝕崖を活かし、大堀切により台地先端部を切り離す。南側、東側に向けて大小の郭で構成された直線連郭式の中世城郭です。
 一郭北に櫓台、竪堀が階段に成って居る、南に一郭内部が尾根筋に広がってる北、西、東に土塁、南に狭い二郭、三郭は二郭より眺めるだけ急峻な道と笹竹枯葉で滑る、竹藪で突入困難、実際二郭降りる時滑り危うい事に成り撤退。(郭の呼称は余湖図コレクションさん俯瞰図の呼称に由ります。)

 歴史的には嶋田三河守を名乗った一族の代々の居城、永禄年間(1558~1570年)里見氏臣下正木時忠に攻められ落城したとある。(案内板抜粋)

 続きを雷神社が素晴らしいので別編で投稿します。
   

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チェブ

影武者とカエル。 (2022/05/06 訪問)

昨日、『天才激突 ! 黒沢 明VS勝 新太郎』というテレビ番組を観ました。
内容は、映画『影武者』で武田 信玄と影武者を演じる勝 新太郎さんが降板するまでの、ドキュメントです。
『影武者』昔、レンタルして観たけど、信玄さんのソックリ盗人が、、、覚えてない、、、。
最後はハッピーエンドではなくオドロオドロしていたような記憶です。
世界の黒沢に申し訳ありません。
調べてみると『影武者』は「野田城」を攻め落とす最中に信玄さんが狙撃される所からストーリーが展開していきます。
行ってた。「野田城」。

「野田城」は今川家傘下の菅沼 定則さんが築城しました。
その後、義元さんが桶狭間で討たれると、菅沼家は徳川家傘下に。
今川家や武田家に攻められました。
武田家との戦いでは、「野田城」で籠城します。
幾つもの戦いを乗り越え、奪還しては改修を繰り返し強固した「野田城」です。

道沿いに「野田城」と「野田の戦」の説明板がありました。
深い空堀があります。籠城に備えて深くしたのでしょうか。
奥には井戸跡がありました。信玄さんが水の手を断ち切る為に、金掘衆に水脈を掘らせたそうです。
この井戸かは分かりませんが、大掛かりな 戦いです。
そして、『影武者』でワンシーンになった信玄さんの狙撃場所。
笛の音色に、鉄砲でロックオンできる場所まで、信玄さんのような方が出て来るなんて、本当かな?

因みに、私が「野田城」に行ったのは5月の早朝です。城内で、カエルを見つけました。
【城と生き物】の投稿用に写しました。写真⑨です。
このカエル、どこの水辺で育ったか気になってウロウロ。水が溜まっている所がありませんでした。
井戸を潰されなくても、水脈がたくさん あるんじゃないか、と思ったので、、、。
結局、写真は 何処のお城と写したか実証できないので、ボツです。
もしや、信玄さんも、笛の音色の美しさに夢中になってしまわれたか?
とにかく、映画『影武者』を観てみよう!と思いました。

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零汰

そこに城があるから行ってみた:1  雄八重(おばえ)城:宮崎県西都市 (2021/05/29 訪問)

1年程前より鹿児島以外はサイト掲載城と大御所(城郭放浪記氏・古城盛衰記氏)の情報と合わせ、グーグルマップのみに情報のある詳細不明な城を行く先の地域に合わせてシラミ潰しの様に訪問している。今回は昨日投稿した小川城の場所を探す時に気が付いた城だ。小川城訪問の日は時間が足りず訪問していない。6日後の良く晴れた土曜日日に4号機をお供に出かけた。いつもの如く前調べは場所のみで一発勝負の訪問だ。

本文(訪問直後)
そこには大手道と思われる間口2m程の入口がり、両脇には石積が施されている。最上部には右に虎口の名残だろう、左は民家が建っていて入る事が出来ない。先ほどのおじさん弐から教えて貰った場所だと思いここが主郭だと想定した。右側の虎口を上がっていくと目の前には立派な石積があり、最高で5m程の高さがあるようだ。そこは間違いなく曲輪跡だった。奥に進むと段があり同じような低い石積を幾つか散見できた。更に進むと墓石と藪、そこで進むのを辞めた。予想していなかった多くの石積を見た為に満足してしまったためだ。こういう時に必ず思う、何故こんな見応えのある城跡が忘れられたように隠れていて表に出てこないのだろう、石碑のみの城跡・遺構の無い神社よりよっぽど面白いと思うのだが、と。

雑談
城の訪問は15分程度で終えられたが、滞在時間は1時間を超えている。以外は地域のおじさん方との時間だ。まずは城域近くでおじさん壱に出会いバイクを停められ一言「あんた、どっから来たん」。自分の来た道はグーグルナビで案内されたのだが、現在は危険で殆ど使われていない道路でその時期は通行止めだったらしい。確かに落石の多い荒れた道路だと思っていたがそんな事情と知らなかった。
そこで城跡訪問の旨を伝え進むこと100m、おじさん弐に停められ城跡訪問の旨を話す。すると昔、小川城から姫を迎え入れたなど城にまつわる話を幾つか聞けた。訪問を終えて支度をしていると軽トラックに乗ったおじさん参が驚いたように車から降りてくる。城跡訪問の事情を話すと「それならこっちこい」と元家老の家などを案内してくれた。

帰ろうと元来た道を戻っていくと先程のおじさん壱が畑で休憩してしたので挨拶すると「そっちに帰るの?危ないからこっち行きな、高い所をを走るから稜線が綺麗だよ」Uターンして教えられた道路へ向かう。途中景色が良かったのでいったん停まって景色を眺めていたら自動車に乗った奥様を連れたおじさん四が私の横で停まった。「どうしたの?」城跡訪問の旨を話すと「そうかそうか、腹減ってない?」パンとドーナツを貰った。気さくな人だと思った、決して餌付けされた訳ではない。

だか分かっている、山間の村に突然バイクで乗り付けた自分が不審人物で警戒されていた事を。

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大野極楽寺公園 (2022/06/11 訪問)

小牧長久手の戦いや関ヶ原の戦いで登場する城ですが、公園となっています。遺構はありません。

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橋吉

ハイキングコースとして整備されています (2022/05/29 訪問)

登城路は4コースあり、いずれもハイキングコースとして整備されています。
今回は菩提入り口から登城することにしました。
竹中氏陣屋からはバイクで1km、3分くらいでした。
菩提入り口には車数台置けるスペースがあります。

寺社を過ぎると、階段状の登山路が続きます。
心肺も脚の疲れも半端ないです。
ようやく平坦路になったと思いきや、
再び階段路に変わり、
城跡まで階段地獄は続きました。
ようやく城跡に到着しました。
50分かかりました。

堀切りの中を進み、山頂部にある本曲輪からは濃尾平野が一望できます。

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刑部

来島村上海賊の移封の城 (2022/05/04 訪問)

大友氏と島津氏の攻防戦で唯一落ちなかった城だった要害堅固の城です。
江戸時代に来島康親が伊予より入封し森藩が立藩されましたが、来島氏は1万4千石の小大名で城を持つことは許されなかったため山麓に久留島陣屋【森陣屋】築いてます。この陣屋から角牟礼城へ登るとこが出来ますが、車で三ノ丸まででも行けます。ここからだと時間は変わらないようです健脚方は歩いてみてください。石垣が所々あり私は三ノ丸の虎口が良かった!

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川並衆 (2022/06/11 訪問)

 木下藤吉郎が墨俣に城を築く際、木曽川上流で伐採した木を木曽川に流して運び、ここで組み立て、また木曽川に流して墨俣まで運んだといわれている城址です。遺構はありませんが、案内板があります。

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刑部

予想以上に立派な城址 (2022/05/03 訪問)

二万石の城と聞いていたのでそれほど期待していませんでしたが予想以上の山城城址でした!麓の歴史資料館の駐車場から登城、直ぐに三の丸の櫓門があり現存する唯一の建築遺構だそうです。山城なのでここからが大変です山登ること30分やっと城郭らしいところへ到着、見事な石垣が連なっていました興奮!【ハイカーさんも多いので注意】続100名城に選ばれただけあります、皆さんも是非訪問してください! 御城印は歴史資料館には無く観光交流館で販売してます場所は山城から降りてきて向かって左側へ行けば道路沿い右側にありますが疲れた人は車でどうぞ!駐車場あり。

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カズサン

素晴らしい長大な丘城、仲々城・仲城・三城~大手編 (2022/05/30 訪問)

 素晴らしい長大な丘城、奥仲城(搦手~馬出虎口)編の続きです。

 前日宿泊した土浦を経ち国道125号線を進行すると以前訪ねて城郭を思い出す道です、木原城にチョイ寄りし利根川を越える香取神宮、佐原の道の駅、小見川城跡近くチョイ寄り気分を抑えて、田圃の農道を通り森山城西端の麓、青年館前のギリギリスペースに駐車し、搦手登城路より侵攻。

 森山城の西端に奥仲城(根小屋)、馬出を出ると、本丸に相当する仲々城、ここは畑と牛舎で結構広い、中の道を通り仲城域へ、仲城は畑です、仲城と仲々城の間に余湖図コレクションさんの俯瞰図には空壕が有るのですが認識できず、仲城と三城の間に空壕と土塁、三城も畑、三城の東に大きめの空壕、土塁が在る、大手門跡、解説板が有る、大手門跡三差路南に大堀切かなと思う見たいが降ってる、更に東は外郭鳳凰郭と成って居り畑である。
 各曲輪間には丘城台地を掘り刻み、空壕、土塁で防御、大手門口は南に空壕が落込み竪堀と成ってる様子。

 今回の探訪では森山城の麓外周を囲っていた外濠を確認する事が出来ず、又奥仲城で逢った現在の城主様の推薦、須賀山城址を探訪出来ず心残りな点も有りました。
 最初の登り搦手登城路の急な坂、笹落ち葉の滑りが難所でしたが房総の丘陵に築いた城郭を初登城し、城びと投稿で良い城を紹介頂き感謝です、充分に満足な城廻りでした。 トイレの設備が欲しい所です。

 投稿写真は大手門口から三城・仲城・仲々城の順です、最後に森山城・須賀山城を描いた案内図を投稿し締めます。

 

 

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赤い城

島屋敷 (2022/05/28 訪問)

仙川駅が最寄で徒歩20分。
この日は狛江入道館から徒歩で転戦しました。
跡地はURの団地になっていて遺構はありません。
発掘調査の様子が説明板に記されています。
江戸時代には柴田勝家の孫、柴田勝重が旗本として陣屋を築いた場所でもあります。
わざわざ行くことも無いと思いますが静かな住宅地で心眼を鍛えることはできそうです。

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零汰

資料館周辺はとても綺麗な場所です。 (2021/05/23 訪問)

2年ほど前から城郭放浪記さんのサイトで知っていた場所です。1年ほど前に何度か調べて訪問しました。資料館周辺は小川城城址公園と銘うって、資料館や食事の出来る藁葺屋根の建物などがあります。資料館には小川に架かる橋を渡ってはいるのですが景色はとても綺麗です。

資料館は比較的新しく城の作りに似せた建物です。その周辺に石積があるのですが新築時の際に施工されたと思い込み写真を撮るのを忘れていました。資料館内部は無人で200円を箱に入れて入る仕組みです。この頃は建物内部に入っていました。

この一帯は隠居場らしく、主郭はここから東に300mほど行った廃校となっている小学校の敷地です。主郭の名残と言えば切岸だけでしょうか、校門は道路が折れて入るようになっていたので虎口位置なのかもしれません、階段と門柱脇に石積が有りましたが虎口だという確証はありません。その田の遺構については特に気が付いた所はありませんでした。

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koviton

木造復元天守 (2022/05/15 訪問)

城郭検定の勉強で大洲城が木造で復元したと知り行ってきました。場内に復元の基になったという木の模型があり、やはりこういうのがないと完全な復元は難しいのだろうなと感じました。

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こはぜ

姫路城の瓦紋 アゲハチョウがなぜここに?

姫路城の瓦紋のなかで、揚羽蝶といえば池田家の家紋ですが、そのアゲハチョウの紋が我が社の中にあったのです。

「こはぜ」に、文様を彫るための金型が数えきれないほどあり、ほとんどサビがついて模様もはっきりと見えないものもあったりしますが、その中で、サビ取りをしてきれいに展示している金型に、この「揚羽蝶」の文様がありました。

1919年創業で現会長が4代目社長時代でも製造はしておらず、磨いてきれいに保管してはじめて存在を知ったくらいですので
果たして、いつのころ、このこはぜが製造されたのか、謎なのです。

が、見る限り、池田家の家紋と同じ模様。

池田輝政は姫路城城主であり、篠山城の普請に従事し総普請奉行をも務めたそう。その池田家は岡山城初代藩主が輝政の次男であり、、と私自身の分岐点となる所在地がすべて関わっている感じがして(勝手な思い込みです)、ますますこの【アゲハチョウのこはぜ】が
気になり始めました。

調べてみます。

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おぢさん

印象的な瓦 (2012/09/30 訪問)

青い瓦が印象的でした。
本丸御殿は、まだ再建工事中でした。

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おぢさん

凛々しいお城 (1986/04/28 訪問)

烏城名前に負けない、凛々しい天守閣でした。

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カズサン

素晴らしい長大な丘城、奥仲城(搦手~馬出虎口)編 (2022/05/30 訪問)

 森山城は利根川の南側北総の丘陵を城域とした北総最大級で、森山城・須賀山城を含み東西1500m、南北500mの広大な城です、内森山城は東西620m南北500mで西の搦手から、奥仲城(根小屋)、仲々城(本丸)、仲城(二の丸)、三城(三の丸)、大手門跡、鳳凰郭と直線的に連郭式城郭と成って居る、各曲輪は空壕、土塁で区切られ、奥仲城は角馬出が備わってる、空壕は土橋が架かり繋がってる、各曲輪は現在、畑、牛舎など私有地で、マナーを守って散策をと案内板に記載されて居りマナー良く散策見学探訪させて頂きました。

 歴史的には鎌倉期建保6年(1218年)、千葉常胤6男・東胤頼築城説、胤頼曾孫・泰行が鎌倉から東庄に帰ったときに森山城を築き須賀山城を廃した説など中世の動向は不明な点が多い。
 現在の森山城は、北条氏の築城技術の強い影響が見られ、永禄~天正期(1570年前後)に千葉胤富により東側の須賀山城を取り込み大拡張・増強工事がされたとみられる。(全て案内板の説明文です)

 探訪ルート:車を西端麓の青年館道との隙間にギリギリ1台駐車(住所:香取市下飯田3048)、妙見社・星宮大神、横の堀底道を登る、搦手道で折も有り急で笹の落ち葉で滑りやすい、搦手虎口を通り、奥仲城、畑です、土塁と空壕、土橋、角馬出、仲々城域へ畑と牛舎。主として真ん中の道からの見学散策探訪撮影です。
 探訪情報案内は古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの情報により探訪は余湖図コレクションさんの俯瞰図に依る。

 奥仲城では現在の城主様に遭い、夫婦で畑作業中でしたが声を掛け情報を得る、搦手口妙見社前のお宅の方、立派な家で門も有りお寺かと思いましたと話すと、10分程会話し色々情報を得ました、須賀山城推薦で整備が整ってると、車で城廻りしてる旨、車で青森から鹿児島までと話すと、ご夫妻も車で車中泊し東北、全国廻ってると、話が盛り上がりました。

 続きへ、仲々城~大手編。

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おぢさん

エピソード (2010/05/10 訪問)

天守閣前の広場で、友人が鳩にエサをあげようと手に出したら、体中鳩にとまられてました。
鳩にエサをあげる時はご注意ください。

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横浜城址散歩 (2022/06/09 訪問)

横浜市営地下鉄ブルーライン「センター南」駅から徒歩10分くらいです。城址は茅ヶ崎城址公園として整備されています。曲輪、土塁、空堀等を見ることができます。

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横浜城址散歩 (2022/06/09 訪問)

 東急田園調布線江田駅の近くにありますが、立入禁止となっています。山際に近づいて写真を撮りたかったのですが、人がいて躊躇してしまいました。どこか近づけないと思って歩いて、城のある山の周囲を無駄に一周してしまいました。一部近づいてそれらしい所を撮影しましたが遺構か否かわかりません。ネットで見ると先輩方は歩道橋から近づいたようですが、歩道橋も通行止めになっていました。

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