光秀が丹波支配の核として築いた城。敷地内は初めて入った。だって今は宗教施設ですから( 〃▽〃)
天正6年の書状で国人衆である長沢氏に亀山の地に惣堀の普請を命じたとあるが、この惣堀が何かとの議論がある。
惣堀=惣(総)構と思いがちだが、惣構は小田原攻めで全国の武将の知るところとなったもので、光秀の時代にはなかったと考えられる。
では、光秀の書状にある惣堀とは何だったのか?
もちろん私に判るはずもないが、古図にある南側の不整形な用地や、西側から南側に広がる町割り部分ではないかと察する。
亀山城は本能寺へ向かう光秀一行が出立した城として知られる。その数1万3千人とか。
なので惣堀とは兵站基地としてのスペースのことだったかも知れない。本能寺の変に向かう軍勢にも恐らく使われたであろうスペースに思いを馳せながら歩いた。
話変わって、明治の廃城令で破却された城跡を大正期、光秀をリスペクトする出口王任三郎が買い取り亀山城の復興を目指し整備したが、全て自費で石垣を掘り起こし積み直したようだ。
出口氏は亀岡にある穴太(読み:あなお)の出身で、当地にある穴太寺は天台宗の寺で、西国三十三所札所の御詠歌にも出てくる関西では有名な名刹。
亀山城の石垣は穴太積みであり、滋賀の坂本で得た技術者集団に因果を感じないでもない。(勝手に妄想中)
そんなこんなで積み直した石垣も大本への二度の大弾圧により破壊され尽くす。戦後、大本に無罪判決が出るが賠償を得ずまたも自費で整備し直したらしい。感謝感謝。
江戸期、亀山城では日本で最初の層塔型天守閣が作られたと言われている。
城地が城下町より低地に作られるなどという大変奇妙で面白い城である。
大本教の施設内で10分間のビデオも見せてくれ、その後回ると現在までの流れが分かりよいかと。
見所は穴太積みの石垣に刻印があったり、天守閣跡(立入禁止)や南郷池(東側の堀跡)だったりか。
亀岡の町中には高札風の説明板が溢れており、町歩きも楽しめる。
JR亀岡駅は保津川下り乗船場の最寄り駅。色々楽しめる町だ。
(この日応援に行った京都サンガは引き分け(;ω;))
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