東神奈川駅から徒歩で10分ちょっと。
幸ヶ谷公園が城跡となります。
遺構はありませんがかつてここで戦があったことが記された説明板が立ちます。
山内、扇谷上杉氏と北条早雲が戦った権現山合戦の舞台です。
今は平和な公園で、朝早くの訪問でしたが散歩されてる市民の方も少なくはなかったです
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2022/07/22 22:12
2022/07/22 21:34
石垣を見る城だ (2022/01/29 訪問)
緑泥片岩を使った近世城郭として和歌山城と並び称されるが、途中で他の石材に切り替えたらしい和歌山城とは異なり、積み方を進化させながら一貫して緑泥片岩を使い続けている。徳島城は、石垣を見るお城だ。
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2022/07/22 21:24
皆さんの投稿を見て行く気になって (2022/07/12 訪問)
登城した。花尾公園城址看板前に駐車して中登山道で登り、下りは東登山道を選んだ。
石垣構造がぽつりぽつりとあり、他にも分かりづらいが竪堀、堀切などもそれなりに楽しめた。しかし、ぽつりぽつりと突然現れる石垣にはなにやら不自然さも感じた。いずれにせよ、この城の圧巻は本丸下の段から一気に石段で下っていく石組み井戸だろう。他には見たことのない構造だ。
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2022/07/22 18:33
2022/07/22 16:52
新井城に行ってきました (2020/03/09 訪問)
《新井城の戦いまでの背景》
三浦親子(道寸、義意)最後の地である、新井城に行ってきました。
この城は、北条早雲の相模平定における最後の戦いがあった城です。
北条早雲は小田原城を落とした後、三浦半島一帯に勢力を持ち、
関東管領家とのかかわりの深い三浦氏を攻めるべく三浦半島へ向かいました。
まず最初に1512年の永正の乱に乗じて、相模岡崎城を落城させ、
次に鎌倉と逗子の市境にある住吉城、そして最後にこの新井城を攻めました。
この戦いがいわゆる新井城の戦いです。
《三浦道寸と扇ガ谷上杉氏の関係》
三浦道寸は、元々扇ガ谷上杉氏の出で、三浦氏に養子として、
三浦時高の新井城に行きました。
しかし時高に実子・高教が産まれると不和となってしまいます。
なので、一度 小田原城主である大森氏頼をたより、
その時元々の名前である義同(よしあつ)から、出家したあと道寸と名乗りました。
そして大森氏の力を借り、時高・高教父子を滅ぼして、
無理やり三浦家当主となりました。
《新井城の戦い》
1512年、三浦氏の城を落城させながら三浦半島に侵攻した伊勢宗瑞(北条早雲)は、
ついに1513年(永正10年)道寸の本城である、新井城を攻めました。
宗瑞は、力攻めではなく兵糧攻めをしました。
その時に上杉氏の侵攻を防ぐべく築かれたのが玉縄城です。
(玉縄城の投稿もしているので、ぜひ見て下さい!)
北条軍は1513年9月29日、扇ガ谷上杉氏の援軍である、太田資康
(太田道灌の息子で、道寸の娘婿)をうち、ますます三浦軍を孤立させました。
しかし、さすがの北条軍も新井城には難攻し、1516年(永正13年)、兵糧がなくなり、
息子の義意は潔く城外にでて討ち死に。道寸ほか一族も自害しました。
道寸の辞世の句は、
討つ者も 討たるるものも 土器(かわらけ)よ くだけた後は もとの土くれ
という、討つ者、討たれる者も砕け散るかわらけのようだ という意味の句です
《その後》
落城後は、北条家の城となりました。
しかし豊臣家の北条討伐のより廃城となりました。
【城情報】
・形式 ❙平山城
・築城年 ❙鎌倉時代ごろ
・廃城年 ❙1590年(天正18年)
・築城者 ❙三浦氏
・最後の城主 ❙北条家
・廃城理由 ❙豊臣家が北条家を滅ぼし、使われなくなったため
・主な城主 ❙三浦氏→北条氏
・遺構 ❙ 曲輪、土塁、堀など
・主な建築物 ❙なし
・説明看板、石碑 ❙両方有
・駐車場、トイレ ❙なし
・天守 ❙なし
・保存状態(自身判断)❙歴史的な意味では重要で、遺構もあるため良
❙普通
・備考 ❙・遺構は少ない
❙・遺構は東京大学の研究施設にある。
❙道寸祭りには見れる
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2022/07/22 15:46
島津義久が内城を離れ隠居した城 (2022/07/14 訪問)
一辺が250mほどわの方形状の城というよりは城館。ぐるりと石垣でかこまれていたようだが、今は東側が一番よく残っている。敷地内には築山?、物見台のような小山がある。
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2022/07/22 15:32
島津氏が三州制覇の起点とした城 (2022/07/14 訪問)
ということで訪問したが、山上公園と化しておりかろうじて山城の遺構を感じ取る程度だった。
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2022/07/22 14:55
空前絶後 (2022/07/14 訪問)
垂直の切岸で間口の狭い入口に実際に立って見れば圧倒される。
西ノ城、求聞寺城、物見ノ段は入口近くの案内板には記載されているが、現地では立入禁止の表示。まったくもって残念⤵
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2022/07/22 14:29
復興された御楼門を見に (2022/07/14 訪問)
前回は復興城門もない冬枯れの時に訪れた。今回は御楼門もあり堀の蓮も咲いていてまったく異なる印象。それにしても島津氏が歴史に残した存在感からみてやはり小さな城だと今回も感じた。
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2022/07/22 14:11
千四百年の時空を超えた石垣 (2022/07/12 訪問)
神々しさすら感じた。
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2022/07/22 11:46
平成20年淀城景観 (2008/07/19 訪問)
京阪電車を使って大阪出張の空き時間に寄りました、当時京阪淀駅は天守台東側の近くまで張り付き、持参のデジカメでは天守台全体が撮れず部分部分に成って居ます。現在は京阪電車の高架事業で約300m程北東に移動され高架駅と綺麗に整備再開発されて居ますので撮影はし易く成って来たのでしょうか?
現在の淀城跡は南東に天守台、本丸の南面と西面の高石垣が残り、石垣に沿って内濠が西面、南面が残って居ます、本丸の北に接して二の丸が本丸と同じくらいの広さであり公園化されて居ます、二の丸側に輿杼神社(ヨド)、本丸側に稲葉神社稲葉正成(春日局の夫)が祀られて居ます。本丸西枡形門跡は石垣が残り本丸の天守台東北側にも櫓台などの石垣が残って居ます、二の丸北側には低い石垣が残っている、三の丸、東馬出曲輪、西の丸は内堀、外堀共に市街化され残って居ません。
淀城跡は淀姫とは関係ありません、淀姫の淀城は淀古城跡に成ります。
淀城の築城は伏見城の廃城後幕府が総石垣の回式縄張で元和9年(1623年)築く、城主は久松松平氏、永井氏、石川氏、戸田松平氏、大給松平氏と続き、享保8年(1723年)稲葉正知が入り以後12代10万2千石の居城として明治を迎える。
淀城へは前々から訪ねたいと思って居り、ネットのCGでよみがえる日本の城、デジィタル大工制作の淀城復元図を良く眺めて居ましたので何時か何時かが14年前の平成20年7月中旬に叶い登城しました。
天守台穴蔵の公開はしていないようでした、デジタル画、古絵図の天守閣の様に連立式天守閣で二層櫓が四隅に多聞櫓か土塀で繋がってる姿を穴蔵後で想像してみたいものです。
また、公園内に淀城跡公園整備パネルが在り、「公園整備と市民のロマンである天守閣の復元を市民とともに推進します」京都市建設局緑政課、と記載されて居ました。 是非淀城の天守閣及び周辺建物群の復元整備を待ちたいものです。
コンパクトデジカメの性能で広角写真が撮れず部分部分の写真ですが投稿致します。
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2022/07/22 00:15
王舎城図、鹿野城下町鳥観図 (2018/09/02 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/07/22 00:12
丸山城跡発掘調査図 (2018/09/02 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/07/22 00:08
秋葉公園案内図 (2017/03/18 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/07/21 23:24
平成20年天守閣宇土櫓の眺め (2008/05/23 訪問)
平成28年の熊本大震災の前、平成20年5月下旬、熊本城築城400年祭を目途に復元された熊本城を訪ねました、本丸御殿、飯田丸五階櫓、西出丸建物群の復元整備に圧倒され感激しっぱなしでした。この頃フィルムカメラ主体での撮影で予備コンパクトデジカメに天守閣、宇土櫓、復元御殿外観など残ってましたので、熊本震災前の姿を見て頂けたらと投稿致します。
復旧復興作業はまだまだ20~30年の根気のいる整備作業で私が生きてる内には全体を観るのは無理でしょうが、熊本城の復興を祈り願って居ます。
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2022/07/21 22:53
西出丸平成19年順次復元整備成る (2008/05/23 訪問)
14年前の平成20年5月下旬、復元整備された熊本城を訪ねました、その当時まだまだフィルムカメラ主体でしたが予備カメラのコンパクトデジカメの写真データーが残って居ましたので、西出丸復元整備の写真を投稿致します。
西出丸は南大手門の平成14年復元が最初で、戌亥櫓、土塀、元太鼓櫓、西大手門、奉行丸土塀、未申櫓が平成19年までに木造復元され、熊本城築城400年祭に花を添えました。
(尚、平成19年には本丸御殿、平成17年には飯田丸五階櫓も木造復元しています)
平成28年の熊本大震災で被害大きく、戌亥櫓一本石垣の姿、土塀の崩壊など被害甚大で復旧復興は大天守閣小天守閣は復興し登閣出来る様になりましたが、西出丸が復元整備された平成19年の姿に帰るのは20~30年は係るのでしょうか?
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2022/07/21 21:53
礼砲用の台場 (2022/07/03 訪問)
東神奈川駅から徒歩で10分ちょっとで台場公園。
説明板が立っています。
そこから少しのところの民家脇に石垣が一部露出しています。
ここには石碑が立っています。
ここから徒歩15分くらいの星野町公園にも石垣が残っていました。
ここはブラタモリでも紹介されていましたね。
幕末、開国の頃勝海舟が設計した台場です。
結局海外船の礼砲用の台場として使われていました。
ほとんどが地下に埋まっていますが一部でも石垣が見れるのは嬉しいですね。
工事もしていましたが復元されることは無いですかね。
ちょっと期待してしまいます。
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2022/07/21 21:38
木造氏の城 (2022/07/21 訪問)
田園地帯の中に石碑と案内板がありました。
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2022/07/21 21:34
2022/07/21 21:29
愛洲移香斎 (2022/07/21 訪問)
伊勢市駅より三重交通バスに乗り五カ所バス停下車、徒歩約10分で登城口のある愛洲の館へ行くことができます。そこから長い階段を上ると主郭近くへ行くことができますが、自分は川沿いの道を歩いて牛鬼の像、井戸のある所を経由して登城しました。途中、多数の地面に動くものがありびっくりしましたが沢蟹でした。見どころは二重掘りです。写真に撮るとわかりにくのですが、形状を確認することができます。それなりに道は整備されていて歩きやすかったです。石垣も所々ありますが、いつのものかはわかりません。主郭の側面にも石垣の痕跡らしい所がありました。帰りは愛洲氏居館跡を経由して降りてきました。
愛洲移香斎という人をこの城を調べていて初めて知りました。移香斎が起こした愛洲影流は、後に新陰流、柳生新陰流など剣術の源となり、江戸時代には多くの流派が生まれたといわれています。歩いていると「日本剣道のふる里」と書かれた剣士の看板が多く立っています。
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