JR小机駅よりバスに乗り池辺バス停下車、徒歩5分くらいのところに宗忠寺があり、石碑に陣屋について少し書かれています。
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2022/06/09 21:53
横浜城址散歩 (2022/06/19 訪問)
JR小机駅よりバスに乗り池辺バス停下車、徒歩5分くらいのところに宗忠寺があり、石碑に陣屋について少し書かれています。
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2022/06/09 21:51
横浜城址散歩 (2022/06/09 訪問)
JR小机駅から徒歩5分くらいの場所にある雲松院と裏山が砦跡とのことです。
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2022/06/09 21:48
横浜城址散歩 (2022/06/09 訪問)
菊名駅からバスに乗り馬場谷バス停下車、徒歩5分くらい坂を上ると石碑と案内板があります。少し離れたところに寺尾城址の発掘の案内板があります。竪堀跡とグーグルマップで表示されますが、雑草が生えていてよくわかりません。
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2022/06/09 21:45
横浜城址散歩 (2022/06/09 訪問)
新横浜駅から近い城址ですが、皆さんがご指摘されているように立入禁止となっています。案内板の写真を撮影して退却しました。
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2022/06/09 21:27
晃華学園で難攻不落 (2022/05/28 訪問)
この日は深大寺城から徒歩で攻城、15分くらい。最寄は柴崎駅かな。
晃華学園という学校が建っています。
遺構は確認できません。
この学校、かなりの高低差がある段丘上に建っていて城の気配は感じることができます。
心眼ですね。
周りをウロウロすると怪しいので早めに退散しました。
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2022/06/09 21:18
大黒古戦場(新潟県長岡市) (2022/06/04 訪問)
長岡城を占拠されてしまった長岡藩同盟軍は,栃尾に仮本営を構えました。進軍ルートは,まず見附に出て,南下して長岡城を目指す作戦に出ます。見附の「今町の戦い」では大勝して勢いに乗ります。
しかし,そこに立ちはだかるのは,天然の要害である八丁沖。
八丁沖は,長岡城の北東の郊外,北は百束(ひゃくそく),大黒(だいこく)辺りから,南は富島(とみじま),亀貝(かめがい)辺りまで。南北約5㎞,東西約3㎞の大沼で,中央は底なし沼。大蛇や怪魚が生息し,普段から人は寄り付きませんでした。
新政府軍は八丁沖の北端の大黒の地に堡塁を築き,さらに追加の援兵を送り込み,その数は3万人に達しました。
対して,長岡藩同盟軍はわずか500人余り…。
1868(慶応4)年6月14日,22日,7月2日と3度の夜襲を試みるも,突破できず…。
戦死者は増えるばかりで,手詰まりかという状況下,下級藩士・鬼頭平四郎の弟,熊次郎の存在に気づきます。鬼頭熊次郎は,八丁沖の漁労や山仕事に従事していました。河井継之助は,鬼頭熊次郎のポテンシャルが,阻まれ続けた八丁沖の渡渉に使えるのでは…と。
~続きは,八丁沖古戦場で(明日から遠征に出ますので,来週になります)~
現在の八丁沖は一面田んぼとなっています。2004年の「7.13水害」では,再び沼地となりましたが…。
大黒古戦場跡地には供養塔があり,あの山本五十六書の「戊辰戦蹟記念碑」が建っています。また,東京に医学校を開校した「長谷川泰翁像」も目を引きます。
そして,「長岡市北越戊辰戦争伝承館」があり,無料で鑑賞することができます。あの林修氏も訪れていました。
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2022/06/09 20:51
見どころは石積 (2019/06/22 訪問)
本格的に城廻りを始めたのは19年の梅雨明けと記憶していたのだが、調べものをしていたら梅雨入り前に始めていたらしい。ここに来たのは19/6/22、現在4年目に入っている様だ。そういえば終活でのお供の赤いバイク2号機と納車1月後辺りに来たのを思い出す。2号機は正直なところ山城どを廻るには全く適していない。重くて小回りが利かない、ここの虎口のカーブが狭くてタイトだった事を思い出した。それでもバイクでの城廻りの9割は2号機がお供だ、むしろ城回り専用バイクとなっている。今後も遠乗りを辞める迄は2号機がお供となる事だろう。城の背景や歴史などの知識が不足しているために今回も雑談で尺をとってしまう。
こちらは地元の有志が整備されてる城で手作り感のある場所です。主郭に並べている石などは後から積んだそうです。こちらの見どころはなんと言っても海に面している南側の石積です。雑草が無ければ道路面からも石積が良く見えるようです。私が行った時は夏草が茂り始めた頃で少々隠れていましたがそれとなく雰囲気を味わう事は出来ました。主郭自体はさほど広くなく、石積含めて15~20分程で見ることができます。
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2022/06/09 20:40
広大な木原城6年振りのチョイ寄り (2022/05/30 訪問)
今回の城廻り4日目、宿泊した土浦のホテルを朝早く出てラッシュに遭いましたが国道125号線に入ると逆に成りスイスイ、千葉県香取市森山城に向って走行中、以前城廻りで走った国道、木原の標識が出る頃は木原城、塙城を思い出し、木原小学校がナビに入った頃には、木原城にチョット寄らなくては!と国道から小学校側にハンドルを切り、6年振りの登城で木原城址公園二の曲輪駐車場に駐める。トイレは詰曲輪に在る。
木原城は広大な丘城跡で詰曲輪、2の曲輪、3の曲輪、寺郭を水濠、湖沼で囲まれ北方向霞ヶ浦に向かって舌状台地上に築かれた、現在詰曲輪が木原城址公園と成り、駐車場は詰曲輪、二の曲輪に在る、二の曲輪は私有地畑と駐車場、三の曲輪は木原小学校、畑、民家、寺郭四の曲輪は永巖寺と山林山野に成って居る、各曲輪間は深い壕と土塁で区切られ、尾根続きの南東側は二重堀、土塁で防御されて居た。(曲輪の呼称は案内板縄張復元図に従う)
今回は約20分のチョイ寄り、二の曲輪、詰曲輪の探訪のみ。
壕、土塁は草が茂り、壕の深さ広さ、土塁の形など良くは確認できませんが曲輪内部、堀に広がる樹木の並びで広大さを感じる事が出来ます、木原城は現在も健在です。
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2022/06/09 19:11
窪之庄城 (2022/05/08 訪問)
【窪之庄城】
<駐車場他>八坂神社(牛頭天王社)前の道路脇に2台程可能
<交通手段>JR帯解駅から徒歩
<見所>空堀
<感想>日帰り列車で奈良盆地1周ちょこ城巡りの旅2城目。窪之庄城の築城年は定かではないが室町時代かと思われる。築城者は窪城氏で興福寺衆徒であり古市氏に属していましたが筒井氏に攻められ落城しその後は筒井氏に属した。1568年に松永久秀に攻められ落城するが後に再び筒井氏の城となります。
八坂神社(牛頭天王社)を含む丘陵地の林一帯に遺構が残されており、八坂神社も曲輪の一部だったように感じます。神社最上段の本殿背後に空堀があり見応えあります。西側は大竪堀が南北に走り西に折れてあります。背後の北側が曲輪群があるようなのですが、一番入り込めない竹藪なので奥に行くのは断念しました。
<満足度>◆◆◇
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2022/06/09 09:16
岩崎城 訪問 (2022/05/28 訪問)
小牧山城から岩崎城に向かいました。
空堀、二の丸庭園、櫓台跡などを見学した後、無料の岩崎城歴史記念館と模擬天守を見学しました。
岩崎城歴史記念館では御城印も購入しました。
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2022/06/09 09:09
小牧山城 訪問 (2022/05/28 訪問)
まず、名鉄小牧駅にある観光案内所でパンフレット一式と御城印、武将印をゲット。
そのあと、小牧山北駐車場(2時間まで無料)に車を止めて大手口方面へ向かい、れきしこまるを見学。JAF割引で小牧市歴史館と合わせて入館料が60円と激安でした。ここでも御城印を購入しました。内容的には大したことはないのですが、春風亭昇太さんの小牧山城紹介ビデオは良かったです。
家康が改修したと言われる大手口の土塁と堀は圧巻でした。直線状の大手道を登って本丸下の石垣を見学後、小牧市歴史館で続100名城スタンプをゲット。帰りは搦手口を降りて駐車場に戻りました。トータルの見学時間は1時間50分で駐車場の無料時間ギリギリとなりました。
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2022/06/09 08:33
鷲津砦案内図 (2017/10/27 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/09 08:32
丸根砦案内図 (2017/10/27 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/09 08:31
大高城跡公園案内図 (2017/10/27 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/09 08:10
神体山の城 (2022/05/21 訪問)
築城者・築城時期など詳細は不明であり、柳本氏の城とも内藤氏の出城ともされます。明智光秀の丹波攻めの際には、国衆が籠って抵抗するも落城したと伝わります。
御影山頂部に築かれた城で、ネット情報によれば階段状の曲輪群に土塁や石積、二重堀切を備えているようですが、山麓にある出雲大神宮は御影山を神体山とし、山頂部は禁足地とされているため、通常は遺構を目にすることはできません。
出雲大神宮ではあちこちに見られる巨岩を磐座とし、御蔭の滝には竜神乃神を祀るなど御影山が御神体であることが窺えます。社務所で受付をすれば中腹の神の磐座までは行けるようですが、あ さんの投稿にあるように、受付をしても遺構のある山頂までは行けないのならもういいか(参拝目的でないのに許可をもらうのも気が引けますし)ということで、神域の手前で探索終了としました。
ところで、出雲大神宮は一般に出雲大社からの分霊とされますが、社伝では逆にこの地から出雲に遷座したとされ「元出雲」とも呼ばれるんだとか。すぐ近くには「元愛宕」もありますし、事実はどうあれ、古くからの由緒のある地ということなんでしょうね。
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2022/06/09 07:21
チョイ寄り土浦城 (2022/05/29 訪問)
小坂城、東林寺城を十二分に探訪堪能し、今回の城廻り3日目の宿泊先土浦に国道6号線を約16~17km程北上、国道354号線に入りナビに土浦城が入ってくる、これは寄らなくてはと市立博物館の専用駐車場に車を駐めて、12年振りの登城と成りました。
登城ルートは、博物館横から水堀を渡り本丸へ西櫓を眺め、櫓門太鼓門を裏から、東櫓を裏から眺め、霞門を潜って桝形霞橋を渡り、東櫓を水堀越しに眺め二の丸へ、移築された旧前川口門も眺め、櫓門太鼓門を表から潜って裏から、東櫓に続いてる白土塀を裏から武者走り土塁を眺めて、北東側の土塁の雁木、土塁上から眺めて本丸を駐車場へ。
夕方17時から約30分の探訪でした、駐車場は入った時は満車状態で空きの2,3台に駐め、帰りは半分位の空き状態、何時でも城探訪は楽しい。
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2022/06/08 22:03
城の後には深大寺そば。 (2022/05/28 訪問)
京王線の布田駅から徒歩で30分弱。
調布駅からバス便もあります。
神代水生植物園の一角にあります。
まん防の頃来たのですが閉鎖中だったので再訪です。
二の丸の入口には蕎麦畑があり、その先の二の丸は結構広いです。
建物跡の礎石や土塁が整備されています。
二の丸と主郭の間には空堀があり、土橋がかかります。
主郭も土塁が囲んでいます。
郭は3つあり、三の丸はテニスコートになっていました。
北条氏に備えるため扇谷上杉氏が入った城です。
城の後はもちろん深大寺そばをいただき、深大寺にもお参りしました。
都内への通勤圏内に遺構が良く残る貴重な城でした。
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2022/06/08 22:00
明智光秀「最期の30日」を辿る 【第8回:最終回】西教寺(明智光秀・煕子の墓) (2022/05/09 訪問)
(第7回「光秀の最期」からの続きです)
最後にもう一度坂本に行き、西教寺を訪れてきました。
西教寺は、比叡山焼き討ちの際にいっしょに焼き払われたため、光秀が再建に尽力したお寺です。総門は、その時坂本城にあったものを光秀が移築寄進したと伝わっています(写真①②)。また妻の煕子(ひろこ)が死んだ時も、その当時の武士は、妻が先に死んだ場合、夫は葬儀には立ち会わないのが習わしだったようですが、光秀は自ら喪主を務め、この西教寺にて盛大に執り行ったそうです。いかに愛妻家であったかがわかります。
境内には、光秀と煕子の墓が並んで建っていました。何かほほ笑ましいというか、少しほっとした気持ちにさせられてしまいました😊(写真③④⑤)。 よく見ると、二人のお墓はともに生まれ故郷の美濃の方角(東)を向いていました。二人ともあの世で生まれ故郷の美濃に帰りきっと仲良く暮らしているのではないでしょうか?
光秀の墓には、他の明智一族も含まれていました。たぶん坂本で亡くなった甥の秀満(左馬助)と妻の岸(光秀の長女)、甥の光忠(次右衛門)とその妻(光秀の次女)、子の光慶(光秀の嫡男)ではないかと思われます。五人は坂本城で光秀を待つも途中で亡くなったと聞き、その後秀吉の軍勢(堀秀政ら)に囲まれたため、自ら共に自害して果てたそうです(諸説あり)。煕子の墓の横には妻木(煕子の実家)の墓もありました。きっと今頃は、あの世では皆でにぎやかにやっている事でしょう。
墓の一段下にある唐門には「麒麟」が彫られていました(写真⑦)。
そういえば結局、光秀の前に麒麟は現れたのでしょうか?
いや、きっと光秀自身が麒麟になって天に昇って行ったのかもしれませんね😊。
以上で、私の明智光秀「最期の30日」を辿る旅を終わります。
今度は、光秀の孫たちが九州で活躍した話を、いずれまたお伝えしようと思います。
(では私は最終の新幹線で博多へ帰ります)。
全8回読んでいただき、大変ありがとうございました😊。
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2022/06/08 21:56
司馬遼太郎『峠』文学碑(新潟県小千谷市) (2022/06/04 訪問)
古戦場レポート,河井継之助が長岡城奪還に意地と知恵を発揮した「八丁沖の戦い」に移る前に,ちょいと寄り道。
ここまでレポートしてきた,榎峠,朝日山を,信濃川対岸(西側・左岸)から見つめている碑があります。それが,「司馬遼太郎『峠』文学碑」です。妙見堰,越の大橋西詰に建っています。R17沿いです。東京方面から新潟に向かってくると,信濃川横断の手前右側になります。通り過ごして渡ってしまうと長岡市に入ります。
「武士の世の終焉にあたって,長岡藩ほどその最後を見事に表現しきった集団はいない」という,司馬遼太郎の言葉が刻まれています。
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