山田城からの転戦です。歴史民俗資料館の駐車場(33.595963、133.622894)に駐車し、続100名城スタンプ押印後、攻城しました。
鎌倉時代初期に長宗我部能俊が信濃から土佐へ移住しました。これが土佐長宗我部氏の始まりであるといわれ、長宗我部氏は長岡郡宗部郷(現在の南国市岡豊町)に定住し、この時に岡豊城が築かれたものと思われるそうです。
応仁の乱後、1508年(永正5年)土佐七雄の本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍により攻められ岡豊城は落城しました。この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序(かねつぐ)は自刃しました。
土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は1518年(永正15年)一条氏の取り成しで旧領に復し、岡豊城に入りました。
岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになりました。
国親の子・元親の代に長宗我部氏は飛躍します。1574年(天正2年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定し、この城を拠点に1585年(天正13年)には四国を統一しました。
しかし、同年、羽柴秀吉による四国征伐によって降伏し土佐一国が安堵されました。
この後、1588年(天正16年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移しますが、治水の悪さから再び岡豊を本拠としました。
しかし、1591年(天正19年)新たに浦戸城を築いて移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いで元親の子・盛親は西軍に与したため、改易されました。
岡豊城は現在、県立歴史民俗資料館が併設され、城跡は公園として整備されています。
山頂に詰(主郭)を置き、詰(主郭)の南西方向に三ノ段、さらに西下に四ノ段と腰曲輪が配されています。
詰(主郭)の東尾根には土橋が架かる堀切を設けて二ノ段があります。 西尾根の峰には伝厩跡曲輪があり出丸となっているようですが時間の都合で行っていません。
詰(主郭)の北西側には横堀の遺構があり、堀切で遮断されています。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=吉田城に向かいます。
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