(鶴賀城②(戸次川の戦い)からの続きです)
大友館は、源頼朝から豊後の守護を命じられ鎌倉から移り住んだ(初代)大友能直が居としたのが始まりで、典型的な守護館(方形居館)です。それから約400年間大友氏の居館となり、「(21代)大友宗麟」(写真①)と子の「(22代」大友義統」の時に最盛期を迎え、府内も堺や博多と並ぶほどの貿易都市になったといわれています。館もこの時に最大規模になったようで、発掘調査では多くの南蛮の壺や皿などが発見されています。また、館の一角には大友氏の菩提寺である萬寿寺がありましたが、島津との戦いで焼失したため江戸初期の1631年に北へ500mの現在の地に再建されました。再建当時の山門も現存しています。(写真⑥⑦)
大友館では発掘調査の後、2030年までに宗麟時代の館を再現し歴史公園として整備する計画になっています(今からとても楽しみです)(写真③)。遺跡内には、「南蛮BVNGO交流館」(写真②)があり、ここで大友氏の歴史とかつての館の様子などが紹介されていました。
戸次川の戦いで大友・四国連合軍を破った島津家久は、この大友館に迫り館と府内の街に火をかけました。もはや圧倒的な不利な状況であったため、大友義統はさらに高崎山城に逃げ、仙石久秀と長宗我部元親は船で四国に逃げ帰り、ほぼ戦わずして島津家久は大友館と府内の街を制圧する事ができました。
【余談】また私事ですいませんが・・・
実は、この萬寿寺は私の家の菩提寺でもあり、今回は父の命日だった事もあり墓参りも兼ねて訪れました。そしてこの大友館跡は、写真④の看板から左奥は、私が幼いころは祖父の土地(田)であった記憶があります。その後たぶん叔父が相続して売却され、どう回り回って国の土地になったのか、50年も前の事なので私にはわかりませんが、それからここ最近になって大友館の全容が明らかになり、祖父の土地がそのような歴史的な場所の一部だったことを初めて知った次第です。この近くには、私の実家だった場所や、私の出身の小学校・中学校・高校があり、小さい頃よく遊んだりした場所なので、何かとても懐かしく感じました。その話を「南蛮BVNGO交流館」の方々と話していたら、とても盛り上がって話が尽きなくなってしまいました。(でも私は大友氏の末裔ではありませんよ!(笑))。
次は「高崎山城」を目指します。
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