(臼杵城①からの続きです)
大友宗麟は、心血を注いで建てた教会・修道院・学校・病院が焼き払われ、臼杵の街が廃墟となったことに相当な怒りを憶えました。そしてこの無念を晴らすべく、このまま籠城せずに何と討って出る事にします!
この時、宗麟にはある秘策がありました。それは秘密兵器「国崩し(フランキ砲)」です(写真①)。ポルトガルから輸入し、日本ではまだ誰も使った事もない見た事もない兵器でした。宗麟は平清水(ひらそうず)に布陣している島津軍めがけ砲撃しました(臼杵城から平清水を眺めた写真②から想像イメージ写真③を作ってみました。こんな感じでしょうか?)。すると、凄まじい爆音とともに着弾し、島津軍はもう度肝を抜かれ大混乱! そして多くの兵が死傷しました。
その隙に、前日から海を渡り隠れていた兵が、平清水(龍原寺付近)(写真④)の島津軍の本陣めがけ果敢に討って出ます。そして、動揺している島津軍へ襲いかかりました。島津兵はさらに驚き退却を始めますが、二王座の切通し(岩を砕いて作った狭い道)(写真⑤)まで退却したところで、同じく前日に海を渡り待ち伏せていた吉岡統増(妙林尼の子)が率いる鉄砲隊が一斉射撃! これに多くの武将が打ち取られてしまいました(またイメージ作ってみました:写真⑥)。
島津義久は、多くの死傷者が出た事と秀吉の大軍が豊前を南下中との知らせを受け、今後の豊臣との決戦に備え、薩摩全軍の体制を立て直すべく、家久へ「もはやこれまで、薩摩へ撤退せよ!」と命令します。念願の宿敵「大友宗麟」の首を討ち取れる寸前あと一歩の所までせまっていた島津家久でしたが、命により無念極まりなく撤退をする事にします。これで、島津の九州制覇の野望は完全に消えてしまいました。そして大友宗麟はこれにより豊後を最後まで守りぬく事ができたのでした!
次は、津久見(大友公園:宗麟墓所)へ続きます。
【余談:臼杵観光】
臼杵城の周辺は、城下町の面影を思わせる街並みがよく残っていて、散策するにはとても良いところでした。城から正面にまっすぐ続く石畳の道は、宗麟が作った道で、突き当りにはかつては教会やセミナリオ(修道院)・病院・学校などがかつてあり、南蛮人も多く、ゾウもここを歩いていたとか?(イメージ写真⑦)。今ではこの石畳の道に、臼杵名物の味噌・醤油の店(フンドーキン・富士甚)やおみやげ屋が並び、教会を模した休憩所などもありました(写真⑧)。またすぐ横の「二王座歴史の道」には、鉄砲を撃ちかけたとされる切通しや、稲葉貞通時代に建てられた寺が多く残っていました(写真⑨)。少し行った所には「臼杵石仏」などもあるので(写真⑩)、臼杵城を訪れた際には、これらも散策される事オススメです!(私もゆっくり歩いてきました😊)。
+ 続きを読む









