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ぎりょう

中世城館から近世城郭へ (2022/09/09 訪問)

この城は中世から近世にわたって(15世紀前半~明治初期まで)活用された平山城である。城主は畠山氏・伊達氏・蒲生氏・上杉氏・加藤氏・丹羽氏(伊達氏から加藤氏時代は城代)と続いた。中世の土の城が蒲生氏時代に初めて石垣が築かれ、その後の上杉氏・加藤氏によって順次改変され高石垣を持つ三ノ丸が造成されたと云う。
復元された箕輪門は丹羽氏10万700石の居城にふさわしい趣が感じられる。山上の本丸も見事な石垣で復元されているが、帯曲輪下に古い時代の大石垣、さらに三ノ丸へ降りていく途中にはかつての城道や堀切、中世城館の雰囲気を残す切岸や曲輪跡が続く。
この地は奥州道中が通る交通の要衝でもあり、戊辰戦争時の慶応4年(1868)には西軍の攻撃によって落城している。城址には当時の家老や藩士の自刃の地も残されている。
また今年は10月8日からは菊人形まつりも開催される予定であり、訪問時も準備作業中だった。

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ぎりょう

戊辰戦争 二本松少年隊 (2022/09/09 訪問)

歴史好きな仲間と二本松・郡山方面を訪れた。昨年から戊辰戦争における東北諸藩の歴史を振りかえることも歴史探訪のテーマとしている。今回の二本松訪問は、二本松少年隊の墓に香を手向けることが第一の目的だった。
会津戦争での「白虎隊」の名はあまりにも有名だ。二本松少年隊の名も耳にしていたが二本松の場合は、奥羽越列藩同盟により正規軍が他国の戦場に出向き手薄になった国元を守るため志願した数え年13歳から17歳の少年たちが急ぎ各部隊に配属されたもので「白虎隊」のように正式な名称は無かったと云う。「二本松少年隊」は50年後の大正6年9月15日「戊辰戦没者50回忌法要」の際、かつて14歳で出陣した元隊士が「二本松戊辰少年隊記」を参列者に配布したことから呼ばれるようになったと云う。(「二本松の戊辰戦争」二本松教育委員会2021年3月)
この日は先ず今年4月にオープンした歴史観光施設「にほんまつ城報館」へ。こちらは二本松の歴史がとてもわかり易く展示されている。戊辰戦争についても詳細な資料が残されているが、かつて14歳で出陣した元少年隊士が後年、14歳の孫に自身が出陣した際の服装を着せて撮影した写真にこころを打たれた。顔も背丈も現在の小学校高学年のような少年が白い鉢巻きに脇差、手には槍を持つ姿で立っている。「このような幼い少年たちまで」としばしその場を離れることができなかった。
その後は少年隊士の墓がある大隣寺、少年隊が西軍と戦った大壇口古戦場などを訪れることができた。

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シェル

これが真のお台場 (2022/02/17 訪問)

ゆりかもめ お台場海浜公園駅から歩きで第三台場までは15分。マリンハウスまでは5分程度です。
りんかい線の東京テレポート駅から第三台場までは、テレポートブリッジを渡り、徒歩30分ほどです。
続100名城スタンプは、マリンハウス内観光案内所で押印。
マリンハウスにパンフレットも置いてありました。
マリンハウスから歩きで第三台場へ
(けっこう距離がありますが、舗装された歩道が整備されています。砂浜経由でも行けますが、歩きにくいです。)
思ったより土塁が高く立派でした。
砲台はモニュメントらしく、当時のものではありませんが、砲台の雰囲気を味わうことができました!!

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赤い城

阿曽沼城 栃木県佐野市 (2022/08/28 訪問)

浅沼八幡宮が城跡です。
単郭の城だったとのこと。
周辺は住宅地になっていて遺構は八幡宮背後に空堀と土塁が残るのみです。
源頼朝家臣の阿曽沼広綱によって築かれた城です。
阿曽沼広綱は源平合戦でも活躍した鎌倉幕府の御家人でした。
広綱は鶴岡八幡宮より分祀し、城内に八幡宮を建立しました。
ここにも鎌倉殿の13人の幟が立っていました。

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POYO58

長野旅行PART上田城 西櫓と本丸を散策 (2022/08/18 訪問)

南大手門と南櫓、北櫓の見学を終えて、ついに県宝に指定されている西櫓に足を運びました。前回も言ったように、南櫓と北櫓は現存と言われながらも移築復元であるようですが、西櫓は一度も動かされずに当時のもののまま現在まで残っています。残念ながら中に入ることはできませんが、近くまで見ることができます。北櫓と南櫓とは変わらない形をしていて、南櫓や北櫓はこの西櫓を模したのかなと考えていました。
西櫓を終えた後、眞田神社の隣にある本丸跡に行きました。今は草原が広がっているだけですが、一部土塁や建物跡が残っています。本丸には石碑が立っていました。また西の丸には上田城唯一の水堀が残っていました。上田城は水堀に囲まれていたようですが、水堀が残っているのはこの西の丸だけでした。

ちなみに皆さんは上田城に天守閣が立っていたと思いますか?実は今それが謎になっています。天守閣が立っていたと考えられる礎石や天守台は見つかっていません。ただ諏訪原城や小諸城や松本城にはあんなに立派な天守が立っていたのになぜここには立っていないのかは不思議です。発掘調査で瓦などは見つかっているのですが、それが天守に使われていたものかはわかっておらず、謎となったままです。最新の情報を待ちたいと思います。

さて次は上田城の水堀跡に行きます。続く

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カズサン

伊豆出身伊東氏の城 (2004/10/16 訪問)

 飫肥城は曾我兄弟仇討ちで有名に成った工藤祐経の子祐時が鎌倉期日向国地頭職と成り伊東氏を名乗り支配を始めたのが始まりの様です、室町期には伊東48城と支城網を広げほぼ日向一国を支配に収めていたが島津氏との抗争は絶えず、国境の城飫肥城をめぐる攻防戦で伊東氏が勝ち取り義祐の次男祐兵が城主になるも島津氏の勢力拡大は続き戦での大敗も有り、日向を離れ豊後に逃れた。
 窮状を秀吉に大友宗麟と共に訴え、秀吉九州征伐島津征伐の軍にいち早く加わり島津征伐後、祐兵がその功により故地であった飫肥5万石に封じられた。関ヶ原も東軍に付き所領安堵、江戸期明治まで飫肥藩の治める所となった。

 18年前の平成16年10月中旬、鹿児島出張の空き時間にレンタカーで出掛け、車は観光駐車場利用。
 今回の飫肥城探訪は二度目の様な記憶ですが、駐車場近くの茶店で昼食そばを頂き、寅さんの飫肥ロケの写真が掲示して有り女将さんと寅さんの話をしたり。
 
 探訪は大手通りから大手門を潜り、大手門桝形、本丸外枡形、本丸に入り、松の丸はパス、元本丸跡、裏門の搦手、本丸内部は小学校に成って居る、本丸東虎口と土塀の裏側副柱を観察撮影、東虎口の東側には出隅の様な櫓台が東虎口を狙ってる、大手門から豫章館に入り見学、武家屋敷通り、鯉の泳いでる遊水用水を眺めて、飫肥武家屋敷の特徴飫肥石塀と上に築地が載ってる景色が建物と共に伝統的建造物群で趣風情が有り落ち付いた良い景観です。
 この後二度ほど訪ねています。
 

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チェブ

城びと未登録のお城攻め「五十子陣」。 (2022/09/19 訪問)

埼玉県本庄市にある「五十子陣」。『いかっこ じん』と読みます。
1457年~58年に山内上杉 房顕さんが築きました。
この頃、古河公方 足利 成氏さんVS関東管領 山内上杉 房顕さんの『享徳の乱』や長尾家の『長尾 景春の乱』関連の本を読むと「五十子陣」が登場します。
『陣』とありますが、ざっくり20年位、断続的に戦ってますので、館かお城の様な役割だったのではないかと思います。

国道17号沿いに『てんぐ茶屋』というレストラン、お隣に使われてない建物があります。この事務所だったか、お店だったのか分からない建物の裏に「五十子陣」の説明板があります。
建物の間に写真②の案内板がありました。
説明板や案内板は、新しい感じがしました。
が、裏の公園は草木が元気に育ち、説明板まで行けません。
なぜか、象さんの像が、、、写真③です。

因みに、「五十子陣」に向かう信号待ちで『血洗島』の地名と『渋沢栄一記念館→』を見つけました。
大河ドラマ『青天を衝け』ではお馴染みだった、血洗島だに~。(笑)
この日の目的が、お城攻めではなかったので寄りませんでしたが、何処に行っても先人達の足跡に出会える事を再確認した「五十子陣」攻めでした。

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赤い城

宇都宮城の支城 (2022/08/28 訪問)

入口に駐車場があり2〜3台駐めることができます。
そこから遊歩道がついていてよく整備されています。
単郭で周りを土塁と堀が囲んでいます。堀は二重で外側は一部残っています。
雨の後だったので内堀は一部水堀のようになっていました。
郭内は広く、周りを囲む土塁の隅は櫓台のようになっています。
宇都宮城南側の支城でした。
近くにはグリムの森もあります。
興味のある方はセットで。

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三浦の晃ちゃん

お堀に映る三重櫓 (2022/09/24 訪問)

16時半頃、現地に着きました。スタンプは、門のところで、ゲットできたのです、御城印は、16時までの販売だったので。買えませんでした。お堀に映る櫓の写真が撮れたのがうれしかったです。

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にのまる

西の丸 (2022/06/10 訪問)

菱の門近くの中村重遠大佐顕彰碑に感謝の一礼をして鷺山の西の丸へ行きました。
左手雁木の上にある武者溜り。柵の向こうへは行けませんが、西の丸の警護とともに天守に向かう敵を背後から狙う役割を担っていたそうです。ここから見る天守もかっこいいです。
300メートルの百間廊下の見学は最終入場時間が迫っていたのでゆっくりじっくりというわけにはいきませんでしたが、誰もいない静かな櫓の中をそろりそろりと歩きました。
鉄板張りの格子窓から差し込む柔らかな光と影、洗練された意匠から伝わる凛とした空気、雅やかな暮らしの残り香、長局の慎ましさ、長い年月の間に削られた漆喰の誇らしさ、櫓間の隙間の妙、頑丈な扉や石垣、石落としから伝わる緊張感…。
大天守から見下ろした姿からは想像のできなかったさまざまなものが目に飛び込んできました。

〜見学を終えて〜
姫路城が“好きなお城ランキング”で常に上位にランクインするのは、見学者に対する懐の深さの故ではないかと思いました。
歴史を全て押さえてから来るべきとか、遺構の見方はこうだとか、ここは必ず見るべきとか、少なくとも姫路城自身は全く思っていないに違いないと思いました。興味の度合いや知識の多寡、訪問の目的はひとりひとり異なります。物理的に見学が叶わない場合もあります。そこに優劣や順位はありません。他人と同じ感想を持たなくても構わない。
ファンもマニアもそのどちらでもない人も平等に受け入れてくれる度量があるからたくさんの人に愛されているのだと感じました。

おわり。

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坂元神社 (2022/09/23 訪問)

 坂元駅から徒歩約15分で、本丸跡の坂元神社に行くことできます。途中、移築された大手門等があります。神社の西側には見事な空堀がありました。土塁も少しですが残っています。

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チューリップガーデン (2022/09/23 訪問)

 チューリップガーデンとなっています。この時期はチューリップは咲いていないので訪問者は自分ひとりでした。主郭周囲に空堀や土塁が残っています。縄張り図を見るとさらに外に空堀があります。散策しようとしましたが、すごい藪で蜘蛛の巣も多く見られたため断念しました。

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いい空堀が残っています。 (2022/09/23 訪問)

 戦国時代は相馬氏と伊達氏の攻防戦があった城址ですが、戊辰戦争でも激戦地となっています。二重空堀などが残り非常に良い城址だと思います。桝形、土橋などもよく残っています。この地方では屈指の城址だと思います。ただ整備が十分ではなく藪になっている所も多く、よく見ることができません。散策するのに苦労しました。

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相馬利胤 (2022/09/23 訪問)

 相馬利胤が築き、明治まで相馬氏の居城であった城です。馬陵公園として整備されているため、あまり期待していなかったのですが、思ったより遺構があり楽しめました。土塁、水堀が多く残っていていい景観ですが、鉢巻石垣、空堀などもあり散策していて飽きません。雨の中、散策しました。予定していた時間を過ぎてしまいました。
JR相馬駅より徒歩15分くらいで行くことができます。途中に北外堀があります。

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相馬義胤 (2022/09/23 訪問)

 相馬氏の代々の居城で、小高神社を周辺に土塁と空堀の一部を見ることができます。
最近、近藤龍春の「奥州戦国に相馬奔る」という小説を読んで相馬氏に興味を持ちこの城に来ました。
JR小高駅から徒歩15分くらいです。

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古川第1小学校 (2022/09/22 訪問)

 古川第1小学校正門の横に案内板があり土塁が残っていたころの写真が表示してあります。近くの瑞川寺には、寺門風に一部改造して移築した搦手門があります。

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キンヤ

末裔の方がお住まいの居館 (2022/09/18 訪問)

この地の土豪の畑氏の居館で、県指定史跡となっています。
伊賀や甲賀の館城でよく見られるような方形の土塁囲みで堀もよく残っていました。

八上城などを巡った際、近くにあり併せて行きましたが、なかなか良かったです。

今も末裔の方がお住まいのようですが、よく整備されており遺構を残して頂き、見学もできて感謝です。

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ヒロケン

史上初の層塔型天守 (2022/08/18 訪問)

今治城は徳川家康公より伊予半国20万石を与えられた藤堂高虎公が新たに建設した、輪郭式平城です。関ヶ原の戦いの2年後に築城を開始し、約6年の歳月を経て完成しました。地の利を生かし、海水を引き入れた堀で大変珍しいお城です。一番の特徴は、海水を引いた三重の堀で囲まれ、軍港があること。城の規模は、3本の堀を含めて、一辺が約900mの正方形で、城下町は東西300m、南北500mの縄張りでした。
今治城のある地は、地盤が弱いため、杭を打ち込み、その上に石を並べるという方法がとられています。軟弱な地盤を補うため、本丸、二の丸の石垣の下に、犬走りを巡らせ城の重量に耐える目的で今治城の犬走りは造られています。
天守は、日本初の層塔型天守で積み上げ形式のため、設計と施行に手間がかからず工期の短縮が図れます。現在の今治城天守は丹波亀山城の古写真、今治城絵図、藤堂家の家譜「宗国史」などの資料を元にして城郭研究の権威者、藤岡通尾夫博士の指示を受けて再建されたそうです。

この日、宇和島を出発し大洲城をスルー(+o+)、松山城をスルー(>_<)し、向かったのが今治城でした(*^▽^*)。この日の日程が今治城、能島城(スタンプ押印のみ)、備中松山城(大松山含む)、岡山城であったことから大洲城・松山城を泣く泣く(T_T)諦めました。何故今治城にしたかというと、次の目的地能島城へのアクセスが良く30分程で能島へ到着できることと、前回今治城に訪問した際、カメラの充電切れでガラ携での撮影となり、カメラの画像と比べ小さく細長く迫力に欠けた画像となり、何時か再訪しようと考えていました。
今治城内堀を一周し、城内をくまなく散策(*^▽^*)天守、御金櫓(郷土美術館)、山里櫓(古美術館)、鉄御門(内部公開)、を一通り見学し、当時天守があったとされる吹揚神社に参拝し、今治城を満腹で後にしました。

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役所跡 (2022/09/22 訪問)

 発掘調査により8世紀前半に築かれた城柵とわかっています。石碑と案内板がありました。築地が崩壊した痕跡である土手状の高まりがどこかにあるとの情報がありましたが、どこにあるかわかりませんでした。

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斯波家兼 (2022/09/22 訪問)

 南北朝時代斯波家兼が築いたとされる城です。跡地である八幡神社に石碑と斯波家兼の像があります。近くに土塁があるとのことでしたが、今回は行っていません。

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