登城口の反対側に駐車場があり助かりました。落ち葉が滑り困難でしたが主郭部まで約700m。遺構も予想以上に良かった!
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2022/11/15 12:36
紅葉時の山城 (2022/11/06 訪問)
登城口の反対側に駐車場があり助かりました。落ち葉が滑り困難でしたが主郭部まで約700m。遺構も予想以上に良かった!
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2022/11/15 10:39
笑わない城 (2019/12/01 訪問)
「自分、不器用なんで」ーー。そんな声が聞こえてきそうな面構え。松江城(島根県松江市、2019年12月)。「国宝」という響きとは裏腹に、その表情は無骨、質実剛健、そして実戦重視。
本丸到達後、付櫓から侵入して天守にたどり着くまでのわずか数メートルに折れが4回。どんだけ、、。その間に正面、側面、背後、頭上の狭間や石打棚から徹底的に狙い撃ちされる。籠城への備えも完璧で、井戸や物資保管庫はもちろんのこと、地階、そして4階にまで箱便所がある。
本丸防衛に偏りすぎているなど、縄張りそのものに対する厳し目の評価はあるようですが、過剰と言える天守の防衛設備は資料として一見の価値あり。
では背景に何があるのでしょうか。ひとつはポスト関ヶ原の現実だと思われます。東軍勝利といえど、西軍は大坂に秀頼を温存。家康が堀尾吉晴に託した実戦向きの古式天守からは、徳川と豊臣の大一番を控えた世相がひしひしと伝わってくる気がします。
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2022/11/15 08:43
麒麟がくる紀行(京都編) (2022/10/02 訪問)
京都市内の明智光秀ゆかりの地をめぐってみました。
本能寺跡(京都市中京区元本能寺南町)
明智光秀が織田信長を討った本能寺の変の舞台。法華宗本門流の大本山で、信長の京での宿所のひとつでした。本能寺の変で焼失した後は、豊臣秀吉により現在の位置(中京区下本能寺前町)に移して再建されました。現在は高校と福祉施設になっており往時の遺構は見られませんが、西側と北東隅に石碑が建てられています。また、北西隅は消防団の納庫になっていて、本能寺の変では炎に包まれているだけに、あえてこの地に置いたのでしょうか。なお、現在の本能寺には信長公廟や本能寺の変での戦没者の合祀墓が設けられています。
粟田口刑場跡(京都市山科区厨子奥花鳥町)
山崎の戦いに敗れ、坂本城に落ち延びる途中に小栗栖で討たれた光秀の首は、まず本能寺で晒され、次いで粟田口で斎藤利三と共に首と胴を繋いで磔にされたと伝わります。刑場は東国から京への入口にあたる粟田口峠に設けられていましたが、現在では道路沿いに説明板と石碑(藪の中)が見られるくらいです。光秀に限らず多くの人々が処刑された地ですので、しばし冥福を祈って手を合わせてきました。
明智光秀首塚(京都市東山区梅宮町)
粟田口に晒された光秀の首は、数日後に蹴上あたりに埋められ塚が築かれたと伝わります。そして、江戸中期に蹴上の塚の石塔婆が白川橋近くの現在の位置に移されて、明智光秀首塚と呼ばれているんだとか。首塚への入口脇にある和菓子店「餅寅」では、桔梗紋入りの「光秀饅頭」が販売されていました。首塚は地元で大切に守り継がれているようです。
帰宅してから光秀が足利義昭を守って奮戦した本圀寺跡に行きそびれていたことに気付きました。麒麟がくる紀行(京都編)はまだ終わらないようです…。
# 「城ふぉとコンテスト」受賞の皆さま、おめでとうございます! それぞれ納得の写真ばかりで、基本的に見たまま撮るだけの私もちょっとは見習ってセンスのある写真が撮れればなぁ、などと思っております。
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2022/11/14 21:50
近世小田原城編 (2022/10/09 訪問)
【百名城62城目】
<駐車場他>各所コインPあり。
<交通手段>車
<見所>再建建造物・石垣・滑り落ちた石垣
<感想>1泊2日ついに小田原攻めの旅3城目。中世総構え編からの続き、いよいよ内部へ。馬出し門から入り→馬出し門枡形・馬出し曲輪・二重櫓跡→御茶壺曲輪→銅門→常盤木橋・常盤木門→本丸・天守内部→御用米曲輪→天守の西側を回って南側の滑り落ちた石垣の順で巡った。
二の丸多目的広場はイベントをしていて人が多かったので寄らずにした。本丸内部の展示品は小田原城の古写真をメインに、最上階からの眺望で西に見える石垣山城跡と周囲を豊臣軍に囲まれた妄想を楽しむ。
印象深かったのは再建建造物の多さ、その存在感と見応え、小田原城も昨日行った石垣山城と同じように関東大震災の被害が大きく石垣がかなり崩落してしてしまった生々しい箇所が残っていること、中世の地形や土塁を生かしつつ造り上げた城の名残が感じられる箇所が多く残ることだった。
攻城を2日に分けて結構時間がかかりましたけど、中世の圧倒的スケールの遺構の数々と近世城郭を楽しめるいいお城だった。
<満足度>★★★★☆
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2022/11/14 20:25
続日本100名城スタンプ巡りNo.2 大垣城 (2022/10/23 訪問)
北之庄城を終えて電車に乗り、安土駅で安土城と観音寺城のスタンプを押して、大垣城に向かいました。大垣城はもともとこの日のちょうど一年前くらいに行ってるのでまあスタンプ集めのためにいきました。
大垣城は築城者や築城年がわかっていませんが、歴史が詳しくわかっているのは関ヶ原合戦の時くらいから。石田三成がここを本拠地として関ヶ原に出陣しました。しかし、石田三成は敗北し、あっけなく命を落とします。勝利に終わった家康は家臣の戸田氏鉄を大垣城に入れました。戸田氏鉄は大垣城を改修し、明治まで戸田氏が大垣藩を務めました。大垣城は戦争直前まで残るものの大垣空襲で惜しくも戦災に遭い、焼失しました。天守は1959年に復元されました。
大垣城は遺構が少なく、石垣の一部が残っています。天守台の石垣はどうやら昔のものであるものの、どこまでが当時のものなのかわかりません。石垣には化石が書いてあるものがあるそうですが、時間がなかったので見ることができませんでした。櫓が3、4基ほど復元され、当時の大垣城とほとんど変わらない姿となっています。
僕は大垣城に攻城したのがもう3回目だったので、魅力さが大垣城の遺構の数などから感じられず、戦争がなければよかったのにと思いました。なるべくなら当時の遺構がもっとあって欲しかったです。
評価
遺構★
建物★★★
行きやすさ★★★
全体★★
攻城時間
30分〜40分程
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2022/11/14 18:52
日本三大山城・岩村城に行ってきました 城レベル→4 (2022/10/23 訪問)
岐阜恵那城巡り 明知城→岩村城
高取城・備中松山城に並ぶ、日本三大山城の一つで、
標高717mと、日本一高い場所に築かれた岩村城に行ってきました‼
《遠山時代》
全国山城サミットの時に登城したこの城は、
源頼朝が守護・地頭を設置した1185年に頼朝により地頭として、
加藤景廉が岩村に来て、その息子の景朝が1221年(承久3年)に岩村城を築城しました。
そして、その景朝が「遠山」を名乗り、以後岩村は遠山氏が
1221年~1572年(1571年とも)の351年間、岩村を治めることになったのです。
さらに、1570年の武田軍の信濃伊那群代秋山虎繁が東美濃に侵攻した際も
最初は上村での戦に負けるも、織田家武将・明智光廉が小田子で撃退した。
しかし1572年に遠山景任が死去すると、景任の妻で織田信長の叔母である
おつやの方に関係があるのか、織田信長の5男の御坊丸(後の織田源三郎信房)を養子にとり、
幼少である御坊丸のかわり、おつやの方が政治を行うこととなる。(女城主・おつやの方の始まり)
《武田時代》
しかし、1572年10月 武田信玄による西方侵略作戦により、
岩村城は、また秋山虎繁に攻められ、包囲され、織田軍の援軍が間に合わず、
おつやの方と秋山虎繁との結婚する条件で降伏した。
そして1573年2月末、秋山虎繁とおつやの方は結婚したこれにより、岩村城は武田氏の手に回った。
そして御坊丸は甲府におくられた。
しかしそのすぐ後に、織田信長が1万人の軍勢を率いて岩村城周辺に布陣する。
そして3月15日、馬場信春が800人で織田勢を攻め、後退した織田勢を岡部正綱他110騎の中の
若者30騎が追いかけ足軽雑兵27人をうち取った。そして岩村城は落城し信長配下の武者35騎がうち取られた
その後は武田氏が支配していたが、1575年長篠の戦いで武田軍の配下が次々と討ち死にし、武田軍が弱体化すると、
信長は嫡男・信忠に総攻撃を命じ、5ヶ月の籠城戦のすえ、武田勝頼の後詰めがこず、
落城し秋山虎繁の助命を条件に降伏。しかし秋山虎繁夫妻ら5人は逆磔(さかさはりつけ)となり、処刑された。
そして岩村城は織田信長の手に渡った。
《織田時代》
岩村城が織田の手にわたると、河尻秀隆が城主となり、岩村城の工事を開始し、今の岩村城に近い形へと作り直される。
そして1582年2月に甲州征伐が始まると、織田信長は、
信濃に近いこの岩村城に滞在し、戦争の状況を聞いた。
そして天目山で3月11日午前11時頃に勝頼ら親族が自害すると、
戦後の論功行賞により岩村城主・河尻秀隆は甲斐一国及び諏訪郡に
移封となり、その代わりに団忠正が城主となった。
しかし、武田滅亡の三ヶ月後、本能寺の変で織田信長と
織田信忠が殺されると団忠正も織田信忠と共に二条御所で戦死する。
《森時代》
その後は森長可が岩村城を接収する。
1584年、小牧長久手の戦いにより、長可は戦死してしまう
その時に岩村城は、徳川氏に身を寄せていた明知遠山氏の遠山利景により
攻められてしまうが、各務元正により退けられている
その後は、早死にしてしまった兄たちに代わり
森忠政(森長可の弟)が城主となり、その森家の家老である各務元正が城代となり、17年を費やして城を改修し、今の岩村城に作り替えた。
《田丸時代》
その後の豊臣秀吉が死亡すると1599年に森忠政が信濃松代に移封となり、田丸直昌が入城した。
しかしその田丸直昌が関ヶ原の戦いで東軍の小山評定の時、徳川家康が石田三成につくなら帰国すべしとはなし、
田丸直昌は帰国したいと申し出たところ、さすが北畠氏流と家康にほめられ、帰国を許されたため帰国した
そのため田丸は、東美濃の諸大名を味方につけるべく、郡上八幡城主と作戦を立て、尾張犬山城主(木曽代官でもある)を
味方につけたことにより、東美濃の諸大名は西軍についたのである。
その諸大名に対抗すべく、徳川家康は東美濃の豊臣氏に領地を奪われた、遠山氏をはじめ
小里氏、妻木氏、山村氏、馬場氏を派遣した。
そして西軍についていた城を次々と落とし、ついに岩村城を包囲した。
しかし関ヶ原にて西軍が敗北したと報が入ると開城し田丸直昌は夜に紛れて立ち去り、戦後の処理で、田丸氏は改易となった
《松平、丹羽時代》
田丸氏が改易となると、大給松平氏の家乗が城主となった。
家乗は城主の御殿を山頂から北西山麓に移った。
家乗が上州館林に移封となると、丹羽氏信が城主となった。
丹羽氏は五代続いたが、お家騒動で、越後高柳に移封となる。
次に入城したのは、松平乗紀で、全国で三番目の藩校である知新館を開いた。
その後は、代々大給松平氏が城主となった。
《その後》
明治維新を迎えると、岩村城の建築物は解体となり、石垣だけとなった。
藩主邸は残されていたのだが、1881年に火事で焼失した。
【城情報】
・形式 ❙山城(日本で一番標高が高い城といわれている)
・築城年 ❙1185年?
・廃城年 ❙1873年
・築城者 ❙加藤景廉?遠山景朝
・最後の城主 ❙大給松平氏
・廃城理由 ❙明治維新を迎えたため
・主な城主 ❙加藤氏→遠山氏→織田信房→秋山虎繁→河尻秀隆→団忠正
|→森氏→各務元正→田丸直昌→松平家乗→丹羽氏→大給松平氏
・遺構 ❙ 掘、土塁、石垣
・主な建築物 ❙太鼓櫓、平重門、表御門、御殿の一部
・説明看板、石碑 ❙あり
・駐車場、トイレ ❙あり
・天守 ❙なし(三の丸の三重櫓が代用か?)
・保存状態(自身判断)❙やはり六段石垣は圧巻であり、石垣がとても良い状態で残る
・城レベル |4、(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考 ❙・井戸がとても多く、水が豊富だった
❙・場所によって石垣の積み方が違い、おもしろい
❙・VRがある、昔の様子がよく分かる。
|・六段壁の横には道があり、通ることが出来る
|・霧が井は、昔、戦になったとき秘蔵の蛇骨を入れたら、
|霧が立ちこめてきたという。(蔵の収蔵品の記録に蛇骨が記載されていた)
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2022/11/14 18:49
雁ヶ沢城 群馬県東吾妻町 (がんがさわ) (2022/11/06 訪問)
標高540mの山城です。
30m位の細長い尾根山頂部の両端に祠があります。
遺構は自然地形のような竪堀と浅い堀切が二条あり
ます。無骨で地味な山城ですが、なんと御城印があ
るようです。真田昌幸の家臣、横谷左近がいた横谷
一族が城主だったようで、横田氏の家紋と六文銭が
デザインされていて、忍者タイプの図柄もあるよう
です。去年の話なので今年はあるかわかりませんが
御城印に興味のある方は貴重品だと思いますよ。
吾妻渓谷が有名のようで近くに駐車場があり利用
出来ます。廃線となった吾妻線を渡り10分も登れ
ば主郭です。
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2022/11/14 08:06
2022/11/14 08:06
後世に伝える (2022/10/02 訪問)
戦国期に西岡地域の国衆の一人である 中小路氏が築いた城館で、西山東麓の西国街道と丹波街道が併走する交通の要衝に位置します。
周囲を土塁と堀で囲んだ単郭方形の平地城館で、主郭はマンション敷地になっていますが、西辺の土塁は開田城土塁公園として整備され、駐車場奥の南東隅部にも土塁が一部遺されています。また、マンションのエントランスには開田城の復元模型と説明パネルが展示されています。
エントランスではあっても、人様の居住空間にずかずか入り込んで見学するのはちょっと気が引けるなぁ…という思いもありましたが、復元模型の外側の窓に貼られた案内表示には「自由にご覧ください」「あわせて見学してください」と重ねて書かれており、マンション建設にあたってわざわざ二か所も土塁を残し、復元模型まで設置して開田城を後世に伝えようとしてくれているんだから、遠慮するほうがかえって失礼にあたると考え、(迷惑にならない範囲で)ありがたく見学させていただきました。
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2022/11/14 05:25
布施台城(伝千葉広常の城)【城びと未登録の中世遺構】 (2022/11/13 訪問)
まず初めに【超重要】
一般のご家庭の敷地なので勝手に入らないでください。城址内で生活されており勝手な侵入が増えていてとても迷惑しているそうです。登り口付近では別の方が酪農を営まれています。一般人の牛舎などへの侵入は牛の病気を招きます。絶対に避けてください。こうしたモラルを守れない方が増えればいずれ誰も近寄れなくなるでしょう。
<本文>
千葉県いすみ市下布施にある千葉広常の城と地元では口伝されている布施台と呼ばれた舌状台地とその後背の山を要害したとした中世遺構です。布施台は前布施台と奥布施台に分かれ、奥布施台の方が目視で3-4mくらい高いように見えました。遠目に見て台地基部は切岸にみえますが近寄ってみるとこの地域でよく見受ける地層が出ていて天然の地形である可能性が高いです(写真は牛が写っているのであげられない)。布施台北西に非常に高い土塁と折れた深い堀が残っているとされていますが、藪が成長しすぎて全く目視確認することはできませんでした。山の要害部にも若干の石垣が見受けられ西の端は切岸と横堀もあるようですが、現在は激藪化して地元の方も近寄れないそうです(イノシシブヒブヒランド)。
パッと見た感じでは鎌倉時代の城郭遺構にしてはデカすぎる(というか鎌倉時代の城って見たことある?)。そして過去に見分された方のレポートを見るに戦国期にだいぶ改修されている感がある。周辺に根小屋や堀ノ内などの地名が残っており中世城郭関係の遺構であることは間違いないのだけれどなんだかモヤッとした感じがする史跡でした。
ここが千葉広常の城だというのは房総志料か房総叢書にそうした記載があって、江戸時代に江戸から来た役人が「ここは上総介の城」って言ったことが元ネタみたいです。多くの人はそれは役人の誤りだと書く人がいますが現在は消失したけれど江戸時代までは現存していた史料もあったかもしれませんし、そうした意味でも江戸時代の人が「上総介の城」というんですから千葉広常のお城でいいんじゃないでしょうか?
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2022/11/14 00:46
松( ・᷄ㅂ・᷅ )阪 (2018/07/05 訪問)
松阪( ・᷄ㅂ・᷅ )ギュー
蒲生氏郷の城🏯
高く立派な野面の石垣が本丸 二の丸を包み、見るからに堅牢な城
天守は台風で壊れたが、元は安土の様な豪華な城がそびえていた。
すごかー
あとは松阪牛か( ・᷄ㅂ・᷅ )満足
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2022/11/13 23:27
2022/11/13 22:56
2022/11/13 21:53
ニンニン( ・᷄ㅂ・᷅ )伊賀上野 (2018/07/05 訪問)
ニンニン( ・᷄ㅂ・᷅ )
伊賀上野は、築城名人藤堂高虎が築いた名城
当時は5重の大きな城の予定だけど、未完成だったらしい
でも今の天守は、カッコいいから良いなぁ
伊賀上野といえば、石垣!
日本一、二位の高さっていい
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2022/11/13 17:32
近江八幡城から思ったよりも遠い… イオさんありがとうございます。 (2022/10/23 訪問)
近江八幡城を終えて、北之庄城に行きました。北之庄城は六角氏が信長と敵対している際に観音寺城の支城として築いたお城です。
早速行こうとしましたが行き方が分からず城好きの友人(Y.K. 城びとに参加してます)と相談しました。いろいろ調べましたが結局分からず、城びとを見て投稿を見たときに、イオさんが北の丸から行かれたと書いてあったので、北の丸へ足を運びました。イオさんの投稿がなければ行けませんでした。ありがとうございます。北の丸から行こうとした時、初っ端から落ちそうになり、何度も何度も友人が「戻った方がいいんじゃない」と言っていましたが、結局30分くらい歩きました。そしたらやっと北之庄城の看板があったのでホッとしました。そこから登ったり、降りたりを繰り返していたら堀切を二つ見つけました。土橋のようなものも一つ見つけ、城の面影が感じられました。その後展望台から観音寺城と琵琶湖を望んだ後、力を振り絞って降りました。15分以上歩いたらやっとゴールが見えたのでよかったです。なかなか人もいなかったので不安ではありましたが、堀切が見れたので嬉しかったです。
評価
遺構★★
行きやすさ★
全体★★
攻城時間
1時間くらい
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2022/11/13 16:21
立派な土塁が残る館跡 (2022/11/10 訪問)
住宅地の中でありながら、これだけの土塁が残っていたことがすばらしい。墓地として使われていたことも幸いだったと思われる。土地の高低差からも濠跡の痕跡が良くわかるし、整備は良いが現状のままでも十分と思える館跡だと思います。
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2022/11/13 16:17
2022/11/13 16:13
益田氏の居城 (2022/11/10 訪問)
東西の二つの尾根に多数の曲輪があり、それに挟まれた谷には家臣屋敷があったとされているが、それを想像するとかなり大きな城だったことがわかる。二つの尾根の先まで行って帰るだけでも大変で、見学するには効率が悪い。藪に阻まれて尾根の先端部まで行くのは断念したが、必要なところにはロープが張られているなど最低限の整備がされているのはありがたい。
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2022/11/13 16:06
都之城訪問 (2022/10/14 訪問)
志布志城から車で50分くらい。駐車場の西に「脇戸付櫓門」が建てられている。
本丸跡には城郭風建築の「都城歴史資料館」(表記番地)が建てられ、広場となっている。
時間が足りず、急ぎ足で櫓門から本丸まで歩く。
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2022/11/13 16:02
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