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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:隠尾城 (2022/07/30 訪問)

井波城からの転戦です。八幡宮前空スペース(36.575528、137.013552)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、南部氏によって築かれたと云われます。
南部氏は南部遠江守宗継の弟宗治が足利直義に仕え、直義滅亡後に鉢伏山城を居城として代々続いていたそうです。
1560年(永禄3年)椎名氏は上杉謙信の援助を受けて神保氏を攻め、富山城から増山城へ逃れた神保氏をさらに追撃して五箇山に敗走させました。
隠尾城主南部源左衛門尚吉も上杉氏と戦って敗れ尚吉は討死、子の源右衛門は一時飛騨国へ逃れていたが後に戻り城跡の近くに住んだといいます。

隠尾城は鉢伏山の南中腹にある隠尾集落に築かれていたようです。
北を除く三方が急峻な地形で、北側の道路との間が堀跡と伝えられ、一部池になっています。
主郭は中央が一段高くなっています。二郭方面はやぶ状態で行けません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=千代ヶ様城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:井波城 (2022/07/30 訪問)

井口城からの転戦です。松島古城公園横(36.559581、136.974452)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、文明年間(1469年〜1487年)に瑞泉寺によって築かれました。
1481年(文明13年)福光城主石黒右近光義は、医王山惣海寺と組み井波瑞泉寺と山田川にて戦ったが敗れて滅亡しました。
これにより山田川の東は瑞泉寺領、西は安養寺領(勝興寺)となり、勢力を拡大した瑞泉寺は要害を構えこれが井波城の前身となったようです。
1581年(天正9年)佐々成政は越中の一向宗の二大勢力となっていた瑞泉寺を攻め、これを攻略しました。
その後、井波城には成政の家臣前野小兵衛が城主となりましたが、1585年(天正13年)前田利家によって攻略されました。
成政が降伏した後には前田家の管理下に置かれましたが、この時点で既に城としての戦略的価値は無くなっており、時を置かずして廃城となったと思われるようです。

井波城は現在の瑞泉寺の東にある井波八幡宮のある丘陵に築かれており、 本丸は井波八幡宮のある地で、北の招魂社のある地が二ノ丸のようです。
瑞泉寺門を入ると庭園のある臼浪水(きゅうろうすい)があり、招魂社には説明板があります。
臼浪水付近に三方を囲む土塁が有り、井波八幡宮の南、土塁上に在る櫓の様な建物は後世に建てられた蚕堂であり、石碑、案内板があります。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=隠尾城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:井口城 (2022/07/30 訪問)

城端城からの転戦です。墓地石碑と説明板前(36.544654、136.931111)に路駐しました。

延喜年間(901年〜923年)頃に、井口三郎光義によって築かれたと云われていますが定かではないようです。
井口氏は南北朝時代には南朝方の桃井直常に属し、1369年(応安2年)北朝方の能登吉見氏によって攻められ落城しました。
文明年間(1469年〜1487年)頃には今村氏の居城で、城主今村小太郎の頃に再び落城したといいます。
戦国時代末期には一向一揆の拠点となっていましたが、1581年(天正9年)佐々成政によって攻め落とされたようです。

遺構は残っておらず、水田と墓地です。「井口城址碑」石碑及び、「宗良親王御詠歌」碑、説明板があるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=井波城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:城端城 (2022/07/30 訪問)

福光城からの転戦です。公営駐車場(36.515722、136.902667)に駐車し、善徳寺山門(36.515554、136.901807)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、この辺りを治めていた土豪の荒木善太夫(大膳とも)によって築かれたと云われています。
荒木大膳は1572年(元亀3年)に城地を善徳寺に寄進して廃城となったと云われています。
善徳寺は瑞泉寺や勝興寺と共に越中一向一揆の中心として活躍した寺であり、大膳は一向一揆勢力に属していたと思われます。

唯一の遺構と伝えられていた移築大手門(36.620305、136.940774)が万福寺にあるようですが、時間の都合でパスしました。建立は1688年(貞享5年)のようです。
また、善徳寺の太鼓堂は城端城の遺構とする言い伝えが在るようです。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=井口城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:福光城 (2022/07/30 訪問)

上見城からの転戦です。石段前案内板前(36.558940、136.869418)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1183年(寿永2年)砺波山の合戦で、木曽義仲軍に加わり平家の大軍と戦い活躍した石黒太郎光弘が、福光城を築き、以来300年間石黒氏は栄えました。
1481年(文明13年)山田川で井波瑞泉寺の一向宗徒と戦って敗れ、石黒氏が滅亡したときの福光城主は石黒右近光義でした。
慶応年間(1865~68年)前村礼蔵、波多易直らが、学問奨励のため、漢学者宮永菽園、弟の半仏両人を福光に招き教えを仰いだところ、弟子が増え1869年(明治2年)にこの荒れた城址の一角に郷学所を建て「栖霞塾」と称し、地方の学問の中心としたそうです。

福光城は現在の栖霞園の辺りに築かれていましたが遺構は残っておらず、栖霞園の入口の所に説明板があるのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=城端城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:上見城 (2022/07/30 訪問)

寺家新屋敷館からの転戦です。未舗装入口(36.499594、136.883270)先の登城口付近に駐車しました。
上見城北側道路沿いに「上見城跡」説明板があり未舗装の道路が登り口付近まで続いています。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)の城主は笹村太左衛門(太郎左衛門とも)であったと伝えられています。

南北二郭で、南の曲輪は四方に土塁が巡り、東と北に虎口があります。
北の曲輪は南北に長く南端に井戸があり、東西の端には南の曲輪の土塁から延長された土塁が続いています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福光城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:寺家新屋敷館 (2022/07/30 訪問)

野尻城からの転戦です。山之内病院駐車場(36.590532、136.917631)に駐車させて頂き、碑のある「やから史跡公園」に向かいました。

築城年代は定かではないようです。
城主は南北朝時代に南朝方の有力者として活躍した越中国守護桃井直常の家臣であった田中権左衛門貞行、その子孫田中太郎兵衛のようです。越中国庄ノ城(壇城)の出城のようです。

神明社鳥居付近に説明板、「寺家新屋敷古館趾」の碑が建てられています。
東から北にかけて土塁が残っており、東外側は石垣です。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=上見城に向かいます。

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イオ

とことん江戸城(牛込門) (2022/06/24 訪問)

(続き)

市ヶ谷門から外堀石垣と思しき石材が点在する牛込濠沿いの土塁上を歩いて牛込門に到着。牛込門はJR飯田橋駅西口を出て左手すぐの交差点にあり、枡形の北隅と西隅の石垣が現存しています。東半分は道路になっていて石垣は失われていますが、富士見町教会前の歩道に枡形石垣の位置が舗装表示されています。道路の向こう側の枡形石垣とあわせて見れば、櫓門の位置も枡形の規模も体感することができ、素晴らしい史跡整備だと感心しました。また、富士見町教会前から発掘された「阿波守内」の銘のある石垣石が飯田橋駅前交番の西隣に移設されています。

飯田橋駅西口の駅前広場には江戸城外堀跡の解説コーナーがあり、様々な案内図や説明板、牛込濠と飯田濠を隔てる土橋に設けられた水位調整用の堰に用いられていた石が展示されています。また、総武線ホーム(堰が発掘された位置)でも堰の発掘調査の成果などが解説されているようです(未確認)。西口改札外コンコースにも枡形石垣や外堀土塁の説明パネルがあり、その奥には土塁が復元されているようですが、工事中のため確認できませんでした。さらに、西口駅舎2階には牛込門と外堀を望む史跡展望テラスがオープンしていますが、開館時間前のため2階には上がれませんでした…。それにしても、国史跡に指定されているにしても、四ツ谷駅(JR)、市ヶ谷駅(東京メトロ南北線)、飯田橋駅(JR)と、それぞれの駅構内外に外堀や門の解説コーナーが設けられているというのは、さすが江戸城といったところでしょうか。

牛込門の東隣、日本歯科大学と附属病院の間には旗本屋敷跡の説明板があり、附属病院の竣工までこの地にあった富永邸に由来する石碑が遺されています。旗本屋敷跡から坂を下って小石川門に向かいます(続く)。
 

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赤い城

富谷城 茨城県桜川市 (2022/07/30 訪問)

採石場の手前に城跡があります。
この会社の敷地で石碑も説明板もありません。
採石場の手前に切通状の道路があり、土塁のような部分も見られます。
土塁の先が郭のようですが藪で突入は断念しました。
私有地っぽい感じでもあり訪問時は注意ですね。

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肉球

一回りしてみました (2022/08/23 訪問)

何度か訪れている館林城ですが惣堀確認は初めてでした。
車を市役所付近の無料駐車場に停め歩いて武家屋敷、大手門跡、青龍神社、城鐘に寄り館林第一中学校を目指しました。
武家屋敷は土曜日日曜日だけ公開してます。
青龍神社には小さいですが迫力ある青龍がお出迎え。
武家屋敷や城鐘がある応声寺くらい迄なら歩いてもなんとも思わなかったのですが
この日3城目の一回り。コロナ禍で鈍った体には応えました。
行ってわかりましたが長良神社付近は短時間なら駐車できそうです。
惣堀土塁は高い所では5〜6メートルあり鉄壁さを感じます。
のちに将軍になる綱吉公のお城なかなか巨大でした。

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atsufumi

2023年大河ドラマ「どうする家康」放送決定!! (2022/08/26 訪問)

岡崎城下は大変な盛り上がりを見せておるようである。
岡崎城天守に続き、「三河武士の館 家康館」も、しばらく休館とあいなりもうした。

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もふもっふ

出世できそうなお城 (2021/11/29 訪問)

半年以上前の訪問です。

浜松城に行ってきました。
有名な徳川家康公がいたお城だったので、無知の私も興奮しました。

城の中には兜や家康の物語が人形と共に展示してありました。
中は狭いながらもぎっしりとした展示物の数々でした。

天守閣からは浜松市内が一望でき、
徳川家康公もこんなイメージで眺めていたのかなーって思いました。
そこでずっと富士山を探していたのですが見えませんでした。。
後日、浜松からは富士山は見えないと聞いて驚きました。てっきり静岡はほぼ富士山が見てるのかと思ってました。
無知で申し訳ございません。

写真を撮るのが下手ですが綺麗に取れるスポットなどもあり、楽しい時間を過ごしました。

夕方になったので駅周辺の居酒屋にいきました。
ご当地を欲張りたかったので「濱松たんと」に行きました。
乾杯の音頭が独特で出世の町ならではの掛け声「やらまいかー」で乾杯しましたっ。
(店員さん説明で「やらまいかー」はやってやろー的な意味だったと思います。)
色々店員さんが説明してくれるのでとてもたのしく
浜松餃子や三方原じゃがバター、かつおも時期だとの事で頂きました。
さすが天下人の城下町は違うなと思った時間でした。

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もふもっふ

綺麗な秋空の城とハンバーグでした。 (2021/11/29 訪問)

半年以上前の訪問です。

掛川城に行ってきました。
駅から歩いていきましたが、道は広く城に近づくにつてれ雰囲気が出てきましたが
平日かもしれませんがあまり店などはやっていない状態でした。

お城の受付でキャリーも預かって頂きました。

急な階段を上りながら見上げる真っ白な城壁の天守閣は秋空により一層かっこよく見えました。
二の丸御殿も見学する事ができ、昔の人はここでお城を見上げながら待っていたのかなぁなど思いにふけっていました。
思いにふけっていると某ドラマではないですがお腹がすいたので
静岡といったら「さわやか」との事で掛川店で頂く事にしました。
歩くと結構な距離があり、道も細いので車かタクシーをお勧めします。
ハンバーグは文句なしのおいしさでした。。。掛川城の人たちも食べたかったかなぁ~

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もふもっふ

みかんが食べたくなりました。 (2021/11/29 訪問)

半年以上前の訪問記録です。

朝早くに駿府城公園を訪れました。
まだ人が多くなく気持ちのよい公園でした。
発掘調査を外から見ることもできましたし、9時になったら中に入る事もできました。
石垣に藩の印があったりと、この掘った人はどんな思いで掘ったのかすごく気になりました。

発掘所を見て帰る際に、徳川家康公の植えたとされるミカンがありました。
訪問した時期にはたくさん実がなっていて、昔はどんな人がこれを食べていたのかなぁー、たべたいなーって気持ちになりました。。。
また関係ないですが、新幹線に乗っても赤いネットに入ったみかんがないなーって思いながらも見てました。。

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カズサン

高遠コヒガンサクラ満開の探訪 (2005/04/17 訪問)

 高遠城は軍師山本勘助の縄張と伝えられる山城でもあり、南河岸段丘の崖で三峰川に落込み南堅固の城郭、本丸を二の丸、三の丸が取囲む城郭です、城主としては武田勝頼が有名です、、織田と武田の天正10年2月攻防戦は有名ですが数千の将兵が討取られています、武田滅亡後の6月には本能寺の変で織田信長、高遠城攻めの総大将織田信忠も自刃し高遠攻めから4ヶ月後の事でした。
 関ヶ原後は保科氏が返り咲き、保科正光が秀忠三男正之を養子で迎え、正之は山形城主、会津若松城主となり会津で明治まで継承しますが戊辰戦争の悲劇を会津は迎えます。

 高遠城には二三回訪ねていますが、17年前の今回平成17年4月中旬、町内会のシニアー有志の集まりで観光バスを貸切、日帰り温泉と高遠城コヒガンサクラ花見と出掛けました。
 当日、コヒガンサクラは満開で観光バス駐車場も満車、人は混み合うほどの人・人の賑わい、桜満開と人の混雑で、高遠城の遺構は中々撮れず、高遠コヒガンサクラに目が行き、城郭投稿と言うより花見投稿と成って仕舞いました。ご了承ください。
 また南側200~300mの所に絵島生島事件の絵島囲い屋敷が復元され観光名所に成って居ります。
 

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もふもっふ

お城に行く事になった最初のきっかけです (2021/12/05 訪問)

半年以上前の訪問です。

お城に興味を持ちだしたきっかけです。なのでまだあまり写真はとっていない時期です。
ゲームから始まっています。それまでのお城のイメージは天守閣がおっきくあるイメージでしたが
城跡など場所だけが残っているのも初めてみました。
その場に何がどんな風にあったんだろうと想像するきっかけにもなりました。
周辺には国立博物館があり、上野にならぶ国立博物館です。
ゆっくりみるとかなり時間が必要ですが、貴重な資料やご当地お祭りなど色々展示してありました。
時間があればぜひ見てみてください。
因みに佐倉は医学が有名です。(長嶋茂雄さんが一番かもですが・・・)
順天堂記念館などありますのでそちらも足を延ばしてみてください。
某ドラマの撮影現場などもありますよ。

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イオ

とことん江戸城(市ヶ谷門) (2022/06/24 訪問)

(続き)

出張3日目の朝、のんびり寝ていたい気持ちもありますが、ここまで来たら外郭もめぐり尽くしたい、ということで、疲れた体に鞭打って5時に起き5時半にホテルを出て、東京メトロ南北線で市ヶ谷駅へ。市ヶ谷駅の南北線コンコース(改札内)には江戸歴史散歩コーナーが設けられていて、雉子橋から出土した石垣や南北線の工事に伴う発掘調査の成果などが展示されています。

市ヶ谷門は現在の市ヶ谷駅交差点あたりにあり、市ヶ谷濠と新見附濠を隔てる土橋が市ヶ谷門に続いていました。新見附濠側の釣り堀の駐車場からは土橋土台部分の石垣が見られる…んですが、まだゲートが閉まっている時間だったので遠目に眺めるだけでした。市ヶ谷門の枡形は撤去されていますが、市ケ谷見付交番裏手の公園に市ヶ谷門櫓台の石垣と説明板が設置されています。

公園から遊歩道になっている新見附濠沿いの土塁上を牛込門に向かいます(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:野尻城 (2022/07/30 訪問)

桑山城からの転戦です。徳仁寺山門説明板前(36.603252、136.913804)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、 城主は木曽義仲と共に平家と戦った在地豪族・野尻氏と見られています。
野尻氏は藤原利仁の後裔である斎藤氏の流れを汲むとされますが、古代の在地領主で越中国司も務めた利波臣の後裔とする説もあるようです。
少なくとも中世に越中国砺波郡で勢力を誇った石黒氏を始め井口氏や宮崎氏等と同族と考えられているようです。 
野尻氏は1183年(寿永2年)倶利伽羅合戦に参加しました。
正平年間(1346年~70年)には南朝方の有力者だった越中守護・桃井直常が越中国庄ノ城(壇城)を拠点として周辺を支配すると、野尻氏は井口氏らと共に直常の配下となり各地を転戦し、野尻城は庄ノ城の支城として機能したようです。
南北朝時代には南朝方の桃井直常の拠点の一つで、1362年(正平17年)と1369年(正平24年)に北朝方の斯波氏の攻撃を受けています。
1481年(文明13年)一向一揆に攻められ城主は降伏して落城しました。
その後は一向一揆勢力下にあった様で、廃城年代は戦国時代後期と思われています。

城址は徳仁寺境内で、山門左に大きな「野尻城址」の石碑と説明板が建てられていますが、遺構はありません。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=寺家新屋敷館に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:桑山城 (2022/07/30 訪問)

御峰城からの転戦です。林道入口(36.575530、136.864607)に着きました。

築城年代は定かではないようです。
文明年間(1469年〜1487年)頃には石黒氏の支城として坊坂四郎左衛門が城主でしたが、故あって城を追われたそうです。
1481年(文明13年)山田川で福満城主石黒右近光義並びに医王山惣海寺の宗徒が、井波瑞泉寺の一向宗徒と戦います。
この合戦で桑山城主であった坊坂四郎は、加賀衆に荷担して医王山と福光城に火を放ち、これによって石黒氏は滅亡したそうです。

時間の都合(到着予定時間を大幅に超過)で林道入口で引き返しました
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=野尻城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:御峰城 (2022/07/30 訪問)

安養寺城からの転戦です。御坊と砦分岐点空スペース(36.578265、136.806198)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)に佐々成政によって築かれました。
1584年(天正12年)〜翌1585(天正13年)にかけて前田利家との争いの中で、国境を防御する為の支城として稗田善助・青木孫右衛門が置かれたそうです。
しかし、その後の戦局の変化(豊臣秀吉との直接対決が不可避となり、佐々軍は兵力を集中させ敵を領内で迎え撃つ戦術へと移行した)に伴って放棄されたようです。

近所の方から危険だから「御峰城(土山砦)」には行かない方がいいと言われ登城は諦め、土山御坊跡の見学のみにしました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=桑山城に向かいます。

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