大分府内城というと、豊後大友氏ゆかりの城と思われている方がいらっしゃるのではないかと思いますが、それは誤りで大友氏とは全く関係ありません。大友氏の本拠は約1km南東にある大友館であり、ここは大友氏が改易された後、1597(慶長2)年に豊臣秀吉の命で「福原直高」(石田三成の妹婿)が入り築城を始めました。しかし築城半ば、福原直高は関ケ原の戦いで大垣城の守備を任されましたが敗れて自害します。代わって、竹中半兵衛の従弟の子で、九州の関ケ原では黒田官兵衛の与力であった「竹中重利」が初代府内藩主となり、1602(慶長7)年に四重の天守を完成させました(時期的に見ておそらく望楼型と思われます)。その後の正保の絵図では白い層塔型で描かれているため、竹中氏またはその後に入った日根野氏が白漆喰の層塔型に改築したのか、わざと絵図には徳川をはばかってそう書いたのか、今でも謎に包まれています。そしてその後は大給松平氏が入り幕末まで居城としました。天守は松平期の1743(寛保3)年に火災で無くなり、その他の大部分は戦時中の大分空襲(1945年)で焼失しました。
今では回りは埋め立てられて当時の面影は全くありませんが、かつては東に大分川、北は別府湾に面した位置に立地されており、その大分川の水を内堀・外堀に引き込んでいました。よって、まるで水に浮かぶような形で北側の海と東側の川の間に突き出るように天守が立っていたため、悌郭式の縄張りとなっています。火災や空襲をまぬがれた人質櫓と宗門櫓が現存し、廊下橋は1995年に再建されました。
100名城スタンプとパンフレットは、大手門の軒下にポツンと置いてありました(特に案内所などはなく、無料で開放されている所なので、ご自由にどうぞといった感じです)。
【余談】私事ですいませんが・・
実は私は若い頃大分に住んでいたので、その時は何度も府内城を訪れました。当時は本丸に文化会館という大きなホールがあり、20才の時そこで成人式があったのを記憶しています(40年も前の話です(笑))。今ではホールは解体され、跡地は隣接する市役所の駐車場、その他の部分は大分城址公園として市民の憩いの場として開放されています。10月なると大分生活文化展が開催され多くの市民が集まります。大分名物の「だんご汁」や「椎茸飯」「吉野の鶏めし」などが(有料ですが)振舞われ、よくここで食べたのを憶えています。何かとても懐かしく感じました。
今後、天守などを含め元の姿に復元するための調査・研究が今なされているようです。是非復元した姿を見たいものです。
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