みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

くらのり

大阪城 (2018/02/18 訪問)

戦国時代の石山(大坂)本願寺の跡地に豊臣秀吉が安土桃山時代に天下統一の拠点として1583年(天正11年)から築き上げた城。
城域が2㎞四方を越す難攻不落の巨城であったが、1614年大坂冬の陣で徳川家康らの大軍に外堀が埋められ、翌年の夏の陣で天守閣等が炎上し落城。
その後徳川幕府は西国・北国の64藩を動員して1620年(元和6年)から10年、豊臣秀吉が築いた遺構は全て埋没し全面的に築城し、城代を置いて明治維新に至った。現存する遺構は全てこの時代のもの。現在の天守閣は大阪市民の熱意で昭和6年に復興されたもの。

+ 続きを読む

くらのり

姫路城 (2017/12/23 訪問)

日本のお城の中でも、抜群の知名度を誇る城です。江戸時代初期に建てられた天守や櫓など主要建築物が現存しているお城であり、国宝、重要文化財に指定。
また、世界遺産にも登録されており、白壁が非常に美しく、別名を「白鷺城」と呼びます。姫路城は日本における近世城郭の代表的な遺構であり、江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の1つ。
関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって大規模な城郭へ拡張されました。2度の空襲被害にあったものの、大天守最上階に落ちた爆弾が不発弾となり、奇跡的に焼失を免れました。

+ 続きを読む

くらのり

鞆城 (2017/10/09 訪問)

前身となるのが1553年(天文22年)頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた鞆要害である。その規模・構造はよく分っていないが、1576年(天正4年)には京都を追われた足利義昭が毛利氏の庇護の下、この鞆要害で亡命政権を樹立した。
江戸時代に入ると安芸備後を与えられた福島正則により鞆要害の築城が開始され、鞆城と呼ばれ、丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。

+ 続きを読む

くらのり

宇和島城 (2017/08/26 訪問)

江戸時代は宇和島藩の藩庁となり、城跡は国の史跡に指定。中世期にあった丸串城の跡地に、藤堂高虎によって築城された近世城郭。標高73mの丘陵とその一体に、山頂の本丸を中心にそれを囲むように二の丸、北に藤兵衛丸、西に代右衛門丸を配置した平山城。東には海水を引き込んで、水堀、西半分が海に接しているので海城でもありました。
現在の天守は2代目の伊達宗利氏の独立式層塔型3重3階ですが、縄張りそのものに関しては築城の名手として知られる藤堂高虎が創建した複合式望楼型の三重天守の当時の形を活用され、建て替えられました。

+ 続きを読む

くらのり

松江城 (2017/05/07 訪問)

別名「千鳥城」と呼ばれ、現存天守は国宝、城跡は国の史跡に指定されています。小瀬甫庵の縄張りによる平山城であり、江戸時代には松江藩の政庁として出雲地方の政治経済の中心でした。山陰地方では唯一の現存天守であり、国宝指定された5城の1つになります。
標高29mに建つ天守からは近くの宍道湖を眺望できます。明治時代の廃城令によって解体、売却される予定が、地元の有志により天守閣だけは買い戻されて解体を免れました。近年では、二の丸櫓が復元され、当時の姿を取り戻しつつあります。城山部分は公園になっています。

+ 続きを読む

くらのり

月山富田城 (2017/05/06 訪問)

戦国時代には山陰の覇者と呼ばれた尼子氏が本拠を構え、そのあと170年もの間尼子氏6代の盛衰の舞台となりました。現在、月山富田城の城郭跡は国の史跡に指定。
歴代の出雲国守護職の居城であり、山陰の要衝の地となりました。天然の地形を利用して標高183.9mの月山に建てられた山城であり、最も難攻不落の要塞城と言われ、当時は「天空の城」とも言われた。
城をめぐって何度も攻防戦が行われますが、最終的に尼子氏は毛利氏によって滅ぼされ、毛利領となり、1600年以降は堀尾氏が城主となったものの、松江城に移り、廃城に。

+ 続きを読む

くらのり

山吹城 (2017/04/01 訪問)

1309年(延慶2年)頃、石見銀山が発見され、その防衛用の城として、周防・長門国の大内氏当主・大内弘幸によって築城されたとの伝承がある。標高414mの要害山上に築かれた山城で、その規模は要害山全体に及ぶ。
頂上付近に南北52m東西32mの主郭を配し、19本以上確認できる畝状竪堀群や土塁、空堀、石垣等で防衛線をなしている。なお、大森の集落に面している主郭北側のみに石垣が築かれていることから、"集落側に見せるための構築物"を築いていたためと考えられている。周囲には、石見城・矢筈城・矢滝城があり、共に石見銀山遺跡に登録されている。

+ 続きを読む

くらのり

熊本城 (2016/12/23 訪問)

別名「銀杏城」と呼ばれ、加藤清正が中施城郭を取り込み改築した平山城になります。加藤氏が改易後は幕末まで熊本藩細川家の居城となっていました。
西南戦争直前に大小の天守、御殿など本丸の建築群は焼失してしまうものの、宇土櫓などの櫓・城門・塀が現存し13棟が国の重要文化財に指定。また、国の特別史跡にも。
現在ある天守は1960年に鉄筋コンクロートで外観復元されたもの、2016年の熊本地震によって、熊本城の多くの石垣が崩落し、宇土櫓なども文化財建造物も被災したため、復旧作業が進められ、2021年3月に天守閣が完全復旧しました。

+ 続きを読む

くらのり

津和野城 (2016/11/03 訪問)

城跡は国の史跡に指定されており、別名「三本松城」「蕗城
」と呼ばれています。町の南端に位置する標高370mの霊亀山の山上にあった山城で、南北3kmに伸びる丘陵上にあり、中世に全山が城塞として使用されていました。
江戸時代には津和野藩亀山氏の居城でしたが、藩庁は急峻な山城を避け山麓に置かれていたそうです。明治時代に廃城となるものの、山上には現在でも石垣、堀切、堅堀、連続堅堀などが残っています。また山麓には馬場先櫓、物見櫓も現存しており、庭園は嘉楽園となりました。昭和46年には山上への観光リフトが完成しており、日本100名城にも選定されています。

+ 続きを読む

くらのり

松山城 (2016/05/20 訪問)

勝山の標高132mの山頂に本丸があり、西南麓に二の丸、三の丸を構え、姫路城と同じく連立式天守の広大な平山城。わが国最後の完全な城郭建築である天守は「現存12天守」の中で唯一、築城主として新藩・松平家によって建築された広大な城で、「葵の御紋」が付された国の重要文化財。日本で現存数の少ない望楼型二重櫓の野原櫓の「野原櫓」や倭城の防備手法の「登り石垣」、深さ44mにもなる本丸の井戸なども現存。
現在は城跡主要部分は公園として整備されており、天守最上階からの展望は素晴らしく、瀬戸内海なども見渡すことができる。

+ 続きを読む

くらのり

備中高松城 (2016/02/11 訪問)

城の形式は梯郭式平城で、石垣は築かれず、土塁によって築城されました。城の周囲は低湿地になっており、それらが天然の堀の役割を果たしたそうです。築城時期は未明ですか、備中守護代で三村氏の有力家臣でもあった石川氏が築いた城。織田信長の家臣であった羽柴秀吉は中国攻めの先鋒を任され、1582年4月に 備中高松城の戦いに。
周囲は沼地になっていて難攻不落とされていたため、攻城戦は持久戦となり、5月に入り城を堰堤で囲む土木工事を行い、低湿地にあった備中高松城を水没させようと企てたのです。これが世に言う「高松城水攻め」で有名なお城です。

+ 続きを読む

くらのり

備中松山城 (2016/02/11 訪問)

現存天守の中で唯一の山城で有名。そそり立つ自然の巨岩を巧みに活用した城塁の壮観は他に類がない。1240年(延応2年)秋庭重信がこの地に城を築いて以来、山陰・山陽を結ぶ要衝の地として700余年にわたる興亡の歴史を秘めている。現在の天守は1683年(天和3年)水谷氏により修築されたものであり、小松山に本丸、二の丸、三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構があります。戦に備えて建設された「詰の城」であり、普段はあまり使われていなかったと記されています。その後2001年からの平成大修理を経て往年の姿によみがえった。

+ 続きを読む

くらのり

赤木城 (2014/11/01 訪問)

城跡は「赤木城跡及び田平子峠刑場跡」の名称で国の史跡に指定。北山郷の丘陵に築かれた平山城で、標高230mに位置しています。天正17年頃に一揆勢力を抑える目的で藤堂高虎によって築城されたと言われて、主郭を中心として三方の屋根に郭群が設け、その配置は中世山城の形態をしているものの、その一方で高い石垣、発達した虎口など近世城郭の要素も見られるお城です。
慶長19年に行った北山一揆で、総勢3000人が新宮城に信攻使用としたが壊滅し、353名が処刑され、その翌年、高虎が築城した赤木城の落成披露の際にとらえられた。

+ 続きを読む

くらのり

勝連城 (2014/09/30 訪問)

勝連半島の南の付け根部にある標高60~100mの丘陵にあり、南城、中間の内、北城で構成。北城は石垣で仕切られた一、二、三の曲輪を備えており、一から三までの曲輪が階段状に連なり、一の曲輪が最も高いです。
また城の南側には南風原集落が広がり、交易のための港を備えていたそうです。14世紀初頭に、勝連按司によって築城されたと諸説。城内からは中国、元代の陶磁器が出土しており、当時の繁栄を見ることができます。2000年には首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産に登録、その中では最も築城年代が古い。

+ 続きを読む

くらのり

座喜味城 (2014/09/29 訪問)

1416年~1422年にかけて読谷山の按司護佐丸によって築城されたと言われており、城門のアーチには楔石が用いられています。沖縄戦前には日本軍の砲台、戦後には米軍のレーダー基地が置かれたので、一部の城壁が破壊されましたが、現在では城壁は復元。
2000年に首里城跡などとともに、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」としてユネスコの世界遺産にも登録され、城跡の高台からは残波岬、慶良間諸島などを眺めることができます。また、城内で演劇が行われるなど、広く利用されているため、沖縄の人々にとっては馴染み深い場所になっています。

+ 続きを読む

くらのり

今帰仁城 (2014/09/29 訪問)

沖縄本島北部の石灰岩丘陵上に位置し、琉球王国統一前に覇権を争った3国の一つで、三代続いた北山王の居城。城の創建は明確でないが、発掘調査で発見された城郭跡は12~13世
紀頃の築城で、城内からは中国、東南アジアなどの陶磁器が多く出土しており、その当時の繁栄をうかがわせます。
石垣などの整備が進み、1416年、後に琉球全土の統一を果たした中山王尚の攻撃を受けるも耐えたが、調略によって城は陥落し、北山王統は途絶えた。城の遺構は御嶽・拝所として機能・存続し、2000年には琉球王国のグスク及び関連遺産群として世界遺産へ登録。

+ 続きを読む

くらのり

首里城 (2014/09/28 訪問)

那覇港を見下ろす標高130mの丘陵地に築かれた城で、創建以来数度に渡り拡張され東西約400m、南北200mの規模を誇る。正殿をはじめ主要な建物が配置された内郭と、それを囲む外郭で構成され、琉球の島々を治め、国々と外交、貿易を展開した首里王府の司令塔として、王とその家族等が住み、華麗な王朝文化に彩られた空間であった。
焼失・再建を繰り返し、太平洋戦争で灰燼に帰し、その後1992年(平成4年)正殿等建物が再建し、2000年(平成12年)年12月、『琉球王国のグスク及び関連遺産群』として日本で11番目の世界遺産となる。

+ 続きを読む

くらのり

高知城 (2014/05/16 訪問)

関ヶ原戦の功績により初代の土佐藩主として入封した山内一豊が1603年(慶長8年)築城した。この地には、元々南北朝時代に大高坂松王丸によって築かれた大高山城という居城があったという。
1727年(享保12年)天守閣をはじめ大半の建物を焼失したが、1753年(宝暦3年)全域郭が再建され、創建当時の古い様式の姿に戻すことに成功し、特に四重六階の望楼型天守・御殿(懐徳館)・櫓・門などがほぼ完全にそろっている本丸の遺構は全国にも例がなく価値が高い。望楼型の天守閣は現存12天守の中でも比較的古い。豪壮な追手門は創建時の遺構である。

+ 続きを読む

くらのり

岩国城 (2020/11/22 訪問)

山口県下唯一の城である岩国城は、横山の山頂に要害を築きその南麓に平生の居館を構え両者を合して岩国城を構成していた。1603年(慶長8年)の春夏の頃、吉川広家が起工し、1608年に完成したが、幕府の一国一城の令により1615(元和元年)10月に惜しくも破却された。
その後350年の間山頂の城は廃墟のままであったが、1962年(昭和37年)桃山風南蛮造りの天守閣が再建した。天守からは、清流錦川に映える名勝錦帯橋をはじめ市街地や米軍基地、瀬戸内海の島々が一望される光明媚な城である。

+ 続きを読む

くらのり

吉田郡山城 (2020/11/08 訪問)

南北朝時代の1336年(建武3年)毛利時親が郡山南東に小規模な山城を築いたのが始めといわれる。16世紀中頃、毛利元就は標高390mの郡山全体を要塞化し、山頂の本丸を中心に多くの尾根に270もの曲輪を配した西日本最大級の中世山城に拡張改造した。その後、元就の孫の輝元も城の整備を行ったが、山城の限界から広島城を築いて1591年(天正19)本城を移した。
1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は大きく所領を削られ周防・長門へ移り、広島城・郡山城を含む安芸は福島正則に。江戸初期に廃城となり、石垣や土塁の一部や曲輪の跡がある。

+ 続きを読む

ページ843