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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:本篠城 (2022/07/25 訪問)

大西城からの転戦です。竜王神社向かい空スペース(34.103461、133.786200)に路駐し、登城口(34.103254、133.785297)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、財田氏によって築かれたと云われています。
南北朝時代の1337年(建武4年・延元2年)には財田合戦があり、南朝方で阿波の小笠原義盛が財田を拠点として北朝方と戦ったそうです。
天正年間(1573年〜1592年)の城主は財田和泉守常久で天霧城主の香川氏に属していました。 長宗我部元親は藤目城の斎藤氏を一旦は降したが、十河存保に藤目城を奪い返されてしまいます。
1578年(天正6年)土佐軍は5,000の兵を率いて本篠城を取り囲みます。籠城する兵は財田常久をはじめわずか200だったそうです。
常久は天霧城の香川氏に再三援軍を求めたが、香川氏は援軍を派遣せず、常久は城から打って出て土佐軍の横山源兵衛に討たれました。
その後は、長宗我部氏の家臣中内藤左衛門が城主となりましたが、豊臣秀吉の四国征伐で城を棄てて土佐へ逃れ廃城となりました。

登城口に説明板と石碑があり、その脇から山道が主郭へ通じています。
右ひざ痛の為、登城口で引き返しました。
財田和泉守常久の墓の道標(34.105031、133.782984)がここにあり、この道を下っていくと民家の裏側の畑脇に御堂があるようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=丸山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:大西城 (2022/07/25 訪問)

白地城からの転戦です。御嶽神社前(34.030735、133.808688)に路駐しました。
そこから石垣(34.031182、133.809074)までは、すぐです。

1221年(承久3年)小笠原長経によって築かれたと云われています。
1221年(承久3年)承久の乱で戦功のあった信濃の小笠原長清が、阿波守護に任ぜられると長清の子長経が守護代として下向し築城しました。
南北朝時代になると小笠原氏は白地城の大西氏と共に南朝方として戦ったが次第に南朝方が不利となると和議を結び、寛正年間(1460年〜1466年)に小笠原義長の代に芝生城へ移りました。
その後小笠原氏は三好氏に改姓して勝瑞城に移り、大西城には一族である大西氏が入りました。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の四国征伐により長宗我部氏が破れると、蜂須賀家政が阿波国の領主となり、阿波9城の一つの支城として整備しました。
牛田氏、中村氏が城代として入りますが、1638年(寛政15年)一国一城令により廃城となりました。

大西城は現在の池田幼稚園一帯に築かれていて、幼稚園の下に石垣が残っています。阿波9城のひとつです。
御嶽神社の前に、阿波9城の頃の四百年前に植えられた天然記念物の城郭並木(三好市指定文化財)があり、説明看板が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=本篠城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:白地城 (2022/07/25 訪問)

轟城からの転戦です。「あわの妙」ホテルの駐車場(34.015687、133.780920)に駐車させてもらいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代前期に近藤氏によって築かれたと云われています。 近藤氏は庄官として京から来ていたが次第に土着し大西氏を称したようです。
南北朝時代には白地城を中心とした一帯は大西氏が支配し、阿波の守護大名である細川氏に従いますが、戦国時代には、細川氏から実権を奪った三好氏に服属しました。
1577年(天正5年)四国統一を狙う長宗我部元親に攻められ、城主大西覚養は讃岐国麻城へ落ち延びました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国攻めの際には長宗我部氏の防衛拠点として使われ、長宗我部氏が戦いに敗れて土佐へ退いた際に廃城となりました。
廃城後、地域の拠点としての役割は、近くの大西城が担うこととなりました。

大西神社の背後に土塁跡とされる土盛がわずかに残っており、大西神社右に白地城址碑があります。
「あわの抄」ホテル中央植え込みに説明板があり、入口のバス停はそのまま『白地城址』(写真撮り忘れました)です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大西城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:轟城 (2022/07/25 訪問)

松尾城からの転戦です。ホシザキ四国㈱さん前の空地(33.990689、133.590473)に駐車しました。駐車禁止場所なので早めに戻りました。
そこから、登り口(33.990183、133.592187)まで徒歩2~3分で着きます。

築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)に信藤周防守正国によって築かれたと云われています。
その後、信藤氏が七代続き、享禄年間(1528年〜1532年)に信藤周防守正親が下野して廃城となりました。
1574年(天正2年)大西備中守元武によって城が修築されその居城となりました。その後、仏殿城主河上但馬守安勝と兵火を交え攻略したといいます。
1577年(天正5年)松尾城主の真鍋大炊介通近が長宗我部氏に通じ、大西元武は長宗我部軍と戦ったが敗れ、山川国秀の屋敷へと逃れたが、敵に取り囲まれ自刃して果てたそうです。

駐車場所から国道192号を少し歩くと、右に登る坂道があります。
登ると二股になっているので、自動車道の右側を登って階段を上がると、二の丸北東隅に出ます。城跡碑が建てられています。
轟城にはまだ本丸と南郭がありますが、急こう配の坂道に痛めた右ひざが悲鳴を上げている為、攻城は二の丸のみで撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=白地城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:松尾城 (2022/07/25 訪問)

渋柿城からの転戦です。本日は攻城予定の城が多く轟城に行く途中に、説明板(33.968569、133.544814)の写真のみ撮って攻城を断念しました。

詳細は不明ですが、戦国時代、真鍋大炊介通周の居城であったそうです。
1577年(天正5年)長宗我部方となった真鍋通周は轟城主大西備中守元武兄弟の攻撃を受けたが、本城周辺での激戦の末、敗走させました。
1685年(天正13年)豊臣秀吉の四国攻めに際し、小早川隆景の侵攻を受け松尾城は落城、廃城となりました。

攻城する時間がなく、カーブミラー脇の説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=轟城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:渋柿城 (2022/07/25 訪問)

宿泊先のホテルルートイン新居浜からです。墓地手前の空スペース(33.9522649、133.446004)に駐車しました。
そこから、墓地左を50mほど進み沢を渡って左に登り、100mほど先を鋭角に曲がって登って行きます。

詳細は不明ですが、河野氏の部将・薦田(こもた)氏が築城したとされます。
1577年(天正5年)薦田治部進義清は松尾城主・真鍋大炊介通近を助けて野々首合戦で大西備中守元武を攻略しました。
1582年(天正10年) 長宗我部元親の伊予侵攻の際、攻められて降伏しました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で、豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景軍が伊予に侵攻しました。
渋柿城主であった薦田義清は金子氏とともに高尾城に立て籠もり、野々市原で小早川軍と戦って討死したといいます。
渋柿城も小早川軍に攻められ落城し、廃城となりました。

登山道を登って行くと横堀、その西端および東端に竪堀があります。
主郭は山頂にあって南北に長く南端から東側に掛けて土塁が巡り、西側面には一部石積が残されています。
下山時に迷子になってしまった。駐車場所のGPS座標をたよりになんとか辿り着けたが、前日痛めた右ひざを悪化させてしまった。本日の山城攻城は無理そう。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=松尾城に向かいます。

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ぎりょう

最上氏時代の築城、後に六郷氏二万二千石の居城となる (2022/08/14 訪問)

所用で山形県遊佐町を訪問したついでに、足を延ばして秋田県由利本荘市に。市内中心部、旧三ノ丸跡地に由利本荘市役所が建っており、その南側比高30mほどの独立丘陵が本荘城の本丸・二ノ丸である。
この城は由利郡が山形最上氏の所領であった慶長8年(1603)、秋田佐竹氏に備える目的で最上氏家臣楯岡氏によって築城された。その後本多氏を経て元和9年(1623)に六郷氏が入封して近世城郭に改修し維新まで続いた。戊辰戦争時は久保田藩同様新政府軍に組みしたため庄内藩に攻められ、11代藩主政鑑(まさかね/まさあきら)が城に火を放ち秋田に撤退したと云う。
遺構は曲輪、三ノ丸北側の水堀、虎口、土塁が残っている。特に本丸土塁は高さも有り中世城郭の縄張を感じさせる。また三ノ丸には精巧に復元された大手門があり、水掘越しに見る城址の景観はなかなかの雰囲気。
駐車場は本荘公園駐車場か市役所駐車場が利用できる。

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マダム卑弥呼 

5回も行った

5回目でようやく石垣(湖水)のをみた。

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マダム卑弥呼 

一乗谷の次の日に

行きました。かわいいお城だけど、高所恐怖症、石段から降りれなくてどうしようかと思った城。

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朝田 辰兵衛

“THE 山城”を感じられます。 (2021/10/08 訪問)

山城感ハンパなく,ワクワクしっぱなし。私の他にも登城者がおられましたが,コロナ禍ということもあり距離を置きました。
なお,釣井の壇から姫の丸間で巨木の倒木があり,通行禁止となっておりました。

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おっちゃん

佐賀城公園本丸歴史館周辺図 (2017/12/02 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

大村公園案内図 (2017/12/01 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

宇土城跡案内図 (2017/11/05 訪問)

現地案内板より抜粋

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城好きのメガネ

「長久保城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
長久保城は戦国時代に小田原北条氏・北条氏綱が築城したとされる。国境に位置していることから今川氏・武田氏と度々争いが起きた。小田原征伐後には廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR長泉なめり駅 徒歩20分

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カズサン

甦った新発田城 (2005/10/09 訪問)

 新発田城は事前の発掘調査結果、幕末頃の多く残ってる古写真、古文書、古絵図などの資料が有り、古写真と建物のコンピューターグラフィックスとの検証も重ね、平成16年(2004年)7月に本丸に木造復元三階櫓、辰巳二階櫓が完成し、辰巳櫓のみ7月より一般公開されて居る。尚、三階櫓はイベントなどに特別公開が有る様ですが、遠方、時間に問題があっていまだ登閣探訪して居ません、何時か登閣したい。

 平成16年7月に「甦る新発田城」との小冊子が新発田市、新発田市教育委員会より発行されたとの情報が有り、生涯学習課に連絡し取り寄せました。
 小冊子の三階櫓、辰巳櫓の写真、記事を眺め読んで居りましたが、訪ねたい願望が湧きたち翌年の平成17年10月、二泊三日で新潟県の旅行を家内と行くことに、当日新発田市に泊まり、翌日、初の新発田城登城、弥彦山、越後一宮弥彦神社、直江津泊まり、高田城、親鸞聖人開山浄興寺を車で回りました。

 新発田城の近世は慶長3年(1598年)上杉景勝会津転封により越後に入った堀秀治の与力大名として溝口秀勝が新発田に6万石で入封、関ヶ原もしのぎ明治までの約260年間新発田を治政した。(幕末期11代直溥の時に5万石から10万石に加増と成ってる)

 車は三階櫓に近い南西側トイレのある小駐車場を利用し、即三階櫓を外より見学、西隣、北奥は陸上自衛隊、屋根には三尾の鯱が載り、白漆喰塗籠、腰には海鼠壁の美しい木造復元三階櫓が殿と構えています、本丸南側は石垣造り、濠が本丸を廻っていたが現在は三階櫓から南側の鉄砲櫓、表門、木造復元辰巳櫓までしか残って居ない。
 濠越し鉄砲櫓跡に移築された現存二の丸隅櫓が腰に海鼠壁に施されて居ります、眺めて土橋を渡り現存表門を潜り見学、正面に初代藩主溝口秀勝の像がお出迎え、木造復元辰巳櫓に登閣、檜の木肌、香りがまだまだ香しい、一階二階と回りしばし説明の方と会話を楽しむ、降りて濠越しに辰巳櫓を見学撮影。
 表門の南側に忠臣蔵で有名な堀部安兵衛(中山安兵衛)の像が立って居ます、安兵衛は初代藩主秀勝の曾孫との事、現地で初めて知りました。
 2時間ほどの見学散策でしたがまだまだもう少しゆっくり復元三階櫓辰巳櫓を眺めていたい気持ちがあり、後ろ髪をひかれる思いで次の越後一宮弥彦神社、弥彦山を目指しました。

 後に新発田城には桜の頃に桜と三階櫓、辰巳櫓、鉄砲櫓(二の丸隅櫓)の写真を撮りたく2回ほど、村上城登城に合わせ、また清水園、足軽長屋見学と5,6回ほど訪ねて居ります。
 また、北側の古丸から細く伸びた曲輪の南西端に土橋門跡が有り、近年土橋門の復元計画が立ち上がってるとか、是非とも実現し,
期待して待って居ります。

 

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橋吉

再仕置軍最後の戦い (2022/08/08 訪問)

エントランス広場には20台ほどとめられる駐車場があります。
ここは三ノ丸の跡にあたります。
ガイドハウスで続日本100名序スタンプを押すことができますし、資料やVTRも用意されています。

深田堀を進んで、大手まで歩きました。
ここは、現在道路になっていますが、かつては堀でした。

二ノ丸と本丸
あちらこちらで工事が行われていましたが、部分的に見学は可能です。

所要時間:53分

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イオ

とことん江戸城(北の丸) (2022/06/23 訪問)

(続き)

出張2日目の仕事を終えると、ホテルで着替えて江戸城内郭めぐり再開です。九段下の駅をおりて 坂道を 人の流れ追い越して行けば……左手の牛ヶ淵越しに見事な鉢巻腰巻石垣が見えてきました。田安門に続く土橋の西側にも千鳥ヶ淵沿いに鉢巻腰巻石垣が見られます。

田安門は高麗門と櫓門からなる立派な枡形門で、後に御三卿・田安家の屋敷門となりましたが、現在では北の丸公園の入口であり、日本武道館に行く時に通る門になっています。この日も平日の夕方ながら人通り(特に若い女性)が多いなぁ、と思っていたら、案の定、ロックバンドのライブ開演前でした。

時間があれば北の丸公園をのんびり散策したいところを吉田茂像の脇を抜けて清水門へ。後に御三卿・清水家の表門となる高麗門と櫓門で構成される枡形門ですが、たとえ櫓門を突破しても180度ターンさせられた挙げ句、微妙に歩きづらい石段を上らねばならない堅固な造りになっています。

清水門を出て清水濠沿いに雉子橋門に向かう前にふと振り向けば、千鳥ヶ淵でも澄んだ空でもありませんが、牛ヶ淵の向こうの屋根の上に大きな玉ねぎが見えました。

…ということで、江戸城内郭(皇居部分を除く)はこれでひとめぐり。内郭だけでも充分過ぎるほど満足ですが、せっかくの機会なので、引き続いて外郭も時間の許す限りめぐってみようと思います(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:金子山城 (2022/07/24 訪問)

生子山城からの転戦です。滝の宮公園駐車場(33.947084、133.277608)に駐車し、第一展望台(33.9486648、133.2765986)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に金子氏によって築かれたと云われています。
金子氏は桓武平氏で武蔵七党の一つ村山党の庶家。村上頼任が武蔵国入間郡金子郷に居住して金子氏を称したことに始まるといいます。
頼任の子、金子十郎家忠は武勇に優れ、源氏に味方して各地を転戦し軍功を挙げ、恩賞として伊予国新居郡の地頭職を得ました。
武蔵国より伊予へ下向したのは建長年間(1249年〜1256年)の金子広家と云われ、金子山城はこの広家によって築かれたとみられますが、慈眼寺の案内板では広家の孫頼広がはじめて当地にきて館と城を築いたと記しています。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景が伊予に侵攻します。
高峠城主石川虎竹丸はまだ幼く、金子備後守元宅は後見人として高尾城に籠もり、金子城には弟金子対馬守元春を置きますが、兵力に勝る小早川の軍勢に元宅は野々市原で討死し、金子城も落城しました。

現在は滝の宮公園として整備され、主郭のあった第一展望台に石碑が建っているのみで遺構はありません。
攻城時間は10分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:生子山城 (2022/07/24 訪問)

西条陣屋からの転戦です。別子銅山記念館駐車場(33.921741、133.308901)に駐車し、えんとつ山入口(33.920289、133.308705)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に松木通村により築かれたと云われており、以後松木氏歴代の居城でした。
1369年(正平24年・応安2年)河野氏の一族一条修理俊村が七百余騎を率いて生子山城に立て籠もり、細川氏の軍勢と度々戦ったが、敗れて落城しました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐では、伊予へ侵攻した小早川隆景の軍勢を迎え撃つ為、城主松木三河守安村は金子山城主金子元宅に従い高尾城へ入り、野々市原の合戦で討死しました。
生子山城には鈴木四郎太夫重保ら少数の兵しか残っておらず、ときを同じくして落城したといいいます。

高尾城での右ひざ負傷により登城を断念し、えんとつ山入口を確認して引き返しました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=金子山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征5日目:西条陣屋 (2022/07/24 訪問)

土居構からの転戦です。西条高校の大手門前空スペース(33.920249、133.179742)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1636年(寛永13年)伊勢神戸城主一柳直重が30,000石で入封し築城に着手したものと思われます。
西条藩は一柳直盛が68,000石に加増され、伊勢国神戸から伊予国西条へ赴く途中に大坂で死去したため、嗣子直重が30,000石で西条藩を継ぎ、次子直家が伊予国宇摩郡、周布郡と播磨加東郡小野で28,000石を領し川之江藩となり、第三子直頼が伊予国小松で10,000石を継いだ。
一柳氏は1665年(寛文5年)領民を苦しめ、幕府に対して不届きがあったため、3代一柳直興のときに改易となり、直興は加賀国金沢藩主前田綱紀にお預けとなりました。
その後、一時天領となりますが、1670年(寛文10年)紀州藩 徳川頼宣の次男頼純が西条藩に入封し、以後10代続いて明治に至ります。

西条陣屋は現在の西条高校の敷地となっています。
東に土橋が架かり大手門が現存しており、主郭の周囲を水堀が巡っています。
大手門付近は駐車禁止なので速攻で撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=生子山城に向かいます。

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