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モト

曲輪、空堀が確認でき縄張りがイメージできます (2022/05/24 訪問)

川中島の戦いで上杉軍の拠点として活躍したそうです。
読み仮名がわからなかったのですが、まさかみかぶりとはなかなか読めませんよね。
曲輪や空堀などから城の全体図である縄張りがイメージしやすい城跡でした。

車が10台くらい停められる駐車場がありました。
そこから城跡を目指して本丸までは15分くらいでした。
途中、鎧井戸があり雰囲気があります。
さらに奥に進むと土塁とわかる遺構や少し広くなった場所に池、曲輪、空堀がありました。
空堀に挟まれた本丸への道のりは雰囲気満点です。
また、本丸に吹く風は気持ちよく、景色もきれいでした。

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ぴーかる

松倉城 (2022/05/22 訪問)

【松倉城】
<駐車場他>登城口前10台程度駐車可能
<交通手段>車

<見所>曲輪・門跡
<感想>1泊2日富山城の旅10城目。松倉城は越中三大山城の1つで、南北朝時代の1335年、普門利清(井上俊清)によって築城されたとされる。南北朝時代後は椎名氏の居城となり、松倉金山を擁して政治・軍事の中心地として栄えた。戦国時代には城主の椎名康胤が、上杉氏から武田氏に寝返り、上杉謙信に攻められたが1度目はこれをを防ぎ、1572年信玄の西上作戦時には上杉氏に敗れ開城した。その後は上杉氏の家臣河田長親→須田満親が城将を務め、佐々成政→前田家の治領となり廃城となりました。
 城跡入口まで車で行けます。主郭は南北に広く、最奥に巨石群があります。巨石群から立入禁止となっていました。主郭の奥に堀切がありもう一つ曲輪があるようです。主郭から北に4郭まであり3郭4郭は土居があります。駐車場から下っていくと大見城平という広い曲輪群があります。現地の説明板が剥がれて読めないのですが武家屋敷跡のようです。大見城平に残る城門跡は石積みの残る城門跡で見応えあります。
 松倉城群の中心部としてはやや小さい印象ですが、このあと投稿する獄門原や武隈屋敷跡の遺構や城びと登録・未登録の支城群を合わせるととてつもないスケールでとても1日で巡りきれない見応えある場所です。

<満足度>◆◆◆

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赤い城

子孫の方がお住まい (2022/06/26 訪問)

早朝の訪問、個人宅なので門のところの写真を撮って引き上げようと思っていると散歩中の近所の方に声をかけられました。
日課としている散歩ルートとのことで一緒に敷地内に入って頂けました。
城跡には立派なお宅が建っていて四方を空堀が囲んでいます。
西側の堀を見学、北側には土塁もありますが、ここから奥は遠慮しておきました。
南側の門の脇にも空堀がありました。
川島氏館とも呼ばれ、見学はウエルカムっぽいですがやはり一声かけてからにしましょう。

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カズサン

岱崎出丸跡 (2022/05/23 訪問)

 岱崎出丸は岱崎砦とも言われ、山中城本郭群の南西尾根上を西側の旧箱根街道を進軍する豊臣軍を狙撃するように約400m程の細長い出丸です、内先端から200m程に畝掘りで有名な一の堀が出丸切岸下に備わっています。 
 先端からすり鉢曲輪、すり鉢曲輪の東対に武者溜り跡、中間に細長い岱崎砦がありすり鉢曲輪側に見張台、北側にも見張台、其の前面西向きに長い土塁が控え西を狙って居ます、中間から北側に御馬場曲輪長く二段に備わっています、御馬場曲輪の南側に深い切岸と一個の畝が有る畝掘りで東西を守ってる。
 土塁上から切岸、一の畝掘りの眺めが圧巻です。 草も刈られ綺麗に清掃されて気持ち良く探訪出来ました。
 
 山中城13編の投稿拝読頂き有難うございます。

 次は越境して小田原城に向かいます。
 

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名鉄お城めぐり切符

 名鉄の駅で「名鉄お城めぐりきっぷ」のポスターを見つけました。名古屋近郊の城(岐阜城、犬山城等)の入場券や割引券などがついた1日もしくは2日の名鉄電車のフリー切符ということです。詳細はHPをみてください。公共機関で名古屋周辺のお城巡りをされる方の参考になればと投稿させていただきました。

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織田信興 (2022/07/09 訪問)

 織田信長の弟信興が一向門徒との戦いで戦死したと伝わる城です。城址碑と案内板がありました。
 周囲は森川花はす田というレンコン畑で、訪れた日は「蓮見の会」というイベントが開催されていて多くの人が楽しんでみえました。蓮の花がきれいに咲いていました。ちなみに隣の城址碑のある富岡神社(蓮の畑の先に見えている林の所)を訪れていたのは自分ひとりでした。

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橋本一巴 (2022/07/09 訪問)

 織田信長の鉄砲師範として知られる橋本一巴の城です。遺構はありませんが、石碑が立っていました。

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雨の中 (2022/07/09 訪問)

城址碑がありました。遺構はないようです。

この日は天候が不安定で雨の中写真を撮ってさっさと退却しました。

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カズサン

三の丸跡と武将の墓 (2022/05/23 訪問)

 三の丸跡は本丸駒形諏訪神社南下から本丸、二の丸南下、箱井戸、田尻の池、三の丸堀、三の丸駐車場間を南側を通る旧箱根街道沿いに囲まれた地域に在ったようです。
 
 現在遺構として残ってるのは、西側の三の丸堀で縦に畝を設け東側は水堀、水路、西側は長い空堀、中の畝が登城路で二の丸、西の丸、西櫓への通路。水堀の続きとして、田尻の池、箱井戸が残って居ます。
 
 又三の丸跡には宗閑寺に小田原征伐山中城合戦の両軍戦死者の墓が有ります、山中城将松田康長、副将間宮康俊、隣に少し立派な豊臣方攻撃軍武将一柳伊豆守直末と並んで祀られて居ます、秀吉は勇猛な一柳伊豆守が戦死した事を大変嘆いたと言われて居り、美濃出身の同輩である堀尾吉晴、田中吉政などは関ヶ原後、数拾万石の太守と成って居り惜しまれる戦死でした。
 
 三の丸跡旧箱根街道を歩いていると路傍に芝切地蔵尊が土塁櫓台かと思う所に有ります、その傍が南櫓跡、大手門跡とグーグルマップの史跡マークに出て居ましたが、案内板等は確認して居ません。
 
 三の丸駐車場に戻り山中城本郭は終了し、岱崎出丸、岱崎砦の探訪に向かいます。
 
 

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AIAI

長島城に行ってみた (2022/06/26 訪問)

行ってみたら黒松しか残ってないなんて…


残念すぎる。


駄菓子菓子、ここがとても攻略し難い所だというのは実感出来ました。

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縄張り図 (2022/07/02 訪問)

鵜森神社境内に浜田城および当地の歴史を示す説明板が並んでました。城びと先達の投稿になかったので、縄張り図をアップします。
鵜森神社を囲んで、土塁と堀跡がありますが、公園内を西に行った所にも低い土塁あり。鵜森神社境内が本郭で、それを囲む外郭跡なのかも。

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チェブ

名古屋市の太っ腹と金ぴかシャチホコの お尻。 (2022/05/05 訪問)

お城と言えば「名古屋城」を思い浮かべる方、多いんじゃないでしょうか。
「名古屋城」、皆さんの投稿も多く、大人気です。

4回目の「名古屋城」。初めて知った事が、
『土曜・日曜・休日を除く駐車禁止』。
ゴールデンウイークのこの日は、路駐OKと言うわけです。ただし、『8ー11』ですので、ご注意を。
大人気の「名古屋城」の駐車場は満車。ぐるっと路駐できる場所を探し駐車した場所は、西北隅櫓の水堀沿いです。
西北隅櫓は、「清洲城」から移築したと伝わります。良い場所だ~と喜んでましたが、正門まで遠いので簡単には攻め込めません。
この標識がある所は、車でいっぱいです。
でも、路駐できなかったら『名古屋城』周辺は常に渋滞してるのでは?
名古屋市は太っ腹だと思いました。
『名古屋城』はたくさんの人が天守を見上げたり、堀を覗き込んだり、人の波に乗ってゆったり見学しました。
シャチホコを、目に焼き付けようと上ばかり見て思ったのですが、私 シャチホコのお尻ばかり見ているみたい、、、と。
「名古屋城」の100名城スタンプも順番待ちです。小学生を含む何組かの御家族が、スタンプ集めの1城目を押してました。
お互い、楽しみましょう。とエールを贈り、金シャチ横丁『義直ゾーン』へ。こちらも大人気で、行列と完売のお店ばかりです。楽しみにしてて何も食べてない。
、、、いつもの事です。
「名古屋城」近くのラーメン横綱に駆け込みました。
東京では見ないチェーン店です。調べたら京都が発祥でした。無料の九条ネギを山盛りにして、いただきました。
パワーだけは全快です。
4回目にして押した、「名古屋城」スタンプ。次の来城は当分 先だと思います。
その時は『やっとかめ~』とお尻を見上げたいです。
『やっとかめ』=『久しぶり』なんですって( ´∀`)

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響ちゃん

神指城跡 (2022/06/25 訪問)

コインランドリーで靴を乾かしている間に寄ってみたぽい。サンダルなので近くで見学だけっぽぃ

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響ちゃん

雨上がりの早朝に訪城 (2022/06/25 訪問)

山形へさくらんぼを買いに行く途中に立ち寄り、三曲輪から大手口へ向かい、そこから本曲輪へと攻めてみたぽい。色々な構造見て妄想し興奮さめやらぬが、雨上がりの濡れた草木で下半身はずぶ濡れになり、この後訪城予定の柏木城跡は中止したっぽぃ

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カズサン

本丸・天守台を護る北の丸 (2022/05/23 訪問)

 北の丸へは本丸北高土塁と天守台の進入路を北の丸木橋を渡り入ります、本丸、天守台の北側に構え周囲は土塁が廻り、西の丸から元西櫓、二の丸、本丸天守台の北側を貫く畝掘を含む横堀が北の丸の南に続きます、更に直角に南の三の丸に流れ落ちています。
 北の丸の北側にも土塁切岸下に横畝堀が東尾根下まで降りています、東は崖谷筋に落ちています。
 虎口が西から長い帯曲輪への西虎口、南の北の丸木橋への虎口、東に降りる帯曲輪への虎口と三ヶ所在ります。
 北の丸内部は芝で綺麗に清掃され気持ち良い探訪が出来ました。

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カズサン

天守櫓跡 (2022/05/23 訪問)

 本丸の北東角に一段高く天守台、天守櫓跡と構えている、天守櫓跡の北裏は二の丸、本丸の北裏から東に伸びる大横堀が天守台北東角から竪堀に代わり南へ直角の降りる、各堀とも案内パンフレットには畝掘りの様に描けれて居ます。
 北側には北の丸が控えて天守櫓、本丸を守って居ります、丁度環境整備の女性の方二人が落ち葉掃き清掃をやって居られ、お礼と感謝を込めて二三言葉を交わしました。綺麗に整備された山中城を探訪できるのは、整備保全の方々のお陰です。
 天守台、天守櫓跡は南側からの登城路虎口、天守台内側は二段の様な造りで中心基壇に井楼櫓か重層櫓が立って居り、四辺周囲は狭い帯曲輪が在った様で、発掘調査では建物跡が見つかって無いが推測されると、天守櫓跡解説板にに記載されて居ました。
 天守櫓跡の南側に矢立ての杉が巨木で立って居り山中城の四百数十年の流れを観ているようでした。
 

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イオ

移築建物めぐり (2022/06/05 訪問)

江戸中期、越後国村上から鯖江に移封した間部詮言が幕府代官所跡に設けた陣屋で、間部氏のもとで明治まで存続しました。鯖江藩は七代・間部詮勝の老中就任を機に城主格となり、幕府から築城許可を得て天守建造を計画しましたが、実現はしませんでした。

鯖江陣屋近くの歴史の道(奇数月は東側、偶数月は西側の道路脇に駐車可)に車を駐めて登城開始。歴史の道西側の古町公園には鯖江藩陣屋の説明板が設けられています。古町公園から南西に徒歩2分の屋形町児童公園あたりにかけてが陣屋跡とされ、児童公園には陣屋内にあった稲荷社が移築されています。南に徒歩7分の萬慶寺は藩主・間部氏の菩提寺で、裏門として陣屋の御用屋敷門(赤門)が移築されています。東に徒歩5分の松阜神社には陣屋内にあった受福堂御門が移築されています。受福堂は藩祖・間部詮房と鯖江藩初代・詮言を祀っていましたが、廃藩により萬慶寺に移築された後、かつての松阜御殿跡地の松阜神社に再移築されたんだとか。松阜神社から北に徒歩1分には鯖江藩の家老職を代々務めた植田家の長屋門が現存しています。

また、幻となった築城計画では天守の設計図まで作成されていたようで、その設計図に基づいて作成した天守の模型が鯖江市まなべの館に展示されているようですが、時間の都合もありまたの機会に。
 

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たまゆら

全国唯一 (2022/07/01 訪問)

鉄板張り天守が姿を現しました。今はまだ本丸には入れないので、8月のリニューアルオープンが楽しみです。

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赤い城

江戸幕府の陣屋 (2022/06/19 訪問)

新八柱駅から徒歩で3分位、日本の道100選のさくら通りに碑が立っています。
また近くの門前公園に説明板がありました。
説明板の後ろに高台があり、住宅地になっているところから先が陣屋の敷地だそうです。
陣屋は結構広い範囲に渡っていましたが遺構はありません。
江戸時代の陣屋で主に小金牧などを管理していました。
市内には野馬除けの土塁も幾つか残っているようです。
桜のシーズンにも行ってみたいですね。

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小城小次郎

現存の門も見に行こう (2022/01/26 訪問)

桑折家長屋門側から登城するケースが多いと思うが、南の搦手側に立つ「上り立ち(のぼりたち)門」は天守以外で唯一残る現存建築物。薬医門なので城門っぽくも見えないが忘れずに見て行ってあげよう。

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