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チェブ

城びと未登録のお城攻め「大久保石見守長安陣屋」 (2022/06/18 訪問)

最近、2度ほど『えっ!』となった、 大久保 長安さんのお話です。
館だったと言われる「大久保 石見守 長安陣屋」 にお邪魔しました。
1つめの『えっ!』は、5月28日に放送したブラタモリの『八王子は なぜデカい?』の回で、何でも知っているタモリさんが、大久保 長安さんを知らなかった事です。
私も、城びとの『みんなの投稿』で知ったのですが、、、。
2つめの『えっ!』が先日、投稿した長篠・設楽原の合戦の「馬防柵」で柵を突破した後 討たれた土屋 昌次さんの娘が、大久保 長安さんの奥様でした。

大久保 長安さんは、もともと武田家の家臣だったそうです。その後、徳川 家康さんの家臣になりました。
ブラタモリでも紹介されてた、八王子を流れる南浅川の水害対策として堤防を築いたり、鉱石採掘、八王子の街を整備しました。
堤防や採掘って、武田家の経験が活かされているのでしょう。
大久保 長安さんは亡くなってから不正備蓄が発覚し、悪人のイメージがついたようです。
できる人は、疎まれる。時代が変わっても同じです。

東京都八王子市小門町の産千代稲荷神社に「大久保石見守長安陣屋」の石碑があります。
一方通行の道沿いの線路近くです。
車は路駐して、写真を写し退陣しました。

今年も台風や豪雨で、川の悲しいニュースが流れます。
水害からの対策は、先人たちのアイディアから進化してきました。それでも、完璧はありません。
合戦だけが戦いではなかった事、大久保 長安さんを調べて分かりました。

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イオ

とことん江戸城(四谷門) (2022/06/08 訪問)

(続き)

内郭に続いては外郭めぐりです。2泊3日の2週間前にも事前打ち合わせで日帰り出張があり、その際に訪れた四谷門が外郭めぐりのスタートになります(日付が前後しますが)。

JR四ツ谷駅麹町口のタクシー乗り場あたりが四谷門跡で、北西隅に枡形の石垣と市ヶ谷門まで続く土塁が遺っています。枡形石垣の南側、新四谷見附橋(四谷門に至る土橋跡)の東詰には、四ツ谷駅の改修工事で発掘された枡形石垣の石材(と説明板)が設置されています。また、麹町口駅舎南側にも改修工事で発掘された枡形石垣の隅石部が保存されており、四谷見附橋の東詰または説明板のあるあたりから眺めることができます。さらに、四ツ谷駅改札から麹町口に至る階段の手前には「江戸城外堀史跡展示広場」が設けられ、案内図や説明板が多数展示されていました。

平和な時代に交通の妨げとなる門や枡形が撤去されるのはやむを得ないこととしても、その中で可能な限り痕跡を後世に伝えていこうとする取り組みが随所に見られたのは嬉しいことであり、遺構そのものも勿論ながら、そうした取り組みを他にも見てみたいというのが外郭めぐりの動機のひとつとなっています。

さて、四谷門は3年前にも訪れており、前回は土塁上を市ヶ谷門まで歩きましたが、今回は逆方向の喰違門に向かいます(続く)。
 

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todo94

コミュニティデイの攻城 (2022/08/13 訪問)

実家に帰省する直前、ピクミンブルームのコミュニティデイの公園イベントの会場である高崎公園に脚を伸ばしてみました。かつては頼政公園と呼ばれていたようで公園の一角には頼政神社がありました。この近くは高校時代の活動圏域だったのに全く存在を知りませんでした。折角なので外堀を渡って高崎城内にも入ってきました。高崎市役所の南東の一角は土塁が巡っていて落ち着いたたたずまいでした。南関東は台風8号の直撃を受けていたようですが、高崎は雨も落ちてこず、ラッキーでした。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:丸山城 (2022/07/25 訪問)

本篠城からの転戦です。JA香川県仲南支店の駐車場(34.171526、133.826643)に駐車しました。登り口は道路を挟んだ向かい側にあります。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)に飯尾国盛によって築かれたようです。
城主の飯尾氏は阿波国飯尾村に在していましたが、長宗我部氏の侵攻によって逃れてここに移ったそうです。

登り口に「丸山城跡➡」の標識があります。
右ひざ痛の為、登城口付近で引き返しました。
todo94さんが言われている主郭裏手の大堀切が見たかった。
比高がさほどなさそうだったので登城すればよかったと悔やんでいます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=麻城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:本篠城 (2022/07/25 訪問)

大西城からの転戦です。竜王神社向かい空スペース(34.103461、133.786200)に路駐し、登城口(34.103254、133.785297)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、財田氏によって築かれたと云われています。
南北朝時代の1337年(建武4年・延元2年)には財田合戦があり、南朝方で阿波の小笠原義盛が財田を拠点として北朝方と戦ったそうです。
天正年間(1573年〜1592年)の城主は財田和泉守常久で天霧城主の香川氏に属していました。 長宗我部元親は藤目城の斎藤氏を一旦は降したが、十河存保に藤目城を奪い返されてしまいます。
1578年(天正6年)土佐軍は5,000の兵を率いて本篠城を取り囲みます。籠城する兵は財田常久をはじめわずか200だったそうです。
常久は天霧城の香川氏に再三援軍を求めたが、香川氏は援軍を派遣せず、常久は城から打って出て土佐軍の横山源兵衛に討たれました。
その後は、長宗我部氏の家臣中内藤左衛門が城主となりましたが、豊臣秀吉の四国征伐で城を棄てて土佐へ逃れ廃城となりました。

登城口に説明板と石碑があり、その脇から山道が主郭へ通じています。
右ひざ痛の為、登城口で引き返しました。
財田和泉守常久の墓の道標(34.105031、133.782984)がここにあり、この道を下っていくと民家の裏側の畑脇に御堂があるようです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=丸山城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:大西城 (2022/07/25 訪問)

白地城からの転戦です。御嶽神社前(34.030735、133.808688)に路駐しました。
そこから石垣(34.031182、133.809074)までは、すぐです。

1221年(承久3年)小笠原長経によって築かれたと云われています。
1221年(承久3年)承久の乱で戦功のあった信濃の小笠原長清が、阿波守護に任ぜられると長清の子長経が守護代として下向し築城しました。
南北朝時代になると小笠原氏は白地城の大西氏と共に南朝方として戦ったが次第に南朝方が不利となると和議を結び、寛正年間(1460年〜1466年)に小笠原義長の代に芝生城へ移りました。
その後小笠原氏は三好氏に改姓して勝瑞城に移り、大西城には一族である大西氏が入りました。
1585年(天正13年)羽柴秀吉の四国征伐により長宗我部氏が破れると、蜂須賀家政が阿波国の領主となり、阿波9城の一つの支城として整備しました。
牛田氏、中村氏が城代として入りますが、1638年(寛政15年)一国一城令により廃城となりました。

大西城は現在の池田幼稚園一帯に築かれていて、幼稚園の下に石垣が残っています。阿波9城のひとつです。
御嶽神社の前に、阿波9城の頃の四百年前に植えられた天然記念物の城郭並木(三好市指定文化財)があり、説明看板が建てられています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=本篠城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:白地城 (2022/07/25 訪問)

轟城からの転戦です。「あわの妙」ホテルの駐車場(34.015687、133.780920)に駐車させてもらいました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代前期に近藤氏によって築かれたと云われています。 近藤氏は庄官として京から来ていたが次第に土着し大西氏を称したようです。
南北朝時代には白地城を中心とした一帯は大西氏が支配し、阿波の守護大名である細川氏に従いますが、戦国時代には、細川氏から実権を奪った三好氏に服属しました。
1577年(天正5年)四国統一を狙う長宗我部元親に攻められ、城主大西覚養は讃岐国麻城へ落ち延びました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉の四国攻めの際には長宗我部氏の防衛拠点として使われ、長宗我部氏が戦いに敗れて土佐へ退いた際に廃城となりました。
廃城後、地域の拠点としての役割は、近くの大西城が担うこととなりました。

大西神社の背後に土塁跡とされる土盛がわずかに残っており、大西神社右に白地城址碑があります。
「あわの抄」ホテル中央植え込みに説明板があり、入口のバス停はそのまま『白地城址』(写真撮り忘れました)です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大西城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:轟城 (2022/07/25 訪問)

松尾城からの転戦です。ホシザキ四国㈱さん前の空地(33.990689、133.590473)に駐車しました。駐車禁止場所なので早めに戻りました。
そこから、登り口(33.990183、133.592187)まで徒歩2~3分で着きます。

築城年代は定かではないようですが、応永年間(1394年〜1428年)に信藤周防守正国によって築かれたと云われています。
その後、信藤氏が七代続き、享禄年間(1528年〜1532年)に信藤周防守正親が下野して廃城となりました。
1574年(天正2年)大西備中守元武によって城が修築されその居城となりました。その後、仏殿城主河上但馬守安勝と兵火を交え攻略したといいます。
1577年(天正5年)松尾城主の真鍋大炊介通近が長宗我部氏に通じ、大西元武は長宗我部軍と戦ったが敗れ、山川国秀の屋敷へと逃れたが、敵に取り囲まれ自刃して果てたそうです。

駐車場所から国道192号を少し歩くと、右に登る坂道があります。
登ると二股になっているので、自動車道の右側を登って階段を上がると、二の丸北東隅に出ます。城跡碑が建てられています。
轟城にはまだ本丸と南郭がありますが、急こう配の坂道に痛めた右ひざが悲鳴を上げている為、攻城は二の丸のみで撤退しました。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=白地城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:松尾城 (2022/07/25 訪問)

渋柿城からの転戦です。本日は攻城予定の城が多く轟城に行く途中に、説明板(33.968569、133.544814)の写真のみ撮って攻城を断念しました。

詳細は不明ですが、戦国時代、真鍋大炊介通周の居城であったそうです。
1577年(天正5年)長宗我部方となった真鍋通周は轟城主大西備中守元武兄弟の攻撃を受けたが、本城周辺での激戦の末、敗走させました。
1685年(天正13年)豊臣秀吉の四国攻めに際し、小早川隆景の侵攻を受け松尾城は落城、廃城となりました。

攻城する時間がなく、カーブミラー脇の説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=轟城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征6日目:渋柿城 (2022/07/25 訪問)

宿泊先のホテルルートイン新居浜からです。墓地手前の空スペース(33.9522649、133.446004)に駐車しました。
そこから、墓地左を50mほど進み沢を渡って左に登り、100mほど先を鋭角に曲がって登って行きます。

詳細は不明ですが、河野氏の部将・薦田(こもた)氏が築城したとされます。
1577年(天正5年)薦田治部進義清は松尾城主・真鍋大炊介通近を助けて野々首合戦で大西備中守元武を攻略しました。
1582年(天正10年) 長宗我部元親の伊予侵攻の際、攻められて降伏しました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐で、豊臣秀吉の命を受けた小早川隆景軍が伊予に侵攻しました。
渋柿城主であった薦田義清は金子氏とともに高尾城に立て籠もり、野々市原で小早川軍と戦って討死したといいます。
渋柿城も小早川軍に攻められ落城し、廃城となりました。

登山道を登って行くと横堀、その西端および東端に竪堀があります。
主郭は山頂にあって南北に長く南端から東側に掛けて土塁が巡り、西側面には一部石積が残されています。
下山時に迷子になってしまった。駐車場所のGPS座標をたよりになんとか辿り着けたが、前日痛めた右ひざを悪化させてしまった。本日の山城攻城は無理そう。
攻城時間は65分くらいでした。次の攻城先=松尾城に向かいます。

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ぎりょう

最上氏時代の築城、後に六郷氏二万二千石の居城となる (2022/08/14 訪問)

所用で山形県遊佐町を訪問したついでに、足を延ばして秋田県由利本荘市に。市内中心部、旧三ノ丸跡地に由利本荘市役所が建っており、その南側比高30mほどの独立丘陵が本荘城の本丸・二ノ丸である。
この城は由利郡が山形最上氏の所領であった慶長8年(1603)、秋田佐竹氏に備える目的で最上氏家臣楯岡氏によって築城された。その後本多氏を経て元和9年(1623)に六郷氏が入封して近世城郭に改修し維新まで続いた。戊辰戦争時は久保田藩同様新政府軍に組みしたため庄内藩に攻められ、11代藩主政鑑(まさかね/まさあきら)が城に火を放ち秋田に撤退したと云う。
遺構は曲輪、三ノ丸北側の水堀、虎口、土塁が残っている。特に本丸土塁は高さも有り中世城郭の縄張を感じさせる。また三ノ丸には精巧に復元された大手門があり、水掘越しに見る城址の景観はなかなかの雰囲気。
駐車場は本荘公園駐車場か市役所駐車場が利用できる。

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マダム卑弥呼 

5回も行った

5回目でようやく石垣(湖水)のをみた。

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マダム卑弥呼 

一乗谷の次の日に

行きました。かわいいお城だけど、高所恐怖症、石段から降りれなくてどうしようかと思った城。

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朝田 辰兵衛

“THE 山城”を感じられます。 (2021/10/08 訪問)

山城感ハンパなく,ワクワクしっぱなし。私の他にも登城者がおられましたが,コロナ禍ということもあり距離を置きました。
なお,釣井の壇から姫の丸間で巨木の倒木があり,通行禁止となっておりました。

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おっちゃん

佐賀城公園本丸歴史館周辺図 (2017/12/02 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

大村公園案内図 (2017/12/01 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

宇土城跡案内図 (2017/11/05 訪問)

現地案内板より抜粋

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城好きのメガネ

「長久保城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
長久保城は戦国時代に小田原北条氏・北条氏綱が築城したとされる。国境に位置していることから今川氏・武田氏と度々争いが起きた。小田原征伐後には廃城となる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR長泉なめり駅 徒歩20分

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カズサン

甦った新発田城 (2005/10/09 訪問)

 新発田城は事前の発掘調査結果、幕末頃の多く残ってる古写真、古文書、古絵図などの資料が有り、古写真と建物のコンピューターグラフィックスとの検証も重ね、平成16年(2004年)7月に本丸に木造復元三階櫓、辰巳二階櫓が完成し、辰巳櫓のみ7月より一般公開されて居る。尚、三階櫓はイベントなどに特別公開が有る様ですが、遠方、時間に問題があっていまだ登閣探訪して居ません、何時か登閣したい。

 平成16年7月に「甦る新発田城」との小冊子が新発田市、新発田市教育委員会より発行されたとの情報が有り、生涯学習課に連絡し取り寄せました。
 小冊子の三階櫓、辰巳櫓の写真、記事を眺め読んで居りましたが、訪ねたい願望が湧きたち翌年の平成17年10月、二泊三日で新潟県の旅行を家内と行くことに、当日新発田市に泊まり、翌日、初の新発田城登城、弥彦山、越後一宮弥彦神社、直江津泊まり、高田城、親鸞聖人開山浄興寺を車で回りました。

 新発田城の近世は慶長3年(1598年)上杉景勝会津転封により越後に入った堀秀治の与力大名として溝口秀勝が新発田に6万石で入封、関ヶ原もしのぎ明治までの約260年間新発田を治政した。(幕末期11代直溥の時に5万石から10万石に加増と成ってる)

 車は三階櫓に近い南西側トイレのある小駐車場を利用し、即三階櫓を外より見学、西隣、北奥は陸上自衛隊、屋根には三尾の鯱が載り、白漆喰塗籠、腰には海鼠壁の美しい木造復元三階櫓が殿と構えています、本丸南側は石垣造り、濠が本丸を廻っていたが現在は三階櫓から南側の鉄砲櫓、表門、木造復元辰巳櫓までしか残って居ない。
 濠越し鉄砲櫓跡に移築された現存二の丸隅櫓が腰に海鼠壁に施されて居ります、眺めて土橋を渡り現存表門を潜り見学、正面に初代藩主溝口秀勝の像がお出迎え、木造復元辰巳櫓に登閣、檜の木肌、香りがまだまだ香しい、一階二階と回りしばし説明の方と会話を楽しむ、降りて濠越しに辰巳櫓を見学撮影。
 表門の南側に忠臣蔵で有名な堀部安兵衛(中山安兵衛)の像が立って居ます、安兵衛は初代藩主秀勝の曾孫との事、現地で初めて知りました。
 2時間ほどの見学散策でしたがまだまだもう少しゆっくり復元三階櫓辰巳櫓を眺めていたい気持ちがあり、後ろ髪をひかれる思いで次の越後一宮弥彦神社、弥彦山を目指しました。

 後に新発田城には桜の頃に桜と三階櫓、辰巳櫓、鉄砲櫓(二の丸隅櫓)の写真を撮りたく2回ほど、村上城登城に合わせ、また清水園、足軽長屋見学と5,6回ほど訪ねて居ります。
 また、北側の古丸から細く伸びた曲輪の南西端に土橋門跡が有り、近年土橋門の復元計画が立ち上がってるとか、是非とも実現し,
期待して待って居ります。

 

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橋吉

再仕置軍最後の戦い (2022/08/08 訪問)

エントランス広場には20台ほどとめられる駐車場があります。
ここは三ノ丸の跡にあたります。
ガイドハウスで続日本100名序スタンプを押すことができますし、資料やVTRも用意されています。

深田堀を進んで、大手まで歩きました。
ここは、現在道路になっていますが、かつては堀でした。

二ノ丸と本丸
あちらこちらで工事が行われていましたが、部分的に見学は可能です。

所要時間:53分

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