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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:安養寺城 (2022/07/30 訪問)

蓮沼城からの転戦です。石碑と説明板前(36.630004、136.834686)に路駐しました。

1519年(永正16年)勝興寺によって築かれました。 勝興寺は1471年(文明3年)に蓮如上人の次男蓮乗が土山御坊(福光町土山)を開いたことが起源のようです。
1494年(明応3年)高木場御坊に移り、火災のため、1519年(永正16年)安養寺御坊に移りました。
1572年(元亀3年)加賀一向一揆が蜂起します。勝興寺もこれに呼応して蜂起し、加賀勢と共に越中富山城を落城させて神通川以西を一時的に制圧するも、謙信に敗れて富山城を奪回されました。この蜂起には武田信玄の要請という側面も有るようです。
1575年(天正13年)謙信が越中を攻略し、勝興寺は和睦しました。1581年(天正9年)当時の住職顕幸が石山合戦に出陣中、木舟城主・石黒左近に攻められ焼失しました。
1584年(天正12年)佐々成政は守山城主・神保氏張を通して、古国府城の地を勝興寺に寄進し、再建されました。

遺構はありませんが、「御堂屋敷」と呼ばれる地の一角に安養寺御坊跡の石碑と説明板が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=御峰城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:蓮沼城 (2022/07/30 訪問)

源氏ヶ嶺城からの転戦です。石碑説明板前(36.654869、136.857690)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、永享年間(1429年〜1441年)に遊佐氏によって築かれたと云われています。 遊佐氏は越中国守護畠山氏の重臣で礪波郡の守護代を務めました。
永正・大永年間(1504~28年)城主遊佐新右衛門慶親が埴生護国八幡宮に108段の石段を寄進しましたが、この後、慶親は加賀一向一揆勢力の圧迫に抗しきれず越後に亡命しました。
その後は、一向一揆勢力の支配下に置かれた云われています。また、一向一揆と敵対関係にあった木舟城主石黒氏が一時期支配下に置いていたともいいます。
1569年(永禄12年)以降、上杉謙信により松倉城を追われ礪波郡の一向一揆勢力に合流していた椎名康胤が拠っていたようです。
1576年(天正4年)上杉謙信に攻められて落城し、康胤は敢え無く敗死したようですが、康胤終焉の地については諸説あるそうです。
天正年間(1573年〜1592年)に越中に入部した佐々成政は家臣を蓮沼城に入れて拠点としていたが、1585年(天正13年)佐々成政と対立していた前田利家の軍勢が蓮沼城を攻めて落としています。

蓮沼城は現在の蓮沼公民館の近くに築かれていたようです。
石垣の上に城址碑と説明板が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=安養寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:源氏ヶ嶺城 (2022/07/30 訪問)

一乗寺城からの転戦です。登り口付近(36.656544、136.824021)に路駐しました。

詳細は不明のようです。 源氏ヶ嶺の名の由来は1183年(寿永2年)の源平合戦に由来するものですが、現在残っている城の縄張りは戦国時代のもので、佐々成政によるものと推測されています。
1585年(天正13年)富山の役までには放棄されたようです。

倶利伽羅峠から続く車道脇に登り口があり、案内板が建てられています。
登るとすぐ、展望台が建てられていおり、そこから「くりから古戦場跡」や地獄谷が望めるようですが、テープが張ってあり登れません。
遊歩道が設けられ数分で山頂に着きます。最高所に「源氏が嶺」の石碑が建てられています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=蓮沼城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:一乗寺城 (2022/07/30 訪問)

松根城からの転戦です。石碑前空スペース(36.637319、136.801241)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、1369年(応安2年・正平24年)室町幕府に反抗した桃井直常方の軍勢が立て籠もっていた一乗之城を、幕府方の吉見氏が攻め落としたことが知られています。
1584年(天正12年)佐々成政が前田利家に対する備えとして、家臣杉山小助を配置して越中国源氏ヶ峰城、加賀国松根城、加賀国荒山城 (金沢市荒山)などと共に大改修を施しました。
1584年(天正12年)佐々成政は一乗寺城から「田近道」を通って加賀国朝日山城へと攻め込むも撃退され、末森城の戦いの後には、逆に朝日山城に拠っていた利家の重臣・村井長頼に攻められ落城しました。
村井長頼は後に、同じく攻略した加賀国松根城を本城とし一乗寺城を支城として管理しましたが、前田家が加賀国と越中国を治めてしまっている為に軍事的価値が無く、さほど時を置かずして廃城となったようです。

遊歩道が設けられています。主郭は山頂にあり、西側に向かって二の丸、三の丸と土橋を残して南北に空堀があります。
四郭北側の堀切は大きく、城塁はとても登れません。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=源氏ヶ嶺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:松根城 (2022/07/30 訪問)

切山城からの転戦です。城址公園分岐点(36.614466、136.782986)を左側へ進めば駐車場が有ります。広い道はゴルフ場に行きます。

築城年代は定かではないようですが、1183年(寿永2年)に木曽義仲が陣を張ったと伝えられています。
正平年間(南朝暦1346~70年)桃井直和が城主となり、一乗寺城を管理下に置きました。
1369年(応安2年)桃井直和が加賀国守護富樫昌家の居城である富樫城を攻めるも吉見氏の援軍により一乗寺城は落城し、直和は越中国千代ヶ様城へ退却しました。直和はこの翌年、斯波義将の軍勢と交戦し敗死しています。
1488年(長享2年)に一向一揆衆徒の城となり、1550年(天文19年)には一向一揆衆の洲崎兵庫が城主となりましたが、織田信長が一向一揆を平定し、織田氏の属城となります。
1584年(天正12年)前田利家と敵対した佐々成政が家臣杉山隆重を置いていましたが、前田利家の家臣・村井長頼に攻略され、村井長頼の本城となり一乗寺城は支城となりました。
1615年(慶長20年)の一国一城令により廃城となりました。

現在、城跡は公園として遊歩道が整備されています。三の丸より北側は草が深いですが、その他は草が刈られており見学し易かったです。
本丸東側の横堀は郭4から本丸方面まで続いており見ごたえあります。
登城口や本丸跡に「松根城址」の石碑が建てられ、説明板があります。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=一乗寺城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ11日目:切山城 (2022/07/30 訪問)

宿泊先のホテルルートイン美川インターから、国道304号線の堀切町方面進入口(36.596952、136.742641)から進入し、この地点(36.603491、136.748303)から林道に進入しました。
林道を進むと案内板(36.601145、136.745908)があり、付近に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、天正年間(1573年〜1592年)に築かれたと云われ、城主は不破彦三直光と伝えられています。

東側と西側から林道があるようですが、東の林道が舗装されており距離も短いという事前情報より、東側の林道から進入しました。
主郭は土塁が巡っており、東側と西側に虎口があり、東側の虎口には土橋があります。
主郭の北側と西側に堀切、東側に竪堀が確認できます。
写真はたくさん撮りましたが、ピンボケ写真が多く、とても投稿できません。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=松根城に向かいます。

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肉球

一回りしてみました (2022/08/23 訪問)

大半が河川工事のため消滅しています。が
諏訪曲輪には武家屋敷が残り土塁を確認することが出来ます。
町中にあるお休み処坂長に袖蔵と文庫蔵があり、どちらも中を見学することが出来ます。
画像掲載していませんが福法寺に古河城乾門、正定寺には古河藩江戸下屋敷表門が移築されています。 
お城北西部にあたる観音寺曲輪の土塁も頼政神社付近で確認できます。
ここから本丸跡の案内板まで土手を歩きましたが結構遠く感じました。
案内板の縄張り図を見ると土手脇に建つ住宅は三の丸の東端になるのではと希望的な観測。
そのほか桜町曲輪の獅子ヶ崎土塁、その向かいにある長屋門が見どころです。
加須市内の民家に裏門が移築されていますが道路から撮りました。裏門とはどこの門かは?です。
無料の駐車場も歴史博物館付近にあります。

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小城小次郎

なるほど古いのかも (2022/02/23 訪問)

松平氏初代・親氏による築城との伝承も残り松平郷城館群として国史跡にも指定された古いお城。現地に立った際の直観ではあまり古くは見えなかったが文章をまとめているうちになるほどたしかに古いかもという気持ちになってきた。

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赤い城

新善光寺と龍泉院 (2022/07/30 訪問)

城跡はほとんどが畑や住宅地になっています。
新善光寺に説明板が立っています。
お寺の前に小川が流れています。
堀だったのでしょうか。
奥の墓地の外側には堀も残ります。
場所を移動し龍泉院。
この辺りが主郭だったのでしょうか。
ここの墓地横にも堀と土塁が残ります。
時期的に藪でしたが。
小貝川と観音川に挟まれた常陸名物湿地帯の城。
結城成朝が築きましたが戦国時代には結城氏と小田氏が争いました。
周辺を歩くと他にも遺構があるかもしれませんね。

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朝田 辰兵衛

ゆるやかコースで。 (2020/08/08 訪問)

この日は体調が悪く,かなり体が重く感じました。登城道はゴツゴツとした岩場が多いということもあり,ゆるやかコースをチョイス。
眺望のことを考えると,もう少し天候が良ければ…って思いました。

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Red☆53

残る空堀見事! (2022/08/20 訪問)

コロナ禍…久しぶりに人出の少なそうな城(失礼)を選んで出かけてみました。

本丸跡が城址公園になっています。土塁や堀などの遺構が見事に残っていて見応えがあります。二の丸跡には「さくら市ミュージアム」があります。
ただ…残念ながら「さくら市ミュージアム」は9月16日(金)まで休館です(訪ねられる方、ご注意ください)。
入館できずとても残念でした。
この時期、防虫剤をお忘れなく🤗
林の中ですから虫が多いです。

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肉球

礼羽館・設楽氏陣屋 埼玉県加須市礼羽 (2022/08/23 訪問)

城びと未登録の伝承地です。
住宅街に建つ伝承礼羽館の標柱には
吾妻鏡によると建保元年(1213年)五月二日に和田義盛が挙兵し鎌倉幕府を襲撃しました。義盛の三男義秀の乱入を防ごうとして義秀に討たれた武士の中に礼羽氏の礼羽蓮乗の名がみえます。礼羽には番場、早道場、沖坊など礼羽氏に関する地名がみられます。このあたりには礼羽氏の館があったとされるところと古くからの言い伝えられています。礼羽氏が館を構えたのでその地名がついたのか地名をとってその姓にしたのかは不明ですが礼羽氏とこの地は深い関わりがあります。
と記されています。
礼羽氏の標柱から東へ30メートルのところには設楽氏の陣屋跡の標柱があり
約400年前、徳川家康に従って江戸入りをした旗本、設楽甚三郎貞清は、加須・礼羽・馬内・戸崎の旧四ヶ村を賜りました。低湿地だった旧四ヶ村は文禄三年(1594)に利根川を東に流す大工事の結果、水田として開発され以降、明治になるまで設楽家の知行地となっていました。設楽家は江戸に屋敷を持ち、年貢徴収などの領地支配のため、加須のこの地に陣屋を置きました。設楽家累代の墓地は市内馬内の香積寺にあります。
と記されています。
どちらも伝承とされていますので確定された場所ではないようです。

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おっちゃん

小浜宿歴史散策マップ (2017/07/30 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

首里城公園総合案内図 (2014/06/29 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

座喜味城跡公園案内図 (2014/06/29 訪問)

現地案内板より抜粋

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肉球

住宅と工場と化しています (2022/08/23 訪問)

お城の北東部にあった郭部分に古城天満宮が建てられているだけで
ほとんどが住宅と工場になって遺構の確認はできませんでした。
羽生城は江戸時代初期に廃城となっていましたが幕末になり
古城天満宮の西300メートルくらいの所にある高山稲荷神社の付近に
幕府の陣屋が築かれましたが官軍に攻められ一年ほどで消滅。
こちらも住宅街となっています。

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イオ

とことん江戸城(北町奉行所) (2022/06/23 訪問)

北町奉行所は、江戸期の大半を南町との月番交代で江戸町方の行政と司法を担った幕府の機関で、江戸後期に呉服橋門内に設けられて明治まで続きました。

跡地は東京駅と丸の内トラストタワー本館になっていて地表面に遺構は見られませんが、発掘調査で上水道や井戸、石組下水溝が発見されています。丸の内トラストタワーN館の南東隅には北町奉行所跡の説明板があり、発掘された石組下水溝が移設復原されています。発掘された石組下水溝は奉行所の北東隅にあたるため、鬼門除けとして隅落としされた状態のまま移設されています。また、東京駅八重洲北口付近にも北町奉行所跡の説明板があり、なぜこの位置に? と疑問に思いましたが、グラントウキョウの整備に伴って現在地に移設されたようです。

ところで、南町奉行が大岡越前なら北町奉行は遠山の金さんこと遠山左衛門尉景元です。時代劇の影響で北町奉行として知られますが、後に南町奉行も務めており、お白州で桜吹雪…ではなくても、やはり名奉行だったんでしょうね。菊川駅の近くに鬼平こと長谷川平蔵も住んでいた南町奉行の頃の役宅があるようなので、いつか行ってみたいものです。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:藤島城 (2022/07/29 訪問)

波多野城からの転戦です。西超勝寺前の駐車場(36.089691、136.272011)に駐車しました。
山門前(36.089784、136.271488)の城碑と説明板は確認しましたが、寺の北側にある土塁を確認し忘れました。

築城年代は定かではないようです。 藤島城は近接する林城としばしば混同されるようですが、足羽七城(小黒丸城、勝虎城、藤島城、波羅蜜城、安居城、江守城、北庄城)の一つだそうです。
1338年(延元3年・建武5年)南朝方杣山城の新田義貞が、北朝方の足利高経が籠る府中を攻め落とすと、高経は足羽へ逃れました。
新田方は河合城に三万余騎の軍勢を集め、軍勢を分けて足羽七城を攻めたてます。
この時新田義貞は北朝方へ寝返った平泉寺衆徒の籠る藤島城攻めの加勢にが向かったが、途中小黒丸城から藤島城へ援軍に向かっていた足利方と遭遇し、燈明寺畷で義貞は討死しました。(藤島の戦い)

攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:波多野城 (2022/07/29 訪問)

勝山城からの転戦です。城山登山駐車場(36.087736、136.342007)に駐車しました。駐車場に案内板がありました。

築城年代は定かではないようですが、鎌倉時代初頭、承久の乱の戦功により、志比庄の地頭を賜った波多野義重が相模より移り、領地監視のため築いたとされます。
波多野氏は相模国波多野荘を出自とし、波多野義重が越前国志比庄地頭職として下向したのが始まりのようです。
その後、波多野氏が数代にわたって、城山を使用しました。戦国時代には朝倉氏に従い、1573年(天正元年)織田信長の朝倉氏討伐後に廃城となりました。

波多野城は説明板によると標高473.8mの城山に築かれており、現在は登山道が整備されています。
駐車場から林道を2.3Kmくらい(結構長いです)熊よけ鈴を鳴らしながら歩くと林道終点に登り口があり、柵、説明板が建てられています。
登り口から急坂を登って行くと西尾根に着きます。
西尾根を歩いて行くと堀切が見え、右手に畝状阻塁(腰曲輪の平場に形成されたものなので、畝状竪堀ではなく畝状阻塁というそうです)が確認できます。ただ埋まっていて深くはありません。
北側に3郭、堀切を挟んで主郭(3段になっています)。ここに波多野城の城址標柱が立てられています。
主郭の北東側に堀切と畝状竪堀、北西側にも堀切が確認できます。
主郭から南側に続く尾根を進むと2郭に着きます。2郭東側に畝状竪堀、南東側に堀切、南側に畝状竪堀が確認できます。
非常に整備されており、とても見学し易い城跡です。(写真をたくさん撮りましたが10枚に絞り込みました)
攻城時間は75分くらいでした。次の攻城先=藤島城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ10日目:勝山城 (2022/07/29 訪問)

小山城からの転戦です。勝山市役所駐車場(36.060831、136.499889)に駐車し城碑を確認した後、勝山城博物館(36.044034、136.519991)に向かい模擬天守を確認しました。

1580年(天正8年)柴田勝家の一族である柴田勝安によって築かれました。
柴田氏が羽柴氏によって滅ぼされると成田重政、長谷川秀一と替わりました。
江戸時代に入ると、1601年(慶長6年)福井に封じられた結城秀康の支配となりましたが、1624年(寛永元年)松平直基が30,000石で封じられ、勝山藩の藩庁が置かれました。
その後、松平直良が入りますが、1644年(正保元年)直良が移封されると廃城となり、勝山の地は一時期、天領となりました。 
1691年(元禄4年)美濃国高須から小笠原貞信が22,000石で入封し、以後明治維新まで小笠原氏8代がこの地を治めました。

1709年(宝永6年)2代信辰の時、城址への築城許可が下り、本丸の普請が開始しましたが、財政上普請は中断しました。
60年後の1770年(明和7年)5代信房の時再開され、二ノ丸を築き藩主の御殿をそこに移設し、7代藩主小笠原長貴の代に完成しました。
1822年(文政5年)本丸より出火し、門、高塀、土蔵を残して焼失しましたが、1826年(文政9年)に再建されます。
8代長守の時、明治維新となり1871年(明治4年)廃城となった後、城の建物は取り壊され天守台と堀の一部を残し埋め立てられました。

案内板と石碑は勝山市民会館前の庭にあります。
姫路城に似た日本一の高さの模擬天守を持つ勝山城博物館は、相互タクシーの創業者・多田清氏により平成4年に建てられました。
この模擬天守は歴史上の勝山城とは位置・形式ともに関係はないそうですが、模擬天守前面に水堀が掘られています。
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=波多野城に向かいます。

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