(第7回「光秀の最期」からの続きです)
最後にもう一度坂本に行き、西教寺を訪れてきました。
西教寺は、比叡山焼き討ちの際にいっしょに焼き払われたため、光秀が再建に尽力したお寺です。総門は、その時坂本城にあったものを光秀が移築寄進したと伝わっています(写真①②)。また妻の煕子(ひろこ)が死んだ時も、その当時の武士は、妻が先に死んだ場合、夫は葬儀には立ち会わないのが習わしだったようですが、光秀は自ら喪主を務め、この西教寺にて盛大に執り行ったそうです。いかに愛妻家であったかがわかります。
境内には、光秀と煕子の墓が並んで建っていました。何かほほ笑ましいというか、少しほっとした気持ちにさせられてしまいました😊(写真③④⑤)。 よく見ると、二人のお墓はともに生まれ故郷の美濃の方角(東)を向いていました。二人ともあの世で生まれ故郷の美濃に帰りきっと仲良く暮らしているのではないでしょうか?
光秀の墓には、他の明智一族も含まれていました。たぶん坂本で亡くなった甥の秀満(左馬助)と妻の岸(光秀の長女)、甥の光忠(次右衛門)とその妻(光秀の次女)、子の光慶(光秀の嫡男)ではないかと思われます。五人は坂本城で光秀を待つも途中で亡くなったと聞き、その後秀吉の軍勢(堀秀政ら)に囲まれたため、自ら共に自害して果てたそうです(諸説あり)。煕子の墓の横には妻木(煕子の実家)の墓もありました。きっと今頃は、あの世では皆でにぎやかにやっている事でしょう。
墓の一段下にある唐門には「麒麟」が彫られていました(写真⑦)。
そういえば結局、光秀の前に麒麟は現れたのでしょうか?
いや、きっと光秀自身が麒麟になって天に昇って行ったのかもしれませんね😊。
以上で、私の明智光秀「最期の30日」を辿る旅を終わります。
今度は、光秀の孫たちが九州で活躍した話を、いずれまたお伝えしようと思います。
(では私は最終の新幹線で博多へ帰ります)。
全8回読んでいただき、大変ありがとうございました😊。
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