遺構は消滅ということで,想像を膨らませながら散策。東京メトロ東西線の葛西駅から浦安駅まで歩きました。
途中,浦安橋を渡って,東京都から千葉県へ。旧江戸川の分流部分は(本流よりも流れが穏やかに見え)船の係留にも適しているのでは…と思いました。
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2022/09/28 20:40
2022/09/28 20:18
2022/09/28 17:15
長野旅行PART3 小諸城 三の門、二の丸 (2022/08/18 訪問)
上田城の後、小諸城と龍岡城に行く予定でしたが、あいにく雨が降ってきました。また時間ももう4時を超えていたので龍岡城は諦めました。小諸城は武田信玄が築いた後、仙台久秀が石垣の城へと改築しました。また徳川家康はこの城に寄って、上田城攻めの作戦を考えていたようです。
小諸城はお城ですが、動物園や遊園地もあるので城好きでない人も楽しめると思います。
小諸城で見るべきものは三の門と大手門だと思います。どちらも重要文化財に指定され、今のなお現存しています。大手門は後程投稿します。三の門は一度洪水による流水によって壊れたものの1726年に再建され現存しています。三の門には懐古園と書かれていますが、この字は徳川家達が書いた大変貴重なものです。ちなみにスタンプと御城印はそのすぐ近くにある微古館にあります。
さて入場料を払って進むと石垣が続き、二の門跡が見えてきました。石垣の喰い違い虎口となっていて、そこを通ると二の丸跡がありました。石垣は復元されている所があるようですが、どこまで現存でどこまで復元なのかわかりませんでした。
ではこのまま本丸へと進んでいきます。続く
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2022/09/28 15:09
2022/09/28 13:52
西方城跡シンポジウムを開催いたしました!
令和4年9月25日(日)に『西方城跡シンポジウム~ここまでわかった西方城~』を開催しました。
心配していた天候にも恵まれ、おかげさまで約400名の方々に参加していただきました!
当日は3名の発表者が、①発掘調査の成果 ②文献資料からみた西方氏と西方城 ③西方城の構造と変遷 と題した成果報告をしました。その後、専門者会議メンバーによる討論会「西方城跡の調査からわかったこと」を行いました。参加者の皆さまも終始、熱心に耳を傾けてくださいました。今回のシンポジウムで、西方城についてより知って頂けたら嬉しいです!
ロビーでは城館関連書籍の販売や、栃木図書館による郷土史関係資料の展示のほか、チラシコーナーも設け、会場は大変賑わいました。
城びとの皆さま、城びとの情報を見て足を運んでくださった皆さまに、改めて感謝いたします。本当にありがとうございましたm( * _ _)m
ぜひ、現地の西方城にも訪れてみてください!
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2022/09/28 09:35
三津浜 (2022/09/17 訪問)
から公園まで船に乗ります。舟渡の船頭さんも気さくで港山城登山をお勧めされます。三津浜で鯛めしか三津浜焼きを食べ、レトロな三津浜商店街も散策できます。お城自体は遠景では要害ですが、整備されていて登りやすい。本郭からの眺めは絶景。河野家の内紛や河野水軍の中心になった往時がしのばれます。
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2022/09/28 09:31
卯之町 (2022/09/15 訪問)
近くの街並み保存区域の卯之町と歴史博物館は行った方がよい!博物館の中世の邸宅の展示や昭和初期の街並みは圧巻!
黒瀬城は運動公園の駐車場から登ります。フィールドも往時は城内だったようで公園全体と山々で黒瀬城なんでしょうなあ。
西園寺の勢力がよくわかる城跡です。井戸が多い。隣に岡城もあります。車がある人は足を延ばして法華津峠がおすすめです。絶景!!
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2022/09/28 08:29
高野山奥之院(一の橋~中の橋) (2022/08/27 訪問)
奥之院は壇上伽藍と並ぶ高野山の聖地で、最奥の弘法大師御廟では即身成仏をとげた弘法大師が今なお現世に身を留めて衆生に救いの手を差し伸べているとされます。一の橋から中の橋、御廟橋を経て弘法大師御廟に至る約2kmの参道沿いには20万基を超える墓碑や供養塔が建てられており、戦国武将や江戸期の大名家、著名人の墓所には案内の標柱も建てられているので、奥之院で墓碑めぐりをしてみました。
まずは高野山宿坊組合の案内所で「高野山奥の院の墓碑をたずねて」というリーフレットを購入(100円)。奥之院の主な墓碑・供養塔が地図上に詳しく記載されているという優れモノで、これさえあれば見落としなくめぐることができるはず! …ということで、表参道にあたる一の橋からスタートです。
一の橋を渡ってすぐに参道が左右に分かれますが、左側が古くからの参道なのでそちらに進むと、立花家(筑後柳河)、伊達家(奥州仙台、伊予宇和島)、前田家(加賀)、黒田家(筑前)と名だたる大名家の墓所が並んでいます。「鎌倉殿の13人」にも登場した曽我兄弟の供養塔もありました。その先には島津家(薩摩)、池田家(岡山)と続き、森家(岡山津山)の隣には森中将忠政の供養塔も建てられています。脇道に入った先の毛利家(山口)墓所には数多の五輪塔が建ち並び、雄藩の勢威を感じます。その近くの佐竹家(羽後秋田)の墓所の奥には、佐竹義重霊屋が建てられていました。
地元だけに紀州徳川家歴代藩主の墓所も数箇所に分かれて設けられており(初代頼宣、二代光貞・三代綱教・四代頼職・六代宗直、七代宗将、八代重倫・九代治貞・十一代斉順・十二代斉彊、十代治宝・十四代茂承)、藩主夫人方の墓所も別途設けられていました。五代吉宗(後の暴れん坊将軍)の墓所はあるはずなんですが見落としてしまいました。十三代慶福(後の十四代将軍家茂)の墓所の所在についてはよくわかりませんでした。
高野山は「天下の総菩提所」と呼ばれ、宗派も敵味方も関係なく全ての人が等しく供養される地であり、武田信玄・勝頼墓所の背後を守るように馬場美濃守の供養塔が建てられているのはありそうなことだとしても、参道の向かい側斜面の上、信玄墓所と向かい合う位置に上杉謙信の霊廟が(並んで上杉景勝の墓所も)あるのは、高野山ならではの光景かもしれません。他にも、明智光秀の墓所もあれば織田信長の墓所もありますしね(こちらはちょっと離れた位置関係ですが)。
武田家や上杉家の墓所からさらに進むと伊達政宗の墓所があり、さすがに立派な五輪塔が建てられています。その先の薩摩藩初代島津家久・二代光久・綱久の墓所の五輪塔も見事なもので、奥之院で四番目の大きさであることから四番石と呼ばれています。また、伊達や島津のような大藩には規模では及ばないものの、徳川四天王(の家系)の墓所もそれぞれ設けられていて、榊原康政や本多忠勝があれば酒井家(出羽庄内)もあり、井伊家(近江彦根)の墓所には五輪塔に加えて井伊掃部頭の霊廟が建てられていました。
その他、有名武将では石田三成や柴田修理勝家、堀尾吉晴、赤井直正など、大名家(一部家老も)では、岡部家(泉州岸和田)、河野通直(伊予)、大岡家(武蔵岩槻)、大田原家(下野)、松平家(髙松)、前田利治(加賀大聖寺)、北条家(小田原)、京極家(丸亀)、水野家(信州松本)、奥平家(豊前中津)、諏訪家(信州)、南部家(奥州)、鍋島家(肥前)、松前家(北海道松前)、松平家(大和郡山)、酒井家(播州姫路)、吉川家(周防岩国)、蜂須賀家(阿波徳島)、水野日向守勝貞(備後福山)、松浦家(肥前平戸)、池田家(因幡鳥取)、織田家(大和柳本)、津軽家(奥州)、戸田家(美濃大垣)、水野家四代勝種(備後福山)、大久保家(相模小田原)、牧野家(丹後田辺)、山内家(土佐高知)、秋月家(日向高鍋)、内藤家(信州高遠)、内藤家(越後村上)、本多俊次(江州膳所)、益田家(長州萩)、相馬家(奥州)、伊東家(日向飫肥)、高木家(河内)、宍戸家(防州三尾)、有馬家(筑後久留米)、丹羽家(陸奥白河・二本松)、佐久間家(信州飯山)、秋田家(磐城三春)、北条家(遠州掛川)、稲垣家(志摩鳥羽)などの墓所を確認しています。武家以外にも、能楽の観世宗家や歌舞伎の初代市川團十郎、江戸町火消の新門辰五郎の墓所などがありました。
中の橋は奥之院参道の中間点にあたりますが、ここですでに一の橋から2時間半が経過…。あと2時間以上も墓碑をめぐり続けるのかと思うと気が遠くなりつつも、ここまできたら最後までやり切るのみです(続く)。
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2022/09/27 22:47
飛山城史跡公園 (2022/08/28 訪問)
飛山城史跡公園となって整備されています。
歴史体験館の駐車場を利用します。
石碑の先にはいきなり堀と土塁が迎えてくれます。
櫓台のところは横矢になっています。
城内の曲輪も堀で区切られていてなかなか見応えありです。
芳賀氏が鎌倉時代に築いた城です。
戦国時代には宇都宮錯乱と呼ばれる反乱を起こし敗れましたが、その後芳賀氏は宇都宮氏の居城である宇都宮城を奪取しました。
近くには鬼怒川が流れ、城を守っていました。
下草で堀がわかりにくい場所もありますが国指定史跡のよく整備されている城でした。
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2022/09/27 21:51
これは城だ (2022/05/14 訪問)
堀江城のあった丘はまるっと遊園地に占領されているが、意外なくらいに縄張を尊重してくれていたようで、横矢の効いた切岸なんかも見つけることができた。遠望すると観覧車が大天守にさえ見えてくる(こないか)。
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2022/09/27 21:36
本曲輪南土塁切岸の土砂崩れ (2022/09/27 訪問)
台風15号の線状降水帯による豪雨が浜松、小笠丘陵、牧之原と流れていき竜巻も発生、中小河川、山筋、谷筋に豪雨被害が発生して居り、昨年春に三の曲輪北側高土塁が樹木伐採景観整備で昔の姿に戻り露わに成りました、昨年6月に梅雨の長雨で土砂の流失を心配して訪ねて以来探訪して居ませんでしたので、今月23日の台風15号の豪雨と竜巻で勝間田城の状況は如何にと探訪しました。
約1年半振りに訪ねて、伐採された三の曲輪北側高土塁は潅木と夏草で鬱蒼としており、土砂の流失は無し、しかし二段の高土塁、東側の二重掘は潅木茂り夏草茂り遠目では良く分からないし、茂り過ぎて入って行けない。
二の曲輪も同じく夏草が茂り突入を諦める、大堀切、北尾根曲輪の切岸部は樹木伐採されて居る、東尾根曲輪も夏草茂るが人踏道が微かに在り登る、五重堀を見るが夏草茂り二重堀までしか分からない、下りる道は夏草でよく分からない踏査不可。
東尾根曲輪から本曲輪を眺めるとブルーシートが南切岸を覆ってる、本曲輪の南側の土塁下からの切岸が土砂崩れ被害発生、工事用三角ポットで進入不可の様子、南曲輪との堀切は土砂が入り込みぬかるんで歩けない、引き上げる。
本曲輪に登り南側の土塁から南曲輪間の堀切と土砂崩れ痕を覗き込む、幅は5m程の土砂崩れ。
復旧等の工事案内は無く以後の計画は現地では分かりません。
一人での探訪でしたが下城路で二人ずれのペアーと遭い、夏草が深い旨会話、車は名古屋ナンバー、現在の駐車場と案内板、パンフレット箱、トイレのある場所から東に70m程の所に第二駐車場完備砂利舗装で40~50台は可能かも。
午前中探訪し昼からは自宅で安倍総理の国葬をTV中継で黙祷させて頂きました。
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2022/09/27 21:16
長野旅行PART2 上田城 尼が淵 (2022/08/18 訪問)
西櫓を見た後、城マニアには絶対に取りたい上田城の写真を撮りに尼が淵に行きました。尼が淵はもともと川であったようですが、今は駐車場になっています。上田城はもともと水堀で囲まれていたため、現在の上田城の倍堅固だったんだと思います。っていうか上田城は世界最強の城に入れてもいいにではないでしょうか?まあそんな話は置いといて…
尼が淵へ行く階段を降りていくと野面積みの石垣が。これは何のためなのかわかりませんが、とりあえず写真を撮りました。そして尼が淵に到着した時、おどろきました。西櫓と南櫓がすごく高いところにありました。これは家康もびっくり仰天ですよね。石垣の絶壁を登れた人はいるのでしょうか?
上田城は僕がどうしても行きたかった場所だったので、行けてほんとによかったです。祖父母は城内には何もないと言っていたのですが、僕には素晴らしいお城にしか思えませんでした。ただ上田城の水堀跡は尼が淵しか見れなかったので、またいつか見たいと思います。
評価
遺構★★★★
建物★★★
行きやすさ★★
全体★★★★
攻城時間
1時間30分程
別件
トクさん、難攻不落一位の城は熊本城でしたか!僕はダヴィングしてまだ見てないのですが、熊本城が一位になったのは嬉しいです。僕も4年前まで熊本城の近くに住んでいたので、トクさんと同じ熊本城ファンです。ただ当時の僕は熊本城が近くにあって身近だったのであまり凄さがわからなかったのですが、今とても後悔しています。いつか熊本に戻りたいんですがね…
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2022/09/27 18:30
2022/09/27 18:19
お城探訪 (2022/09/24 訪問)
小高く見晴らしが良く、監視するには良かったんじゃないかな⁉️
良い場所にホテル建てましたな~☺️
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2022/09/27 18:06
お城探訪 (2022/09/24 訪問)
景色は最高でした。
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2022/09/27 17:16
なかなか行けない (2022/09/25 訪問)
夕方に現地に着きました。登城するには時間がたりなさそうだったので、御城印トスタンプだけゲットしました。
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2022/09/27 13:17
2022/09/27 13:10
本丸 (2022/09/25 訪問)
ガイドツアーに参加してきました。
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2022/09/27 12:13
やっぱ土でしょ (2022/09/14 訪問)
お待ちかねの鶴ヶ城(会津若松城)、、いや、ちょっと待って。その前に1箇所。小田山史跡。途中までは車で上がり、そこからは徒歩。地元のタクシー運転手さんは「初めて来ました」とのことで、ちょっと意外。重要な眺望が待っています。お時間あればぜひ。
悲劇の城のイメージはこの古写真に由来するところが大きいと思われます。会津戦争(1868)による甚大な被害とその後の荒廃を伝えています。
その名も轟くアームストロング砲。西軍はここ小田山の中腹から数千発もの野戦砲を打ち込んだといいます。直線距離にして2キロ弱。たしかによく見えます。高低差を利用した砲撃は、天守はじめ城内の建物に甚大な被害を与えました。
ちょっと脱線。遡ること200年あまり。この立地を嫌い、新城築城に動いた人物がいます。上杉家家宰・直江兼続。関ヶ原の煽りで「幻」に終わったプラン。それは別の機会に。
さて、この総攻撃で会津方は1ヶ月の籠城空しく降伏。いや、むしろ1ヶ月も持ち堪えたと言うべきでしょうか。いずれにせよ、築城史のターニングポイントがここにありそうです。つまり、とびっきりの飛び道具の前では天守や櫓といった高さのある構造物は無駄に標的になり、築材の破片などが飛散することでかえって悲惨な目に合うということ。となると、残された道は「土造り」への回帰。決戦の地、北海道・五稜郭が良い例かもしれません。
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2022/09/27 08:13
高野山散策 (2022/08/27 訪問)
5月には仕事ついでに高野山霊宝館の見学と、壇上伽藍から金剛峯寺まで歩きましたが、この日はその続きとして高野山をあちこち散策しました。8月も終わりだというのに下界は連日の猛暑だったこともあり、避暑を兼ねての訪問でしたが、さすがに標高900m近い山上だけあって半袖では肌寒いほどでした。
大門(重文)
高野山の総門にあたる巨大な楼門で、北側(大阪方面)から車で訪れた場合には最初に目にする高野山の建造物です。普段は脇を通り抜けるだけですが、南側に少し離れた駐車場に車を駐めて門の下に立ってみると、あまりの巨大さ壮麗さに改めて圧倒される思いでした。門の両脇に侍する金剛力士像も迫力があり、東大寺南大門の金剛力士像に次ぐ国内2番目の大きさなんだとか。
徳川家霊台(重文)
三代将軍・徳川家光が祖父・家康と父・秀忠の御霊を祀るために創建した霊屋で、同形の建物が左右に二つ並び、向かって右が家康霊屋、左が秀忠霊屋です。外観はそれぞれ細部に至るまで精緻な装飾が施され、内部は非公開ながら金銀蒔絵・極彩色飾金具で絢爛豪華に飾られているようです。
蓮華定院
鎌倉初期開創の寺院で、関ケ原の戦いの後、高野山に蟄居を命ぜられた真田昌幸・信繁父子が仮寓していたことで知られます(その後、九度山の真田庵へ)。大坂の陣の後には松代藩主となった真田信之と宿坊の契約を結び、真田家の高野山における菩提寺として六文銭と結び雁金を寺紋としています。寺内には昌幸が座したと伝わる上段の間(再建)や真田家墓所があり、信繁自筆の「焼酎所望状」や信之の「宿坊契約書」などが寺宝として伝えられていますが、宿坊の宿泊者以外は内部の見学はできないようなので、この日は周囲をひとめぐりしただけでした。近隣住民ではありますが、いつか泊まってみたいものです。
金剛三昧院
鎌倉初期に北条政子が源頼朝と実朝の菩提を弔うために建立した寺院で、中心地から少し離れた山腹にあるため、度重なる高野山の大火にも類焼することなく、創建時の姿を今に伝えています。この日は特別拝観として多宝塔(国宝)に安置されている快慶作と伝わる秘仏・五智如来坐像(重文)が公開されていました。また本坊では頼朝と政子の位牌、政子自筆の書状、北条義時・泰時の書状なども展示されていました(撮影不可)。昨年までならあまりピンとこなかったかもしれませんが、「鎌倉殿の13人」を毎週楽しみに観ている身にはなかなか感慨深いものがあります。その他、校倉造りの経蔵や四所明神社など重文指定の建造物や、本堂に祀られている運慶作で頼朝等身大の念持仏と伝わる愛染明王像など見どころ盛りだくさんのお寺です。
続いては、奥之院に向かいます。
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