(8人目)は「小西行長」です。
関ケ原当時の居城、「宇土城」を訪れてきました。
宇土城訪問は2回目ですが・・・この行長の表情(写真①)を何度見ても無念さがひしひしと伝わってくるのは、この私だけでしょうか?
小西行長は、堺の豪商の子に生まれ、宇喜多直家(秀家の父)に仕え、備中高松城攻めの間から秀吉に仕えました。水軍を統括する能力と交渉能力に優れ、秀吉の中国大返しが成功したのも、行長の海路からの輸送があったからだと伝えられています。秀吉からは、恩賞として小豆島1万石を与えられ、この頃に高山右近から薦められキリシタンとなります。その後、九州征伐で国人一揆(佐々成正の失態)を鎮めた功績で、宇土20万石に加増移封され、宇土城の築城を開始します。
宇土城築城に協力しない天草氏を攻め、天草地方も2万石で加増されました。しかし、その時見たのは、天草地方の農民の3/4がキリシタンであり、天草氏は滅ぼすもキリシタンや教会は保護します。これが、隣国熊本の加藤清正との火種の始まりとなりました(清正は教会の破壊を主張)。
朝鮮出兵の文禄の役では先鋒を務め、加藤清正と先陣争いをします。その一方で現地で和平交渉に奔走、しかし清正などの武断派から妨害されたり、秀吉から交渉条件を拒否されたりで成功しませんでした。同じ文治派の三成とはこの間に気心が合ったのかもしれません。そして慶長の役後、敗戦の責任を負わされた行長、この頃に恩賞もなく武断派の不平不満の矛先は三成と行長に向けられ、対立が決定的になったようです。
そして宇土城の築城半ばで関ケ原へ出陣、以前仕えた宇喜多(秀家)と共に先鋒を務め、西軍最前線に陣を構えます。
次は、(小西行長陣跡)へ続きます。
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