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昌官忠

伊勢湾沿岸遠征日帰り③ (2018/08/07 訪問)

「伊勢湾沿岸遠征日帰り」の3城目は亀山城です。津城からの転戦です。

津城から、三重会館前(三重交通バス)➡津駅前/津駅➡亀山駅➡徒歩で亀山城に到着。

亀山城は1265年に関実忠が若山の地に築いたと伝えられます。中世の亀山に勢力を誇った関氏の居城で、現在の場所に16世紀中ごろまでに移っていたと考えられるそうです。
1590年、岡本宗憲によって天守を築造するなどの修築を行い、本多俊次が1639年から3年をかけて行った大改修によって、ほぼ現在の城地が確定したそうです。
なお、亀山城の天守を壊すよう幕府に命じられた出雲松江城主堀尾忠晴が間違えて亀山城の天守を取り壊したと伝えられ、以後天守は再建されなかったそうです。

現在は本丸東南隅の多聞櫓と石垣、外堀、二の丸から西出丸の北側の土居が残っています。

亀山市には東海道の四十六・四十七・四十八番目にあたる三つの宿場町「亀山宿」、「関宿」、「坂下宿」があったそうで、亀山駅から亀山城に向かう途中に「亀山宿標識」がありました。攻城時間は45分くらいでした。

桑名城に向かうまで電車の時間があったので、JR亀山駅の近くのお店で「亀山B級グルメ みそ焼きうどん」でビールを飲みました。真夏の暑い中の攻城なのでビールが美味しかった(もちろん、みそ焼きうどんも美味しくいただきました)。

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カズサン

登城始め急な切岸で圧倒される (2020/11/29 訪問)

 久美浜陣屋、松倉城を終えて東に直線約25km程弓木城を目指す、ナビは岩滝小学校と農免道路をはさんで城山公園駐車場(京都府与謝郡与謝野町弓木1542でナビ微調整)を目指す、今回の九州未踏の城廻り累計40城目を初登城。
 駐車場は大型車も可能な大型駐車場でトイレも完備。今回のガイドは古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの俯瞰図に依る。
 
 駐車場から道路沿い西へ案内登城路、側面南に尾根筋東の伸びる3郭曲輪群の北面急峻な切岸に圧倒される裾に横堀、神社階段を登り本丸北裏に神社の有る曲輪、南に1郭本丸に登る、本丸は低いが二段に成って南の伸びてる、南端に裾まで伸びる長い竪堀、両側は切岸、南斜め下に下城路にて2郭、1郭本丸南面、竪掘りを渡り本丸東面切岸へ、そこには広い大横堀を挟んで4郭二の丸?、本丸東切岸裾道を元の神社へ、神社下に土塁が残ってる、本丸西下に西曲輪群を挟んで大堀切が在るように見える。戻り駐車場南裏に土塁と横堀で出丸跡。
 認識なく初登城でしたが大変良い造りの山城を探訪させてもらいました満足の行く山城です、主な所は草刈りもされており安心して探訪出来ました。

 歴史は鎌倉期に稲富氏が築城、代々居城とし、丹後の守護となった一色氏に従属、戦国期細川氏に攻められるが防戦し、本能寺の変の混乱の中、和議開城したと伝わる。

 今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り、途中に播磨、山陰と廻る11月20日から9泊10日の探訪も40城目弓木城を以ってエンディングです。
 浜松を出発し帰宅まで総走行距離は4,044kmでした。城探訪時間より車に乗ってる走行時間の方が格段に多い車での城廻りです。

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ぴーかる

八幡平城 (2020/11/21 訪問)

【八幡平城】静岡県御前崎市新野
<駐車場他>想慈院駐車場30台分程あり。
<交通手段>レンタカー

<見所>堀切・横堀
<感想>1泊2日武田・徳川攻防の城旅4城目。この城跡は新野古城とも呼ばれ築城年代は定かではない。この城跡の西南尾根続きにある舟ヶ谷城は今川系新野氏の城でそれ以前の新野氏の最初の城であったかと思われる。想慈院駐車場にある城跡の説明板には戦国期に武田軍により高天神城の軍道のおさえとして改修されたとありますので戦国期に今見る遺構になったと思われます。
 城跡は想慈院の西側に登城口があり城跡を縦断して想慈院の墓地に出てきます。曲輪は大きく主郭と二郭の2つあり、主郭南側は横堀が縦断して高さのある切岸になっています。この横堀の縦断の仕方が武田軍が造った感があります。そして主郭・副郭にいくつかの腰曲輪があります。主に東西に走る尾根には沢山の堀切で仕切っていて踏破していて楽しいです。

 旅行前にGoogleマップで朝比奈城までの経路を見たり御前崎半島を見ていたりして偶然発見した城跡でした。整備もよくなされており、堀切・横堀等の遺構の立て札もあるので見やすく見応えあります。比高もそんなにないので1周1時間程で巡れます。是非城びと登録してほしい城跡でした。結局朝比奈城には夕方タイムアップで行けず仕舞いでした。

<満足度>◆◆◇

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零汰

数少ない遠征先の城郭1 (2020/11/29 訪問)

昨年は筑紫氏館周辺に城郭が7箇所存在しているのを知らず、勝尾城と葛籠城のみ廻りました。今回は他の5か所を廻ろうと向かった先の一つが鬼ヶ城です。

筑紫氏館前の駐車場より筑紫氏館を廻り林道を西に歩いて行くと小さな橋を渡ります。左手流れる川沿いを歩くと右手に小高い山があり、その山頂が本丸です。勝尾城などと違い案内板は見当たらず、パンフとログを見比べながら登れそうな場所を見上げながら探していると何やら石積を見付けました。長さ50m程の範囲に石積が点在していて中には円形状の物もありました。当時の遺構かどうか分からず写真を取り一旦林道へ。ロッククライミング用の岩盤脇を登って暫く行くと崩れた石積のある虎口があり、その先を歩き進めると本丸に辿り付きます。本丸東に大きな曲輪が1か所これが二の丸扱い、北側に小さな曲輪が1か所、共に虎口は確認できますが確信出来る土塁は見付けられなかったです。

一通り見て廻ったので降りていきます。二の丸扱いより倒木で塞がった虎口を通り過ぎ、道であったろう場所を辿って降りていくと林道脇にある石積の場所に出てきました。下から見上げるのとは違い上から見下げると大手口に見張台が点在している様に見えてきて、石積は遺構なのか?ロッククライミング上の虎口は搦手口なのか?と答えの無い事を考えながら元来た林道を戻って行きました。筑紫氏館を含め高低差190m、往復2km、所要時間は90分でした。

案内の無い、縄張り図の無い城郭を見て廻ると遺構かどうか悩んでしまう事が多くあります。自然地形の横堀かどうか、竪堀かどうか、段々畑の跡ではないか等。今回は石積が遺構かどうか確信が出来ません。初め円形の石積を見て当初はなぜかよくある後世の焼物釜跡かと思いましたが火入れする所が無いので違う、それでは人が隠れる場所か?様々な事を考えます。円形の石積を見なかったら遺構と思えたと思います。

今は答えの無い、そのうち解決するかもしれない、今は謎のままで当時を想像するのが浪漫に感じます。




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肉球

陣屋門が現存 (2020/12/07 訪問)

当時の門が何度か修復しているのでしょうが現存しています。
小学校の周りには土塁も残っています。 

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カズサン

天領久美浜代官所 (2020/11/29 訪問)

 豊岡城、京極陣屋を終えて北東約10km程の久美浜陣屋を目指す、今回の九州未踏の城廻り累計39城目、ナビは久美浜小学校校門(京都府京丹後市久美浜町3366)に合わせ走行、駐車場は有りません丁度日曜日で職員駐車場が浜側に空いてましたので利用させて頂きました、車は久美浜公園駐車場が宜しいかと約500m程離れてます。
 遺構は小学校前に在る陣屋橋、堀、表に在る説明板、校庭裏に在る城山が松倉城(久美浜城)跡です、北側は久美浜湾で日本海に繋がってまおり風光明媚な景観です、町屋が残り城下町の風情が良く残ってます。

 松倉城には細川氏の武将松井氏が居城、後に細川氏肥後に転封後、松井氏は八代城代として明治まで続く。
 代官所は元禄10年(1697年)久美浜に設置、陣屋は大津・京都にあったが享保20年(1735年)陣屋をこの地に移し明治まで続く、天領所領は丹後、但馬7万石であった。現在陣屋門は豊岡図書館の前に薬医門として移設保存されている。

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キンヤ

前田利家誕生址の大きな石碑がある城 (2020/12/13 訪問)

あおなみ線 荒子駅には前田利家とまつの銅像があります。

荒子観音寺は、前田家の菩提寺で、利家が修造し、自身の甲冑を寄贈したと云われます。

荒子城跡は冨士大権現天満天神宮となっています。
利家誕生址の石碑があり、これまで見た中でもかなり大きな石碑だと思いました。
ただ、誕生地はこの後に行く同じ中川区の前田城との説もあり、どちらであるか結論は出ていないらしいです。
利家はそろばんが得意だったとも云われ、合格神社でもあるそうです。

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三木城開城後まで持ちこたえた別所氏側の城 (2020/12/14 訪問)

城びと先達、ふくちんさんが、巨大な堀切と急峻な切り岸をレポートされているのを読み、行きたい城にノミネート。三木城と織田方の付け城を訪れた後に、別所氏側の淡河城と端谷城を訪問しました。
レポート通りのすごい土木作業量で、別所軍と織田軍の戦いの緊張感を感じました。要所要所に、説明板があり、草刈りもされてよく管理されていました。説明板の写真をアップします。二の丸と本郭には、くぬぎの木があり、繰り返し、椎茸のほだ木に切り取られたのでしょうか、根本が膨らみ、いわゆる山親父になっていました。
本郭から、城主の衣笠氏が治めた谷と、その先の播磨灘が眺望されます。
城の三方を川が侵食し急峻な斜面になっています。櫨川の城側は、狭く、段々の平削地があります。城主と家臣団の屋敷であったと。今でもとても立派で大きな家が建っています。石垣上の白塀も長く、かつてもこんな感じであったかと思わせます。

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曳馬城 (2020/12/19 訪問)

 浜松城の前身となる城です。浜松城近くの東照宮に石碑と案内板があります。

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35次発掘調査 (2020/12/19 訪問)

 35次発掘調査が行われていました。本丸を囲む堀と石垣の構造や本丸の規模などが確認されたとのことです。
現在(2020年12月)、浜松城天守閣はリニューアル工事を行っていて休館中です。リニューアルオープンは2021年1月1日とのことです。入場券の他に入場整理券が必要となるようです。

 天候もよく、季節的には絶好の山城シーズンですが、新型コロナウィルス感染症拡大のため勤務先より感染拡大地域への移動自粛を求められています。というわけで久しぶりに比較的近い浜松城に行って来ました。ここの野面積みの石垣は好きです。

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ミミタ

2020/12/19 (2020/12/19 訪問)

上田城

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橋吉

鉄筋コンクリート製の模擬天守 (2011/06/01 訪問)

伏見城は1592(文禄元)年8、豊臣秀吉が隠居後の住まいとするため築かれました。
しかし、地震によって倒壊しため、新たな城が1597(慶長2)年に築き直されました。
秀吉はその2年後に城内で没しました。

関ヶ原の戦いの際には家康の家臣鳥居元忠らが伏見城を守っていましたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失してしまいました。

1602(慶長7)年ごろ家康によってみたび再建されたが、1619(元和5)年に廃城とされた。

明治時代になり、城跡は宮内省の御料地とされ、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となったため、遺構調査も容易ではなく、年代によっては史料が不明な点も多いそうです。


1964(昭和39)年、伏見城花畑跡に遊園地「伏見桃山城キャッスルランド」が建設されました。
やがて、閉園することになりましたが、京都市に贈与され、現在では伏見桃山城運動公園として整備されています。

小高い丘を登っていくと妙に立派な駐車場の門が目に飛び込んできます。
バイク・自転車は無料です。

大天守は姫路城を模したものであり、小天守は彦根城を模して作った全く史実に基づかない鉄筋コンクリート製の模擬天守です。
耐震基準を満たしていないことから模擬天守は内部非公開となっています。

2007年、映画撮影のため東映が約1億円を負担し、装飾を直して大坂城に見立てた改修がなされたそうです。
このため、表からは綺麗に見えるのですが、

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昌官忠

伊勢湾沿岸遠征日帰り② (2018/08/07 訪問)

「伊勢湾沿岸遠征日帰り」の2城目は津城です。続100名城スタンプは「高山神社」で押しました。

松坂城から、松阪駅➡津駅➡津駅前から三重交通のバス➡三重会館前で下車➡津城に到着

津市役所にパンフレットがあるとの情報で、津城に行く前に市役所に寄りましたが「模型のパンフレット」しかなく確認したところ、三重県教育文化会館(だったと思います?)にいろんなパンフレットがあると言われました。自分は時間の都合上、行っていませんが、津駅の近くのようなので、時間のある方は寄ってみてはいかがでしょうか。

津城は織田信長の弟である信包の居城として知られています。お市の方とその娘たちが信包とともに伊勢上野城からこの城に移り、お市の方が柴田勝家と再婚するまでの2年間を過ごしたそうです。
江戸時代には藤堂高虎によって近代城郭として大改修され、その後は明治時代まで藤堂氏の居城となりました。

現在は「お城公園、お城西公園」として整備されています。
最大の特徴は最大100mにも及ぶ幅広い内堀と本丸北側に代表される直線的な稜線を持った高石垣だと思います。
城址東側にある丑寅櫓は再建ですが、いい味出しています。攻城時間は60分くらいでした。

帰りは三重会館前から三重交通のバス➡津駅前/津駅➡亀山駅に行き、亀山城に向かいました。

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昌官忠

伊勢湾沿岸遠征日帰り① (2018/08/07 訪問)

「伊勢湾沿岸遠征日帰り」の1城目は松坂城です。
100名城スタンプは「松坂市立歴史民俗資料館」で押しました。

自宅最寄り駅から品川➡名古屋➡松阪を経由して松坂城跡(松阪公園)まで4時間30分かけて到着。
松坂城は蒲生氏郷によって築かれた城です。蒲生家に吉祥をもたらす「松」の字と秀吉の本拠地「大坂」の「坂」の字を併せて「松坂」と名づけたようです。

現在は城址公園となっており、穴太衆によって築かれた高石垣が残っています。また、中御門跡などに枡形虎口も見ることができます。周囲には本居宣長記念館や武家長屋の御城版屋敷があります。攻城時間は65分くらいでした。

見学予定時間をオーバし、津城に向かう電車に乗り遅れそうになった為、帰りはタクシーを使いましたが、電車は15分遅れだったと当時のメモに記載していました。

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todo94

日本一!ようかん祭りの前に (2020/11/22 訪問)

レンタカーを借り受けてまず向かったのは小城公園。この日は「日本一!ようかん祭り」の開催に当たっていましたが、9時前の早朝故、駐車場はガラガラでした。小城公園は訪れたことはありましたが、小城陣屋と認識しての訪問は今回が初めてです。

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にのまる

お城expo (2020/12/18 訪問)

 プレミア前夜祭に行ってきました。
 弦楽カルテットによるスペシャルコンサート。素晴らしい演奏と共にスクリーンに映し出されるお城の美しい写真に「行きたい!行きたい!」と心の中で連呼。
 小和田先生親子による麒麟がくるの話。平山先生の城と古城調査の方法の講演。全集中で、あっという間の3時間でした。

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ミミタ

2018/2/4 (2018/02/04 訪問)

姫路城

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ぴーかる

横地城 (2020/11/21 訪問)

【横地城】
<駐車場他>3箇所以上はあるかと。<34.726881, 138.111489><34.725470, 138.113715><34.726399, 138.115227>
<交通手段>レンタカー

<見所>堀切・横堀・曲輪
<感想>1泊2日武田・徳川攻防の城旅3城目。この城跡も先に行った勝間田城と同じく戦国期以前の城で武田・徳川とは関係ないとおもわれます。この城は横地氏によって築城されたが築城年代室町時代初期または15世紀半ば頃とも考えられているそうです。北にある勝間田城の勝間田氏と共に今川義忠と対立し、勝間田城と同じく1476年に落城した。
 城跡は東の城(本丸)・中城・西の城(二の丸)と千畳敷の曲輪群が東西に分散されており一騎駈けと呼ばれる細い尾根道で結んでいるようです。二の丸より西側にも曲輪が各所に、北西側に詰めの城(現在は茶畑)が存在する。二の丸のすぐ西側にはキンタマ落としと呼ばれる谷があり、谷に金の玉を落として一番最初に拾い戻ってきた者に褒美がもらえる訓練施設があります。二の丸跡には見事な横堀跡が、本丸西側の腰曲輪群は堀切で仕切っていてこの辺りが見応えあります。

<満足度>◆◆◇

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肉球

山まるごとお城です (2020/12/07 訪問)

震災後初めて訪れました。大石邸跡に以前はなかった立派な銅像が建立され綺麗に整備されていました。が
山頂にある佐志能神社社殿は不安定な状態で崩れそうになっていました。
天守曲輪に石垣も含め神社の社殿の整備もお願いしたいものです。

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零汰

【聖典:大系】一行書の城郭:秀吉さん、こっち来てたんですね。

寒さでバイクでの城廻りを一旦中止し、鬼神の如き城郭放浪記さんのマネをしながら生活県の城郭巡りを始めたのが去年12月。様々な理由で思うように遠征に行けない年でした。寒さを避ける自分に対しての救済措置でしたが、まさか1年を通して生活県の城郭を廻るようになるとは想像しておらず。それでもコツコツ廻ってみると城郭の地域性や年代によっての特徴の違いなどが朧気ながら分かってきたりしたので無駄ではなかったと。一行書に限って言えば一行で表すにには勿体ない立派な城郭があるので宝探しをいているようでそれはそれで楽しいです。ただ道が・・・、まともな道が少ないのが残念です。年末で写真は随分貯まってきましたので、備忘録を兼ねて11か月振りに投稿します。

一行書に秀吉ゆかりの城郭が5か所、それ以外の資料で1か所有り合計6か所、気が付いたら特定出来ない1か所以外は廻っていたので今回は秀吉ゆかりの一行書きで。(城名の前の数字は一行書の番号です。)

写真1・2  381 太閤陣 (道、駐車スペースあり、高低差40m、往復450m、約15分)
写真3・4  429 猪猫岳 (道なし、高低差45m、往復650m、約40分)
写真5・6  464 猫岳城 (道、駐車スペースあり、高低差125m、往復750m、約45分)
写真7・8  465 鉢巻城 (道の残骸あり、ほぼ直登)
写真9・10    関白陣 (道、駐車スペースあり)
特定できず 342 お茶屋段 (秀吉さんに茶をたてた場所らしいですがこれも城郭に入る?)

城と名の付く場所もありましたが、全体的に短期の為陣程度の扱いだったかと、それでも本丸はすべて平滑に整えられて段郭もあり、うっすらと虎口も確認出来、一部石積も見受けられます。

歴史の教科書を思い出すと、秀吉さんの天下統一は中国攻めまでが詳しく書いてあり、四国九州は確か「四国平定続いて九州平定」で終わっていたような。城郭廻りをするまで島津氏と直接戦いがあったとは知りませんでした。秀吉さん、こっち来てたんですね


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