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イオ

探すまでもない転用石 (2020/12/06 訪問)

丹波国を平定した明智光秀が築いた城で、明智秀満が城主を務めましたが、山崎の戦いの後は羽柴秀長や杉原家次が入り、関ケ原の戦いの際には西軍についた城主・小野木重次が細川忠興の攻撃を受け、開城させられています。関ケ原後は有馬豊氏が入り、城や城下町を現在の形に改修しましたが、久留米に加増転封になり、その後、何度かの入れ替わりを経て城主となった朽木氏が明治まで13代にわたりこの地を治めました。明治の廃城令により福知山城は解体されましたが、昭和に有馬豊氏の頃の絵図を元に天守が再建され、今も往時を忠実に復元した姿を見ることができます。

天守群は一見しただけでは構造を把握しづらい複雑な造りで、そのため見る方向によって見え方もずいぶん異なり、見飽きることがありません。再建ながら大好きな天守(のひとつ)です。天守台も見どころで、西側は築城時の石垣と増築時の石垣の境界線がはっきりと出ています。また用いられている転用石が非常に多いことでも有名で、探すまでもなく次々と転用石が視界に入ってくるなんて城はここだけじゃないでしょうか。さらに、本丸の銅門番所の南隣や本丸北下は転用石置場になっていて、発掘調査で発見された転用石が数え切れないほどに並んでいます。銅門番所は二ノ丸登城口にあった番所を移築したもので、貴重な現存建物です。天守東側の豊磐井は城内では日本有数の深さ(50m)の井戸で、海面よりも深いんだとか。

できれば蛇ヶ端御薮(明智薮)や御霊神社を訪れ、移築門めぐりもしたいところでしたが、この日は朝から黒井城に6時間いたため、福知山城は本丸のみで時間切れ(再訪なので天守にも登らず)。しゃべる光秀自販機で飲み物を買って(金額不足で「信長~っ!」の怒声を聞くのはお約束)、駐車場奥のゆらのガーデンでお土産を買って帰途につきました。
 

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昌官忠

信州(列車&レンタサイクル)日帰り③ 鍋蓋城 (2018/06/24 訪問)

「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の3城目は城びと未登録の鍋蓋城です。富士見城からの転戦です。

富士見城からレンタサイクルで鍋蓋城(36.329485、138.421497)に到着。

鍋蓋城は大井光忠によって築かれた城です。のちの小諸城が築城された時代には鍋蓋曲輪として、小諸城代家老屋敷などが置かれました。
現在、遺構は残っていませんが、「大井伊賀守居城鍋蓋城址」の看板を掲げた家があります。
攻城時間は5分くらいでした。

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昌官忠

信州(列車&レンタサイクル)日帰り② 富士見城 (2018/06/24 訪問)

「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の2城目は城びと未登録の富士見城です。上田城からの転戦です。

上田城から徒歩で上田駅に戻り、しなの鉄道で小諸駅到着。
小諸駅の小諸観光案内所でレンタサイクル(郊外・山向け用➡電動アシスト:おもてなし5号)を借りて富士見城に向かいました。
小諸観光案内所のお姉さん?がとても親切な方で、富士見城や小諸城、「真田と信州」について丁寧に教えてくださいました。
目指す先は小諸高原美術館(36.343832、138.420440)です。美術館の西側駐車場に登城口があります。

富士見城は大井氏が滋野氏に対する備えとして築いたたとする説や、武田信玄が天文年間(1532年~1554年)に佐久地方に進出する際に鍋蓋城(小諸城の前進)の支城として整備したとする説などがあります。
武田氏滅亡後、徳川氏・上杉氏・北条氏に加え、真田氏が信州の支配権を争った「天正壬午の乱」の際には、徳川家康の家臣・柴田康忠が一時居城としました。
その後、仙石秀久が小諸城主になってからも小諸城の支城として存続しましたが、元和の一国一城令で廃城になりました。

現在は「飯綱山公園 歴史の広場」として整備されており、信州の城としては珍しくほぼ全ての曲輪で石積みが使用されています。
攻城時間は45分くらいでした。

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todo94

【家×お城】登城したお城しりとり[254]の地 (2020/11/22 訪問)

【家×お城】登城したお城しりとりで向羽黒山城につないでいただいた印象深い城に初見参です。小雨は続いていましたが問題なく攻城できました。この地域に多いクリークが巡っている平城という感じを受けました。

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昌官忠

信州(列車&レンタサイクル)日帰り① (2018/06/24 訪問)

「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の1城目は上田城です。
上田城は3回攻城しています。
①20170408
②20180624
③20201013(投稿済)

自宅最寄り駅から新幹線等を使い朝8時前に上田駅到着。そこから徒歩で上田城に向かいました。
朝8:00過ぎの攻城の為、写真に写り込むお客さんはほとんどいませんでした。
100名城スタンプは当初、上田市観光会館で押印する予定でしたが、早朝の為、開いておらず(土日祝の開館は9:00~)
あわてて東虎口櫓門に戻り、門側でスタンプをゲット。
上田城の見学は1回目(2017/04/08)で、ほぼ終わっているので今回の目的であるスタンプ押印を終え早々に撤退し、次の目的地の富士見城を目指します。
攻城時間は30分くらいでした。

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キンヤ

規模が大きく見所が多い三好長慶の居城 (2019/05/03 訪問)

コロナの影響で遠方へ行けておらず、昨年行った城ですが、投稿させて頂きます。

とても規模が大きく、石垣・堀切・土塁などの遺構が良く残り、見所が多い城です。

東曲輪群と出丸間の土橋・堀切は見事で、これぞ土橋って感じです。

大手と出丸南下の石垣は大きな石が使われ荒々しくカッコいいです。

出丸南側下の石切り場にあった、高槻城の石垣に使われる予定であったであろう刻印石も見つけることができました。

田ノ丸南下の大きな堀切・土塁が見応えあります。

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たつのり

45 (2018/08/14 訪問)

城址ですので例外あれど、どうしても50点は越えられないんですね。
芝生がとても綺麗だったのと、城址公園内にある国立歴史民俗博物館が面白かったのが印象に残っています。
城址よりも博物館がお勧めです。

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たつのり

56 (2016/04/02 訪問)

川越城は私の好きなお城の3大要素(城郭・御殿・庭園)の中の1つである御殿だけが見れる場所です。
従って城と言っても石垣も堀もなく、単なる古い建物ですのでお寺と言われてもああそうですかという感じですね。
本丸御殿が現存しているのは高知城とここだけですので、もっと注目されてもいいようなものですが、やはり襖絵などは名古屋城の御殿のように現存よりも再建の金ピカで豪華になるのでバエるのでしょう。
しかし、裃姿の人形が座っているのが、同じ現存御殿(二の丸ですが)の二条城を思い出しました。

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たつのり

62 (2016/03/20 訪問)

写真もなく、本当にすいません。
城址だと、こうなっちゃうんです。

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たつのり

70 (2016/05/28 訪問)

私は基本的に城郭の建物が好きなので、城址は低評価になりがちですが、こちらは中々良かったです。
やはり整備されていること、石垣がかなり残っていることとボランティアさんなど地元のバックアップが大きいですね。
林の中ですので新緑の頃がお勧めでしょうか。

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たつのり

40 (2016/08/09 訪問)

100名城スタンプを押しに行っただけです。
夏休みを利用して行ったので、暑くて歩く気にもなれませんでした。
城址はどうしても評価が下がってしまいます。40点なんて本当にどうもすいません。

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零汰

【聖典:大系】一行書の城郭:脇之丸城・・・ミーハー者の攻城の楽しみ方

城郭には種類によって色んな楽しみ方が有りますね。福岡県にある鷹取城や鷹取山城など山頂広く周囲に樹木が無い城郭の場合。そこは晴れた日に爽やかな城郭の風景を目のあたりにすると気分が高揚しとても感動してしまいます。おかげで満足してしまって遺構を見逃す事が玉にキズなのですが。

ここは【聖典:大系】には記載が無く、報告書を頼りに訪れました。標高351mの山頂、グーグルマップの衛星写真で見ると、東西に30m・南北20m程の楕円形の主郭で周囲を曲輪が廻っており、虎口付単郭の小さな小さな城郭。築城者・在城者・縄張図等全く不明の正に忘れられた城郭です。公園と名前は付いて整備はしてあり、2t車以上は通れない城郭に良くある悪路を小型車で登ると主郭まで行くことが出来ます。とても気に入ってしまい何か有るごとに今年は4度訪れた場所です。

1月に近くの城郭を2か所廻ったのち訪れ、前2か所が消化不良気味なせいもあり、あまりの爽やかに通常より3割増しで感激。
2月は主郭で愛馬と写真を撮りたい一心で苔むす悪路をビビリながら登城。(城郭を廻っていますが、一応バイカーでもあります)
4月になると、世界中を席巻し始めた憎いあんちくしょうのおかげで外出もままならず、娘と孫を連れて残り少ない桜の元で宴と言う名のマックランチ。
7月は日頃より城郭に連れていけと言う老いた両親を連れて来た3か所の内のラストでランチ。(前2か所が辛かったのかそれ以来2度とは連れて行けとは言わなくなりました。)

無名で小さくて忘れられる要素たっぷりの城郭ですが近くに気に入る場所が見つかりました。そして一行書きも色んな楽しみ方があるなと感じる日々です。因みに登る途中に主郭以外にも遺構は有る雰囲気なのですがいまだに探した事は有りません。ミーハー攻城者の所以ですね。

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たつのり

56 (2016/04/30 訪問)

私は城好きなので、館だけだとどうしてもテンションが下がってしまいます。
ということで56点になってしまいました。

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たつのり

77 (2017/04/29 訪問)

二本松城(JR東北本線二本松駅)から白河駅まで各駅列車でちょっとした鉄道旅でした。
再建まもなくとても綺麗でした。
天主閣のように見えますが、櫓とのことです。

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たつのり

73 (2017/04/29 訪問)

出向先が二本松市が本社(勤務先は東京)で、出張帰りにほんの短時間立ち寄り。
櫓がやたら白かった。

二本松市歴史資料館はJR二本松駅から二本松城へ歩いていく途中にあります。
チケットの裏側に二本松藩主である丹羽家歴代の表示があります。

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小城小次郎

道なき道で駆り立てたもの (2020/11/07 訪問)

登城路が消滅したところでいつもなら引き返すところを強引に突破した結果、実にシャープな遺構を堪能できたのだが、それにしても「行かねばならぬ」とあの時私を駆り立てたものは一体何だったのだろう。

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ふゆづき

細川幽斎の城 (2020/12/10 訪問)

麒麟がくるゆかりの城の一つである田辺城を訪問しました。
最寄り駅はJR西舞鶴駅。駅の構内にある観光案内所の近辺には細川幽斎の一生を記したパネルが展示してあります。
駅からは徒歩7~8分。裁判所や警察署などの公共施設があつまる近辺に位置しています。
城址は公園になっているので、誰でも気軽に散策することが可能であり、古今集伝授の松も数回植え替えられて公園内に存在します。
訪問した時間(9:30頃)に散策している方々もおられました。
田辺城というと、復元された城門と隅櫓に目がいきますが、発掘された天守台も復元されており、野面積みの低く大ぶりな石垣が武骨な感じを良く表していると感じます。
城門の上は資料館となっており、御城印が購入可能です(御城印を購入するとマンホールカードも貰えます)。
展示は関ヶ原の際の籠城戦のものや、江戸時代の城下町の様子などがなされております。
また、隅櫓の中は細川幽斎の一生を説明した展示(こちらは無料)が飾られています。
攻城時間はゆっくりみて一時間少々というところだと思います。
城址前の明倫小学校は江戸時代の藩校の末裔のようで、貫禄のある校門とともに外構はそれらしい装飾が施されています。

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いんげん丸虫

小川中ノ城 滋賀県甲賀市 (2020/11/22 訪問)

主郭を囲む土塁はないですが、大規模な堀が東にあり、その尾根の先にははっきりとした堀切があります。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 8城目 (2020/11/17 訪問)

一城だけなら午前中に巡れると踏んで、遠回りであるが日田の夜明地区から小石原へと向かう。
脇を流れる大肥川では2017年の豪雨災害の復旧と思われる工事が今も続けられていた。
小石原焼といえば ”飛びカンナ” だが、いろんな作風のものが道の駅で展示販売しており
ステキなコーヒーカップが目にとまり手に取ってみたが、値札をみて そっと 棚に戻した。

この松尾城、筑前六端城の一つだが、比高も低く趣きがかなり違うそうな。
残る五端城の城将は黒田24騎といわれる1万石以上の大身であるのに対し、この松尾城は
黒田氏の豊前入封後に家臣となった禄高2500石の中間六郎衛門統胤である。
黒田氏が豊前入国の直後におきた「豊前宇都宮氏(城井氏)」に代表される国衆一揆の際に、
当初は一揆に加担したがすぐに恭順(寝返り?)し軍功を立てたそうだ。
新参ではあるが黒田の姓を賜っているのでそれなりに信頼されているのだろうが、他にも24騎に
連なる武将が大勢いるはずなのに彼がなぜ選ばれたのだろう?

駐車場から10分ほど登り進むと右手の林の中に削平地が数段見えてくる。
これらは秋月氏時代の物らしいのだが、黒田氏時代にも当然利用されていたことだろう。
木々が切れたところで、主郭の石垣と草に覆われてはいるが南側の畝状竪堀が見えてくる。
枯草がわずかだがうねっており、そこが畝状竪堀になっているのがかろうじて分かる。
(写真では、分かりにくいかもしれません。 ゴメンナサイ)

最初にお目にかかるのが虎口南側の破城の様子を残した角の石垣である。
整備工事の案内板によると、方針により南北の虎口修復具合を、あえて変えているそうです。
こういう見せ方もあるんだなと感心しました。
説明書きによると、畝状竪堀群や三重堀切があるがこれらは秋月氏時代の物と推測されており
黒田氏時代は主郭部の石垣・土塁・虎口の強化だったようである。
その三重堀切や畝状竪堀群はススキに覆われており見ることができなかった。
時期になったら保全のための草刈りや山焼きが行われているのだろうが見られず、残念。

他の端城は未踏なので確かなことは言えないが、ここは規模も小さく一見して防御性はあまり
高くないようにも見える。   しかし北側や東側斜面は案外急で、遮るものが無い斜面を登る
敵を迎え撃つのは容易そうである。
城は、大きければ良いといううものでも無さそうだ。

それにしても黒田家は、なぜあのような掟破りの所業にでたのだろう? 
筑前六端城に対し、豊前細川家はあからさまに新規に築城をしてないように思えるのだが・・・ 
(私の知識不足かもしれないが)
細川家は、大人の対応をしたということなのかナ?

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イオ

猪ノ口山系を駆けめぐる (2020/12/06 訪問)

(西の丸編から続く)

西の丸から北西尾根を進んで出城のひとつの千丈寺砦に向かう途中、黒井城全図によれば、西太鼓の段と呼ばれる曲輪があるようですが、たぶんここだな、と思われる小さなピークはあったものの、明確な遺構は見つけられませんでした。

西太鼓の段からさらに進むと急傾斜の小山に行き当たり、その山頂部に千丈寺砦があります。台形の主曲輪の南辺を厚さのある土塁が取り巻き、北辺にも低い土塁があり、その北下には竪堀がのびています。また、北西下の斜面には何段かの腰曲輪が設けられていました。

千丈寺砦から南に続く尾根の先には兵主西砦があり、余裕があれば行ってみようと思っていましたが、全図にある尾根道を見つけられなかったため諦め、西の丸まで戻って今度は北東尾根の龍ヶ鼻砦を目指します。

西の丸の主曲輪から北東下にトラロープ伝いに下りて堀切を越えて進むと、尾根道のため迷いはしないものの、倒木がそのままだったり灌木が茂っていたりと未整備の状態で、地面を掘り返した跡やぬた場と思われる痕跡もあり、良く整備されていた北西尾根と違って北東尾根が明らかに獣の領域であることに気付かされます。クマ出没注意の看板もありますしね。

警戒しながらそれでも進んでいくと、痩せ尾根を過ぎたあたりに名前の付けられていない小曲輪群がありましたが、東南東に続く(はずの)小曲輪群は薮に沈んでいて、獣に遭遇するのも怖いので進入するのはやめておきました。

小曲輪群から北東尾根をさらに進み、なだらかな坂を登りきったところが龍ヶ鼻砦です。主曲輪の日当たりの良いあたりはシダが生い茂っていますが、北側斜面には数段の帯曲輪を設け、最下段の北辺は土塁で囲んでいます。

龍ヶ鼻砦から東に下っていくと百間馬場と呼ばれる曲輪があります。山城で馬場と呼ばれる比較的広い(細長い)曲輪を見かけても、その多くは馬が本気で走るには全然足りなさそうな広さしかありませんが、百間馬場はその名の通り馬が全力で駆け回るにも充分な広さがあり、現在は雑木林状態で見通しは利かず、遺構もないようですが、この広さを体感できただけでも北東尾根の端まで来た甲斐がありました。

さて、来た道を引き返して西の丸まで戻り、かつてあったはずの西の丸から北の丸への横移動の道を探しましたが(本城への岩場の急斜面を登るのは避けたい)、斜面の崩落で失われたのか見当たらず、やむなくまた本城まで登っていくことに…。
本城からは北の丸を経て東出丸に向かい、そこから南東尾根をたどって的場砦と東山砦に行って下山するつもりでいたところ、多田砦方面との分岐のあたりから先の道が、おそらくシダが左右に分かれているところが道だろう、というような大変な獣道で、本当にこの先も道がある(わかる)のか不安になり、結局、東出丸に戻って石踏の段からゆるやかコースで下山しました。

本城はもとより出丸や出城を制覇してこそ完全なリベンジ! と意気込んでいながら、兵主西砦や多田砦、的場砦、東山砦に行き損ねてしまいましたが、6時間歩いて手許に縄張図があるところには全て行ったので、最低限はクリアできたということにして……今日はこれぐらいで勘弁しといたるわ!(笑) でも、織豊期の石垣や虎口と戦国期の土の城、そして尾根筋の出城のネットワークなど、本当に見応えのある城でしたので、本城の整備が完了し、防護ネットや仮設階段が撤去された頃にまた訪れたいものです。
 

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