みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

やま

隠れた名城 (2022/02/01 訪問)

以前岐阜に来た時は時間がなく、岐阜城のみの攻城でしたが、今回は満を持して天下普請として築城された加納城を攻城しました。縄張は家康公自ら行ったとされ、普請奉行は本多忠勝公が務めたとのことです。城址南側に広い無料駐車場があります。ここに車を止め、公園となっている本丸を2周見学。本丸を囲うように素晴らしい野面積みの石垣が残っていました。本丸の内側は土塁のみで、本丸北東側には加納城型と呼ばれる外枡形が飛び出しているのがよく分かりました。この後、北東の二の丸石垣も見学。でも一番見ごたえのあった石垣は南東側から見る本丸石垣でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

夕暮れ (2022/01/16 訪問)

2回目です。薄暗くて誰もいなくて怖かったです。討たれても誰も気づかないでしょうね(;^ω^)

また来たいな。いや来ます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

織田晃司

立花口から登城 (2022/02/11 訪問)

分岐にて石垣ルートへ。登り勾配はキツイですが石垣見たさに足が進んでいく。

立花城もかなり広い城でくまなく見ようとすれば相当な時間がかかります。

+ 続きを読む

織田晃司

広大な城なので (2022/02/11 訪問)

すべてを見ることができず太宰府口城門と水の手口石垣・百間石垣のみ。

今度は強行スケジュールでなくゆっくりと大野城巡りを楽しみたい。

+ 続きを読む

じゅんじん

陣屋跡? (2022/01/16 訪問)

畑となっています。なんにもありません。近くの墓地に説明碑がありました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ばばよ

予想以上にしっかりした城? (2021/07/25 訪問)

石垣も各郭の作りもしっかりしています。
歴史の舞台としては秀吉の小田原攻めにしか出てこないのに、実際どの程度の作りがあったのか、想像をかきたてられます。
道を挟んだYoroizuka Farm(の隣?)には地元の柑橘類などを活かしたジュース類など購入できます。おいしいのでこちらもぜひぜひ(こちらは写真撮り忘れ)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

織田晃司

高橋紹運。漢だぜ! (2022/02/11 訪問)

島津の大軍に約700人の兵で籠城した高橋紹運。
紹運の事を調べるととても漢らしい武将でした。

+ 続きを読む

キンヤ

梶原景時の孫である梶原景親が築城し、小牧長久手の戦いでは秀吉軍の砦であった城 (2022/02/12 訪問)

興禅寺は、大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で登場した中村獅童さん演じる梶原景時を開基とする梶原氏の菩提寺で、梶原景時や梶原一族の墓所があります。
山内一豊の母 法秀院の出生地でもあるそうで、大河ドラマ「功名が辻」を見ていたので嬉しかったです。
興禅寺一帯も羽黒城の城域か屋敷であったようで、境内の裏には土塁が残っていました。

羽黒城の主要部は興禅寺の北東側直ぐの所にあり、梶原景時の孫である梶原景親によって1201年に築かれたとされます。
戦国時代まで梶原氏の居城で織田信長に仕えましたが、「本能寺の変」で梶原家は絶え廃城となったようです。
その後、「小牧・長久手の戦い」では秀吉軍の砦として再修築され、山内一豊、堀尾吉晴が守ったとされます。
南側の高台は、前方後円墳を利用したようで、古墳の前方部の最高所に城址碑があります。
高台の北側下は急な切岸となり、幅広の堀状と合わさって見応えがありますが、元は古墳の濠の可能性もあるかもしれません。
高台直下は更に低くなった細長い横堀が廻っています。
その堀状を挟んで北側の曲輪は竹藪の平地です。
南西側にはクランク状の堀と土塁があり、これが遺構ならテクニカルですが、どうでしょうか。
北側には東西に長い土塁が残っています。
城の縄張りが掴み辛いですが、色々想像し楽しめました。

城の北にある公園には、源頼朝から梶原景時の嫡男景季に与えられた名馬の磨墨の塚が祀られています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

えるどらど

青味がかった石垣が美しい (2021/12/05 訪問)

市役所の上にある食堂からお城を眺めることができるのでおススメです。

+ 続きを読む

赤い城

静神社の背後 (2022/02/05 訪問)

静神社の駐車場に駐めてまずは神社への石段を登ります。
拝殿脇に登城口があり、登るとすぐに二郭の空堀と土橋があります。
さらに行くと小さな鳥居があり、その先が主郭。
土塁も残っています。
北側の虎口から降りると堀切がありました。
深さもあります。
北側の尾根を進んで行ったところにも堀切があります。
引き返し主郭下の堀底道を歩きました。
長い堀底道、なかなかです。
静神社左手の竪堀を見学して乾徳寺へ。
その背後が武茂東城となります。
墓地を抜けたところを直登して堀切を見学、遺構も残されているそうですがこれだけ見て撤退しました。
宇都宮氏の分家、武茂氏が築いた城。
乾徳寺は武茂氏の菩提寺でもあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ヒロケン

世界遺産 姫路城 (2014/10/26 訪問)

姫路城は、姫路市中央部の標高約46mの姫山を中心とした、梯郭式平山城です。かつては外堀・中堀・内堀が3重にとりまき、総延長11.5Kmにも及んでいました。最初の築城は、1346年赤松円心の次男赤松貞範とされています。その後、戦国期に入り、御着城主小寺氏の家老であった黒田氏が御着城の支城として御着城の西の守りを固めています。
黒田官兵衛孝高公が家督を継いでからは、西から毛利氏が、東から織田氏の勢力が伸びてきており、黒田氏は主君小寺氏が態度をはっきりとしていない中、織田方につき、羽柴秀吉公に姫路城を差し出しています。

1600年の関ヶ原の合戦の後、徳川家康公より関ヶ原の合戦の戦功で池田輝政公が姫路城に入城し、約8年がかりで現在の姿である姫路城築城に取り掛かっています。

姫路城は、大天守1棟の他、小天守を含む7棟は国宝、城内の現存建築物74棟は国の重要文化財、内曲輪一体と中曲輪の一部が国の特別史跡に指定されており、1993年ユネスコの世界文化遺産に登録されています。

この城の見所は、大阪城と同じで全てが見所といえると思います(私見)、山城・石垣好きの私ですが、姫路城クラスの城に行くと、やはり圧倒されてしまいます。2014年10月の登城と少々、古いものものとなりますが、投稿させて頂きます。
チェブさん励ましのお言葉ありがとうございます。私もチェブさんをはじめ皆さんの投稿を楽しみに拝見させて頂いています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

松江歴史館が開府400年記念祭で建築(2010年) (2011/04/13 訪問)

 松江開府400年祭の一大イベントととして松江城東隣堀川端の旧家老屋敷群敷地に武家屋敷風の「松江歴史館」博物館が平成22年2010年に新しく建築竣工され開館されました。
 今回の探訪は是非新しく開館した松江歴史館を是非見学したいとの願いも有りました。

 漆喰塗り黒下板張り、瓦は島根県の名品石州瓦で無くいぶし銀瓦葺、松江城の黒とマッチして景観になじむ造りと成って居ます、北西角には二階物見櫓風で長屋門、続土塀、長屋と西面を固めてます、全て黒下板張りです。
 展示は松江城、城下立体模型、城下町松江の形成の実写とCGで紹介、喫茶コーナーも有り外縁でも喫茶可能、日本庭園越しに松江城天守閣も遠望出来ます。 真新しい建物で楽しく閲覧見学させて頂きました。

 松江城関連資料も沢山ゲットしました、時間が有れば松江城城郭と松江歴史館、船で内濠堀川廻り、塩見縄手武家屋敷群、昼食は出雲そばと、ゆうに一日楽しめます。 
 今回の探訪時間は約4時間で城郭と歴史館、昼食は出雲そばを船着場の食事処で頂きました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

T-Shionoya

長宗我部氏の居城、岡豊城を訪問 (2021/11/26 訪問)

昨年11月の旅行で寄った城の2つ目。
岡豊城と書いて「おこうじょう」と読むのですね。

高知平野の北の端に突き出た標高97mの岡豊山を城郭とした城。
南は国分川が天然の堀。
直ぐ東には土佐国分寺があり、古来から土佐の国府が置かれたエリア。
築城時期は不明ですが長宗我部氏代々の居城で、兼序の代に一旦落城するものの、孫の元親がここを拠点に一土豪から四国をほぼ統一。
秀吉に敗れ土佐以外を手放した後の、1588年頃の大高坂城(高知城)移転まで岡豊城は使用されていたようです。

現在は詰(本丸)を中心とした本城と伝厩跡曲輪周辺が岡豊山歴史公園となっており、他に伝家老屋敷曲輪エリアがあるとのこと。

本城は詰を中心に帯曲輪状に詰下段、三ノ段、四ノ段が形成されており、そこには石積みや礎石建物跡が。
また所々で竪堀も薄っすら確認することができました。
伝厩跡曲輪周辺は城を感じにくいですが、植え込みの下に堀がある模様。

見どころは、やはり秘密基地のような西部の三ノ段と四ノ段でしょうか。
土佐の山城公園が私の城巡りの115城目となりました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

桜の時期は初登城 (2011/04/13 訪問)

 今回の平成23年4月桜の時期に倉敷市下津井城、京都の用事、故郷鳥取城、鹿野城の桜を満喫して翌日故郷鳥取の実家より西に約70km?の松江城を目指す、前年2010年平成22年に松江開府400年祭の記念行事の一つにて「松枝歴史館」が竣工開館しましたので併せて見学探訪したいと、一部開通の無料山陰道、有料の山陰道で約1時間半?以前に比べ速く成りました。

 車は大手門前の有料駐車場を利用。(駐車場が満車に成る前にと8時前に到着)

 探訪ルート:内濠越し二ノ丸高石垣上に在る南櫓、中櫓、桜を眺める、大手馬出枡形より太鼓櫓を見上げ、大手門跡から三ノ門より二ノ丸上ノ段の桜と南櫓、中櫓、太鼓櫓を見学し、二ノ門、一ノ門経由本丸へ、満開の桜と天守閣を眺める、今回天守には登閣せず、乾櫓跡、北ノ門跡、北搦手桝形虎口より二ノ丸下ノ段、脇虎口ノ門枡形から北惣門橋へ、新しく出来た「松江歴史館」を入館見学しました。

 初めての桜の時期での登城は大変感激で復元された南櫓、中櫓、太鼓櫓、土塀が黒下板張り、高石垣、濠、が桜と青空にマッチして大変綺麗で圧巻の眺めでした、同じく黒下板張りの大天守閣も威厳を備えた造りも桜に映えて素晴らしい眺めです、国宝登録前の登城と成ります。

 続きは「松枝歴史館」

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

舌状台地に建つ天守 (2022/02/12 訪問)

久しぶりに犬山城に行ってきました。
木曽川沿いの舌状台地に建つ国宝犬山城は、1937年に織田信康によって前身の城であった木之下城より城郭を移して築城しました。
これは通説ですが、新説も有ります。
1537年の新築ではなく1585年〜1590年にかけて建築されたと言われておりますね。
さて、今回私は木之下城跡にも行ってきています。
木之下城は、犬山城の前身の城です。
1565年に織田信長が織田信清と対立して、一族の領地争いの中で犬山城を攻略しました。
1581年に、織田信長の四男である織田勝長が城主となりました。
その翌年の1582年に本能寺の変で父の織田信長と運命を共にしました。
1584年に豊臣秀吉と徳川家康と織田信雄連合軍との間で小牧長久手の戦いが始まりました。
当時の犬山城主は、織田信雄の家臣の中川定成でしたが不在だったので、豊臣秀吉軍の池田恒興が木曽川を渡り城内に侵入して落城となりました。
その後、豊臣秀吉が入城しました。
豊臣秀吉が没すると、1600年に関ヶ原の戦いがはじまります。
犬山城は、関ヶ原の戦いの前哨戦で西軍側の武将たちが退去した為に、東軍によって占拠されました。
1617年に、犬山城は徳川家康の重臣成瀬正成が拝領しました。
このときに、天守に改良が加えられて現在の姿になったと言われております。
以後、成瀬氏が幕末まで城主を務めることになります。
明治維新後に廃城令によって、一旦愛知県の所有となります。
1873年に天守以外の一部の建物が取り壊されたり、払い下げされたりしました。
1891年の濃尾地震によって犬山城は半壊してしまいます。
その時、愛知県全体の被害も重なり犬山城の修復が出来ないでおりました。
そこで、1895年に幕末まで犬山城の城主だった成瀬氏に、犬山城天守の修繕、維持を条件に譲渡することになりました。
そして、1899年に犬山城の天守の修復が完了されました。
それ以後、成瀬氏が犬山城天守を個人所有することになりました。
1935年に、天守は国宝に指定されました。
国宝天守の中で一番古いとされております。
1961年から4年に渡り、天守の解体修理が行われました。
2004年に第27代犬山城主だった成瀬正俊さんがお亡くなりになり、公益財団法人犬山城白帝文庫が設立されました。
今も公益財団法人犬山城白帝文庫が所有者となり管理は犬山市が行っています。
私は、2003年に犬山城に行って当時の個人所有者だった成瀬正俊さんとお会いしております。
なんと、実に1903年から2003年までの101年間も個人所有だったのです。
今は、犬山城天守だけでなく城山一帯を含む犬山城跡の総合調査を経て、2018年には犬山城跡が国指定になりました。
今回は、5連続外枡形の確認と前身の城の木之下城跡の確認でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

加古川城 (2022/01/15 訪問)

【加古川城】
<駐車場他>称名寺専用駐車場あり。
<交通手段>車

<感想>加古川城は承久の乱後の1221年後に糟屋有教によって築城されたとされる。鎌倉時代には糟谷氏は播磨守護代となり、加古川城は守護所となった。時代が下って1577年、羽柴秀吉が毛利討伐の為の軍議がここで行われ(加古川評定)、別所氏の離反がここで決定的となる。この時の12代加古城主の糟屋武則は秀吉の小姓頭となり、賤ヶ岳の戦いで七本槍の1人となり最盛期には12000石の大名となるが糟谷氏は関ヶ原合戦で西軍に付き改易される。糟屋武則の晩年は諸説あり不明瞭で加古川城は1615年廃城となる。
 現在の城跡地は称名寺となっていて遺構はほぼ残っていないようで周囲にある水路が何らかの跡かと思われるものがある。平地にあり、当時は五十間(約90m)四方の方形平城であったようです。

<満足度>◆◇◇
<グルメ>加古川グルメと言えばかつめし。「本家かつめし亭」にて特選かつめしのご飯大盛を食しました。ご飯にビーフかつ、デミグラスソースをかけたものです。ソース多め無料です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

城山稲荷神社 (2022/01/02 訪問)

雉岡城から転戦しました。城山稲荷神社に城址碑と説明板がありました。神社の一角は枡形のように見えなくもありません。立派なケヤキが鎮座していました。市役所近くの土塁遺構はチェックしていないので機会があったら又訪れたいと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

祝町向洲台場 (2022/01/16 訪問)

松川陣屋と同じ大洗町ということで載せます。
斉昭公の指示で築台場。アクアワールド大洗のすぐ西側になります。松林の中に碑と説明板があります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

じゅんじん

常照寺 (2022/01/16 訪問)

吉田(大掾)氏→江戸氏と常陸の由緒ある氏が治めてました。そして佐竹氏。そして水戸徳川家の光圀公がお寺を創建。いいですね。
本堂裏にお堀がありました。寺門脇に城址碑もあります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

鹿野城も桜の名所です (2011/04/12 訪問)

 鳥取城の桜と城跡を十二分に堪能して西の鹿野城へ、城山の山麓に檀家寺が有りますので前日まで京都の親鸞聖人750年遠忌法要をご引率頂いたご院家と坊守さんにお礼と参拝、寺院内にある両親祖父母の墓所にも参拝し、桜満開の鹿野城を堪能しました、中々桜の時期に訪ねる事が出来ませんでしたので桜は数十年年振りかと思います。
 地元では近世城郭に仕上げた亀井玆矩公は大変慕われて居ります、城山の郭と麓に本丸、内堀、出丸、外堀と大きく拡張しました、南蛮貿易にも大きく手を染め櫓名に朝鮮櫓、オランダ櫓と名付けた程です。
 桜は出丸と言われてる二の丸に多く植栽されて居り中に在る中学校が桜に覆われて仕舞います、内堀と桜、赤い橋本丸への通路、東側の薬研堀辺りも見所です。

 車は城山下の神社鳥居の有る所、外堀東側の薬研堀側の観光駐車場が利用できます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ845