おうごじょう

淡河城

兵庫県神戸市

別名 : 上山城
旧国名 : 播磨

投稿する
道の駅から淡河城を仰ぐ
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

イオ

三木城への補給の拠点 (2026/01/18 訪問)

築城時期は不明ながら淡河氏が築いた城で、三木合戦では別所方として三木城への補給の拠点となり、羽柴長秀(秀長)の攻撃を一度は撃退するも丹生山城の落城により開城し三木城に撤退しました。戦後は有馬則頼が入って改修しましたが、関ケ原の戦いの功により三田城に移ると、一国一城令により廃城となりました。

道の駅淡河の駐車場から登城開始。道の駅からは淡河城址の表示と模擬櫓がすぐ近くに見えています。道の駅から浦川を渡って整備された登城道を進むこと約5分で本丸に到達。本丸は畑(半ば藪)になっていますが、東端に模擬櫓(裏手に説明板)が建ち、南辺と西辺を土塁で囲んでいます。南辺の土塁は幅と高さがあり天守台と呼ばれています。天守台には淡河城趾石碑に加えて稲荷社が建てられていて、社殿には淡河城の資料や復元図、淡河合戦図が掲示されていました。本丸南西隅の本丸門を出ると、土橋の両側に土塁と横堀が続いていますが、藪化していて見通しはききません。土橋を渡った先の二の丸は農地として整備され遺構は消滅しています。横堀に沿って南に進んで東に折れた先では横堀が畔で区画され、畔の東側は水堀(といっても登城時は水はほとんど無し)になっていました。二の丸東部の一段高い一角は竹慶寺跡とされ、淡河家廟所が設けられています。竹慶寺跡の南辺には横堀が見られました。

豊臣秀長ゆかりの城めぐり「月影の男紀行」として登城しましたが、現在見られる遺構(天守台や横堀)は有馬期の改修によるものなんだそうで、秀長に関係ないやん…。淡河城攻めの付城(天正寺城・淡河西付城)は関係あるでしょうけど、後の予定もあって今回はパス。稲荷神社掲示の合戦図に秀長の本陣として描かれていた淡河八幡神社に行ってみるも、それらしい痕跡はなく説明板や由緒書にも本陣を示す記述はありませんでした。競馬「有馬記念」の有馬頼寧氏が淡河城主・有馬則頼の子孫であることを知ったのがせめてもの収穫でしょうか。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

三木合戦 (2026/06/18 訪問)

 淡河氏の居城と伝わっています。本丸付近が残っていて模擬櫓が建っています。櫓台や堀と土塁の一部が遺っています。南東部の堀跡は比較的見やすいのですが、南西部は藪になっていました。西北部にも堀と思われる地形がありますが、竹藪となっています。

 神姫バス神戸三ノ宮バスターミナルからバスに乗り淡河バス停下車。徒歩2~3分くらいで登城口に行くことができます。バスの本数はかなり少ないので要注意です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

模擬櫓が建ち城址公園として整備されている。 (2024/04/21 訪問)

淡河城は淡河(北条)時治の城とされています。築かれたのは14世紀の初めごろと推測されますが、時治は南北朝の争いに巻き込まれ越前にて平泉寺の宗徒に襲われ家族ともども自害して果てています。
淡河城は淡河氏の城として継承され、戦国時代には別所氏に属し、天正7年(1579)に羽柴秀吉の攻撃で落城し、有馬則頼が城主になったそうです。
城址は道の駅「淡河」の隣にあり遊歩道が続いていますが、私はショートカットで城址西側からアクセスしています。主郭の西側には土塁が残り、南の高土塁の上には稲荷神社がまつられ、土塁上の郭の形態をしています。本丸南東には模擬櫓が建てられ、淡河城のシンボル的な存在になっています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小荷駄

淡河城跡 (2023/05/02 訪問)

城跡隣の道の駅の駐車場とトイレを利用できます。私は神戸電鉄三木駅よりバスにて登城しました。乗車時間は40分程だったと思います。道の駅の隣のコンビニの脇から進み小さな橋を渡りその先から登るとすぐに本丸跡に着きました。特に堀跡がしっかりと残っていて素晴らしかったです。近くの淡河宿本陣跡は月火休みで見学はできませんでしたが満月堂さんの豊助饅頭を買って帰りました。城跡散策時間は40分程でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 平山城
天守構造 不明(天守台あり)
築城主 淡河成正
築城年 貞応元年(1222)
主な改修者 有馬則頼
主な城主 淡河氏、有馬氏
廃城年 元和元年(1615)
遺構 曲輪、天守台、土塁、横堀(空堀)、切岸
再建造物 模擬櫓、模擬城壁、石碑、説明板
住所 兵庫県神戸市北区淡河町淡河字水井740-1
問い合わせ先 神戸市教育委員会事務局社会教育部文化財課
問い合わせ先電話番号 078-322-5798