黒田六端城を行く、4城目は「益富城」です。嘉麻市の標高190mの眼下に街道が見渡せる地に、黒田長政は「後藤又兵衛」に16,000石で与えます。大河ドラマ軍師官兵衛では「塚本高史」さん、真田丸では「哀川翔」さんが演じられていましたね。
JR篠栗線「新飯塚駅」から大隈行のバスに乗り終点で下車、そこから国道211号線沿いにもう100m程進むと「一夜城」の標識があり、そこから舗装路を40分程歩いて登った場所に益富城はあります。よって車の方は直接山頂付近まで行けます。またバス停のすぐそばにある「麟翁寺」には、益富城の搦手門(写真②の場所にあった門)が移築されており、又兵衛の後に城主となった母里太兵衛の墓もありました(写真⑩)。
駐車場前から二の丸までは5分程の登りです。途中には一国一城令で破却された石垣や(写真③)、竪堀(写真④)や空堀(写真⑤)の跡などがよく残っていました。二ノ丸に入ると(写真①)。搦手門の跡の桝形虎口(写真②)や、櫓台も残っていました。
さらに本丸まで進むと(写真⑥)、大手門跡や建物礎石(写真⑦)もありました。ここで又兵衛は暮らしていたようです。さすが戦上手の又兵衛ならではの城だと思いました。
又兵衛の前には、秋月種実が隠居城としていましたが、豊臣秀吉に従わなかったため、秀吉は村じゅうの戸や襖をかき集め、(写真⑨)の場所で一夜にして城が建ったように見せかけたそうです。麓にいた種実はこれに驚き降伏したという逸話があり、それで地元の人は一夜城と呼んでいるようです。
後藤又兵衛は、父を亡くした後に伯父が黒田を裏切ったため追放されてしまいます。仙石久秀に従いますが戸次川の戦いで久秀は秀吉の命令に違反したため改易。又兵衛は官兵衛の下に戻る事を許され、8才年下の長政と兄弟のように育てられました。しかし長政とはあまり合わなかったようです。1604年に官兵衛が亡くなると、1606年には又兵衛がこの益富城にて、長政と犬猿の仲である細川忠興と密通していた事がばれ、立場が悪くなった又兵衛は黒田家を出奔し益富城を出ます。一時池田輝政の世話になりますが、結局京都で浪人暮らしをしていたようです。しかし1615年大坂冬の陣が始まると大坂城に参陣し豊臣方として活躍します。しかし奮闘及ばす、同年の大坂夏の陣の道明寺川原の戦いで命を落としたとされています。しかし近年、実は生き延びていたとの説もあり、この益富城を目指すも、玖珠の角牟礼城の北にある耶馬渓あたりまで着いた所で豊臣秀頼が死んだ事を知り、そこで悲しみのあまり自害したとの言い伝えがありその墓も残っています。どっちが本当なのか興味深い話です。
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