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小城小次郎

なんとも中世的な縄張なのだが (2021/10/30 訪問)

結城合戦の舞台ともなった結城氏代々の本拠だが江戸時代には水野宗家が結城藩主としてここにいた。群郭式の縄張からはいかにも中世的な武家集団の姿が垣間見えるが水野家はなんでまたその縄張を踏襲したのだろう。

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カズサン

天空の城津和野城石垣番外編 (2010/11/06 訪問)

 先に投稿いたしました津和野城の続き。
 番外編で捨てがたい石垣写真を投稿させて頂きます、今日まで良く残って呉れたと感謝です、今後景観整備、石垣の保全などをお願いして何時までも守って行きたい城郭、城下町です。

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赤い城

民家の敷地内に (2022/02/26 訪問)

民家の前に碑が立っていていますが駐車場はありません。
奥に祠があります。
椿田十一面観音福地堂だそうです。
敷地内に入るのには躊躇しましたがウエルカム感もあったので少しだけお邪魔しました。
家の前に説明板がある他、奥の方に堀が残っていました。
堀の外側の堤防は江戸時代に造られたそうです。
土塁かと思いました。
単郭の方形居館で唐沢山城の支城として佐野家家臣の福地寧久が築きました。
本当は声かけて見学するのが良いと思います。

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肉球

疲労困憊でした (2022/03/01 訪問)

以前カズサンさんの投稿で『余湖くんのホームページの縄張りイラストが参考になる』というコメントを
思い出しプリントアウトして持参し大変参考になりました。
車は登山口の脇に停められるスペースが確保されいるのでそこを利用しました。

いきなりの急登で始まり所々に小さな石積みが確認できましたが
イラストに記されている竪堀・土塁まで辿り着くのが大変!
何度も引き返そうと思いましたが息切れ気味でイラストの部分に入ることができました。
1の画像が竪堀・土塁の先の急坂  登り始めて最初の案内板、竪堀・土塁があります。
2の画像が余湖さんによる2の門跡 2の門の内側には小さな郭が段々にあり遺構が増えてきます。この辺りまで来る引き返す気持ちより登る気持ちが増します。
3の画像が余湖さんによる3の門跡 小さな案内板にはこのお城の中で一番堅固な門の造りとあります。門を過ぎると多くの兵を留まらせることができる郭があります。
4の画像は3の門跡を上から見たところ
5の画像は余湖さんによる8の門跡 主郭の入口
6の画像 主郭 武田信玄誕生の地の石碑があります。
7の画像 主郭裏手の堀切 堀切に石垣が確認できます。
8の画像 主郭裏手の郭から見た主郭土塁
10の画像 竪堀が見えます。ほとんど一本橋状態です。
9の画像 主郭裏手の郭から竪堀へ

この先には熊城跡があるようですが私はここでギブアップ。
この先まで行かれる方は文字通り熊も出没するようです。
気をつけてください
 

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歴史案内活動【令和4年3月12日(土)12:30~15:00】 (2022/03/12 訪問)

こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

躑躅ヶ崎館跡の歴史案内活動を行いました。
春も間近な武田神社、多くの方をご案内できました。

日時:令和4年3月12日(土) 12:30頃~15:00頃
参加ガイド:局長・大塚與左衛門

◆武田神社境内に今日も残る数々の城郭の痕跡を、個性豊かな甲冑ガイドがわかりやすく楽しく案内します。
◆案内時間は10分~30分、ご都合に応じて調整できます。
◆ガイドは無料です。
◆バスツアーなどの自由時間にあわせた案内も可能です。
◆雨天等により中止の場合があります。
◆案内に先立ち連絡先の記帳、検温等のCOVID-19感染対策を行っていただきます。
 ※記帳いただいた情報は万一の感染発生等の連絡のみに用い、一定期間経過後に破棄します。
◆また、感染防止のため一緒に並んでの写真撮影はご遠慮いただいてます。
◆案内活動は武田神社様の承認のもとに行ってますが、当隊そのものは武田神社様とは無関係の有志団体なので
 活動に関する武田神社へのお問い合わせはご遠慮ください。
 問い合わせ、連絡は当隊公式ツイッター(https://twitter.com/KoufuSamurais)へお願いします。(E)

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POYO58

石垣と水堀が綺麗 藤堂高虎がすごい ハートの石も発見! (2022/02/20 訪問)

津城といえば藤堂高虎像ですよねー。津城は藤堂高虎が築城しました。角櫓が復元されています。この角櫓を支える石垣にハートを見つけました。おそらくにのまるさんが見つけたものと同じです。僕の写真から探してみてください!
ただすごいのはここだけではなく、この城は水堀の幅が広くて石垣も高いです。本丸には藤堂高虎像がありそれを囲むように石垣がありました。すごい!ただ思ったより少し小さかったのが残念かな…

評価
遺構:4
行きやすさ:4
建物の美:3(二つしかないのが… ただ戦災を逃れた門があるのはすごい)

攻城時間
30分(あまりかからない)

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トク

秀吉の見果てぬ夢(唐への道は遠く) (2022/03/06 訪問)

名護屋城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵のためにわずか5カ月で築かれた城(陣城)です。金箔瓦を使用した五重七階の天守や本丸御殿がありました。城の周りには150以上の諸大名陣屋があり、城下には20万人を超える人が集まったそうです(当時では大坂に次ぐ日本第2位の都市がありました)。しかし秀吉の死後に都市は廃墟と化し、一国一城令で寺沢広高(唐津藩主)により城は破却されました。

名護屋城博物館には、朝鮮出兵の時の様子が詳しく説明されていますので見学されてから城を散策される事をオススメします。(どちらも無料ですが城入口で清掃協力金として100円寄付をお願いしますとの事です)。

訪れた日は天気がよく、本丸の天守台からは遠く壱岐・対馬まで見えました。そして対馬の向こうには朝鮮があります。秀吉はどんな思いでこの景色を見て唐(から)への夢を描いていたのでしょうか?

帰りに呼子で名物「イカの生造り」食べて帰りました(美味しかったです☺すいません)。

【名護屋城へのアクセス】
JR筑肥線唐津駅前大手口BCまたは西唐津駅より、昭和バス名護屋線(天下市場・名護屋城博物館前)下車徒歩5分です。(呼子での乗継便もありますがいずれも本数少注意)

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POYO58

穴太衆の立派な石垣 (2022/02/20 訪問)

この前松坂城と津城に行ってきました。松坂城は蒲生氏郷が築城しました。城内に現存する建物はありませんが、石垣がずっと続いています。石垣は穴太衆という石工によって造られ、野面積みが多いですが、1箇所だけ江戸時代に造られた算木積みの石垣があります。城に入ると入り口から石垣があり、区角さてています。これでは敵陣は集中攻撃を受けていたことでしょう。またここは唯一武家屋敷が現存します。御城番屋敷といい、中を見学することもできます。
ぴーかるさんの投稿の仕方をみて僕もこれから評価をつけたいと思います(1〜5の数字で著します)。ぜひ参考にしてください。

評価
遺構:5
行きやすさ:3
建物の美:ー

攻城時間
じっくりなら2時間半(城下町など歴史巡りを合わせて)
お城だけサクッとだったら30分

ヒロケンさんお体の調子はどうですか? お大事にしてください。ヒロケンさんの投稿はよくみてます。大阪城や高知城、姫路城、小倉城、全て素敵です。また新しい投稿楽しみにしてます♪


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城好きのメガネ

「淵野辺城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
淵野辺城は、武蔵七党の淵辺伊賀守義博の館跡とされる。淵辺義博は鎌倉将軍府の執権・足利直義の与力として活躍する。旧鎌倉幕府第14代執権で最後の得宗であった北条高時の遺児・北条時行による中先代の乱が起こると、戦況が悪いと見た足利直義は駿河に撤退する際に、後醍醐天皇の皇子・護良親王を殺害するように命じる。淵辺義博は護良親王を殺害し、足利直義に従って駿河で北条時行らと戦うが戦死する。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
JR淵野辺駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「立川氏館」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
立川氏館は武蔵七党の立川宮内少輔宗恒が築いたとされる。戦国時代には、後北条氏が武蔵に侵攻してくると傘下に入り、本領を安堵される。小田原征伐の際に廃城となる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR立川駅 徒歩25分
多摩モノレール 柴崎体育館駅 徒歩10分

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城好きのメガネ

「勝沼城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
勝沼城は、平将門の末裔を称する三田氏が築いたとされる。戦国時代には上杉謙信に属し、後北条氏に対抗するが北条氏照に滅ぼされる。その後、師岡氏が城主をつとめる。小田原征伐の際に落城し、廃城となる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
JR東青梅駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「志村城」 (2020/04/06 訪問)

<アクセス>★☆☆☆☆
志村城は、豊島氏の一族である志村氏が築いたとされる。その後、千葉自胤が赤塚城に入城した際に、一族の千葉信胤が入り、赤塚城の前哨基地としての役割を担う。戦国時代には後北条氏が武蔵に侵攻し、北条氏綱に攻められ落城したとされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
都営三田線 志村三丁目駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「赤塚城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
赤塚城は、豊島氏の一族で赤塚氏が築城したとされる。享徳の乱では足利成氏方に攻められ千葉実胤・自胤は上杉家の助力を得て、市川城から赤塚城へ入る。千葉自胤の時代には、太田道灌に従い各地を転戦し、武蔵千葉氏の基盤を築く。戦国時代には、後北条氏が武蔵に侵攻してくると傘下に入り、代々千葉氏が治めた。小田原征伐の際に廃城となる。現在、土塁、空堀等が遺されている。

<アクセス>
都営三田線 西高島平駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「関戸城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
関戸城は、戦国時代に国人領主の佐伯氏が築いたと伝わる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
京王線 聖蹟桜ヶ丘駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「善得寺城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
善得寺城は、駿河守護・今川範政が築いたとされる。今川範政は、上杉禅秀の乱で鎌倉公方であった足利持氏を助け、乱を平定した。その後、足利持氏と対立すると幕府の意を受け関東の監視役を担った。戦国時代には「甲相駿三国同盟(善得寺会盟)」の締結された場所とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
岳南鉄道 岳南原田駅 徒歩20分

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カズサン

亀井侯繫がりの津和野城 (2010/11/06 訪問)

 亀井の殿さんが故郷因幡鹿野城から元和3年(1617年)転封に成り石見津和野城主へ、因幡気多郡高草郡の人々は亀井の殿さんとの思い入れも有り鹿野と津和野とのつながりを感じていたものでした。

 12年前の平成22年11月上旬、今回の出雲、石見城廻り、観光の3日目浜田市の畳ヶ浦近く国民宿舎千畳苑を後に国道9号線をを津和野に向かいました、町内殿町通りを抜けて津和野城登城リフト到着、隣接の駐車場を利用。

 今回妻と一緒に初登城です、町内観光も初めて、チョット不安なリフトでしたが直ぐ津和野城の城域尾根の上に到着、案内板、縄張り絵図、朝日が当たり屋根の影とのコントラスト差で絵図が見えずらい、尾根筋を歩いて織部出丸に到着、出丸では茶会野点準備中、周囲の石垣など観察撮影、津和野城下町の眺望も素晴らしい、出丸から本城まで尾根筋道を約200~300m10分程歩く。
 下から仰ぎ見る様に帯曲輪、二の丸の石垣が覆いかぶさって来る、季節は秋、紅葉が綺麗、東門跡、三段櫓石垣、同櫓門跡、二の丸、三の丸人入り、最高所より低い所に在る天守台を見上げる、西櫓門跡、先に三の丸を南櫓門方向に移動、有名な人質櫓台が目に張って来る、南櫓門跡、三の丸広場からの人質櫓台の眺めは素晴らしく絵に成る。
 少し戻って三十間台に登る、広い曲輪で眺望も素晴らしい、三の丸方向人質櫓台、南櫓門の石垣が良い景観、北方向太鼓丸、三十間台から太鼓丸に続く虎口石垣の造りも素晴らしい、三十間台の眺望を後からさだまさしの「案山子」の舞台がここ津和野城と知る。
 太鼓丸から二ノ丸、天守台に登る、天守台から三の丸、西櫓門、三段櫓門、台所櫓、海老櫓方向を眺めて、西の台所櫓跡海老櫓跡方向の石垣を確認。全体に城域が紅葉に覆われて綺麗な時期でした。
 遠く相対する山方向から眺めると秋の朝霧の発生する時期は竹田城のように天空に浮かぶ津和野城が見える事でしょう、日本あちこちに天空の城が存在しますが津和野城もその一つ。
 約2時間天空の城を探訪散策撮影しました大満足の秋晴天でした。

 津和野城山頂の郭群を降りて、津和野高校横を通り、通り沿いの物見櫓、馬場先櫓を眺めて殿町へ伝統的建造物群の在る町並みを散策する、通り両端の用水路に鯉が放流され大変落ち着いた町並みです、森鷗外宅の見学、津和野町役場造りが御殿風、門は家老屋敷門、殿町近くの食事店で昼食を取りましたが場所がどこだったか記憶から消えています。

 津和野城は関ヶ原合戦の戦功で坂崎出羽守成正が津和野城主、中世吉見氏の山城を織豊系城郭に大改修し石垣の天空の城へ、大坂の陣で千姫を助ける手柄を立てたが戦功の約束違いで千姫奪取事件で死去改易、坂崎氏の後に亀井氏が入封し明治まで継承する。

 帰りは中国道六日市ICより入り、東名浜松ICを出る約700km、今回の竹田城から故郷鳥取母の三回忌法要、鹿野城、鹿野温泉、大山、月山富田城、松江城、玉造温泉、荒神谷遺跡、出雲大社、大森代官所、石見銀山、浜田城、畳ヶ浦、津和野城と廻り4泊5日往復約1500kmの車走行でした。

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にのまる

36見附めぐり㉜~桜田門(外桜田門)~

地下鉄有楽町線桜田門駅。3番出口の階段を上がり地上に出るとそこは非日常への入り口です。
両脇に立石の配された高麗門に吸い込まれるように入っていくと待ち構えるのは320坪の巨大枡形。右手に聳える櫓門のデカさも半端ないです。
桜田門がこれほど大きく、外枡形で桜田濠に突き出ているのは西の丸の防御のため。
千鳥ヶ淵~半蔵濠~桜田濠とずっと続いていた土塁が石垣に変わるのもこの場所です。土塁と石垣の境目は眼福です。

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じゅんじん

10年ぶり (2022/01/29 訪問)

関所の監視ですね。合戦の砦跡も周囲にあります。上るのも大変なのに戦うなんて考えられません(;^ω^)

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T-Shionoya

住宅地に溶け込んだ玉縄城 (2022/01/08 訪問)

本年最初の城巡りは神奈川県鎌倉市の玉縄城。
遺構の少ない城ですが、北条氏の主要な支城として興味のあった城。

鎌倉幕府滅亡後も、鎌倉公方が置かれるなど関東の中心都市であった鎌倉。
その外側北西部の大船は、相模湾と繋がる柏尾川の水運拠点だったとのこと。
そして川の北西に位置する玉縄は鎌倉街道上道と中道に挟まれたエリアで、水陸交通の要衝だったと窺えます。

また玉縄城は多摩丘陵南端の山谷が複雑な地形にあり、本丸は比高約50mの高台の上。
更に城郭周辺のいくつかの尾根には、砦が配置されていたようです。

1512年に伊勢宗瑞(北条早雲)が東相模攻略の前線基地として築城し、代々北条氏一族が城主に着任。
秀吉の小田原征伐で家康の説得により開城となると、以後は家康の側近が城に入り江戸前期で幕を下ろしました。

元々噴火口の様な形状だった本丸ですが、現在は土塁の大半が削平され高校に。
そこに諏訪壇や蹴鞠場跡が残るものの、外からではただ何となく見上げるだけ。
他の城域も住宅地となっており、七曲坂と太鼓櫓跡のみが常時入場可能な城。

訪問時のルートは玉縄ふるさと館のある龍宝寺を起点に、七曲坂、太鼓櫓跡、大手虎口跡、二伝寺(砦跡)、柏尾川、現諏訪神社、そしてお花畑の北側へ。
実際に歩くと予想以上に急坂が多く、七曲坂の頂上は本丸と太鼓櫓を分断する堀切なんですね。所々でそんな住宅地に溶け込んだ城郭地形を確認できた私の城巡りの117城目でした。

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赤い城

堀田佐野城址公園 (2022/02/26 訪問)

公園になっていて駐車場もあります。
駐車場のすぐ前に門があり、池もありますが冬だからか水は無し。
近くの民家前に石碑が立っています。
遺構は無さそうと思っていたら堀田稲荷神社が土塁の上に建っていました。
佐野藩の藩庁が置かれた場所です。

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