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JPN-AZE

With the great view (2022/08/19 訪問)

2022年8月19日朝、真田本城跡こと松尾城を訪問しました。行って気付いたのですが、城址に着く前の道が、割と狭かったです。リンカーン・ナビゲーターや、キャデラック・エスカレードのようなフルサイズSUVだと、ちょっときついかもしれません。私の車はMazda CX-3なので、特に苦労はなかったです。城址に、建物の類はなかったですが、城址の標高が890mなのもあるせいか、見事な信州の山並みを見る事が出来ました。

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朝田 辰兵衛

「帰りのバス停は,どこになりますか?」 (2020/12/20 訪問)

公共交通利用の場合,王道は掛川駅前から路線バスだと思います。最寄りは「土(ひじ)方」バス停。このバス停周辺は変則交差点となっています。向い側に帰りのバス停が見えなかったので,「帰りのバス停は,どこになりますか?」と運転手さんに尋ねました。だいぶうしろで,交差点の向こう…。これは聞いといて正解だと。
この日以降,ほぼほぼ毎回「帰りのバス停は,どこになりますか?」と確認するようになりました。
私の他にもバス攻城者がおられました。意識的に距離を置きましたが,帰りの「土(ひじ)方」バス停で一緒となり苦笑い。少し息が上がっている感じに見えたので,感染予防の観点から声掛けは控えました。

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津城 (2022/08/28 訪問)

続日本百名城

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松阪城 (2022/08/28 訪問)

日本百名城

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田丸城 (2022/08/28 訪問)

続日本百名城

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伊賀上野城 (2022/08/28 訪問)

日本百名城

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霧山城 (2022/08/28 訪問)

続日本百名城

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岐阜城 (2022/08/26 訪問)

日本百名城

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くらのり

山形城 (2019/06/15 訪問)

別名「霞城(かじょう)」「霞ヶ城」と呼ばれています。城郭構造の基礎は、最上善光の時代に作られ、鳥居忠政の時代に現代の形に整えられました。
江戸時代には山形藩の政庁が置かれ、現在は武家屋敷群のあった三の丸が市街地化しており、本丸、二の丸跡は霞城公園として整備されています。山形城の建造物は、大手南門が万松寺山門として移築され現存しています。
現在、本丸全体の発掘調査を行っており、本丸枡形門の復元を完了することを計画しています。三の丸跡からは奈良時代~平安時代のものと推定される竪穴住居跡6棟が発見されました。

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くらのり

平田城 (2019/04/30 訪問)

戦国期は、在地領主野仲氏の居城。野仲氏は城番として平田氏を置く。黒田氏入部時に攻撃され落城。その後、平田城は黒田家の重臣栗山利安に与えられ、石垣作りの城へ造りかえられたと考えられる。
遺構の残存状況は城域は二つの丘陵に及ぶ。南側の忠霊塔のある丘陵斜面には、16世紀末の石垣がある。算木積みが未発達な点など中津城跡と共通する特徴がある。築石部は布目崩し積みになっている。

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くらのり

萩城 (2019/03/17 訪問)

別名「指月城(しづきじょう)」と呼ばれています。城跡は国の史跡にも指定され、毛利氏が広島城に代わる新たな居城として慶長9年(1604年)に築いたお城です。
指月山の山麓にある平城と、山頂にある山城で構成されており、本丸御殿は藩主居館と政庁を兼ねています。250年あまり長州藩の拠点であったものの、廃城令によって櫓など他の建物とともに萩城は破却され、石垣や堀のみ現存しています。
現在は二の丸土堀や三の丸総門など一部は復元されています。城跡は指月公園として整備され、二の丸入口近くには重要文化財である萩屋敷長屋が現存しています。

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くらのり

来島城 (2018/06/24 訪問)

来島村上水軍の拠点で、最大潮速時速約20㎞の来島海峡の喉元に位置する海賊の城。発展のため三家に分立し来島、能島、因島に分かれ海上を支配した村上氏。
1419年(応永26年)、来島には村上義顕の三男吉房が入り、6代約160年続くことに。因島村上氏、能島村上氏との紛争が絶えず起こり、1582年(天正10年)毛利氏・河野氏の連合軍により織田信長側に寝返った来島城を攻撃、時の当主、道総は、備中にいた羽柴秀吉を頼り来島城を脱出、秀吉の四国平定でこの方面の先陣を務めた功で伊予の風早郡一万四千石を与えられ、来島を完全に離れ来島城は廃墟となった。

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くらのり

高松城 (2018/05/19 訪問)

万葉集で柿本人麻呂が讃岐国の枕詞に「玉藻よし」と詠んだことから別名「玉藻城」と呼ばれています。
豊臣秀吉の四国制圧の後、讃岐一国の領主となった生駒親正によって野原と呼ばれた港町に築かれました。現在見られる遺構は、徳川光圀の兄である松平頼重によって改修されたものです。近世城郭の海城としては、最初で最大の例になりました。
本丸に建てられた天守は、最下重が萩城や熊本城の天守のように天守台より出張り、最上重が小倉城や岩国城の天守のような唐づくりでした。現在は、三重櫓、門などの一部の建物などが現存しており、城跡は玉藻公園として整備されています。

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くらのり

鬼ノ城 (2018/05/05 訪問)

城跡は国の史跡「鬼城山」に築かれた日本古代の山城です。築城年は不明ですが、発掘調査では7世紀後半に築かれたのではないかとされ、城壁で囲まれた城内の面積は30ヘクタールであり、城壁は土塁が主体で、城門、角楼、水門などで構成。
城壁を保護するための敷石の発見は、鬼ノ城が国内初です。鬼ノ城は、山城に必要な設備がほぼ備わっており、未完成の山城が多い中では非常にまれな完成した古代山城としても有名。城壁は幅7m×高さ6~7mの版築土塁が全体の8割を占めていますが、城壁最下は敷石が建設されていて、石城の趣が強い。

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くらのり

摩耶山城 (2018/04/07 訪問)

南北朝時代に赤松円心則村によって築かれた。山岳寺院天上寺を背後の砦として摩耶山城を築いたと考えられている。
元弘3年、大塔宮護良親王の令旨を受け、播磨白旗城で鎌倉幕府討伐の挙兵をした赤松則村は、摂津へと進出して摩耶山城で、六波羅探題勢を迎え撃った。
これが太平記にある「摩耶合戦」である。その後の摩耶山城の歴史は定かではないが、戦国時代に城郭として機能していたと考えられる。

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くらのり

大阪城 (2018/02/18 訪問)

戦国時代の石山(大坂)本願寺の跡地に豊臣秀吉が安土桃山時代に天下統一の拠点として1583年(天正11年)から築き上げた城。
城域が2㎞四方を越す難攻不落の巨城であったが、1614年大坂冬の陣で徳川家康らの大軍に外堀が埋められ、翌年の夏の陣で天守閣等が炎上し落城。
その後徳川幕府は西国・北国の64藩を動員して1620年(元和6年)から10年、豊臣秀吉が築いた遺構は全て埋没し全面的に築城し、城代を置いて明治維新に至った。現存する遺構は全てこの時代のもの。現在の天守閣は大阪市民の熱意で昭和6年に復興されたもの。

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くらのり

姫路城 (2017/12/23 訪問)

日本のお城の中でも、抜群の知名度を誇る城です。江戸時代初期に建てられた天守や櫓など主要建築物が現存しているお城であり、国宝、重要文化財に指定。
また、世界遺産にも登録されており、白壁が非常に美しく、別名を「白鷺城」と呼びます。姫路城は日本における近世城郭の代表的な遺構であり、江戸時代以前に建設された天守が残る現存12天守の1つ。
関ヶ原の戦いの後に城主となった池田輝政によって大規模な城郭へ拡張されました。2度の空襲被害にあったものの、大天守最上階に落ちた爆弾が不発弾となり、奇跡的に焼失を免れました。

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くらのり

鞆城 (2017/10/09 訪問)

前身となるのが1553年(天文22年)頃に毛利元就の命により備後地方の豪族である渡辺氏が市街中心部の丘陵に築いた鞆要害である。その規模・構造はよく分っていないが、1576年(天正4年)には京都を追われた足利義昭が毛利氏の庇護の下、この鞆要害で亡命政権を樹立した。
江戸時代に入ると安芸備後を与えられた福島正則により鞆要害の築城が開始され、鞆城と呼ばれ、丘陵部の本丸を中心に二の丸、三の丸が囲み、その城域は、南は鞆港、東は福禅寺、北は沼名前神社の参道まで達する大規模なものであった。この時、3層3階の天守も建てられたといわれている。

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くらのり

宇和島城 (2017/08/26 訪問)

江戸時代は宇和島藩の藩庁となり、城跡は国の史跡に指定。中世期にあった丸串城の跡地に、藤堂高虎によって築城された近世城郭。標高73mの丘陵とその一体に、山頂の本丸を中心にそれを囲むように二の丸、北に藤兵衛丸、西に代右衛門丸を配置した平山城。東には海水を引き込んで、水堀、西半分が海に接しているので海城でもありました。
現在の天守は2代目の伊達宗利氏の独立式層塔型3重3階ですが、縄張りそのものに関しては築城の名手として知られる藤堂高虎が創建した複合式望楼型の三重天守の当時の形を活用され、建て替えられました。

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くらのり

松江城 (2017/05/07 訪問)

別名「千鳥城」と呼ばれ、現存天守は国宝、城跡は国の史跡に指定されています。小瀬甫庵の縄張りによる平山城であり、江戸時代には松江藩の政庁として出雲地方の政治経済の中心でした。山陰地方では唯一の現存天守であり、国宝指定された5城の1つになります。
標高29mに建つ天守からは近くの宍道湖を眺望できます。明治時代の廃城令によって解体、売却される予定が、地元の有志により天守閣だけは買い戻されて解体を免れました。近年では、二の丸櫓が復元され、当時の姿を取り戻しつつあります。城山部分は公園になっています。

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