春の長崎天草を巡る旅、(9城目)は「大矢野城」です。
翌朝ホテルを出て、まず大矢野城へ行ってみました。ホテルの前(2号橋バス停)からバス10分の所(大矢野庁舎前)で下車し徒歩5分、大矢野中学校の裏の小高い丘の上にありました。(写真①~⑤)。城主の大矢野氏は元寇ではかなり活躍したようで、蒙古襲来絵詞にもその姿があるようです。私は以前元寇と竹崎季長を追いましたが、この大矢野氏が活躍した事は知りませんでした🤔。
大矢野氏は天草五人衆の一人に数えられ、戦国時代を独立して生き延びますが、秀吉から熊本の地を与えられた小西行長・加藤清正軍に敗れ、領地を没収され小西行長の家臣となります。その後、大矢野種基は秀吉に従い朝鮮へ出兵しますが、そこで命を落としたようです。それからの大矢野氏は、小西行長が関ケ原で斬首になったため、加藤清正に仕え、加藤家改易後は細川氏に仕えたようです。
またここ大矢野島は天草四郎が生まれ育った場所だとされています。天草四郎の父とされる「益田甚兵衛」は小西行長の家臣でしたが、行長死後はキリスト教を棄教する事ができなかったため加藤家へは仕官せず、宇土城下から移住して農民(隠れキリシタン)となってこの大矢野島に住み着き、そこで四郎は生まれたようです。
大矢野城から国道を徒歩で10分ほど戻った所にある「天草四郎メモリアルホール」に行ってみました(写真⑥)。ホールの中はまるで教会のようで、ステンドグラスに囲まれた静かで幻想的な雰囲気に包まれていて、天草四郎の事がシアターなどで解説されていました(写真⑦他撮影不可)。
ホールから海岸を眺めると、雲仙普賢岳や原城も対岸に見えました(写真⑧)。という事は天草四郎も幼い時からこの景色をよく見ていたという事になります。その時の四郎は、永遠にここ大矢野島で自分は平和に暮らせるものとばかり思っていたでしょう。まさか戦乱に巻き込まれ、あげくには総大将に祀り上げられ、最後はあそこに見える原城で最期を迎える事になるとは、夢にも思っていなかったのではないでしょうか?🤔
次はメモリアルホールの前にある(さんぱーる)バス停から、本渡バスセンター行(快速あまくさ号)に再び乗って本渡へ戻り、本渡城に向かいます。
+ 続きを読む