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おっちゃん

明智城跡散策路マップ (2020/01/26 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

明知城縄張図、落合砦縄張図、明知陣屋絵図 (2020/01/26 訪問)

現地案内板より抜粋

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ダイエティシャン

吉田郡山城跡 攻城の陣所に (2022/07/28 訪問)

吉田郡山城跡から約4キロ、国道54号線沿いに、【道の駅 三矢の里 あきたかた】が、オープンしていーました。

吉田郡山城の御城印や毛利関係のグッズなど、豊富な種類がありました。

【ノーバッグ パーキング】なる物があり、出庫しやすい駐車場設計です。

休日は、武者さんも参陣するそうです。

びっくりするような設備もあります。

安芸高田市には、【吉田郡山城跡】を始め、【桂城跡】等、毛利関係の山城が多数。ここ、【道の駅 三矢の里 あきたかた】は、山城攻めの、陣所として、大いに楽しめます。


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カズサン

水の手門復元続土塀と詰の城探訪 (2007/03/22 訪問)

 人吉城は遠州相良から鎌倉期に相良氏が人吉荘地頭として赴き、鎌倉、南北朝、室町、戦国期を乗り越えて江戸期も2万2千石として守り明治を迎えている、遠江浜松在住者としては思入れも有ります。
 わが社の子会社が一山越えた鹿児島県に有りましたので、出張の空き時間に何回となく訪ねて居ましたが、15年前の3月下旬に水の手門続土塀が完成したとの情報も有り訪ねました、併せてあまり登って無かった詰の丸山手の曲輪も探訪。

 探訪ルート:水の手門周り復元続土塀、武者返し石垣、水の手門から東上流側曲輪、高石垣が見所の御下門、登って、三の丸、二の丸中の御門跡、二の丸、本丸登城路を巡り、戻って重臣屋敷跡のガイダンス施設、桜が咲きはじめでした。
 

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チェブ

鉛と人の心理が勝敗を決めたのか? (2022/05/06 訪問)

「新城城」から「長篠城」に転戦しました。
1508年、菅沼氏が築城します。
「長篠城」は長篠の戦いで活躍してますが、愛知県・静岡県・長野県の県境の位置にあるので、これまでも多くの戦いがあったと思います。

「長篠城」、長篠・設楽原の戦いの布陣図がお出迎えしてくれて、誰の陣地に行くか迷います。
まずは史跡保存館の外に、続100名城スタンプがあり押印。
左手を向けば大きな土塁と堀があります。
約500人が籠城した「長篠城」、備蓄の補給があれば、いつまでも籠れるほど堅固だな、が正直な感想です。
本丸跡には敵味方の幟がはためき、幟が繋がれた竿がギィギィと不気味に鳴ります。

長篠城の戦いは、鳥居 強右衛門さんの勇気ある行動も有名です。ずいぶん下に川が流れてます。命懸けの行動で籠城軍の活気も想像できます。

長篠・設楽原の戦いは、織田・徳川連合VS武田。つまり、鉄砲VS馬のように習いました。
近年では鉛不足も勝敗原因の1つです。
合戦跡で出た鉛玉の産地は①国産②中国③その他の国、なんだそうです。
「長篠城」近くの山々から、鉛に近い鉱物が取れたらなぁと。
考え方が武田家寄り。

1575年の長篠・設楽原の戦いの覚え方、語呂合せは
『1発でコナゴナ、武田の騎馬隊』
『以後、泣こう武田負け』
等々。
先人たちの生き様を簡単に覚えるなんて、、、。(私もその1人でしたが。)
両軍の幟旗を見て、勝つか負けるか分からない命懸けが感じられる「長篠城」でした。

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マダム卑弥呼 

二回目でしたが、豊久ファンですので。 (2022/04/20 訪問)

義弘中心に関が原行きました。気持ちよかった~

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赤い城

早朝お散歩 (2022/07/11 訪問)

盛岡駅近くのホテルに泊まっていたので朝早く起きて散歩しました。盛岡駅から徒歩で15分くらい。
盛岡城跡公園として整備されています。
スタンプは前日にもりおか歴史文化館で押印済みでした。
高い石垣を見上げながらまずは外周を周ります。
南側には江戸後期の建造物である彦御蔵。
石垣の南西部には隅落が施されています。
淡路丸から本丸へと向かいます。
本丸と二の丸の間には堀切があり、復元された赤い木橋がかかります。
三の丸の石垣は修繕工事中でした。
櫻山神社はパワースポットのようで女性が多く参拝されていました。
神社裏手にある烏帽子岩は盛岡城築城の際に見つかった巨岩だそうです。
一旦ホテルに戻り、この近くのお店でじゃじゃ麺を頂き盛岡三大麺を制覇。
いずれも美味しかったです。
この日はこのあと中尊寺へ。
お城はここまでとなりました。

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todo94

霞ヶ城(手塚城)【長野県諏訪郡下諏訪町】 (2022/07/30 訪問)

1泊ドックで泊をとった旅館にて諏訪大社下社秋宮の朝御饌祭に参加したところ、この城に脚を伸ばして教えていただくことが出来ました。駐車場となっていますが、諏訪湖の眺めが良いスポットとのこと。下社の大祝・金刺氏の居城です。源義仲に味方して捕らえられ梶原景時に預けられたのち、鶴岡八幡宮で流鏑馬の妙技を見せ許されたという金刺盛澄の銅像が建っています。

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にのまる

勝山御殿本丸玄関(覚苑寺へ移築) (2022/06/09 訪問)

2年半ぶりの帰省3日目は市内観光をしました。高校卒業と同時に上京したので記憶がその時代で止まっている場所もあり、いろいろ新鮮でした♪
スタートは城下町長府。長屋門や練塀の残る古江小路を通り長府毛利邸~功山寺~覚苑寺~乃木神社とまわりました。
覚苑寺の庫裡が勝山御殿本丸玄関の移築であるため勝山城(勝山御殿)に投稿いたします。明治初期の御殿解体の後に当地に移築されたのだそうです。勝山御殿は立派な石垣が残り2019年に国史跡に指定されています。
① 菅家長屋門
② 古江小路
③ 長府毛利邸入口
④ 長府毛利邸
⑤ 功山寺大内義長墓所
⑥ 功山寺長府藩主毛利家墓所
⑦ 功山寺高杉晋作騎馬像
⑧ 覚苑寺庫裡(勝山御殿玄関移築)
⑨ 乃木神社乃木希典夫妻像
⑩ 顔パネ

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トク

【熊本城と西南戦争の遺跡を巡る③】薩軍と西郷隆盛(前編) (2022/06/22 訪問)

「②官軍と谷千城(後編)」からの続きです。

西郷隆盛は、最初「北岡神社」(熊本駅から北へ徒歩5分)に陣を敷きます(写真①②③④)。城に近づく事すら難しいと悟った薩軍は、近くの「花岡山」に砲台陣地を築き、熊本城めがけ砲撃を加えました。しかし薩軍の砲弾は届きません(手前の段山あたりに落ちたようです)。対して官軍の砲弾は、熊本城から北岡神社や花岡山まで届いたそうです。

私も花岡山に登ってきました(北岡神社から徒歩20分の登りです)。確かにここから遠く熊本城天守が見えました(写真⑤)。届かぬ砲弾を見て、西郷はさぞかしくやしかった事でしょう。しかし、このまま北岡神社に陣を敷くのは危険と判断した西郷は、少し南の「二本木神社」(熊本駅から南へ市電で5分(田崎橋)から徒歩5分)へ陣を移し(写真⑥⑦)、そして包囲戦へ切り替えました。

実はここ花岡山は、加藤清正が熊本城を築城する時に、石を採取した場所でもあります(扇勾配の石も、ここから採取された石かもしれませんね😊!)。採取に陣頭指揮をとった清正が、休憩のため腰かけたとされる「腰掛け岩」(写真⑧)や兜を置いたとされる「兜岩」(写真⑨)がありました。また、登山途中に確かにあちこちに石垣に使えそうな大きな石が見られ、石の間から水が湧き出ている「乳水」(この水を飲むと母乳がよく出るらしい)という場所もありました(写真⑩)。

西郷は砲撃戦をあきらめて作戦を変更し、今度は包囲戦へ切り替える事にします。

「④薩軍と西郷隆盛(後編)」へ続きます

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朝田 辰兵衛

気温35℃超。スマホが悲鳴を上げました。 (2022/07/30 訪問)

赤字路線で廃線検討されている区間に入っている,JR米坂線の萩生駅から西に約2㎞。出丸とされている恩徳寺を目指します。恩徳寺と堀を挟んで公園があり,ここが主郭とされ碑とパネルが設置されています。ここのパネルは散策に役立ちます。土塁は出丸とされている恩徳寺のほうが見ごたえがあります。
恩徳寺の土塁は定期的に草刈りをしているようだったので,登ってみました。注意はしてたのですが,両手を蚊に刺されました。
さらに,高温ということで,スマホが悲鳴を上げました。個人的には,ここからさらに転戦も可能だったのですが,スマホ可愛さにここでお開きとしました。

カズサンさん,早速のレス,大変にありがとうございました!
嬉しいお言葉もいただきまして,深く感謝申し上げます。
コロナが立ちはだかっているので,ちょっとまだ時間を要すかと思います。

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長久手城 (2020/07/30 訪問)

 長久手の戦いのときに岩崎城城主丹羽氏次の代わりに城に入り丹羽氏重と共に戦った加藤太郎衛門忠景の居城です。城びとは未登録の城址です。長久手城もこのときに落城したと伝わっています。石碑と案内板があります。遺構はありません。石碑の徳川義宣という人は尾張徳川宗家21代当主で徳川美術館館長もされていた方です。

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岩作城 (2022/07/30 訪問)

 岩作は「やざこ」と読むようです。全く知らないノーマークの城址ですが長久手古戦場散歩をしていたときに長久手市市役所で石碑を見つけました。城びとには未登録の城です。詳しい歴史はわかっていないようですが、昭和60年に発掘調査が行われ、方形単郭の居館であったようです。14世紀後半に築城された今井氏の城とのことです。遺構はありません。

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長久手古戦場 (2022/07/30 訪問)

 夏の古戦場めぐり第2弾は小牧長久手の戦いの長久手古戦場です。ここにした理由は行きやすいというだけです。
 徳川家康が陣を張り軍議を開いたといわれる色金山歴史公園から首塚→御旗山→血の池公園、鎧掛けの松→武蔵塚→古戦場公園と散歩しました。色金山公園には家康が腰かけたといわれる岩「床机石」があります。色金山歴史公園の展望テラスは当時の雰囲気を醸し出しています。ただこの時期は緑が多く、景色はあまり楽しめません。武蔵塚は鬼武蔵といわれた森武蔵守長可の戦死地です。古戦場公園には池田恒興、元助親子の塚(勝入塚、庄九郎塚)があります。

 名古屋地下鉄「藤が丘駅」からバスで岩作バス停まで行くと色金山歴史公園近くまで行けます。また古戦場公園の目の前には東部丘陵線、通称リニモの長久手古戦場駅があります。徒歩で回ると長久手古戦場駅からスタートすると山へ登って行くことになると思い、自分は色金山歴史公園から下りるように散策できるルートを選択しました。少しは上りますが暑かったことを除けば負担が少なく散策できました。

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カズサン

天守台を訪ね訪ねて❣ (2007/06/02 訪問)

 津城の本丸天守台は南西の坤の方向に在りますが、本丸内側からは桜の木も多く茂り、外側の南側は公園会館が天守台脇まで迫り、西は城山稲荷神社が迫り、天守台・小天守台を全体に俯瞰、撮影するポイントが見つかりません、まして天守台に登る事も出来ず、天守台の探訪は消化不良の状態ですが、15年前の平成19年6月上旬登城して、公園会館と天守台の狭い隙間から、南面、西面、天守台と小天守台、埋門跡多聞櫓台の続き石垣をコンパクトデジカメで撮りました。・・全体がやっぱり撮れなくて未消化写真ですが部分部分にして投稿致します。
 また、見所の昭和33年に本丸東鉄門枡形の北多聞櫓台に復元した模擬三重櫓も投稿致します。

 古絵図、復元CG(三浦先生復元)によると本丸は平城総石垣造り、四隅に丑寅三重櫓、戌亥三重櫓、辰巳に月見二重櫓、未申に天守台・小天守台を構えて天守閣は乗せず、その間は多聞櫓がぐるっと埋める、東には東鉄門枡形、西には西鉄門枡形の厳重な守り、更に出丸の様な東の丸を東鉄門の東へ配置、西には西の丸が西鉄門西に配置し枡形を備える、本丸へは土橋を渡し二の丸へは木橋でつなぐ。
 本丸、二の丸、三の丸、内濠は広く、外堀、南に岩田川、北に安濃川も引き込んで守りとする、西側の守りを固めてる配備の輪郭式縄張。
 大坂の陣前に西の伊賀上野城と同時の築城との事、伊賀上野城を詰の城、津城を政務、流通の平城の役目分担を狙ってか32万石太守の城郭です。

 現在は縮小されて本丸、西の丸、北側の壕は縮小埋立られていますが、丑寅櫓台、多聞櫓台、戌亥櫓台が凛と残って模擬櫓と濠が見所のポイントです。

 朝田さんへ・・令和2年12月20日浜松に来られ浜松城登城されたのですね、お会い出来ればご案内がてら城話でもと思ったりしました、浜松城のリニューアル工事は丁度令和2年10月から12月末まで天守登城中止、翌年令和3年元旦より一般公開されて居ます。
 また、来浜松の折はお声かけ頂ければご案内します。
 武漢コロナウイルス新株感染拡大と夏の暑さで秋以降まで様子見、古い写真を掘り起こし投稿を続けていきます。

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チェブ

番外編「山本 勘助生誕の地」の巻。 (2022/05/06 訪問)

愛知県豊川市の「牛久保城」、 多くの方が、山本 勘助さんの生誕地、もしくは墓、がセットで投稿してあります。
私も、皆さんに習い生誕地にお邪魔しました。

12~13年前に、川中島合戦の古戦場を巡った時に長野県の千曲川沿いにお墓がありました。
愛知県で、勘助さんの名前に出会うとは( ゚∀゚)
皆さんの投稿のおかげです。皆さん、いつも ありがとうございます。
山本 勘助さんは、「牛久保城」の牧野氏の家臣だった時期があるそうです。

早い時間にお邪魔しました。地元の方に路駐の許可をとり(車はすれ違いできない道幅です。)石碑とヨレヨレの説明板を写し、失礼しました。
この時、枝等で車のサイドは傷だらけです。(それくらいの道幅です。)

武田家で活躍した山本 勘助さん、愛知県で誕生したとは。でも、この前、静岡県富士宮市でも誕生地があって、お邪魔できなかった事を悔やんだばかりです。
ミステリアスな勘助さんの人生を、書籍やメディア等で想像するの楽しくなってきます。

「ここに車止めてもいいですか?」の声がけに「いいら~。」と、気さくに御返事してくれた地元の方々。
ありがとうございました。『ら~。』と語尾が軽やかで、素敵な地方言葉でした。。

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モト

本丸の石垣が魅力的です。 (2022/05/24 訪問)

本丸で石垣が見れます。
神社、公園と整備された城跡ですが魅力的な石垣が残ってます。
また、城門も残されており城跡の雰囲気が満載です。
他に土塁などの遺構も見る事ができます。
案内板も要所にあり見学しやすい城跡でした。

公園の駐車場が何台か停められるスペースがありました。
整備されているので歩き易くなってましたが石垣、城門、土塁など見所のある城跡です。

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小城小次郎

もし富岡城が陥落していたら (2022/02/12 訪問)

島原・天草の乱の序盤で攻略に失敗した一揆勢は海を渡り、やがて原城に立て籠もった。もし富岡城攻略に成功していたならば、一揆勢はそのまま富岡城に籠り、乱の名も「天草の乱」となっていたのかも・・と、ふと思った。

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朝田 辰兵衛

天守内改装中,立入禁止でした。 (2020/12/20 訪問)

カズサンさんの庭に足を踏み入れた…っていう気持ちが強かったです。太平洋側の冬の青空はとても気持ちがいいですネ!
撮れ高はありきたりですが,ご容赦ください。
天守内改装中で立入禁止でしたが,スタンプは天守門内でペッタンできました。

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宗春

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその27 吉橋城 (2022/07/29 訪問)

千葉の城を攻めて御城印を頂こうシリーズその27

コロナ感染者の急増により、急遽予定を変更して、久しぶりに県内のお城を自家用車で攻めました。
主郭はお寺になっていて、城址らしい遺構はほぼありません。城址碑があるらしいのですが、見つける事が出来ませんでした。残念。

御城印は、「ますごとしすい」で購入したたものに日付を入れました。

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