浜松駅からバスで浜松城公園下車。天守門~天守閣~石垣~鎧掛けの松と見て回る。
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2022/04/30 23:04
2022/04/30 23:00
津山城(2016年) (2016/05/13 訪問)
岡山での用件終了後に訪城。岡山からJR津山線で津山へ。駅前から徒歩10分ほどで津山観光センターに着く。ここで城内の案内図をもらい、料金所から鶴山館を見て、三の丸~表中門跡~二の丸~切手門跡~表鉄門跡~本丸~備中櫓内部見学~多門櫓跡~天守台~粟積櫓跡~長屋櫓跡~裏鉄門跡~裏中門跡~厩堀~三の丸~表門跡と見て回る。
B級グルメの津山ホルモンうどんを食べたかったが、岡山で昼食べたデミカツ丼が堪えて食べられなかったのが残念。
100名城スタンプは備中櫓内で出してくれる。
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2022/04/30 22:55
蔵王スキーと城巡り~二本松城 (2015/12/24 訪問)
蔵王でのスキーの帰路に訪城。白石城を見学して、白石温麺を食べてJRで二本松へ。二本松駅からは歩いて登城。
大手門跡~旧二本松藩戒石銘碑~箕輪門~塀重門跡~三ノ丸~洗心亭~新城舘~搦手門跡~本丸石垣~大石垣~城内路~三ノ丸上段~二本松市歴史資料館と歩く。
駅からの比高は約130m、距離も往復約5kmあり、ある程度の時間の余裕を持って登城した方がよい。
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2022/04/30 22:49
2022/04/30 22:43
2022/04/30 22:39
2022/04/30 21:40
今回天守台内部に初登り (2009/06/10 訪問)
杵築城を終えて小雨止まぬ中、レンタカーで日出城本丸北に在る二の丸観光案内所駐車場を利用。
13年前の平成21年5月上旬、4泊5日大分県宮崎県城廻り3城目です。
日出城の近世城郭は関ヶ原合戦の軍功で木下家定の三男木下延俊が3万石で入封し築城される。以後木下家が江戸期継承し明治を迎える。 別府湾に突き出た台地の先端に本丸、三層の天守閣、二の丸、三の丸の悌郭式縄張、三万石には過ぎたる総石垣城郭、義兄の細川忠興の支援が有った様です。
探訪は、今回本丸内日出小学校に入った所で教員の方に見学の了解を頂き、初めて本丸南端の天守台の内部に登り観察する事が出来ました、感激です。 本丸から南の望海櫓台経由南天守台下、本丸下南、西と廻り城塁、多聞櫓台を見上げて、西の月見櫓台下から南に降りる空堀を眺めて、致道館の在る曲輪へ致道館、門は修復が必要な壊れ方、二の丸侍屋敷の通りを大手口へ、大手口日出小学校入口の土橋に架かる蒲鉾石垣を観察、鬼門櫓台跡を廻り東の空堀、石垣城塁、天守台を望む、東に搦手口跡、鐘櫓台跡に時鐘が置かれてる。
小雨模様の夕刻近く薄暗くなってきた、写真採光条件は余り良く無いタイミングでした。
現在は維新後民間に払下げてた鬼門櫓が月見櫓跡の空堀西に移築復元され、二の丸観光案内所に裏門櫓移築と傍に城門が復元した。また二の丸西の致道館は館、門とも修復され往時の姿に甦った。13年前の平成21年6月上旬からの経過であります。
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2022/04/30 21:14
鮫ヶ尾城跡縄張り図、鮫ヶ尾城全体図、鮫ヶ尾城跡図 (2020/08/24 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/04/30 21:07
坂田城案内図 (2017/10/07 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/04/30 21:03
采女城跡市民緑地、采女城跡図 (2017/01/28 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/04/30 20:59
妻木城跡地形測量図 (2020/11/15 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/04/30 20:56
佐倉城案内図 (2015/09/19 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/04/30 20:34
城と動物
さあこの石垣の写真。どこに何がいるかわかりますか?難問!答えお待ちしてます。投稿から動物の名前をお知らせください。
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2022/04/30 20:30
積み方の異なる石垣。 (2022/04/30 訪問)
さあ展望台から景色を眺めたら、次は石垣。本アカウント(POYO 58)でも記したようにこの城は4種類の積み方をした石垣が存在します。全て役割は違い、さまざまな縄張りを構成します。二の丸を行ってみると、この城でここにしかない谷積みの石垣が確認できます。二の丸の櫓跡の隣には的場があり、打ち込み接ぎが。谷積みの先には切り込み接ぎも見えて来ます。石垣を見てしまうと止まりません。模型で見てみるとこの石垣の上には建物がずらりと並んでいると考えられていて、当時の様子が想像できました。
苗木城に関しては終わりです。投稿をご覧になられた皆様お疲れ様でした。
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2022/04/30 20:20
続 苗木城主郭へ足を運ぶ。 (2022/04/30 訪問)
さて大矢倉を見た後は天守跡へ向かおうと思った時大矢倉から後ろを振り返ると、なんと見事な展望台。景色最高です。登城路は数回区画しています。登るときに何度も見えてくるのは巨石。この道をそるようにたっている石垣は殆どが野面積み。もしかしたら、本丸は最初の戦国時代に作られ、その後、大矢倉など打ち込み接ぎの石垣を徳川時代に作ったのかな?考えると面白いです。展望台は沢山のアングルで撮ることができ、どれも最高。登っていくと大矢倉の全体も見下ろすことができます。そして展望台を登ると、木曽川と恵那山の絶景、汗だくでした。まだ4月なのに。でも見どころはここだけではないです。
さあ次は石垣を中心に見ていきましょう♪
続きます。
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2022/04/30 20:08
半年ぶりに再攻城 (2022/04/30 訪問)
遠山氏により築城。織田氏と武田氏と縁戚関係を結び勢力を広げるものの、本能寺の変後、森長可に城を奪還される。その後、関ヶ原合戦前、家康の命令により苗木城を取り戻す。その後270年間、12代にわたり遠山氏が城主を務めた。
石垣がとても良好な状態で残っています。積み方は場所によって異なり、野面積み、打ち込み接ぎ、切り込み接ぎ、谷積みの4種類に分かれます。特に、打ち込み接ぎが多くを占めています。戦国時代のお城のものの、石垣は徳川時代の積み方のように綺麗に積まれていました。またここは巨石がいくつか配置されており、敵の攻撃を妨げるような形になっています。天守跡には現在展望台があり、木曽川と恵那山を見ることができます。二の丸と武器蔵には礎石が残っていて、ここに櫓が建っていたことがよくわかります。春はとても桜が綺麗だそうです。ただ登るので汗をかくので3月が一番いいと思います。
続きます。
評価
全体:4
遺構:4
行きやすさ:2
建物:-
攻城時間
60分〜90分 結構城まで歩くので。
アクセス
車 中津川インターから国道257号(下呂方面)約6km
電車、バス 中津川駅から北恵那交通バスに乗り苗木バス停で降りる
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2022/04/30 19:28
2022/04/30 19:27
2022/04/30 19:26
竹中氏陣屋 (2022/04/09 訪問)
【竹中氏陣屋】岐阜県不破郡垂井町
<駐車場他>陣屋跡櫓門前に観光駐車場無料あり。
<交通手段>車
<見所>櫓門・石垣・堀
<感想>城びと未登録の竹中陣屋、見所多い陣屋跡なので菩提山城とは別に別途投稿します。この登城日の1週間前に美濃攻城が降雨で中断したので今回は日帰りで続きを行った。
竹中陣屋は元々竹中氏の平時の平城居城で岩手城と呼ばれていました。山城の菩提山城と使い分けていたようです。関ケ原合戦時には竹中半兵衛の息子竹中重門は当初西軍側に付いていましたが、東軍に鞍替えし、この地に匿われたこともある黒田長政に強力します。合戦後重門は旗本となった為に城は陣屋となりました。
現在陣屋跡は小学校となっている為に中に入ることはできませんが東側の正門である櫓門と堀・石垣は見ることができます。一角しか残ってはいませんが元々城として築城されたものであるだけに堅固で立派、見ごたえあります。
<満足度>◆◆◇
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2022/04/30 18:34
江戸時代初期に奥州押さえの地に築かれた土の城 (2022/04/22 訪問)
赤館城の次は棚倉城へ。この城は元和8年(1622)に常陸江戸崎から5万石で移封された丹羽長重が築城を開始するが、寛永4年(1627)その完成を見ずに白河に所替えとなる。以後は内藤、太田、松平(越智)、小笠原、井上、松平(松井)と藩主は交替し、最後の藩主阿部氏のとき戊辰戦争により焼失したという。城地は本丸を二ノ丸で取り巻き、北西に三ノ丸を置く「土の城」。本丸を囲む高い土塁と東西南北の内堀、大手道から続く南門桝形、北二門桝形が保存されている。往時は本丸土塁上をすべて多門櫓が巡っていたというが、土塁の幅と本丸内から見上げる高さがかなり印象的である。明治5年の調査記録である富原文庫蔵「陸軍省城絵図」に、本丸は「本城跡」と記載され、ニノ丸の大手門、南門、北一門、土蔵、板蔵、長屋、屋敷(旧知事住居)などの記載があるが、本丸にあった櫓5か所と櫓門2ヵ所、多門櫓は「跡」と記載されている。
戦国時代には常陸佐竹氏と陸奥芦名・白川結城氏の国境、江戸時代にあっては関東側の奥州押さえの地として親藩・譜代の家が配された城。水戸街道沿いにはかつての城下町風情がたっぷりと残る街並みが続く素敵な場所である。
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