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織田晃司

ちょっとそれはやりすぎでしょう… (2022/07/29 訪問)

城跡を公園としているのだが正面入口の石垣といい欄間のついた門といいちょっとそれはやりすぎでしょう…

水堀と土塁が残る。

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にのまる

攘夷から開国へ (2022/06/09 訪問)

幕末に長州藩が海岸線に沿って築造した砲台のひとつです。
二度も占拠され、跡地も焼き払われた、一見“何もない芝生広場”が国史跡・日本遺産に指定されたのは、やはりここが日本の夜明けのターニングポイントとなった場所であるゆえだと思います。占拠された様子は世界中に配信され、教科書にも載っていましたし、昨年訪れた金沢の寺中御台場の説明板には「長州の下関事件など外国艦隊との装備の差を考慮し海岸ではなく内陸に台場がつくられた」とあり、日本中、世界中に与えた衝撃の大きさを感じました。
そんなことを考えながら、低台場・高台場の二段構えの台場跡を歩き、目の前を航行する船舶を眺めつつVRの「建物OFFバージョン」の力も借りながらイメージすると当時の緊張感がじわじわと伝わってきます。高台場のシートは発掘中なのか?気になるところです。

大砲は全て連合軍に接収されたそうですが、ここから1km強のみもすそ川公園には長州砲のレプリカがあり、100円を投入すると発射音(3発)と煙の演出を楽しめます。

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トク

【熊本城と西南戦争の遺跡を歩く⑥】田原坂(後編) (2022/07/17 訪問)

「⑤田原坂(前編)」からの続きです。

まず田原坂公園の入口には、戦没者を祀る慰霊碑があり、西南戦争での両軍戦死者(官軍6,923名、薩軍7,186名)の全ての名前が刻まれていました(写真①)。公園の中には「西南戦争資料館」がありました(写真②)。ここでは田原坂の戦いの様子が、迫力ある映像で詳しく解説され(前回写真参照)、実際に使われた銃や軍服(写真③④)や大砲のレプリカ(写真⑤)が展示されていました。周辺には、弾痕跡を再現した土蔵(写真⑥)もありました。

そして少し下った所にある、官軍・薩軍それぞれの墓地にも行ってみました。官軍の墓地には、一人一人の墓標に名前が刻み込まれていましたが(写真⑦)、薩軍は逆賊のため、その碑には名前もなく、ひとつにひっそりとまとめられていたのが、なぜか少し悲しかったです(写真⑧)。

田原坂公園から西の方向を遠望すると、官軍が砲台とした二か所の丘が見えました(写真⑨)。官軍は1日に平均で32万発の砲弾や弾丸をここ田原坂に向け打ち込んだそうです(これは後の日露戦争二百三高地の平均30万発を上回る数です)。

降りしきる雨の中、薩軍の銃は、戊辰戦争時に使用した当時では旧式のエンピール銃で先込め式のため、装填に時間がかかり(約30秒)かつ雨に弱いです。わらじに着物の服装も雨で動きにくくなり自由がききません。逆に官軍は最新式のスペンサー銃で元込め式なので、装填も早く(約6秒:薩軍の1/5の時間)かつ雨にも強く命中率も各段に改良された銃でした。服装も洋服に皮靴(長靴)、雨でも自由に動けます。

薩軍は17日間の戦闘で弾薬や食料が尽きますが、それでも決死の覚悟で今度は刀にて切り込みを繰り返します。しかし官軍は物資も豊富で、雨などもろともせず容赦なく薩軍へ砲弾や銃を撃ち込み続けました。最後には大部分の兵士が死傷して戦闘は終わったようです。ここ田原坂での薩軍の敗戦が、西南戦争の大きなターニングポイントになってしまいました。

私は頂上の公園に立ち、ここから田原坂を見下ろしました(写真⑩公園から最も激戦となった三の坂を見下ろす)。薩摩の兵(士族)たちは自分たちが勝てば「武士の世が復活する」と本当に信じて、ここで戦っていたのでしょうか? それとも、自分たちはこの日本に残った最後の「武士」としての誇りと意地を見せ、「華々しく散ることができる場所」を探していたのでしょうか?

田原坂を下る帰り道の途中で急に雨が降ってきました。気がつくと私は思わずこの歌を口ずさんでいました。

「雨は~、降る降~る♪、人馬は濡れる~♪、越すに越されぬ田原坂~♬」

この坂は、多くの薩摩士族の無念が、雨とともに血に染まり、そして流れて行った場所でした。

以上、全6回読んでいただき、大変ありがとうございました😊。
(駅に着くとずぶ濡れでした)
 

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トク

【熊本城と西南戦争の遺跡を歩く⑤】田原坂(前編) (2022/07/17 訪問)

「④薩軍と西郷隆盛(後編)」からの続きです。

西南戦争最大の激戦地となった「田原坂(たばるざか)」を歩いてきました。

JR鹿児島本線の「木葉(このは)」駅をスタートし、まず麓の「正念寺」を訪ねました(写真①)。ここには最初は官軍の病院が置かれましたが、その後両軍分け隔てなく治療し、これが後の「博愛社」(「日本赤十字社」の前身)となりました。

さあ、ここからいよいよ田原坂を登ります(写真②)。加藤清正は熊本城下には簡単に敵が侵入できないよう、全ての街道の熊本への入口をわざと狭くし曲がりくねった道にして、かつ狙撃しやすいよう掘って一段下がった道にしたそうです。田原坂もその一つですが、ここが熊本へ大砲なども運べる唯一の道だったそうです。

一の坂、二の坂、三の坂と登って行きます。確かに道は曲がりくねり、さらに両側の一段上にはうっそうとした竹林や杉林に囲まれ、全く先が見えません(写真③④⑤⑥)。竹藪の間に隠れている薩摩の兵から狙撃されてしまいそうな、あるいは竹藪の間から突然「ちぇすと~!😲」と叫びながら刀を振り下ろす薩摩の兵が現れ、あっという間に切られてしまいそうな・・・そんな感じです(写真⑦⑧⑨⑩資料館シアターにて)😱~

そして命からがら何とか頂上の「田原坂公園」まで辿り着きました。(駅から公園まで徒歩40分です)。

「⑥田原坂(後編)」へ続きます。
 

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キンヤ

長久手の戦いの前哨戦となり、本丸を取り囲む空堀が見応えある城 (2022/07/31 訪問)

戦国時代にこの地方の有力な土豪であった岩崎丹羽氏の城で、本能寺の変の後は織田信雄、徳川家康に仕えていたとされます。
1584年の小牧・長久手の戦いの際、羽柴秀吉方の池田恒興らが家康の岡崎城を奇襲するために岩崎城の付近を通りがかった時、岩崎城を守っていた丹羽氏重は攻撃し、城兵約300名が戦死し落城しました。
この戦いで池田恒興らを足止めすることができ、家康方は長久手で勝利したとされます。

模擬天守は賛否両論あるかもしれませんが、この地域のシンボル的存在で、南蛮造りのようにも見え、なかなかオシャレです。

歴史記念館では、長久手の戦い、岩崎城の戦いを学べます。

公園化されていますが、曲輪、空堀、櫓台、土塁、井戸などが残っています。
この城で1番の見所は本丸を取り囲む大きな空堀で見応えがあります。

街中に遺構がよく残り、尾張では貴重な城だと思います。

岩崎丹羽氏の菩提寺である妙仙寺には市指定文化財の山門、丹羽氏のお墓があります。

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織田晃司

二宮尊徳の勤務地 (2022/07/29 訪問)

ここで農政改革を行い成果を出す。
二宮尊徳(二宮金次郎)は全国の小学校にある薪を背負いながら本を読む。あの銅像の人です。

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織田晃司

モオカ (2022/07/29 訪問)

城跡には小学校 昨日の豪雨嘘のようさ
ポケットからサングラス取り出して
街中を淡いブルーに変えた
Oh thanks thanks thanks thanks真岡
thanks thanks thanks7月のsad song
Mu…忘れないさ
Mu…今年の夏
Mu…この城さえダイヤモンドにきらめいた
何もかもが君のせいさ Oh真岡

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織田晃司

山城ですが (2022/07/29 訪問)

本丸そばまで車で登れます。(途中切り返しの必要なカーブがありますが…)

芝生は刈られて整備は行き届いてます。

二の丸から来たのかアオダイショウがいたので気をつけてくださいね。

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北条氏勝

『信長の野望』で見かける「十市城」の現在の姿 (2022/08/01 訪問)

 私は、歴史シミュレーションゲーム『信長の野望』が好きでよくやっていました。そのゲームの中で、大和国の城として登場するのが「十市城(とおいちじょう)」。ゲームの中では知っていますが、現在どのような姿をしているのか気になる!ということで、奈良県橿原市にある十市城にさっそく行ってきました。

 降り立ったのは近鉄橿原線笠縫(かさぬい)駅。そこから徒歩約20分のところに「十市城」があります。駅からお城へ行く途中に、お城の守りとなっていただろう寺川という川がありました。地図で見ると「十市城」の西と南に寺川が流れ、東に大和川が流れていました。お城の立地としては良好かもしれません。駅からお城までの道は平坦で、平らな奈良盆地に築かれた平城なのだと分かりました。遺構としては、皆無としか言いようがありません。十市城跡を目指して歩きましたが、そこにあったのは石碑のみ。石碑周辺は畑と住宅で、土塁や地形的な起伏も確認することができませんでした。以前発掘調査が行われ、大溝が発見されたようですが、現地ではその遺構を確認することはできませんでした。

 しかし、やはり城好き。石碑があるだけでもありがたく、写真をパシャパシャ撮りながら城跡を後にしました。「十市城」の現在の姿を見届けることができ、とても嬉しかったです。

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織田晃司

なぜ? (2022/07/29 訪問)

これだけの素晴らしい山城が百名城・続百名城に選ばれなかったのだろうか?

登城して損のない城です。

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織田晃司

龍城公園 (2022/07/28 訪問)

龍城公園として公園化してますが遺構は随所に残ってます。

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織田晃司

キレッキレの堀 (2022/07/28 訪問)

本丸を取り囲む空堀。
高い土塁のせいで高く見える切岸とキレッキレの空堀。
見ごたえありです。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:船上城 (2022/07/20 訪問)

舞子台場からの転戦です。西新町駅から徒歩6~7分くらいで、船上西公園(34.647993、134.975544)に着きました。
城址の稲荷を確認しようと稲荷入口(34.647531、134.975352)付近まで行きましたが、私有地で立ち入り禁止で断念しました。
その後、17~18分くらい歩いて、明石城に移築された織田家長屋門(34.650229、134.988611)を確認しました。
織田家長屋門から明石駅に戻る途中、ライトアップされた明石城を確認。なかなか幻想的ですね。
明石城の攻城は2回目(1回目は2018/12/2)になります。

船上城は豊臣秀吉の命により、高山右近が築いたとされる城です(それ以前に別所吉親による築城説もあります)。
しかし、1587年(天正15年)に発令されたバテレン追放令によって右近は追放されることとなり、その後は秀吉の直轄領となって城番が置かれました。
「関ケ原の戦い」後は池田輝政が姫路城の支城として、八男・利政を城主としました。
「一国一城令」後には城としての機能はほぼ失われており、1619年(元和5年)に明石城が築かれると廃城となりました。

船上西公園と古城大明神の祠本丸跡の間の古城川は堀の役目をしていたような感じです。
明石城外堀沿いに移築現存された織田家長屋門も忘れずに。また、明石城の巽櫓は船上城の天守か櫓を移築したものと伝わっています。
攻城時間は移動時間も含めて35分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先がある西明石駅に向かいました。明日から四国遠征です。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:舞子台場 (2022/07/20 訪問)

兵庫城からの転戦です。舞子駅から徒歩5分くらいで、明石藩舞子台場跡(34.633320、135.032289)に着きました。

明石藩舞子台場(舞子砲台)跡は1863年(文久3年)明石海峡の防備を目的として、淡路島北端(淡路市)に1861年(文久元年)に築造された徳島藩松帆台場と対をなして、両岸から海峡を通過する黒船を挟撃する目的で建設されましたが、一度も使用されることはなかったそうです。

台場の一部と石垣の一部が確認できます。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=船上城を目指す為、電車で舞子公園駅から西新町駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:兵庫城 (2022/07/20 訪問)

花隈城からの転戦です。中央市場前駅から徒歩5分くらいで、兵庫城跡石碑前(34.665370、135.172633)に着きました。
途中、イオンモールで模擬石垣(34.666876、135.175495)を確認しました。

兵庫城は「有岡城の戦い」「花隈城の戦い」で荒木村重を討伐する際に活躍した池田恒興が摂津国の大守となり築いた城です。
摂津国の大守になった池田恒興は、1581年(天正9年)花隈城には入城せず兵庫津に城を築きます。
1583年(天正11年)池田恒興は、わずか2年で美濃国大垣城に移封され、兵庫城下は豊臣秀吉の直轄地となり片桐且元が代官として入城しました。呼称も兵庫城から片桐陣屋と称されました。
1615年(元和元年)大坂城落城後は尼崎兵庫津一帯は尼崎藩に組み込まれ兵庫城址には陣屋(兵庫津奉行所)が置かれたそうです。

イオンモールに模擬石垣があり、新川運河のほとりに石碑が建てられています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=舞子台場を目指す為、電車で中央市場前駅から舞子駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:花隈城 (2022/07/20 訪問)

七松城からの転戦です。花隈駅から徒歩5分くらいで花隈公園(34.688147、135.182951)に着きました。

毛利勢から石山本願寺への補給路を絶つため織田信長が、荒木村重に1567年(永禄10年)荒木村重に築城させたようです。
荒木村重が織田信長に謀反を起こした「有岡城の戦い」で敗走したのちに、さらに籠城して戦った「花隈城の戦い」の舞台となった城です。
1578年(天正6年)村重が信長に叛くと、1580年(天正8年)池田恒興らによって攻められ落城しました。 その功により、この地を与えられた池田恒興は当城を廃し兵庫城を築いて移ったそうです。
花隈城はこの合戦で城を落城させた池田恒興が、その功により花隈城を与えられますが、恒興は兵庫城を築城したため、花隈城は廃城となりました。
兵庫城の築城にあたっては、花隈城の部材を転用したと伝えられています。

城址の一部が公園になっています。公園には石碑のほか、模擬石垣や模擬天守台がありますが、いずれも当時のものではないそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=兵庫城を目指す為、電車で花隈駅から中央市場前駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:七松城 (2022/07/20 訪問)

三宅城からの転戦です。立花駅から徒歩7~8分で七松八幡神社の落城石碑前(34.735066、135.403789)に着きました。

築城年代は定かではないようです。
環濠集落で陣城として利用されており、織田軍が有岡城の荒木村重を攻めた時に陣が置かれ、有岡城落城後は一族家臣は七松城で処刑されたそうです。

七松城は現在の七松八幡宮一体に築かれていたそうですが、遺構はありません。
七松八幡宮には『荒木村重公ゆかりの地』の幟旗がたち、『七松城落城なくなられた武士及び家族 故六百二十余人之碑』が建立されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=花隈城を目指す為、電車で立花駅から花隈駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:三宅城 (2022/07/20 訪問)

自宅最寄り駅から電車を8回乗り継いで10時間以上かけて千里丘駅に着きました。
千里丘駅から徒歩7~8分で城跡碑前(34.792992、135.556742)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1504年(永正元年)三宅出羽守国政によって築かれたと云われています。
1547年(天文16年)三宅出羽守国村は細川晴元に敵対した細川氏綱に味方したが、晴元の軍勢によって攻められ開城しました。
その後、晴元の家臣香西元成が三宅城に入り、晴元も在城したが、晴元と不仲となった三好長慶によって攻められ、晴元は丹波へ落ちていったそうです。

蔵垣内公園北西隅に「旧跡三宅城跡」の石碑と説明板が建てられています。 
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=七松城を目指す為、電車で千里丘駅から立花駅に向かいます。

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カズサン

戦国初期木造模擬天守再現の綾城 (2006/11/16 訪問)

 綾城は戦国初期の城楼建物を再現した木造模擬天守閣が尾根東端の本丸に昭和60年(1985年)造られて居ます、天守資料展示の綾城の模型によると、北を流れる綾北川と南を流れる本庄川の合流の尾根上に東端を本丸、西に二の丸、三の丸、四の丸と各郭を堀で切り刻んで居る山城です。
 
 16年前の平成18年11月中旬、宮崎県えびの市の関連協力企業に出張の折、宮崎道小林ICから常緑樹林帯の山間地山越え道を綾町の綾城を目指し専用駐車場に駐める。
 
 駐車場からは案内道なりに、綾・国際クラフトの城の施設へ入り入場料を払う、施設内には陶芸、ガラス工芸、切子グラス等の販売、作業場が有りました、二の丸模擬城門を潜って本丸への空堀に架かる橋を渡り、長年城郭誌で眺めて居た木造模擬天守閣がドンと控えて、誌面からは二十数年振りの本物初対面でした。
 天守閣周囲を眺めて天守閣の登りました、黒く塗り分けた木造天守閣、内部の木組みも大きく重厚感に溢れています、1、2階の資料展示、3階の展望も素晴らしい眺めです。
 木造物に目が行きがちでしたが、堀切、空堀、土塁も良く残って居り見応えも有ります。

 歴史は建武の頃足利尊氏の命で細川氏が綾を領有し、綾氏と名乗り十代近く継承するも、伊東氏に従い、伊東48城の一つに、天正5年(1577年)伊東氏は島津氏に追われ日向を去る、以降島津氏の支城に成り元和の一国一城令で廃城と成る。(資料案内抜粋)
 

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カズサン

冬枯れの岸和田城 (2007/01/20 訪問)

 岸和田城は本丸、二の丸が残り本丸の周囲に内濠が囲み、二の丸も百閒掘なる濠が良く残っており、各郭の石垣も綺麗に残って居ます。
 また、昭和29年には大小天守閣が模擬復興して居り、昭和44年には本丸隅櫓、続多聞櫓、櫓門、土塀も復興して居り四季それぞれの美しさを放って居ります。
 15年前の平成19年、関西に在住してる故郷の中学校卒業同級生の恒例新年会を明日に控えて、宝塚の兄に車を出して貰い、兄と登城しました。
 天守閣に登り、館内資料の閲覧、天守閣最上階より四方の眺めを堪能し、二の丸、本丸を壕越しに眺めながら撮影しました、冬枯れで樹木には葉っぱも無く寂しい感じですが良く観えます、本丸石垣下の犬走、東面の虎口の様な石組み、濠の広さ、石垣の眺めを楽しみながらぶらぶら散策。
 北側には岸和田市役所、南側には五風荘の料亭、東側は岸和田高校が取り巻いて居り、城を護って居るようです。
 駐車場は南西側に有りました。
 

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