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チェブ

番外編「鳥居 強右衛門磔死之趾」の巻。 (2022/05/06 訪問)

『長篠城の戦い』と言ったら、鳥居 強右衛門さんのエピソードは有名です。
「長篠城」から豊川を挟んだ向こう側に、磔にされた場所があります。

「長篠城」に籠城し、援軍を待つ奥平氏。
武田軍の攻撃にギリギリ耐えていた、最後の手段に鳥居 強右衛門さん、川から脱出し「岡崎城」に援軍要請の確認。
援軍が来る事を確証し「長篠城」に帰る途中、 武田軍に捕まりました。
『援軍は来ない』と長篠城内に叫べば命は助ける。
しかーし、『援軍は来る!』と叫ぶ強右衛門!
磔にされ、殺されました。
ざっくりですが、日本一有名な足軽の鳥居 強右衛門さんの勇気ある行動です。

畑が広がり、奥に石碑と説明板があります。
ここから「長篠城」に叫んだのか、と前を見ると木々で覆われ向こう側が見えません。残念。

鳥居 強右衛門さんの他に鈴木 金七郞さんが、狼煙をあげる役で籠城軍を活気づけてました。
鳥居 強右衛門さんの絵は、武田軍にいた 落合 道次さんが画かせて旗指物にしたんだとか。
武田 勝頼さんに怒られなかったのかな?
本当は、落合氏を調べても、どちらの軍に所属してたか分かりませんでしたが、、、。

人の心の深い所に、忠義がある事を知る『鳥居強右衛門磔死之趾』でした。

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POYO58

3度目の攻城 (2022/08/03 訪問)

今年の1月に犬山城はいったばっかなのですが、もう一度犬山城を訪れました。
まず、初めて木曽川の屋形船に乗り、犬山城を眺めました。いろんな角度から見る犬山城はどこから見ても素敵でした。でも木曽川から見ると美しさはちがいました。

木曽川の屋形船を乗ること40分、屋形船を降りて早速3度目の攻城へ参りました。犬山城は国宝のものの天守しかなく遺構は少ないのですが、天守へ向かう途中にある、堀と鉄砲櫓の石垣を写真に収めました。

その後登っていくと、枡形虎口の先には大きな天守。犬山城の天守は比較的小さいのですが、思ったより大きく見えました。犬山城は複合式天守で付櫓が設けられていますが、残念ながら、付櫓は地震により半壊し復元。しかし天守自体は現存です。

評価
遺構:2
建物:4
行きやすさ:3
全体:3

攻城時間
30分くらい

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織田晃司

膳城 (2022/07/30 訪問)

主郭とその周りが残るコンパクトな城跡です。
いい感じの堀と曲輪が残る。

目と鼻の先に山上城があります。併せて行ってみては…

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赤い城

大河ドラマに乗じて (2022/07/18 訪問)

寒川駅から徒歩で10分。
館跡は一之宮天満宮となっています。
石碑と説明板があり、大河ドラマの幟も立っていました。
以前訪れた際はひっそりとしていましたがこの日は他に何人か見かけました。
さすがに大河ドラマの影響は大きいですね。
近くに立っていた説明板をもとに散策。
梶原氏一族の墓があり、後ろの水路は堀跡とのこと。
城域はほぼ住宅地ですが現存土塁があるとのことで結構探しました。
私有地っぽい空き地にあるようで入るのはやめておきました。
老人ホームが隣接していたのでそこからフェンス越しに見学させていただきました。
梶原景時、あまり詳しくなかったのですが大河ドラマで中村獅童が演じていました。
悪者のイメージがあるようですがドラマでは気になる人物、カッコ良かったです。

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小城小次郎

伝・大手門と伝・搦手門 (2022/02/23 訪問)

移築城門と伝わる門が二つあり、一つは伝・大手門(御殿場市の大雲院)、もう一つは伝・搦手門(小山町の十輪寺)。大手門と搦手門、ちゃんと別の門として伝わっているあたりにそれなりの説得力があるような。

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織田晃司

朝7時なのにすでに… (2022/07/30 訪問)

汗だく…

とにかく広大な城で結構歩いた気がする。

北条氏の城でなかなか落城しそうにはないのだが、秀吉の北国勢(前田利家や上杉景勝ら)の大軍の前に敢えなく落城。

北条氏の城造りをこの目で確かめてください。

でも、とにかく暑い…暑すぎる…

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織田晃司

渋沢栄一の出身地 (2022/07/30 訪問)

深谷市の深谷城。

深谷城址公園にはなんちゃって石垣となんちゃって塀(模擬石垣と模擬塀)があります。
富士浅間神社には深谷城外濠跡が残されてます。

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カズサン

【伯耆・壽城】鳥取県米子市 お菓子の城 (2006/11/02 訪問)

 鳥取県米子市に寿製菓の製造販売してる所に大山をバックにお菓子の城・壽城が有ります、大駐車場も有り観光バスもよく出入りする観光拠点です。
 住所:鳥取県米子市淀江町佐陀1605-1
 国道9号線と山陰道の中間で国道431号線沿い、其のまま南に米子道の米子ICへ1km弱の所です。

 城郭櫓風の製造販売所と隣接して米子城の絵図から想像した米子城天守閣風建造物が有ります、中は米子城の資料展示がされ各時代の米子城絵図、概略史、歴代城主年標が目に付く所です。
 最上階から大山を眺める事は圧巻です。
 なっちゃって天守閣かもしれませんが鳥取県米子市、皆生温泉、大山などの観光にはお寄りいただき眺めるのも一興かと思います。

 私は16年前の平成18年11月上旬、郷里で法要が有り家内と二人帰郷、その前に皆生温泉宿泊、大山のブナの紅葉を鍵掛峠より眺め、途中に寿製菓の壽城に寄り、故郷の因幡の国で法要に臨みました。

 投稿写真は壽城天守閣、壽城玄関と天守閣、天守閣展示・米子城とその歴史・歴代米子城主・米子御城下絵図、翌日登った大山鍵掛峠からの大山北壁と紅葉、紅葉は今一でしたが、江府町に下って御机の茅葺小屋、石塔、大山北壁眺めのビューポイントの一つ。
 以上7点です。
 
 

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織田晃司

法螺貝城の名のとおり (2022/07/29 訪問)

主郭までに無数の曲輪が存在する。
本丸へ向かう道から脱線すると見事な遺構を見ることができます。

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カズサン

備中櫓復元され最初の探訪 (2006/11/05 訪問)

 備中櫓は平成14年復元工事着工から平成17年3月に完成、同じく平成18年には備中櫓の西隣、天守台の南側の太鼓塀が完成して居り、16年前の平成18年11月上旬訪ねました。
 車は南側の観光案内施設前の駐車場に駐めて登城を開始。

 二の丸下からまだまだ真新しい白漆喰仕上げの備中櫓を見上げて鑑賞、撮影、本丸に登り備中櫓を眺めて、櫓に登り室内鑑賞、畳と柱の匂いが香しい。
 天守閣南側、備中櫓の西隣に太鼓塀が新しく復元されていた、復元櫓、塀を見学の後本丸、天守台、二の丸周りの石垣も堪能して約1時間程を津山城で過ごす。
 
 その後も桜の時期を始め何度か訪ねて居ります、天守閣が復元されると良いですね、明治初年の写真も多く残って居り資料は十分だと思うのですが、大いに期待したい処です。
  

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:洲本城 (2022/07/21 訪問)

炬口城からの転戦です。洲本市立淡路文化史料館(34.340542、134.9018)で続100名城スタンプ押印後、月見台駐車場(34.336771、134.904688)に向かいました。

築城年代は諸説あり定かではないようですが、室町時代後期に安宅氏によって築かれたと云われています。
1581年(天正9年)織田信長の命により、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が淡路国の攻略に乗り出すと、時の城主安宅清康は羽柴秀吉に破れ降伏します。
1582年(天正10年)四国の長曾我部氏が淡路土着の菅平右衛門に命じて洲本本丸跡の石垣城を占領しますが、明智光秀との山崎の合戦に向かう秀吉は武将の仙石秀久を淡路に差し向け、洲本城を奪還します。
1585年(天正13年)秀吉は洲本城から出陣して四国攻めを開始。戦後、仙石秀久が高松城主になると、脇坂安治が洲本城主となり、城の本格的大修築を行い、今日に洲本城跡の石碑残る規模の城となったそうです。
1609年(慶長14年)脇坂安治は伊予大洲に移封。替わって洲本城は徳川家康の腹心である藤堂高虎、次いで姫路城主池田輝政の支配下に置かれました。
1615年(元和元年)徳島藩主蜂須賀至鎮が大坂の陣の軍功により淡路一国8万石を加増されます。
蜂須賀氏は平和な時代になったため、三熊山の麓に御殿を設け、蜂須賀氏の重臣である稲田氏を城代とし、以後、洲本城は蜂須賀氏の支城として、城代の稲田氏が代々居城して明治維新を迎えます。

小規模でかわいらしい天守はかつて展望台として登る事ができたそうですが、耐震性の問題で現在は登る事ができません。
海や町並が見える絶景です。石垣は思いのほか残っていて、迫力がありましたが補修中の石垣がありました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=養宜館に向かいます。

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織田晃司

西方城と二条城 (2022/07/29 訪問)

西方城もなぜ百名城・続百名城に選ばれなかったのか?
見どころ満載の城です。

投稿写真の後半3枚は二条城。

西方城駐車場からすぐに二条城の登城口があります。
西方城に来たなら二条城もぜひ!

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:炬口城 (2022/07/21 訪問)

白巣城からの転戦です。炬口八幡神社駐車場(34.349679、134.889823)に駐車し、拝殿左側遊歩道(34.350175、134.889335)から攻城しました。

1505年(永正2年)安宅監物秀興によって築かれたと云われているが定かではないようです。
その後、安宅駿河守吉安、続いてその弟といわる安宅次郎三郎秀益が城主となったようです。
1528年(大永8年)秀益は三好元長に対して謀叛を起こしたが、間もなく蟇浦常利・島田時儀らに攻められ鎮圧されました。その後、安宅氏の由良城(古城山)の支城として機能したそうです。
1581年(天正9)羽柴秀吉による淡路侵攻の際、安宅清康の本城・由良城が攻められ、開城しました。この時、炬口城も落城したようです。

炬口八幡神社の境内裏に登り口の標識があり、遊歩道が整備されているようですが、倒木の為、立入禁止になっています。
とりあえず進んでみましたが、登山道がわかりません。(しばらくウロウロしましたが諦めました)
攻城時間は25分くらいでした。次の攻城先=洲本城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:白巣城 (2022/07/21 訪問)

松帆台場からの転戦です。林道入口(34.389318、134.817341)から進入して林道を進むと、途中ゲートがありますが開けてさらに進むと駐車場(34.380035、134.826460)に着きました。

詳細は不明のようですが、淡路島の有力国人であった安宅(あたぎ)氏の居城であったといわれており、安宅八家衆の城のひとつに数えられています。
1581年(天正9年)安宅九郎左衛門冬秀が城主のとき、織田信長の命により淡路に侵攻した羽柴秀吉らの軍勢の火責めにより、炎上し落城したと伝えられています。

林道は落葉が多く雨の日はスリップしそうです。かつ倒木&倒竹が多く、都度、車を停めて林道脇に寄せながら車を進めました。
堀切、土塁、などの遺構が良好な形で残っています。
本丸に社、城跡碑、安宅冬秀公碑がありました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=炬口城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:松帆台場 (2022/07/21 訪問)

岩屋城からの転戦です。拝原水産先空スペース(34.608154、135.003801)に駐車し、松帆台場(34.608794、135.002644)に向かいました。

1858年(安政5年)徳川幕府将軍家茂の幕命を受けた徳島藩により着工、1861年(文久元年)竣工。
建設の目的は、明石海峡対岸の明石藩舞子台場跡と対になって両岸から黒船を挟撃することでしたが、一度も使用されることはなく現在に至っているそうです。

台場部分の多くは神戸製鋼の保養所「ゆうなぎ荘」敷地になっており、見学は東の松帆恵比寿神社部分に限られているとのことで、付近をウロウロしただけです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=白巣城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:岩屋城 (2022/07/21 訪問)

西明石駅でレンタカーを借りて岩屋城を目指しました。
登城口付近の空スペース(34.588807、135.021570)に駐車しましたが、お店の駐車場だった為、速攻で撤退です。
登城口(34.588960、135.021539)は藪化で入れないので、絵島(34.589834、135.021561)を確認して速攻で撤退です。

1610年(慶長15年)池田輝政によって築かれたと云われています。
1610年(慶長15年)姫路藩主池田輝政の三男池田忠雄が淡路国一国を所領としたが、当初は父輝政が重臣を派遣して淡路一国を支配していたそうです。
家臣中村主殿助を遣わして淡路の国政を任せ、1611年(慶長16年)には淡路国全域の検地を実施しました。
1613年(慶長18年)に忠雄に支配が任されると由良城を築き、その際に岩屋城の部材を転用して廃城となりました。
ちなみに、近隣にはもうひとつ永禄年間に安宅八家衆の安宅宗景がいた松尾山の岩屋城があります。そこに現在、温浴施設の美湯松帆の郷が建てられているそうですが、そちらは城びと未登録です(行っていません)。

攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=松帆台場に向かいます。

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織田晃司

来てみな!飛ぶぞ! 飛びます 飛びます コタローねぇ (2022/07/29 訪問)

飛山城史跡公園として整備されてます。

同じ6号堀でも復元整備された区間と未整備の区間との対比はおもしろい演出だと思う。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:魚住城 (2022/07/21 訪問)

枝吉城からの転戦です。西江井ヶ島駅から徒歩7~8分くらいで、西島出張公園前(34.680087、134.907512)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代末期に魚住長範によって築かれたのが始まりのようです。
1578年(天正6年)三木城主別所長治が毛利方となり、織田氏がこれを攻めると、魚住城は毛利方の補給路として重要な役目を担っていましたが、三木城の落城によって役目を終えたそうです。

遺構は残っておらず、公園前に説明板が設置されているだけです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=岩屋城を目指す前に、一旦ホテルに帰り朝食を取る為、電車で西江井ヶ島駅から西明石駅に向かいます。
魚住城に向かう途中の明石駅ホームから見た明石城の写真も投稿します。
次の攻城先=岩屋城からはレンタカーを借りて攻城です。(四国一周はレンタカーで廻ります)

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征2日目:枝吉城 (2022/07/21 訪問)

本日から四国の城を巡る為、前日に西明石駅近のスマイルホテル西明石に宿泊していました。朝早く起きて、ホテルの朝食前に枝吉城&魚住城を攻城しました。
早朝の為、吉田郷土館は開いていないので、攻城は神本大明神鳥居前(34.668332、134.975559)に行き、神社拝殿左側にある神輿庫の裏から登城し、吉田郷土館横に下りてきました。

枝吉城の築城年代は定かではないようですが、室町時代中期に赤松氏被官の明石氏(黒田官兵衛の母の出身地)によって築かれたと云われています。
枝吉城は二度の合戦が行われました。
一次枝吉城の戦い:1538年(天文7年)に尼子晴久軍の侵攻により淡路の岩屋城に避難していた赤松晴政が、阿波の細川持隆の支援を得て、1539年(天文8年)に明石正風(長行)を攻めた後、晴政と正風は和睦したそうです。
二次枝吉城の戦い:1555年(天文24年)に三好長慶軍に攻められ、この時も明石氏は和睦しています。
明石氏の最期の城主は明石則実で、三木合戦では羽柴秀吉軍に与し野口城を攻めた功績により、1585年(天正13年)に但馬国豊岡城の城主となり、かわって摂津国高槻より高山右近が入封しました。
1595年(文禄4年)豊富秀次の謀反に連座して、明石則実は切腹させられました。
右近は船上城を築いて移ったため、枝吉城は廃城となりました。

本丸の一部が公園となっており、城址碑が建てられています。
城郭配置図の写真も撮りましたが、ぼけていて投稿できません。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=魚住城を目指す為、電車で西明石駅から西江井ヶ島駅に向かいます。

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織田晃司

住宅地にある自然豊かな平城 (2022/07/29 訪問)

城跡に2台分の駐車場あり。駐車場までの道は狭く離合は難しい。

城の管理を3人の所有者で行っているという。
感謝です。

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