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カズサン

素晴らしい高石垣 (2006/09/07 訪問)

 松坂城は蒲生氏郷築城として名をはせてる総石垣の名城です、江戸期は紀州藩伊勢松坂地域の押さえとして城代を置き明治を迎えるまで治めて居ました、蒲生時代の野面積、紀州徳川時代の災害等により算木積、切込接ぎ、打込接を持ちて修復を重ねたのでしょう。
 
 都度何度か訪ねてる松坂城ですが、16年前の平成18年9月上旬、本丸西に在る、きたい丸の石垣、土塁、曲輪内部の整備が完成した情報も有り出掛けました、フィルムカメラ主体で撮影して居ましたので、コンパクトデジカメに残っていた写真は高石垣など10枚ほど、でも二の丸東側の高石垣は道路に直に接して、高石垣の圧迫感が伝わって来てますし、綺麗に整備されて美しくも有ります、後に金の間櫓台石垣、中御門枡形石段、きたい丸石垣?を併せて投稿致します。
 
 

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POYO58

2度目の攻城 見せる城! (2022/08/07 訪問)

友達と安土城と観音寺城に行ってきました。JR安土駅を降りて徒歩20分で登城口に着きます。その後、いくつもの石段を登っていきますと、左側に館跡が現れます。建物はないですが、とても立派な石垣が残っています。そしてどんどん先へ登っていくと黒金門跡が見え枡形虎口が設けられています。さらに歩いていくといよいよここの定番と言える天守台があります。天主台の石垣は他の城と違った特徴でほとんど直方体の形をした石が使われているのが見てわかります。その後数分歩くといよいよ天主跡に到着します。
さあこの文章をよく読んでくださった方は「あれ、天主じゃなくて天守じゃないの?」とおもいませんでしたか?実は安土城だけてんしゅは天主という漢字を使います。これは信長公記に天主と書いてあったそうです。なぜかは不明です。
また安土城は坂本城に次ぐ最初の天主の城と言われています。この安土城があったからこそ、その技術を取り入れた武将たちが、いくつも天守を作り、政治の中心にしていったのだと思います。

評価
遺構:5
建物:3
行きやすさ:2
全体:4

攻城時間
1時間30分くらい

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おっちゃん

史跡広島城跡案内図 (2013/01/05 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

久留米城跡案内マップ (2014/06/01 訪問)

現地案内板より抜粋

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おっちゃん

日本百名城 郡山城・城下町案内図 (2016/12/15 訪問)

現地案内板より抜粋

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びーこ

石垣とド根性ゆり (2022/07/24 訪問)

最後に訪れてから4年余り、修復が完了した石垣を見るための再訪である。もっと早く来たかったんだが・・

清水門跡から入城すると、完全に修復された高い石垣に圧倒された。修復中の状態を見たときは、本当に数年で完成するの?と思うような状態だったのに。
ここだけでなく、三重櫓の裏まで綺麗に整備されていて、もちろん石垣もしっかり修復されていて、驚くばかりである。小峰城最古といわれる石垣を観察していると、すぐ近くに「ド根性ゆり」が!辛抱強く改修を行ってきた皆さんを祝福しているようで、思わず和んでしまった

そうそう、城跡にはたくさんのシロツメクサの花が咲いていたのだが、公園内のトイレにはたくさんの四葉のクローバーが花瓶にさしてあり、「幸せのお裾分け。どうぞお持ちください。」と書かれていた。お金をかけなくてもできるおもてなし、嬉しいなぁ。

現在は清水門の復元工事を進めているということなので、完成したらまたぜひ訪れたい。

ランチはちょっと足を延ばして下郷の鱒の養殖場で、新鮮な鱒フライ定食と鱒バーガーを頂いた。身がふわふわで美味しかった〜次回は鱒釣りもやってみたい。

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イオ

とことん江戸城(馬場先門~外桜田門) (2022/06/22 訪問)

江戸城は室町中期に太田道灌が築いた城で、扇谷上杉氏から後北条氏の城となり、豊臣秀吉の小田原攻めで開城。徳川家康の関東移封に伴って大規模に改修・拡張され、徳川将軍家の居城・幕府の政庁として幕末まで続きました。幕末には新政府軍に無血開城し、明治以降は皇居として現在に至ります。…って、こんなの今さら言うまでもないですよね。

武蔵野台地の東端に築かれた城で、家康の入封により平川を付け替え、日比谷入江を埋め立てて拡張し、江戸開府以降は再三の天下普請により外郭総延長約14キロ、総面積2,082ヘクタールに及ぶ日本最大はもとより世界的にも稀な巨大城郭となりました。

さて、コロナ禍のため東京に行く機会は久しくなかったところ、3年ぶりに東京出張が決定。それも2泊3日(+事前に日帰り1日)とあっては、どこか東京近郊のお城に行きたいところですが、当然ながら日中は仕事なのでそんなに遠くには行けないし……と考えて、ちょうど赤坂見附に宿を取っていることでもあり、この機会に江戸城の内郭・外郭をめぐれるだけめぐってみよう! ということで、2泊3日(+1日)でとことん江戸城です。

初日の仕事は午後からですが始発近くに家を出て、2泊3日分の荷物をキャリーでゴロゴロ引きずりながら東京駅丸の内口から江戸城へ。近いのは承知していたものの、東京駅からものの数分で視界いっぱいに馬場先濠と石垣が広がり、ちょっとびっくり。本当に都心のど真ん中にある…というか、今なお江戸城こそが東京の中心地なんだなぁ、と実感させられました。

馬場先濠沿いに南に進み、馬場先門から西の丸下曲輪へ。馬場先門はかつては不開門だったようですが、今では枡形石垣は撤去され、計8車線もの広い道路を多くの車が行き交っていました。門そのものは遺っていないにせよ、土橋の両側には水濠と石垣が往時の姿を今に伝えています。

西の丸下曲輪は日比谷入り江の埋め立て地で、かつては大名屋敷が建ち並んでいましたが今では皇居外苑として開放されており、修学旅行生らしき一団が芝生で思い思いにくつろぐ様子を、立派な楠木正成像が見守っていました。江戸城としては関係ありませんが、皇居としては正門前を守るのはやはり楠公さん、ということでしょうか。

日露戦争の戦勝パレードのために設けられた祝田橋を渡り、凱旋濠(祝田橋によって分断された日比谷濠の西端部)沿いに西に進んで外桜田門へ。外桜田門の西側には桜田濠が半蔵門まで広がり、西の丸側には高土塁と鉢巻腰巻石垣が延々と続いています。土橋を渡り高麗門をくぐって枡形に足を踏み入れると右手には巨大な櫓門が立ち塞がり、遮るもののない西の丸側からの集中砲火であっという間に全滅させられてしまいそうです。その西の丸側は千鳥ヶ淵から江戸城内郭の西半分を守る高土塁が石垣に切り替わる境目(台地の突端)になっています(続く)。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:海部城&陣屋 (2022/07/22 訪問)

加島城からの転戦です。海部城跡駐車場(33.595470、134.357660)に駐車しました。
海部城跡駐車場から海部城に登城し、帰りは海部城跡登城口2(33.593783、134.358790)に下りて海部城跡駐車場に戻りました。

築城年代は定かではないようですが、1571年(元亀2年)頃に海部左近将監友光によって築かれたと云われています。
1576年(天正4年)頃、長宗我部元親の阿波侵攻によって海部城は落城しました。
1586年(天正13年)蜂須賀氏の阿波入国後、海部城は阿波九城の一つとなり改修が行われました。
1638年(寛永15年)に一国一城令により海部城は廃城となり、かわって東麓に御陣屋が築かれました。

阿波9城のひとつです。
駐車場(旧海部中学校体育館先)横に城跡碑と説明板が建てられ、「判形人屋敷跡」の堀から登って行きました。
南に登って行くと、遊歩道があり、本丸に着きます。
本丸には石垣を施された土塁があり、本丸標柱が建てられています。
海部陣屋碑は海部城跡登城口2付近に祠と一緒にありました。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=佐喜浜城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:加島城 (2022/07/22 訪問)

牟岐城からの転戦です。登城口付近(33.633849、134.375174)に駐車しました。

元亀年間(1570年~1570年)の頃築城され、土地の豪族浅川兵庫頭有辰が城主だったようです。
1575年(天正3年)土佐の長宗我部元親の大軍に攻められ落城しました。

加島城の案内板は登城口付近にあります。上の駐車場まで徒歩で行きましたが、駐車場横にも城跡碑、説明板がありました。
駐車場の平坦地が曲輪なんでしょうか。遺構らしきものは、それくらいでしょうか。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=海部城&陣屋に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:牟岐城 (2022/07/22 訪問)

日和佐城からの転戦です。この地点(33.667264、134.424981)から進入し、その先にある同倫コミュニティセンターの駐車場に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、元亀年間(1570年〜1573年)に牟岐大膳允によって築かれたと云われています。
1575年(天正3年)長宗我部元親の軍勢が海部城を攻め落とすと、大膳允は人質を出して降伏しました。
1582年(天正10年)に中富川の戦いが行われた際、牟岐右京進が長宗我部勢として参加しました。
1585年(天正13年)に豊臣秀吉の四国攻めのあと廃城になったと考えられています。

金比羅神社が南郭で、観音堂が主郭のようですが、主郭の北の墓地が帯郭で古い石垣がありましたが、遺構かどうかわかりません。
墓の間をひたすら山頂に向かって登っていくと着きます。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=加島城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:日和佐城 (2022/07/22 訪問)

日和佐陣屋(城びと未登録 徳島県美波町)からの転戦です。城跡駐車場(33.729492、134.5366)に駐車しました。

築城年代は定かではないようですが、元亀年間(1570年〜1573年)日和佐肥前守によって築かれたと云われています。
1577年(天正5年)城主だった日和佐氏は長宗我部元親に降伏し、その後は臣従し土佐に移り住みました。
しかし、蜂須賀氏が阿波を治めるようになると、阿波藩藩主、蜂須賀家政に帰住をすすめられ、また阿波に帰り石高50石を知行する士分に取り立てられたそうです。

当時の遺構はほとんど残っていないようです。
城址には模擬石垣が築かれ、さらに展望台として模擬天守(日和佐勤労者野外活動施設)が建てられています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=牟岐城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:日和佐陣屋(城びと未登録 徳島県美波町) (2022/07/22 訪問)

小仁宇城(城びと未登録 徳島県那賀町)からの転戦です。美波町役場駐車場(33.734308、134.535109)に駐車しました。

1807年(文化4年)徳島藩によって築かれました。 1799年(寛政11年)徳島藩によって海部陣屋が築かれ那賀郡と海部郡の郡代所となったそうです。
以後、明治維新に至るまで、郡の代官所として機能していたそうです。

役場の南側の道路に面して日和佐御陣屋の石碑と案内板があります。
石碑の東側にある小学校の運動場へ続く道沿いに土塀が残されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=日和佐城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:小仁宇城(城びと未登録 徳島県那賀町) (2022/07/22 訪問)

仁宇山城からの転戦です。城址碑前(33.851811、134.479255)に駐車しました。

1585年(天正13年)に発生した仁宇谷一揆を鎮圧した戦功により蜂須賀家政から仁宇城を与えられました。
しかし、その数年後に山田宗重は仁宇山城に移ったため廃城となりました。

現在城址に遺構はなく、空き地に「阿波九城 仁宇城阯」と書かれた城址碑が建っているのみです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=日和佐陣屋(城びと未登録 徳島県美波町)に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:仁宇城 (2022/07/22 訪問)

西方城からの転戦です。
蛭子神社前県道スペース(33.859254、134.502213)に駐車後、蛭子神社の土塁(33.859905、134.501721)➡鷲敷小学校の石碑(33.8596、134.4993)の順番に回りました。

築城時期など定かでないようですが、天正年間(1573年〜1592年)湯浅対馬守(藤原兼時)の居城でした。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐の後、蜂須賀氏が阿波に入部すると、湯浅氏はこれに反して一揆(仁宇谷一揆)を起こしたが鎮圧されました。
その後、仁宇城は阿波九城のひとつの支城として整備され、一揆を鎮圧した重臣山田宗重を城代とし5,000石を所領としました。
元和の一国一城令にもかかわらず、1638年(寛永15年)まで存続していたそうです。

阿波9城のひとつです。
現在城址は蛭子神社の境内となっており、北東側に土塁が確認できました。また鷲敷小学校に「仁宇山城阯」と書かれた城址碑が建てられています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=小仁宇城(城びと未登録 徳島県那賀町)に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征3日目:西方城 (2022/07/22 訪問)

宿泊先のホテルルートイン阿南からです。日亜化学駐車場入口(33.926094、134.620486)から侵入し、車を駐車後、西方山登り口(33.925889、134.616990)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、永禄年間(1558年〜1570年)に東条紀伊守によって築かれたと云われています。
東条紀伊守は桑野城主東条関之兵衛の伯父です。
1577年(天正5年)頃に東条氏は長宗我部氏に従い、東条関之兵衛は元親の養女を妻に迎えます。この頃、東条関之兵衛は西方城を守っていました。
1582年(天正10年)長宗我部元親の阿波平定以後、東条関之兵衛は木津城城主となりました。
1585年(天正13年)豊臣秀吉による四国征伐では、戦わずに東条関之兵衛は土佐へ逃亡しました。その後、阿波公方家の隠居所としても使用されました。
しかし、敗戦の責任を問われ、東条関之兵衛と弟の東条唯右衛門は長宗我部元親に処刑されました。

天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐では東条関之兵衛は木津城を守備していたが、秀吉方であった伯父の東条紀伊守の説得によって開城し、桑野城へ退いた後に土佐へ逃れた。しかし、敗戦の責任を問われ、東条関之兵衛と弟の東条唯右衛門は処刑された。

登山道が整備され、東側の一部に展望台と説明板が設置されています。
登山道は結構な階段(今、何合目付近かを示す標識あり)を登るので、登山口においてある杖は使ったほうがいいです。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=仁宇城に向かいます。

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赤い城

小さな石碑がひっそりと (2022/07/18 訪問)

座間駅から徒歩で10分くらい
城主の白井是房が開基の心岩寺近くに小さな石碑があります。
かなりの確率で見逃すと思います。
心岩寺の背後は高台で城の雰囲気は感じますが遺構はありません。
近くには坂東三十三観音の一つ、星谷寺もあります。
星谷寺の背後には山があり、陣屋も築かれたそうですが又の機会にしました。

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T-Shionoya

アジサイと下田城 (2022/07/01 訪問)

アジサイが見頃を過ぎた7月に訪問した静岡県下田市の下田城。

伊豆半島南東部、下田湾に突き出た鵜島と呼ばれる標高約70mの半島状の小山を城郭とした城。
駿河湾と相模湾の境界で、海上交通における関東の入口とも言えるポイントでしょうか。

小田原北条氏の水軍拠点の1つで、1588年には秀吉の進軍に備えて大改修を実施。
しかし秀吉の小田原征伐では、清水康英を城将に600余名で1万を超える豊臣方を相手にし、50日あまりで開城となりました。

現在は日本一の15万株のアジサイが植えられた下田公園となっており、山頂部からお茶ヶ崎、馬場ヶ崎、蓮杖台などに向けて伸びる尾根の片側に総延長700mの空堀が残っている模様。
その空堀の大半はアジサイに隠れているものの、天守台曲輪の南西部が畝堀を確認できる1番の見所でしょうか。

またお茶ヶ崎までの尾根には3つの堀切が存在。
各尾根の先端は見張り場だったと推測され、特にお茶ヶ崎の展望台は、風が気持ち良く眺めも良好。
北側の駐車場から入城し、歩き回るうちにアジサイ鑑賞から徐々に要塞の雰囲気が湧いてきた下田城が、私の城巡りの129城目でした。

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POYO58

石垣、重要文化財編 (2022/08/06 訪問)

大坂城は天守もいいですが、歴史の面影を一番感じやすいのは石垣と現存櫓です。大坂城には櫓が4つ現存しています。(間違ってたらすみません)たしか、千貫櫓、六番櫓、一番櫓、多聞櫓だったと思います。櫓は水堀沿いにある高石垣の上に建っています。なかなか敵が櫓に向かって攻撃するには難しい場所でした。特に千貫櫓と多聞櫓はすごく大手門に向かう途中に千貫櫓から銃撃にあい、大手門を突破しても枡形虎口がも受けられているため突破するのには不可能です。また枡形虎口はここだけではなく、門がある場所全てに設けられています。また石垣は殆どが打ち込みはぎなのですが、枡形虎口の石垣は切り込みはぎで特徴の違いをかんじとれます。この城を攻められた人はたぶん武田信玄の倍賢いかもしれません。櫓の中には土日に1200円で入ることができますが、断念。美しさだけでなく守備にも適したお城で面白かったです。

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朝田 辰兵衛

長峰城(新潟県上越市) (2022/08/06 訪問)

【ながみね じょう】長峰城は,新潟県上越市吉川区長峰にある長峰池の丘陵上に築かれた平山城。JR上下浜駅から,徒歩約20分。標高もわずか35mと,森林浴気分で登城できます。
本丸の北側が長峰池。他の三方を空堀が囲みます。空堀は,幅が6~20mで,深さが約10mですが,この季節は整備がされてなく,草木に覆われていました。方形の周囲は3m前後の土塁が囲んでいて,四隅には櫓台を配置していました。
歴史的には,1616(元和2)年7月,上野国大胡城主の牧野右馬允忠成が,大阪夏の陣で軍功を立てたことにより,長峰城主となりました。2万石から5万石。ところが,1618(元和4)年,長岡城6万2千石に移ったため,長峰城は廃城。牧野氏は,廃藩置県まで長岡城主として君臨しました。

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ぎりょう

「小牛田城」乗客を和ませ幾星霜・・・・・ (2022/08/06 訪問)

春先からの地震、豪雨災害、コロナ再燃により趣味の城館調査は中断を余儀なくされています。そこで今日は、隣町宮城県遠田郡美里町の「小牛田城」に登城?しました。
この城は1970年代に小牛田駅に勤務するお城好きの職員さん(故人)が、「列車の乗客を和ませたい」と「築城」したと云います。先ごろ地元紙河北新報にも紹介されました。
石垣の上に千鳥破風を備えた五層天守、櫓や門が連なる見事な縄張り。制作にあたった職員さんが城郭知識豊かな「城びと」であった事が想像できます。
なにぶん城は小牛田駅の構内3・4番線ホーム北端の線路脇にあるため、近づいて見ることはできませんが、駅正面入口内の階段付近から望むことができます。
附近には戦国時代に使用された中世山城の彫堂七館や藩政時代に仙台藩宿老後藤氏(2700石)の居館であった不動堂要害(鶴頭城)もあります。当地にお出での「城びと」の皆さまに「小牛田城」も御覧になっていただきたいです。

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