摂津国人・三宅氏の居城で、築城時期は室町中期とも戦国前期とも云われますが、詳細は不明です。江口の戦いの前哨戦で香西元成の攻撃を受けて落城(三宅国村は自刃)すると、三好政長、次いで細川晴元が入って三好長慶に対する拠点となりましたが、本戦で政長が討死すると、晴元は三宅城を放棄して近江国に逃れ、そのまま廃城になったとも、自刃せずに落ち延びていた国村が城主に復帰したとも云われ、復帰説でも、後に長慶から離反した国村は教興寺の戦いでの敗報を受けると三宅城を放棄して牢人となり、廃城になったとされます。
沢良宜城から徒歩で登城。市街化により遺構は消滅しており、城域も明らかではありませんが、蔵垣内公園に三宅城跡の石碑と説明板が、メビウスパッケージング摂津工場の阪急京都線沿いにも三宅城阯の石碑と説明板(関係者以外立入禁止のためフェンス越しに見るのみ)があり、蔵垣内公園から北東に徒歩6分の線路沿いの住宅地の一角には、最後の城主・三宅出羽守國村公の石碑が建てられています。また、蔵垣内公園から南西に徒歩3分の子育て総合支援センター前には、国村の長女ゆかりの防風庵跡の説明板がありました。
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