みあけじょう

三宅城

大阪府茨木市


旧国名 : 摂津

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蔵垣内公園の三宅城跡の石碑
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イオ

最期の城主・三宅国村 (2023/12/16 訪問)

摂津国人・三宅氏の居城で、築城時期は室町中期とも戦国前期とも云われますが、詳細は不明です。江口の戦いの前哨戦で香西元成の攻撃を受けて落城(三宅国村は自刃)すると、三好政長、次いで細川晴元が入って三好長慶に対する拠点となりましたが、本戦で政長が討死すると、晴元は三宅城を放棄して近江国に逃れ、そのまま廃城になったとも、自刃せずに落ち延びていた国村が城主に復帰したとも云われ、復帰説でも、後に長慶から離反した国村は教興寺の戦いでの敗報を受けると三宅城を放棄して牢人となり、廃城になったとされます。

沢良宜城から徒歩で登城。市街化により遺構は消滅しており、城域も明らかではありませんが、蔵垣内公園に三宅城跡の石碑と説明板が、メビウスパッケージング摂津工場の阪急京都線沿いにも三宅城阯の石碑と説明板(関係者以外立入禁止のためフェンス越しに見るのみ)があり、蔵垣内公園から北東に徒歩6分の線路沿いの住宅地の一角には、最後の城主・三宅出羽守國村公の石碑が建てられています。また、蔵垣内公園から南西に徒歩3分の子育て総合支援センター前には、国村の長女ゆかりの防風庵跡の説明板がありました。
 

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しんちゃん

遺構は無いが石碑や案内板を回ってみる。 (2023/07/18 訪問)

三宅城の築城の時期については二説あるようです。
14世紀ごろ三宅氏の居城とされていたという説と
永正元年(1504年)に三宅国政が細川高国に命じられ
築城したという説です。
案内板のある公園から東域一帯、石碑のある東罐興業株式会社
に至るまでが城址と推定され本丸・二の丸を構え周囲には
堀を構えていた可能性があると推測されています。
城郭放浪記の情報に沿って石碑や三宅出羽守国村公碑、防風庵を見て
回ります。管理人様、有難うございます。
東罐興業株式会社の敷地内にも案内板と石碑があるようですが
あっちの方向を向いていて内容が見えません。
せめてこっちを向けてくれ‥と思いつつも
フェンスの下側からよいしょと撮影しますが雑草が伸びてきていて
写真がピンボケです。

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三宅出羽守国政 (2022/07/22 訪問)

 蔵垣内公園と東罐興業株式会社敷地内の2か所に城址碑と説明板がありました。
沢良宜城から徒歩にて登城しました。帰りはJR千里丘駅まで歩きましたが、約15分でした。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:三宅城 (2022/07/20 訪問)

自宅最寄り駅から電車を8回乗り継いで10時間以上かけて千里丘駅に着きました。
千里丘駅から徒歩7~8分で城跡碑前(34.792992、135.556742)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、1504年(永正元年)三宅出羽守国政によって築かれたと云われています。
1547年(天文16年)三宅出羽守国村は細川晴元に敵対した細川氏綱に味方したが、晴元の軍勢によって攻められ開城しました。
その後、晴元の家臣香西元成が三宅城に入り、晴元も在城したが、晴元と不仲となった三好長慶によって攻められ、晴元は丹波へ落ちていったそうです。

蔵垣内公園北西隅に「旧跡三宅城跡」の石碑と説明板が建てられています。 
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=七松城を目指す為、電車で千里丘駅から立花駅に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 三宅氏
築城年 永正元年(1504)?
主な改修者 不明
主な城主 三宅氏、香西氏
廃城年 永禄5年(1562)
遺構 消滅
再建造物 石碑、説明板、(摂津市千里丘東1にも石碑、説明板あり)
住所 大阪府茨木市丑寅2(推定地)