とまつじょう

富松城

兵庫県尼崎市

別名 : 東富松城
旧国名 : 摂津

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①土塁
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:富松城 (2024/10/04 訪問)

武庫之莊駅から徒歩15分弱で、説明板前(34.757113、135.398855)に着き、その後、土塁(34.757070、135.399049)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、1487年(長享元年)の『如意庵領年貢算用状』に富松城の名が記されているのが史料上の初見とされるようです。
1530年(享禄3年)には細川晴元方の薬師寺国盛が富松城にたて籠もっていたが、細川高国方の攻撃を受けて落城、高国は富松城に陣を移して晴元方の勢力を一掃したそうです。
1550年(天文19年)には伊丹城を攻めるため三好長慶が富松城に入っています。

現在残る遺構は曲輪の北西隅部分で土塁と堀があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=塚口城を目指す為、武庫之莊駅から電車で塚口駅(阪急線)に向かいました。

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todo94

秋の乗り放題パスでの攻城⑤ (2024/10/13 訪問)

塚口城から徒歩にてアプローチしました。10月27日には富松城跡まつりが開催されるようですね。その時にはフェンスの中にも入れるのかな?地域の皆さんに大切にされていることが良くうかがわれます。午後に赴いた尼崎市立歴史博物館にも富松城の写真と説明のパネルが掲示されていました。

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小城小次郎

いつまでもこの姿が守られてほしい (2024/01/13 訪問)

市街地の中に奇跡的に土塁を残すこのお城の西側を南北に貫く市道「道意線」は富松城の土塁を基準線にしているのではなかろうか。道路拡幅と地主さんの心変わりがない限りこの土塁はいつまでも守られるだろう。守られてほしい。

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イオ

市街地の中の遺構 (2024/04/13 訪問)

詳細は不明ながら、室町中期に薬師寺氏によって築かれたと考えられ、大物城、伊丹城、越水城の中間地点に位置することから、戦国期には細川氏や三好氏の内紛で争奪戦が展開されました。織田信長の有岡城攻めでは河原林対馬守が陣を置いたと伝わりますが、その後は廃城となったようです。

この日は西宮北口での所用のついでに、阪急レンタサイクルで近隣の城めぐりをしました。富松城跡バス停の前に「中世の富松城跡を守ろう!!」の看板が立てられ、その背後に土塁と堀が南北にのびています。往時の堀は現在の市道にかかるほどの幅があったようです。バス停のベンチ脇には富松城跡の説明板も設けられています。土塁南端の道を東に入ると、柵が設けられていて中には入れないものの、土塁を内側から見ることができました。北辺にも堀があるようなので行ってみると、北西隅から県道沿いにしばらく東にのび、小道として緩やかに南に折れて続いていました。その途中の南北に金網フェンスが設けられたあたりも堀跡のようです。県道の北側には北方土壇と呼ばれる櫓跡があったようですが、現在は稲荷社の土壇にその痕跡が見られるのみです。

市街地の中に一部とはいえこれほど明瞭に堀と土塁が遺っているのは貴重なことですね。看板にあるように、ぜひこの歴史遺産を守り継いでいっていただきたいものです。
 

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 薬師寺氏?
築城年 長享元年(1487)11月以前
主な城主 薬師寺氏
遺構 土塁、横堀(水堀)
住所 兵庫県尼崎市富松2
問い合わせ先 尼崎市教育委員会
問い合わせ先電話番号 06-6489-9801