京浜東北線の蕨駅から徒歩で10分。
蕨市民会館に隣接する蕨城址公園が城跡です。
遺構はほぼ消滅していますが大きな石碑背後の池が堀跡と言われています。足利家の一族、渋川氏が築いたとされます。
江戸時代には徳川将軍家の鷹狩御殿として使用されました。
隣の和楽備神社も城の一部だったようです。
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2022/12/12 20:18
2022/04/23 15:42
川口市&蕨市城巡り③:蕨城 (2022/04/23 訪問)
6月の九州遠征前の、なまった足腰(コロナ過で10か月攻城していません)のリハビリを兼ねた攻城(PART2)です。
川口市&蕨市城巡り3城目は蕨城(ラスト)です。
蕨駅から徒歩10分くらいで蕨城跡説明板前(35.826509、139.682311)に着き、城址公園を散策した後、
蕨市歴史民俗資料館(35.824929、139.678839)を見学しました。
帰りは攻城歩行距離を稼ぐ為、蕨駅ではなく南浦和駅(2.8Km位)に向かいました。
蕨城は足利氏一門の渋川義行によって築城された城です。義行の曾孫にあたる渋川義鏡が古河公方に対抗するための拠点として改修しました。
1457年(長禄元年)-享徳の乱によって起こった関東地方の騒乱を収拾させるために、第8代将軍足利義政は関東探題として渋川義鏡を関東へ下向させる。義鏡は蕨城を拠点に兵を募ったが、蕨のある足立郡は大半が古河公方の勢力範囲となっていたために募兵は難航しました。
1462年(寛正3年)-扇谷上杉氏と対立した義鏡が失脚したため、蕨城は管領と同格である御一家渋川氏の居城でありながら事実上は扇谷上杉氏傘下の城となります。
1476年(文明8年)- 長尾景春の乱の際には蕨城の近隣にある石神井城主の豊島泰経をはじめとした武蔵国の国人衆が長尾景春に呼応したが、渋川義鏡は扇谷上杉方に残り太田道灌とともに用土原の戦い等に参加していたと見られます。
1524年(大永4年)-蕨城は義鏡の子渋川義堯が継いでいたが、武蔵に侵攻した北条氏綱によって陥落させられます。
1526年(大永6年)-真里谷恕鑑と里見義豊の助力を得た上杉朝興が北条勢を破り、蕨城を奪回します。
1546年(天文15年)-北条氏康が上杉朝定を河越城の戦いで破り、渋川義堯は後北条氏麾下に入ります。
1567年(永禄10年)-三船山合戦で義堯の子渋川義基が討死すると蕨渋川氏は断絶し、一族郎党は散り散りとなり、残った者もその多くが帰農しました。またこの時、義基の夫人はその死を嘆き榛名湖に入水したとされます。
城主不在のまま廃城となった蕨城は江戸時代になると徳川家の鷹狩用の御殿として再利用されます。
交通の要衝であった蕨は戦国時代には城下で六斎市が開かれており、中山道が整備されると宿場町として再び栄えたそうです。
1816年(文化13年)-家臣団の子孫らによって渋川義基と夫人の250年忌を期し、蕨城近郊の宝樹院に渋川公墓所が造立されました。
現在は「蕨城址公園」として整備されており、本丸跡には和楽備神社(わらびじんじゃ)や市民会館が建てられています。
和楽備神社社殿の右側の御殿堀は、蕨城の堀跡の一部のようです。
城跡より徒歩五分程の中山道の蕨市立歴史民俗資料館(無料)蕨本陣跡も合わせての見学をお勧めします。
攻城時間は40分くらいでした。(蕨市立歴史民俗資料館の見学時間を含む)
川口市&蕨市城巡りは、攻城歩数=17453歩、攻城歩行距離=13.61Kmで攻城完了です。
今回は攻城歩行距離が短った為、6月の九州遠征までに距離眺長めのリハビリが必要のようです。
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2020/10/26 21:10
分類・構造 | 平城 |
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築城主 | 渋川義行 |
築城年 | 南北朝時代 |
主な改修者 | 徳川家康(鷹場御殿) |
主な城主 | 渋川氏 |
廃城年 | 永禄10年(1567) |
遺構 | 曲輪、横堀(水堀) |
指定文化財 | 県旧跡(蕨城跡) |
再建造物 | 土塁、石碑、説明板 |
住所 | 埼玉県蕨市中央4-21(蕨城址公園) |
問い合わせ先 | 蕨市教育部歴史民俗資料館 |
問い合わせ先電話番号 | 048-432-2477 |