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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:中村城 (2022/07/23 訪問)

栗本城からの転戦です。石碑付近(32.996606、132.929819)に駐車しました。
夜遅い為、中村城は開いていないので、模擬天守を外から確認しました。

築城年代は定かではないようですが、1467年(応仁元年)に勃発した応仁の乱を避け、左大臣・関白であった一条教房が、翌年、荘園であった中村に下向しそのまま戦国大名として土着しました。
元々この地にいた豪族の為松氏が家老として取り立てられ、その為松氏により築城されたのが始まりと考えられているようです。
代替わりして一条兼定は、1558年(永禄元年)に伊予国の宇都宮豊綱の娘を娶るが、1564年(永禄7年)に離別して豊後国の大友義鎮(宗麟)の次女を娶り大友氏と結びました。
1574年(天正2年)素行が悪かった一条兼定は羽生、安並、為松の三老臣によって幽閉され、豊後に追放されました。
これにより一条氏は兼定の嫡男内政が擁立され、長宗我部元親に後見を頼み大津御所に送られた。元親は中村城主に実弟である吉良親貞を置いて幡多郡を支配させたそうです。
1575年(天正3年)一条兼定は中村に復帰を試みますが、長宗我部元親に攻められ滅亡しました。
1600年(慶長5年)関ヶ原の戦い後、戦功により山内一豊に土佐一国が与えられ、1601年(慶長6年)山内一豊の弟康豊が20,000石で入りました。
1615年(慶長20年)の一国一城令に伴い、廃城となりました。

二の丸跡に郷土資料館として模擬天守が建てられその南に土塁・虎口が残っています。郷土資料館の開館時間には間に合いませんでしたので、二の丸跡付近のみの攻城でした。
車を駐車した付近に石垣があり、駐車した場所は堀切にあたるようです。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=中村御所(城びと未登録 高知県四万十市)に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:栗本城 (2022/07/23 訪問)

宿毛城からの転戦です。排水池前(32.983429、132.916258)に駐車しました。

築城年代は定かではないようです。城主としては津島勘助、のちの鳥屋源兵衛などと云われているようです。
1575年(天正3年)豊後に逃れていた一条兼定は中村城奪還のために、伊予の法華津播磨守らの助勢を得て栗本城に要害を構えて拠点としました。
兼定と元親の軍勢は渡川(四万十川)を挟んで戦ったが兼定の軍勢は敗れ、伊予に退き奪還は果たせませんでした。

現在山頂部分には水道施設があり、大半の遺構は消滅してしまったようです。
排水池前付近に栗本城の説明板が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=中村城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:宿毛城 (2022/07/23 訪問)

佐賀城からの転戦です。説明板付近(32.940815、132.730286)に路駐しました。

築城時期は定かではないようですが、松田兵庫が居城としていたようです。
後に依岡伯耆守が城主となり、1575年(天正3年)長宗我部氏によって攻められ落城しました。
1601年(慶長6年)長宗我部氏に代わって山内氏が土佐に入部すると、山内一豊の甥山内可氏が6,000石で入部し改修しましたが、1615年(元和元年)一国一城令により廃城となりました。

現在は石鎚神社の境内となっており、東側の川沿いにある県道に石碑や案内板があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=栗本城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:佐賀城 (2022/07/23 訪問)

窪川城からの転戦です。漁協前空スペース(33.078177、133.109389)に駐車しました。
その後、観音堂避難路入口1(33.078269、133.110204)、城山避難路入口2(33.078269、133.110204)と廻り攻城しました。

築城時期は定かではないようですが、もと伊予木氏が居城としたのち、1577年(天正5年)から1601年(慶長6年)までの26年間、光富氏の居城だったそうです。

城跡は城山津波避難所のようですが、ついでに観音堂津波避難所にも行ってみました。
主郭に土佐神社が祀られている以外、遺構は見あたりませんでした。
攻城時間は35分くらいでした。次の攻城先=宿毛城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:窪川城 (2022/07/23 訪問)

久礼城からの転戦です。岩本寺駐車場(33.208474、133.134264)に駐車して説明板を確認しました。

築城年代は定かではないようです。 1500年(明応9年)相模国鎌倉から山内備後守宣澄が移住し、窪川氏を名乗り、茂串山に築城したようです。
その後、充秋、宣秋と3代続き、その間津野氏、中村一条氏に属したが、1571年(元亀2年)山内宣秋のとき長宗我部氏に仕えたそうです。
宣秋は1596年(文禄5年)文禄の役で朝鮮で討死したようです。
1600年(慶長5年)長宗我部氏の改易により、長宗我部氏の滅亡と共に廃城になりました。

登城する予定でしたが、時間が押しており説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=佐賀城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征4日目:久礼城 (2022/07/23 訪問)

姫野々城からの転戦です。久礼保育所駐車場(33.3300845、133.2232504)をお借りしました。
登山道入口は久礼保育所の西側にあります。フェンスを開けて入ります。フェンス横に杖がありました。

築城年代は定かではないようです。 城主は佐竹氏で1221年(承久3年)承久の乱の時、佐竹信濃守と後藤基之が入部したことにはじまるようです。南北朝時代に城主佐竹氏は北朝方として戦ったそうです。
戦国時代に入ると中村城の一条氏に属したが、1571年(元亀2年)長宗我部氏の軍門に下り、以後久武氏等とともに転戦しました。

堀切と畝状竪堀群のオンパレードは圧巻です。堀切好きな自分は大満足です。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=窪川城に向かいます。

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マダム卑弥呼 

息子の修学旅行に合わせて

行きました。私の修学旅行。

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マダム卑弥呼 

朝倉の城

麒麟がくるでユースケさんが、強烈な印象のある朝倉義景を演じたが、それを前に一乗谷二回目。昔来た時にはなかった街並みの再現、資料館の充実さ。川の水が氾濫したおかげで一乗谷が保存されたんだとおじさんにいわれてはっとした。

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マダム卑弥呼 

柴田勝家の城

負ける気がしないいい城なのにな。20分くらいで登れます。時期によってはトイレがないです(冬)

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マダム卑弥呼 

予想以上の山城 (2022/08/11 訪問)

大きくないんだろうなと思っていたけど、風景はきれいだし、立派な建物がいっぱいあったんだろうなと思わせるほどの色々な柱の礎石?が残っていて感動した。空堀、石垣もあるし、登りやすかった。ただ、登り口が分かりにくく入り口に看板をもう一か所見えやすいところに付けてほしい。中学の校門の近くだったのに坂を上がってきたときに見えない位置に看板があるのが悲しかった。長束さんの奥様の歴史を知ってこれはもう一度墓参りだなと思った私でした。東海道は草津も行ったし、大津も知ってるし、宿場町としての歴探も面白いですね。

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マダム卑弥呼 

閉ってた (2022/08/11 訪問)

「近くに住んでる人に橋が腐って入れないで。」と言われたものの、行ってみた。。。。

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朝田 辰兵衛

コンパクトだな…と思いきや。 (2020/12/20 訪問)

コンパクトだな…と思いきや,大手門がかなり離れた位置にあり,城域の広さに納得しました。

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赤い城

谷戸運動公園 (2022/07/23 訪問)

中野駅から徒歩で10分ちょっと。
谷戸運動公園が館跡となります。
もちろん遺構は無く、少年野球用?のグラウンドでした。
堀江氏の館とされ、周囲を囲む堀は障子堀立ったそうです。
近くには堀越学園、さらにその先に堀江氏の墓がある宝仙寺があります。
ここ単独では行きにくいですが周辺を散策すると楽しいかもです。

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イタさん

田園の集落の一区画に (2022/07/07 訪問)

上里町の歴史散策のコースになっていて、中山道脇に案内がある。集落内の細い道を奥に進むと、一段高くなった場所に城跡の石碑等がある。後ろもやや高く土塁跡に思える。案内板では3ヶ所(別の案内板は4ヶ所)の土塁跡が確認できたと記されている。城跡はほぼ民家・公園・田畑になっている。北と西には清水が流れ・・・一辺200mほどの城域だったらしい。周囲には黛神社・金窪神社などがあり、小さいながら静かで趣がある。

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小城小次郎

地味にすっごい屋敷なのだ (2022/02/23 訪問)

名城煌めく静岡にあっては地味な存在だが、掛川から菊川に跨って存在した内田荘の下郷の地頭だった内田氏が鎌倉時代から使用していた館であることが発掘でほぼ裏付けられ国史跡にもなっているすっごい屋敷なのだこれが。

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金森長近 (2022/08/11 訪問)

 長良川鉄道「美濃市駅」から、うだつの上がる町並みを見ながら徒歩約15分で城址である小倉公園に行くことができます。石垣や模擬櫓があります。背後の山を登って行くと、約10分くらいで櫓風の展望台のある山頂に行くことができます。削平地はありますが、遺構か否かわかりません。

 「うだつの上がる町並み」は金森長近が作った城下町です。金森氏が改易となり尾張藩の所領となった後も交通の要衝として栄え、今にその町並みを伝えています。美濃和紙は奈良時代からあり正倉院文書の中に美濃経紙が記載されているとのことです。町並みをゆっくり散策し、和紙も買おうかと思っていましたが、この日はかなり暑く城跡見学だけで早々に退散しました。ちなみに昭和のアイドル野口五郎さんはこの町の出身で旧名鉄美濃駅には関連ポスターや「私鉄沿線」の歌碑があります。

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チェブ

番外編「信玄塚」の巻。 (2022/05/06 訪問)

「長篠城」周辺は、長篠・設楽原の古戦場でもあります。
新城市設楽原歴史資料館に向かう途中に『信玄塚』に寄りました。(*資料館はお休みでした。)

入口に小塚があり、奥に大塚があります。
小塚は、徳川・織田連合軍。大塚は武田軍の戦死者を埋葬したそうです。
たくさんの武田家の方々が散ったのでしょう、大塚は小塚に比べ哀しくなる位、大きいです。
近くに、武田家の有名な武将のお墓も あったし、激戦地の近くなので、納得ですが、、、。
大塚の近くに閻魔大王座像がにらんでます。

塚をお祀りした後、蜂が大量発生したんだとか。霊を慰める『火おんどり』というお祭りがあるそうです。
亡くなっても蜂になり、なお 戦おうとする勇ましさ。武田家の誇りを感じられます。
『信玄塚』とありますが、信玄さんは長篠・設楽原の合戦の時には亡くなってます。
武田家=信玄さん、なのでしょう。
武田 勝頼さんや他の武将さん達のエピソードも素敵なんですが。
と、どーも、この戦い、武田家方に気持ちが偏ってしまいます。

どの戦いも、華々しく敗けた方々がいたからこそ、勝者が耀くんだと思います。
先人たちの無念を、覚えておこうと、どちらの塚にも手を合わせてきました。

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イオ

とことん江戸城(中之門~御書院門) (2022/06/22 訪問)

(続き)

二の丸庭園から戻って中之門へ。他の多くの門と異なり中之門には枡形は設けられていませんが、巨石を用いた圧倒的な規模の石垣が遺っています(私の拙い写真では迫力が伝わりませんが…)。門柱の礎石からも中之門の圧倒的な規模を感じますし、古写真によれば、この上に石垣に見劣りしない巨大な渡櫓が建っていて、さすがは本丸への正門だなぁ、と感嘆させられました。中之門の北側には、平成の修復工事の説明板や修復時に交換された元の石垣の石材が展示されています。中之門の手前には百人番所と呼ばれる長大な番所が現存し、南側の植栽も番所風に刈られていました。また、中之門の内側にも大番所が遺っています。

中之門を抜けて坂道(往時は石段)を上って行くと、御書院門(中雀門)の石垣が見えてきます。石垣の上にはふたつの二重櫓が並び建っていたそうで、本丸への最終関門だけに厳重な造りになっています。櫓門の石垣の表面が黒ずんでいたり表面がぼろぼろになっているのは幕末の火災痕なんだとか。また、御書院門にも(中之門の規模には及ばないものの)門柱の礎石がしっかりと遺っています。

御書院門を抜けるとようやく本丸です(続く)。
 

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カズサン

復元直後の飯田丸五階櫓を御覧下さい (2005/10/21 訪問)

 木造復元飯田丸五階櫓は6年前の平成28年4月の熊本震災で一本石垣の雄姿で耐えた姿が有名に成りましたが、熊本地震の11年前に当たる平成17年3月に木造復元完成しました。
 17年前になる平成17年10月下旬、木造復元飯田丸五階櫓を探訪、登閣し、大感激した事を覚えて居ります、現在は熊本震災後、建物の解体、石垣修復の為の取り壊しを行い、修復復元の順番段取りを待ってる所でしょう、10年20年掛かる事でしょうが期待して待って居ります。

 平成17年(2005年)10月探訪時の木造復元飯田丸五階櫓の雄姿をご覧下さい。

 復興に係わってる、熊本市、熊本県、全ての皆さん、城郭愛好家の皆さんに感謝を申し上げます。
 
 

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赤い城

相模川に沿って (2022/07/18 訪問)

この日は相模線の相武台下駅から遊歩道を歩き20分ちょっと。
跡地には能徳寺が建っています。
近くの御嶽神社辺りも城域のようですが遺構はありません。
ここから北に相模川に沿って進むと上磯部の土塁があります。
説明板が立っていて川に垂直に僅かに残っています。
本丸からは少し距離があるので出城なのか別の城なのか。
詳細はわかりません。

長尾景春の乱で太田道灌に攻め落とされました。
周辺は住宅地で静かな感じです。
それにしてもこの日は暑かった。

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