御陣山児童遊園となっています。遺構はありません。
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2022/09/18 21:21
御陣山児童公園 (2022/09/17 訪問)
御陣山児童遊園となっています。遺構はありません。
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2022/09/18 21:18
2022/09/18 21:14
2022/09/18 21:08
2022/09/18 21:00
浜松城訪問 (2005/03/27 訪問)
過去のお城巡りの振り返り第19弾は、静岡県浜松市の浜松城。
天竜川の西側、三方原台地南部の東の縁に築かれた城。
東の低地部の引馬町を統治するポイントで、東から南側に掛けて東海道が通り、北は秋葉神社(秋葉街道)に繋がる地。
家康は今川氏を滅ぼした直後の1570年、遠江の支配と武田の侵攻に備えて岡崎からここに移転。今川時代の引馬城を拡張し、浜松城に改称。その後、豊臣方の堀尾吉晴が城主になると、近世城郭に改修し天守を建てたと推定され、江戸期は松平氏や水野氏、井上氏などが城主を務めました。
現在は本丸も半分以上が削平され、城の姿は天守曲輪とその周辺僅かに残すのみ。
それでも引馬城部分は1/4区画に東照宮が建てられ、その東側の道は堀切の名残。二之丸跡の小学校は閉校となり、最近石垣が発掘されたとのこと。
初訪問の時は、天守に上り、公園全体を巡り、東照宮まで行って1時間半越えの滞在。野面積みの石垣が見どころですが、細かい記憶はもうありません。
'14年の2回目の訪問は、短時間でしたが復元された天守門に驚いた浜松城でした。
※5枚目のみ'14年、残りは’05年の写真
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2022/09/18 20:57
2022/09/18 18:17
県道沿いにひっそりと (2022/08/28 訪問)
県道174号線沿いに神明宮が建ち、この辺りが城跡のようです。
神明宮は小さな祠で前に小谷城址の石碑も立っています。
近くに駐車場はありませんが石碑の前に駐めるスペースがありました。
説明板も立っていますがやや老朽化。
そして遺構もありませんでした。
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2022/09/18 14:30
空堀が見応えあり (2022/09/17 訪問)
小机城址市民の森として遺構が整備されている。1438年頃、関東管領上杉氏により築城と伝わるが詳しくは不明らしい。文明8年(1476)に長尾景春方の武将として、小机城主矢野某が載る。2年後に豊島氏が太田道灌に敗れ、小机城に立てこもるが、太田道灌により落城する。道灌が陣を構えた場所が、鶴見川対岸の亀之甲山。その後北条氏綱により修復され、家老の笠原信為が城代として入り小机衆が組織されたとある。1590年の秀吉の小田原征伐では、戦場とならず開城し、家康の関東入封後に廃城となる。
西曲輪(本丸とも)虎口前には馬出が設けられているのだが、明確な判断が難しい。虎口には模擬冠木門、曲輪の四周の東部を除けば高い土塁で囲まれている。南・北の堀は深く造られている。虎口から東に行くと右下には幾段かの平地が見える。先の小さな祠のある小曲輪辺りから眺める土塁・堀は見所であり、堀底まで入れる。散策路は北に向かい、井楼跡標識まで上るが、本来の道ではないようだ。
上った左はつなぎの曲輪と呼ばれ、南北に細長い曲輪になる。南端には櫓台跡とあり、空堀からは相当の高さがある。右が井楼跡だが、正面の土塁が続いていたらしく、東曲輪(二の丸とも)の虎口は少し東にあったと言われ、急斜面の道だったようだ。西曲輪同様、畑時代に土塁などは削られ、部分的に遺るのみ。東曲輪北隅からの堀も深く、散策路が付けられ堀底へ下りて半周できる。下りた正面の高まりに櫓があったらしい。西曲輪虎口から第三京浜を潜り、上り返せば富士仙元大菩薩の石碑が建つ小山があり、如何にも櫓があったように思える。
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2022/09/18 10:37
雲松院の裏山が砦跡と言われる (2022/09/17 訪問)
雲松院さんのHPから抜粋させていただきました。臥龍山 雲松院は、小机城主であった後北条氏の家老笠原越前守信為が、主君北条早雲と亡父能登守信隆の菩提を弔うため「天文年中」に建立。実際はやや古く早雲公七回忌と、信隆公の三十回忌に当る大永5年(1525)ごろと推定されている。
小机城主の笠原氏が支城とする。本堂裏山が砦跡とされている。裏・左の斜面はほぼ墓地であり、その奥に木々が生い茂る。山門を出て東から南へ行くと、墓地の間を上る。振り返ればかなり眺めの良い立地なのが分かる。道は切り通し状で堀跡と言われると、堀とも思える。道路地図の土井谷砦跡は小学校の東の谷を挟んだ場所に印がある。切り通しを挟んで左右の標高は45m前後で変わらない。切り通し東側上は台地で一面畑になっている。台地の東は急斜面で、この辺りも幾筋もの谷が入り込んでいる。砦跡は進入不可だが、畑地は耕作していた方に断り撮影。
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2022/09/18 10:21
西坂下御門 (2005/03/22 訪問)
西坂下御門は鳥取城唯一の現存建物でした、江戸期から明治大正昭和を経て昭和40年代初め高校の帰りに寄っては老朽化した御門を見て居ました、昭和50年3月の大風で倒壊破損し同年秋には再建されました。
鳥取城の紹介写真は西坂下御門(中仕切門)が平成25年天球丸南下巻石垣修復完成まで看板写真でした。今の鳥取城紹介写真は全国で唯一の巻石垣が看板と成って居ます、今後は平成30年復元の擬宝珠橋、令和3年復元の中の御門表門、今後復元の中の御門渡櫓門、太鼓櫓御門のどれかが鳥取城紹介写真と成るのでしょうか。
17年前の平成17年3月下旬鳥取帰省し、松江城に登城した翌日、チョイ寄りし車は堀端通りの駐車エリアに駐めて城址を眺めて写真撮影、桜は蕾が膨らんでましたがかたく2週間後あたりかな? 中仕切門西坂下御門の写真を最近あまりとって居ないなと駆け足で御門まで行き撮影。
(現在は内堀の堀端通りには、H30擬宝珠橋が復元してから堀端通り整備がされて駐車出来ません、博物館駐車場を利用ください)
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2022/09/18 07:37
2022/09/18 00:00
2022/09/17 23:16
東海の100名城を訪ねて② (2022/01/23 訪問)
本日、岡崎城に続いて2城目、斎藤道三公、織田信長公の居城岐阜城です。天守へのアクセスは名鉄岐阜駅、岐阜バス、金華山ロープウェーでバスもロープウェーもお城めぐりきっぷに含まれてます。山頂に聳え立つ天守も迫力ありますが、天守からの展望が素晴らしいです。今回はロープウェーでの登城になりましたが、登山道も整備されてる様なので次回は登山道での登城を目指します。
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2022/09/17 23:11
垂涎の搦手 (2022/09/11 訪問)
虎口虎口虎口!虎口だらけで幸せ!
井戸は看板などの案内がないため少しわかりにくいかもしれません。
ただ左に抜ける道があるので、山城に慣れている方はなんとなくで見つけられるかと思います。
本丸までは30分くらい、9月上旬で暑い日でしたが木々のおかげで涼しく登山できました。
搦手方面の堀切や竪堀はとてもわかりやすく魅力的なので必見です!!!絶対見てほしい!
(登山口の方の竪堀は藪がすごくて全くわからなかった泣)
次回は熊城もあわせて巡りたいなぁ。。これから熊城行かれる方!追加レビューお待ちしております😊
追記
ちなみに!登山口にも山頂にも諸々施設はありませんので、飲み物やトイレは事前準備必要です!
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2022/09/17 22:32
2022/09/17 20:18
福井旅行part4 丸岡城 日本一古い天守はどれ? (2022/08/15 訪問)
福井城訪問後、福井駅のグリーンホテルで一泊泊まり、翌日、丸岡城に行きました。丸岡城は織田信長の家臣の柴田勝豊が築城しました。その後、豊臣家や徳川家がこの地を収め、最終的に本多氏がこの領地を収めました。
丸岡城といえば北陸唯一の現存天守で日本最古と呼ばれていますが、それについてはなかなかわかっていません。世界最古の天守は犬山城ともされていますが、犬山城の天守は織田信康が築城したものではなく、江戸時代に成瀬正成が築城した説があります。また、丸岡城も柴田勝豊が築城したと考えられていましたが、ほんの最近の調査では、江戸時代に本多氏が築城したという資料があり、何が正解なのかわかりません。
丸岡城は天守以外に一部石垣が残っていましたが、遺構は数少ないです。ちなみになぜ丸岡城が国宝では無いのか?実は丸岡城の天守は昭和時代に地震で倒壊しており、旧国宝で終わってしまったそうです。しかし今は重要文化財に指定されています。また丸岡城の天守は今国宝指定を目指しています。
遺構★★
建物★★★★
行きやすさ★★★★
全体★★★
攻城時間
約30分
入場券に資料館もついているのでぜひ行ってみてください。
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2022/09/17 16:47
築城の名人藤堂高虎公の縄張り (2022/08/17 訪問)
宇和島城は、宇和島の中心に位置する標高約80mの丘陵に築かれた梯郭式の平山城で、最上部に本丸が置かれ、それを二の丸、藤兵衛丸、代右衛門丸、長門丸が囲んでおり、三の丸には伊達秀宗公の時代、伏見城から移築された屋敷があったとされ、17の門と33の櫓があったとされています。
宇和島城は、築城の名人として名高い戦国武将、藤堂高虎公によって慶長元年から5年の歳月をかけて築城されました。かつては大半が海に面しており、地形をうまく利用した縄張りで堀も築かれていましたが、現在は埋め立てられています。
その後、慶長20年に伊達政宗公の長男、伊達秀宗公が宇和郡10万石を拝領して宇和島城へ入城、現在残る天守は、2代伊達宗利公が城を大改修し、藤堂高虎公が岩盤の上に築いた望楼型天守から、石垣造りの天守台を持つ層塔型天守に変え築いたものが現在に残っています。また、この時に多くの石垣や櫓を修築しており、現在の姿にしています。
海城としても名高い宇和島城へは10年振り2度目の訪問です。10年前は行ったことに満足してしまい、見逃していたところが多々あり、いつか再訪しようと狙っていました。
この城の見所は国指定の重要文化財に指定されている、現存の層塔型天守です。千鳥破風・唐破風を層ごとに変化をつけた屋根が優美さを醸し出しています。また、上り立ち門は搦手口にある現存の門、桑折氏武家長屋門は家老の桑折氏屋敷にあった長屋門を移築したもので見所の一つです。
そして何と言っても石垣です。古い時代に積まれた石垣と、新しい時代に積まれた石垣が時代の流れを象徴しており、守り抜いてきたその時代の先人達のことを思うと感慨深いものがあります。
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2022/09/17 15:31
霞ヶ城かすかな記憶 (2022/09/09 訪問)
最初に訪れたのが高校生時の夏休み(1987年8月)ですから、35年ぶりの山形城になります。微かに覚えているのが、お堀に囲まれた城跡だったことと最上義光公の騎馬像です。
この像は1977年(昭和52年)11月、あの「でん六豆」で有名な(株)でん六の創業者鈴木傳六氏が寄贈建立、騎馬の後ろ二本脚で重さ3トンもの銅像を支える山形鋳物の逸品です。個人的な感想ですが、仙台城の政宗像、千葉城の常胤像とこの義光像は、とにかく見栄えが良く、カッコいいです。必見です!
山形市では、この山形城を江戸時代初期、最も繁栄した出羽最上家57万石を復元すべく整備がすすめられています。絵図などを基に二ノ丸東大手門、本丸一文字門髙麗門及び枡形土塀が復元され、見学出来ます。この先も楽しみですね。お堀に関しては、400年以上その歴史を紡いできており、見応えがあります。
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2022/09/17 11:20
首里城 登城記念 オリジナル「御城印」 好評発売中!
首里城公園では、ミュージアムショップ球陽(首里城公園有料区域内)で首里城への登城記念品としてオリジナルの「御城印」を販売しています。
また、首里城オリジナル「御城印帳」も販売中です。
首里城公園でしか手に入らない「御城印」「御城印帳」をご登城の記念にお求めください
首里城オリジナル「御城印」
販売所 ミュージアムショップ球陽(首里城公園有料区域内「女官居室」)
営業時間 9:00~17:30
※別途、入場料が必要です。
【価 格】
御城印:500円(税込)※御城印はお一人様3枚まで。
御城印帳:2,750円(税込)売上の一部は「首里城基金」及び「首里城未来基金」へ寄付させていただきます。
■御城印の特徴
題字:書をこよなく愛したことで知られる尚育王(第二尚氏王統第18代国王)の遺墨を参考にしています。
印影:琉球王国の統治組織である首里王府の公印『首里之印』を再現しています。
正殿(イラスト)の色:正令和の復元で使用される予定の久志間切弁柄の色をイメージしています。
■御城印帳のデザイン
御城印帳は琉球王国時代から伝わる紅型『苧麻白地鳳凰と扇牡丹文様両面紅型単子供衣装(ちょましろじほうおうとおうぎぼたんもんようりょうめんびんがたこどもいしょう』(一般財団法人沖縄美ら島財団所蔵)より、「鳳凰」と「牡丹」の文様を用いてデザインされいます。
「鳳凰」と「牡丹」
太平の世に現れると信じられていた鳳凰は、龍とともに国王を象徴する霊獣であり、王族が身につける衣裳や身の回りの工芸品にもよく使われ、左右一対で描かれています。
赤や黄色で描かれている牡丹の花は「富貴」の象徴であり、華やかな雰囲気を醸し出しています。
1つ1つのモチーフに琉球王国時代からの想いや願いが込められていると感じられるのではないでしょうか。
<お問合せ先:首里城公園 098-886-2020>
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